宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第一部
8.恋人 -2
浮くことは出来た。わずかだが蹴伸びも出来た。けれどそこからが大変だった。
「力抜かなきゃだめだ、俺の手にふわっと掴まれ」
それが出来なかった。ついしっかりと蓮の手を握ってしまう。水にちゃんと顔をつけられるのに、目を開けることが出来ない。息をしっかり止めるから胸に力が入る。だから肩にも力が入る。
「よし、休憩だ」
30分もして蓮が肩を叩いた。ジェイは(いい歳をして)と、恥ずかしくてたまらない。
「泳いだこと無かったんだ、仕方ないさ。でも無理だっていいながら浮いたろ? たいした進歩だよ。何も今日いっぺんに泳げるようになる必要は無い。また来よう」
「でも……俺、ホントに何も出来なくて……」
きっと夜のことも気にしているのだと蓮は感じていた。まだ本当には結ばれていない。それが大きく尾を引いている。もう少し泳ぐ練習をしてからと思っていたが、蓮はジェイを連れて帰ることにした。
「おい、出よう。支度して帰るぞ」
「え? なんで?」
きっと出来の悪い生徒だからだ…… 何に対しても自信の無いジェイは、今は些細なことも卑屈に考えるようになっていた。入社するまでの勢いが消えていた。母が亡くなってからの張り詰めた糸が切れていた。
それは蓮に出会ったせいばかりではない。母が亡くなって2年。ずっと耐えて来た、耐えている実感もなく。ジェイは限界を超えていたことに気づいていなかった。独りで2年を過ごしてきたことの反動が今来ているのだ。
「どうした、しょぼくれて。明日仕事だってのを思い出して早めに出ようって思っただけだ。ちゃんと泳げるようにしてやる。そしたら二人で海に行こう」
「海? 海で?」
「泳ぐんだよ、海で。行ったことはあるのか?」
「小学校の時に学校で潮干狩りに……」
「そうかぁ、懐かしいな。それもやろう! 俺も一人じゃそんなこと出来ないが、お前が一緒なら楽しめそうだ」
「ほんとに? ほんとに俺といて楽しい?」
驚いてジェイを見た。泣きそうに歪んだ顔……肩に手を置いた。人目がある。こんなことしかしてやれない。
「ばかだな、楽しくなかったらお前といないよ。言っただろ? 俺を信じろって。何も疑うな。そうだ、こう言ったら分かるか? 俺は何でも正直に言う。イヤならイヤ、困るなら困る。はっきり言ってやる。だから信じろ」
やっとジェイは頷いた。
(蓮は嘘を言わない。信じていい。いつも見守ってくれる)
ただの恋人ではない、蓮に対して父性を感じていた。父を知らない。頼りになる男性というものを知らない。母は守るべき存在だった。幼いころから母を守るために必死だったから保護されたことが無い。蓮に向けている思いは、憧れであり、恋であり、依頼心だった。ジェイの中にまだ真実の愛は生まれてはいない。
帰りの車の中で、ジェイは大人しかった。小さな音で流行のオルタナロックを流している。その中に浸ることもなく、ジェイはただ蓮の手と足を見ていた。とうとう蓮が口を開いた。
「元気が無いな。疲れたか?」
初めての体験ばかり。夜を共に過ごしたことも含めて。疲れていないわけがない。
「運転、覚えたいから」
「ん?」
「教えてくれるって…… そう言ってくれたから。泳ぎはダメだったけど運転はちゃんと覚えようと思って」
「そうか。安心しろ、今年中に免許取らせてやる。会社にな、提携してる自動車メーカーがあってその関係で免許を取るのを奨励してるんだ。買う時に安く買えるし合格すると手当ても出る。表に出る仕事を任されるようになれば車も日常的に貸与されるんだ。そういう点は他の会社よりずっと待遇いいんだよ」
