J (ジェイ)の物語」

第一部
10.かけがえのないもの -2

 目を開けると蓮が自分を見ていた。目の前の瞳が優しい。

「おはよう。どうだ、少しはマシか?」

 ジェイは声に出さず小さく頷いた。手を伸ばして蓮の顔を指でなぞり、首を降りて胸をつつき、肩をつつきまた顔に戻り唇をなぞった。安心したような顔で目を閉じる。

「なんの儀式だ?」

 巻き毛に指を絡める。

「いるって。ここに蓮が」
「見て分かんなかったのか?」
「うん。夢かもしれないし」
「ほら、これならどうだ? 夢だと思うか?」

 手を首の下に潜り込ませてそばに寄った。頬にキスをして肩を抱いた。

「蓮がいる」
「ああ、俺はお前のそばにいる」

 何もせず、ただ寄り添っていた。そのうち蓮の手が動き出す。背中を撫で上げ首から髪の中に潜り込むジェイからため息が漏れた。

「お前の巻き毛が好きだよ。よく似合っている」
「髪も目も好きじゃない」
「辛いこと、あったのか?」

 蓮を見上げて顔を逸らした。体に腕を回した。

「俺、日本人に見えないから……中途半端なんだ、どこに行っても。はみ出しちゃうんだよ。必ず壁が出来る。それが楽な時もあるけど」
「お前のいいとこなのに?」

 驚いて見上げる。

「母さん以外にそんなこと言ってくれたのは蓮が初めてだ」

 また頭を抱き込んだ。何の罪があるというのだろう。髪も瞳も、蓮にはただ美しい恋人の魅力でしかない。

「ああ、お前のいいとこだよ。俺が大好きなところだ」

 自分を掴むジェイの手に力が入る。

「いつ帰ってきたの?」
「11時頃だ。一人にして悪かった」

 胸に押し当てられた顔から、熱がずいぶん下がっているのが分かった。けれどそれは薬で落ち着いているだけだろうと思う。

「今何時なの?」
「まだ5時ちょっとだ。もう少し眠っていいんだぞ」
「シャワー浴びてくる」

 離れようとするジェイを見た。

「冗談だろ?」
「なんで?」
「まだ良くなってないんだぞ、シャワーなんてだめだ」
「これくらい平気だよ、バイトだって」
「もうそんなに頑張らなくていいんだ。充分頑張ってきたじゃないか」
「……仕事するなって言う課長っておかしいよ」
「シャワーだけじゃなくて会社に行く気か?」
「行く、休みたくない」

 蓮の目が鋭くなった。この目は……怖い。

「だめだ。シャワーもだめだ。着替えならしていい。体も拭いてやる。だから今日は大人しく寝てろ」
「でも……」

 じっと見る蓮の目に言葉を飲んだ。

「蓮は……仕事行くんでしょ?」

 途端に優しくなる目。また肩に手が載った。

「ごめんな、俺は行かないと。連休前だ、いろいろやることも伝達事項もある」

 そう言って立ち上がった。キッチンに向かう蓮を目で追う。仕事に行こうと張り詰めた心が緩んだ。

(頑張らなくていい)

いいんだろうか? 本当に? こういう気持ちの経験が無い。

「ほら、脱げ」

 湯気の立つタオルを手に毛布を剥いだ。今なら熱が下がっている。

「自分で拭けるよ」

 大きめの蓮のパジャマを脱ぎながら微かな抵抗を試みた。本当はやって欲しいけど素直に言えない。

「いいから。背中とか自分じゃ無理だろ?」

 背中。それならやってもらってもおかしくない。今度は素直に後ろを向いた。首筋に少し熱いタオルが当てられた。じっとそこを押さえてくれる。

「気持ち、いい……」
「だろ?  仕事疲れたら自分でこうやってるんだ。効くんだよ、これが」

 もう1本持っていたらしく、次のタオルが体を手早く拭っていった。手を上げられて両脇、脇腹。さっぱりしたパジャマが被せられ、蓮がキッチンへと行った。手を通そうとしたら声が飛んできた。

