宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第二部
17.いらなかった真実 -2
ジェイはテレビを眺めていた。面白いはずなのに面白くない。蓮が帰って来なくなってから毎日が同じ色で同じ音だった。何も変わらない。食べるものの味も変わらない。感じない。アパートにいた時のような感覚にはならないが、それでも日常から刺激が消えてしまった。
テレビを消す。ソファに横になった。あれからベッドでは寝ていない。一人を実感してしまうから。テレビをつけっ放しで眠ることもある。
唇を触った。夕べキスをもらったところを。恋しい。キスに呼び戻された二人の時間を思うと狂おしいほど蓮が恋しい。とうとう立ち上がって[禁断の枕]を取ってきた。
(今日はこの枕で寝る)
電気は消さずにテレビをもう一度点けて、ソファに横になった。少しずつうつらうつらと瞼が塞がっていく……
「なにやってんだ、お前」
飛び起きた!
「れ……」
「テレビも電気もついてるし、ソファで寝るなんて……あ! 俺の枕!」
蓮の姿が自分の前にあることだけでも充分テンパっているのに、枕を抱いているのを見られてしまった……
(頭の下にあったはずなのに)
どうやら習性で胸に抱え込んでしまったらしい。
「あ、あの、なんで、蓮、枕は、その……」
くすりと笑った。どうやら頭の中がぐちゃぐちゃになっているらしい。枕を取り上げた。
「枕なんか抱くな。俺にしろ」
夢のような長い長いキスが与えられ、それだけで充分蕩けていく。口付けられる首を必死に逸らした。目眩がしそうだ、ここに蓮がいる。脱がされて行く間もまるで酔っ払ってしまったかのようにゆらゆらしてしまう。
蓮も何も言わないまま脱いでいった。ジェイを引っぱった。
「ソファじゃ狭すぎる」
もうカーテンの向こうに朝の光が見えていた。自分の首の下にある蓮の手。ぐっすり眠っている蓮。
(どうして帰って来たんだろう)
何も聞いていない。夕べはそんな暇が無かった。気がつくとベッドの上で自分に覆いかぶさった蓮がいて、気がつくと喘いでいる自分がいて。
(夕べ、騒ぎ過ぎたかもしれない……)
微かに覚えている自分の声。
『もっと…ああっあっ……れん、もっ……』
(恥ずかしい!)
蓮の腕を下りて下に潜り込む。腰に鈍痛が走る。
(平日なのに……)
でも、これは蓮が悪いわけじゃない。自分に自覚がある、愛を……せがんだこと。
(帰って来たってことは全部終わったってこと? もう?)
昨日、そんな様子は見えなかった。蓮の目から[帰れ]そうメッセージを受け取ったのは確かだ。だから残業だったはず。あの後、会議でもあったのだろうか。
「あ!」
慌てて時計を見た。そうだ、今日は平日。時計は6時55分を指していた。朝飯どころじゃない。蓮の出かけるべき時間はもうすぐだ。
「蓮、蓮、起きて」
揺り動かすのになかなか起きない。
「蓮、時間だってば! 6時55分だよ!」
パッと目が開いた。むくっと座って時計をじっと見る。現実に追いついていない顔だ。
「やばい……」
一言呟くとベッドからすぐに立った。
「ジェイ、お前もだろっ、来い、一緒にシャワー浴びよう!」
夜と違って洗ってやるなどというゆとりが無い。急いでバスルームから出てそれぞれ自分の支度をした。
「悪い、後頼むっ」
「いいよ、行って。気をつけてね」
「ああ。じゃ後でな」
蓮の飛び出して行った後を急いで片づけて戸締りチェック。
(もう、『行ってきます』を言わなくていいんだ)
蓮が帰って来てくれた。慌ただしい朝の中でも、それが凄く嬉しかった。
「おはようございます!」
「おはよう、元気ね」
千枝が目を丸くしている。うきうきしている自分がいる。どうしても抑えられない。
「いいことでもあったのか? あ、そうか、デートだったんだな、このヤロー」
何でもデートに結び付ける哲平。思わず蓮を見た。何の反応も無いのを見てホッとする。みんなの様子や蓮の雰囲気を見ても何も変わりが無い。
(なんで帰って来たの?)
ますます分からなくなる。結局そのまま退社時間になった。
「お先に失礼します!」
「お疲れ!」
恒例の帰りの挨拶が交わされる。
(今日はどうなるの?)