ジェイの顔がパッと輝いた。実は内心不安だった。免許を取るにも車を手に入れるにも、自分には貯金さえない。夢が膨らんだ分、それを抑え込むことが難しくなっていた。だが、今の話で夢が現実へと近づいた。何かを手に入れる。そんな贅沢な思いに酔った。
(蓮といると全てが変わっていく)
拠り所を得た。それだけで幸せだった。
アパートに近づくにつれ、ジェイの気持ちがまた折れ始めていた。あのアパートで独り眠る。これまでは何でもないことだった。蓮とはたった2晩を過ごしただけだ。なのに、もう独りになることが怖かった。
『一緒に暮らさないか?』
蓮が言った言葉が耳に響いている。あの時、どうして返事をしなかったのだろう。悔いても悔いてもあの時間は戻らない。きっと蓮はもう同じことを言ってくれないだろう。
アパートが見えてくる。
(子どもみたいだ……)
泣きそうになる自分を持て余す。唇を噛んだ。別れる時くらい笑顔を浮かべたい。
(『それじゃ、また明日!』 元気な声で言うんだ、『それじゃ、また明日!』)
心の中で繰り返す。会社に行けば会えるのだから。アドレスももらった。いつでもメール出来る。
(だから言うんだ、『それじゃ、また明日! 今日は楽しかったです!』)
気がつけば見えているアパートの周りをぐるりと回っていた。近くにあるコンビニの駐車場にすっと車が入る。
(どうするんだろう? ここで下りろってこと?)
「下りるぞ」
途端に気持ちが萎れた。そうか、ここでお別れか。ドアを開けて中に頭を入れた。
「それじゃ、また」
「手伝ってやるよ」
「え?」
「入ってもいいだろう? お前の部屋。そうじゃないと手伝えない」
「あの、なんの……」
「何、言ってるんだ。引っ越し。ほら、行くぞ」
車をロックした蓮がさっさと歩き出したのを慌てて追った。
「蓮! 蓮、待って!」
どうした? という顔で蓮が振り返った。
「ホントに? ホントにいいの? 俺、蓮のとこに行くの?」
「そう言っただろう? 完全に引き払うわけじゃない。住民票、俺の所に移すわけにはいかないからな。だから取り敢えずしばらく必要なものだけ持って行こう。後はのんびり運べばいいさ。それで構わないか?」
泣きそうになるのを堪えて、何度も頷いた。
(不安だったのか。そうか。もうお前をここに一人で寝せないからな)
ジェイの帽子を前に下げてやった。涙が一粒足元に落ちて行った。
「それだけでいいのか?」
「いい。また来るし」
母の写真も持った。着替えを持ち、ガスの栓もきちんと締めた。歯ブラシやタオルは要らないと蓮に言われた。
「新品を買おう。タオルなんかは俺のを一緒に使えばいい。思い出の物ならいくら持っていっても構わないから」
そう言うと顔を覗きこんだ。
「自分の枕じゃないと眠れないって言うんなら持って行け」
笑っているその顔にぷぅっと膨れる。
「俺をガキ扱いしてる」
「分かったか」
「俺はガキじゃない」
「そういうところがガキなんだよ」
尚も言い返そうとするジェイを引き寄せた。唇を奪う。体を撫でる。あっという間に喘ぎ声が出た。
「ここ……じゃ、いやだ……」
母と暮らした部屋。そこで乱れたくない。
「お願い、蓮……こ……こじゃ」
「分かった。悪かった、俺が無神経だったな」
すっと離れた蓮を思わず追った。
「早く帰ろう。言っとくがベッドは一つしかない。いいな?」
意味が分かって赤くなる。ジェイの反応の一つ一つが愛しくてたまらない。自分こそ気が急いているのを蓮は意識していた。
夜まで待てなかった。蓮のマンションに着いたのは5時半。夕食は早い時間だから外で軽く済ませ、温めれば食べられるものをいくつか買って帰った。
ドアを開ける。荷物を下ろした。蓮がカギをロックする。その音が部屋に響いた。靴を脱ぐ間も無く、蓮はジェイを抱きしめた。