「着るな、まだ拭き終わってない」

 また新しいタオルを持ってきた。

「前、拭くから」
「え、自分で」
「俺、ずいぶん夕べお前のために頑張ったんだ。褒美を寄越せ」
「そんな、無茶苦茶な……」

 抗議を待たず腕を掴まれ向こうを向かされる。パジャマを取られ後ろから抱き込まれた。手が回り首を胸を拭きながら蓮の手が下りていく。

「ぁ、れん……」
「感じるなよ」
「む、りだよ……」

 際どい所で蓮は離れた。パジャマをポンッと投げられてキョトンとした顔を見せたから蓮は吹き出した。

「まだ具合悪いし朝だぞ。する訳ないだろ」
「べ、別にそんなつもり俺だって無かったから!」
「分かった、分かった。さっさと着ろ、熱がまた上がる」

 理不尽だと思う。無かった[そんなつもり]を生んだのは蓮なのだから。

「ほら、不貞腐れてるんじゃない、後は自分で拭くんだろ?」

 またタオルを2本渡され、それでも拗ねた顔で背中を向けて残りを拭いた。背中をじっと見つめる蓮には当然気づきもせず。

「いろいろ買ってある。レトルトのものもあるし、冷凍庫も覗いてみろ。そう言えばお前の好き嫌い聞いてなかったな。特に苦手なものとかあるか?」
「ピーマン!」

 危なく口に近づけていたペットボトルを取り落とすところだった。

「ピ、ピーマン?」

 何を笑われているのかと、またさっきのキョトンとした表情を浮かべているのをみて蓮はジェイのそばに戻った。今度は笑っていない。

「なに? なんなの? 嫌いなの言えって言ったの蓮だよ」
「取り敢えず黙れ」

 顎を掴まれて唇を塞ぐ蓮にあたふたしたが、次第に動き回る舌に気持ちが煽られて行く。

「ふ、っ ん……」

 ジェイの手が蓮の首に抱きついた。蓮の手がパジャマの裾から腹を胸を撫で胸の飾りを指先で撫でた。大きく反応するジェイの体に今度は蓮の欲情が煽られた。 ベッドに押し倒し唇から離れた蓮の口が耳を捉えた。手はまだそれほど兆していないジェイを握り込みゆっくりと愛撫していく。

「ぁ れ、れん……しないって……言ったの、に」
「お前がわるい」

 耳元で囁かれ声が出る。蓮の止まらない手に昂ぶり始めていく。手が入り込み直にその熱を擦り上げた。

 ぅあ あぁ……ぁ

 断続的に響くジェイの声が蓮の耳を侵す。しっかりと存在を示したジェイを感じてハッと我に返った。

(何、考えてるんだ俺は。こいつは具合が悪いっていうのに)

 けれどここで手を離すのは酷というものだ。ジェイの声に引きずられそうになる自分を抑えて、楽にしてやることだけを考えた。優しく愛撫していく。項にキスを落とす。囁きを落とす。

「お前を愛してるよ」

 は …… れん ……

手よりもその言葉に溺れた。若い体があっという間に果てる。性の営みを始めてまだ僅かだ。耐えることなど出来ない。

「ごめんな、どうかしてたよ。今きれいにしてやる。待ってろ」

 まだ息の荒いジェイに冷えない様にと自分のパジャマを脱いでかけてやった。用意したタオルで吐き出した跡を拭っていく。少し持ち上がるのを見て思わず笑った。

「おい、もう感じるなよ。これじゃキリが無い」

 余計な刺激にならない様に拭うというより押さえるように拭いて行った。

「も、もう後、自分でやる」

 焦っているジェイにキスをして出した手を止めた。

「俺が悪いんだ、責任取るよ」

「もう食わないのか? もっと他のものがいいなら用意してやるよ、まだ時間あるから」
「ううん、もういい。あんまり食べたくない……」

 顔色が悪くなってきたから蓮が慌てて立った。

「ごめん」
「謝ることなんかないよ。俺も朝っぱらからバカげたことしてしまったし。本当に悪かった。ベッドに横になれ」

 夕べ貰ってきた薬を飲ませる。救急外来では取り敢えずの薬しか出してはくれない。だから日中に病院に連れて行かなきゃならない。ちゃんと近くの病院で受診するようにとも言われた。