携帯が震えた。
『1時間くらい待てるか? 飯食いに行こう』
急いで返事を帰した。
『行く! コーヒー飲んで待ってる』
ちらっと見ると蓮が頷いた。
「お先に失礼します!」
「ああ。お疲れ」
久し振りだ、こんなに笑顔を堪えるのに困るのは。外に出るとまだ空は明るかった。コーヒーショップに入る手前でまた携帯が震えた。
『悪い、家で待ち合わせよう。まだ会社の連中がいるから着替えて待ってろ』
確かにそうだ。今は危ない時間帯だ。
『分かった、家で待ってる』
ガチャっとドアが開くなり蓮の声が響いた。
「ただいま! おい、支度出来てるか?」
歩きながらもう脱ぎ始めている。どこか違和感がある。いつもと違う。あっと言う間に着替えてキーを持った。
「行くぞ」
さっさと駐車場に向かう蓮の後を追いかけた。車の中に滑り込んだ蓮はもうエンジンをかけ始めている。ジェイは慌てて乗り込んだ。
「俺さ、明日休むから」
「え、会社?」
「他にどこ、休むんだよ」
蓮がいきなり休む……
「みんな、困んない?」
「もう仕事は全部田中に投げてきた。急ぐものは全部今日片づけてきた」
(どうしたんだろう、蓮らしくない)
「どこか具合悪いの? 足が痛い?」
「別に。どこも何ともないよ、心配するな」
「だって蓮、こんな風に休んだことないし」
「……そうだな、確かにこんな風に休んだこと、無かったな」
課長職になってから、突っ走るように仕事をしてきた。
「明日はな、サボりだ」
「え!?」
「サボり。仕事をしたくない」
「何があったの!?」
「聞きたいか? 聞きたいよな、俺も喋りたい」
何を言うのだろう。聞いていいことなんだろうか。
「けど言わない。だからお前も聞くな」
わけが分からない。けれどどこか怒っているようにも聞こえる。
高速に乗った。こんな時間からいったいどこに行くというのか。
「ねぇ、どこに行くの?」
「蕎麦食べに行く」
「そ、蕎麦?」
「お前、蕎麦知らないのか?」
「そんなわけ無いよ! いくら俺でも蕎麦くらい知ってる!」
「横浜にな、蕎麦の美味い店があるんだ。お前も気に入るよ。そこはざる蕎麦だけしか出さないんだ。親父さんが変わっててな、気に入らない客には小盛りしか出さない。文句を言うと出て行けって言うんだ。金は返すけどな」
すごい店があったもんだ。
「昼は行列になる。出てけって言われたくないからみんな静かに食べるし食べ終わったらさっさと出て行く」
「じゃ、俺たちも食べ終わったらさっさと店を出るの?」
「もちろんさ、またその次も行きたいからな」
ざる蕎麦をさっさと食べる。10分かかるだろうか? そのために横浜へ?
「食べたら帰る。お前を抱く」
「え」
「明日の夜も抱く」
今日は水曜日。明後日の金曜の夜は時間を気にする必要が無いからきっとまた抱かれる。
「そのまま土曜も抱きあって一日過ごそう。帰りに冷凍食品をたくさん仕入れような。俺は作りたくない」
「どうしちゃったの? 蓮、変だよ」
「なんだ、抱かれんの、不服か?」
「そんなこと言ってないよ! でも心配なんだよ、蓮が」
「俺? 別に……不貞腐れてるだけだ」
「不貞腐れて……会社、休むの?」
「ああ」
「不貞腐れて、俺を抱くの?」
「……ああ」
「何に不貞腐れてるのか、聞いてもいい?」
沈黙が生まれた。
「聞いちゃいけないってことは会社のこと? 今度の面談の問題?」
答えないということは、そうなのだろう。
「分かった。俺、聞かないよ。不貞腐れるの、長くかかりそう?」
「は? どういう質問だ?」
「長くかかると……さっき蓮が言ってたみたいに抱かれ続けるんなら……俺、覚悟いるから」
蓮は吹き出した。そしてそれが大笑いとなった。
「はぁ、参った! 事故るかと思ったよ。お前って回復薬だな。分かった。日曜は抱くのを止めるよ」
ホッとした。正直、月曜から変な疲れに包まれて仕事を始めたくない。
蓮の言った蕎麦屋は割と小さくて、そして小綺麗だった。頑固そうな、にこりともしない主人。その分を補うような奥さんの笑顔。
美味かった。本当に凄く美味かった。
「美味しい! なんでこんなに普通の蕎麦屋と違うの? 蓮、もう一杯食べたい!」
子どものように騒ぐ声に、さすがに蓮も恥ずかしくなった。周りにも客がいる。
「美味いのはな」
蓮が驚いた。ここには何度か来たが、怒る以外に主人の声を聞くのは初めてだ。
「精根込めて作っているからだ。俺はいい加減な仕事が嫌いだ。それを認めない客はもっと嫌いだ」
「分かります。一生懸命にやる仕事にただの文句は言われたくないです。でも嫌だから聞かないっていうのは間違ってると思います」
「なんだと?」
「だってもしかしたら自分が気がついて無いことを言ってくれてるかもしれない」
主人は黙ってしまった。そのままくるりと中へ戻ってしまう。『出て行け!』そう怒鳴られるかと蓮は思った。3分位でまた主人が来た。手にはざるが2つあった。
「食え。そして帰れ。また来い」
ことの成り行きに周りでも箸が止まっている。主人が今度は怒鳴った。
「食わないなら出て行け!」
みんな慌てて食べて出て行った。
「美味しかったです! また来ます」
にこりと笑う顔に奥さんは笑顔で返したが主人は苦虫を潰したような顔でほんの少し頷いた。蓮が財布を取り出したのを見て、さらに苦い顔になった。
「要らん」
じろりと睨むから怒鳴られる前に財布をしまった。
「次は払えよ。だからまた来い」
「また来ます!」
「ご馳走さまでした!」
「いい人だったね」
帰りの車の中だ。
「ああ、いい人だったな」
それ以上に蓮はさっきのやり取りを思い返した。
(素直だからだ。こいつは本当に真っ新なんだ。だからあんな頑固親父でさえ心を開く。俺はずっとそんなお前を守っていきたいよ)
隣に手を伸ばしてジェイの頭を撫でた。
「なに? 俺、子どもじゃないよ」
「そうか? お前は子どもみたいなもんだよ」
いくつか文句は返って来たが心が軽くなっていた。
「ジェイ」
「ん?」
「明日、休むのは止めた。抱くのも止めた」
急に蓮の様子が変わった。声も明るくなっている。
「その代り今日と明日の分、金曜の夜は寝かせないくらいに抱くからな。いいな?」
返事が無い代わりに、膝に乗った蓮の手がぎゅっと握られた。