「な、やっぱり午前中ちょっと抜けてくるよ。お前を病院に送って会社に戻る。終わったらメールすればいい。迎えに行ってやるから。最悪帰りはタクシーになるかもしれないが」

 出勤は9時。会社で余裕を持ちたいからいつも家を出るのは7時40分くらいだ。今日はぎりぎり8時5分に出ようと思っている。けれど病院に送ってやるのは無理だ。こんなに早くに開いている病院などないのだから、その近くで待たせるなんて状態を悪くするだけだ。

「自分で行ける。大丈夫だから。少し眠ってちゃんと行く」
「今まで大きな病気はしたことあるか? 高熱を出したことも」
「無いよ。こんな熱初めてで……あ、東京に来て一度インフルエンザに罹った時があって」
「その時は? 寝込んだのか?」
「うん、でも大した事無かったし、母さん入院してたし」

(結局誰かいてやらなきゃならない時に一人だったのか……)

過去のことなのに、蓮は歯がゆくて仕方なかった。

 近くにある病院は今日は午前中しかやっていない。連休前だからちゃんと時間通り開けて欲しいのに、今日の午後から閉まってしまう。薬をもらっておかないと5日間は治療を受けられない。
 もう目を閉じたジェイを見下ろす。多分このまま眠るだろう。食べるものも飲むものも困らないはずだが、起きれなかったら通院できない。

「蓮、子どもじゃないから。そんなに心配しなくていいから」

 その声が細々と聞こえてとても安心が出来ない。自分以外に誰がジェイを気にかけるだろう。
 少し熱が上がっている。測ってみると37.6℃。新しく氷枕を用意して頭を乗せてやった。考えてみるとこんな風に人の世話をしたことが無い。だから余計あれもこれもしてやりたくなる。

「ここにタオル置いとくよ。着替えも一式。辛くなったらメール寄越せ。我慢出来なかったら電話でもいい。本当に自分で行けそうか?」
「行ける。場所も教わったし。保険証とかちゃんと持ってるし。お金……ホントにいいの?」
「何言ってるんだ。もう生活費のプールは一緒だ。俺だけの金じゃない。俺が使いこんだらお前が出してくれ、それでいいだろ?」

 小さくジェイが笑うのを見て頬を撫でた。


(こんなに大事になるなんて)

 日付を見て驚くばかりだ。ジェイに対する自分の気持ちを自覚したのは4月28日、歓迎会の夜だった。翌日の土曜に遊園地に連れて行き、ジェイと気持ちを確かめ合った。そして翌日、つまり一昨日から一緒に暮らして……
(愛していると知ってたった5日目か)
 長いこと愛しているような気がする。もっと多くの時間をジェイと過ごしたような。先週までジェイは自分に敬語を使って「課長」としか呼ばなかった。それが今は甘えるように「れん れん」と呼んでくれる。
(幸せにしてやりたいんだ、お前を)
何度も何度も迷わずそう思う。先週までの自分と、何と変わったことだろう。今、自分にはかけがえのない者がいる。

 道路の混み具合を考えてもどうしても最初の計算通りに家を出なければならない。キッチンを片づけて着替えて、もう7時50分。
 ベッドに戻ってみる。ぐっすり眠りについているジェイの額を触った。
(熱が上がってる)
 もう一度測って37.9℃という数字に眉をひそめる。汗ばむ顔と首を拭いてやるとジェイは小さく溜息をついた。
 テーブルのお金を確かめ、スペアキーをそのそばに置く。玄関に行きかけてテーブルに戻った。タクシー会社の電話番号を、念のため2ヶ所分メモして置いた。

「行ってくる、ジェイ」

 そう声をかけて玄関を出た。