「待てない、今欲しい」
その声がずしりと心に落ちた。
――欲しい そう言われた
思考が途切れた。キスに心を委ね、蓮のまさぐる手に捩りながらも身を任せた。一つずつ脱がされて行く。上着 シャツ ベルトが引き抜かれ、ジーンズが落ち、下着も落ちた。何もまとっていない体を激しいキスの中、ベッドへと押されて行く。ベッドに横たえられ、蓮が裸になっていくのをじっと見ていた。
「ねぇ、蓮」
現れてくる肌を見るだけで鼓動が早くなる。
「教えて……どう……どうやるの? 俺と蓮とのセックスって」
それには答えず、蓮はジェイに覆いかぶさった。さっきのような激しいキスじゃない。ゆっくりと優しく唇を舐め、中に入り込み舌を吸い、なぶる。喘ぐ胸に蓮の手が這った。さわさわと周りを撫でながら次第に中心へと手が向かう。唇が離れ、頬を耳を舌が撫でていく。
は っあ …あ
小さく声が漏れる。首を下りていく唇が上へ下へと動き回る。
やっ や… ぁあ ぁ
言葉とは裏腹に手は自然と蓮の首を抱いていた。胸に小さな刺激が与えられる。逃げそうになる体を蓮の指が追って行く。まだ愛撫に慣れていない体に慄きが走った。
「おまえ、本当に感じやすいんだな」
蓮の言葉が密やかに耳に吹き込まれる。
ぁぁ
声とも吐息ともつかない喘ぎだけがジェイの口から絶え間なく響く。胸を弄っていた手が下へと伸びた。一瞬でジェイの息が止まった。すでにはち切れそうなそこをしっかりと蓮が掴んだ。
ぅあ!
首が振れる、右に左に。蓮の背中に指が食い込んだ。
「イくんだ、ジェイ。さあ」
まるで許可が下りるのを待っていたかのように蓮の手に自分の腰を押しつけた。
もっと ……もっ
大きな刺激を求めて腰が浮いては落ちる。蓮の手の動きが早くなった。
っ! あ!! ぁや、あ! っあっ……
大きく腰が蠢きながら、ジェイは達していた。
蓮の手はそのままジェイの白濁を受け止めてそれを後ろへと運んだ。荒い息に胸が喘ぐジェイの後ろの孔を時間をかけて解していく。足を割り込ませ、ジェイの膝を広げた。秘めやかな場所へと与えられ続ける刺激に、息が収まりつつあるジェイが静かに反応し始めた。
「れ……」
ジェイの意識が浮上してきた頃には、蓮の指は先へと進んでいた。じわじわと中を押し広げるように、決して痛みを与えないように、内腿に唇を這わせながら愛撫を繰り返す。
「ああ……れ……ん れ」
「苦しくないか?」
「れ きも……ちい」
「そうか。気持ちいいか」
何度か頷いた。孔に入り込んだ指の動きにまだ抵抗はあっても、それ以上に快感が体を駆け巡っていた。一度した射精の余韻が残っている。本能的に体が快感を求めて動く。
蠢く孔の中に、2本目の指が入り始めたことにジェイは気づきもしない。ただ苦しさと、それと同じだけの快感とに追い上げられ、奇妙な感覚の中に漂っていた。
徐々に2本の指が孔を押し広げていく。壁をそっと擦りながら入って、出て。そこを擦れば声が上がった。膝を立てさせた。指はそこを擦りながら、大きく開かせる。蓮はそこに自分を当てがった。とっくに自分も濡れている。けれど焦らなかった。ゆっくりと時間をかけて入っていく。胸の飾りを唇で覆った。丁寧に舌で舐め、撫で、縦に横に刺激する。
あ っあ、っあ
半分ほど入ったところで抜いては入る。そのうちにジェイのいい場所に行き当たった。
んあ ……は、そ、そこ あ!
何度も何度もそこを行き来しながら奥へ奥へと押し進む。
無理なら引き返そう、そう思っていた蓮からその気持ちは消えていた。あまりにもジェイの中は気持ち良すぎた。熱くて、きついほど締りが良くて、自分のモノに与えられる快感が蓮を掴んで離さない。行く気の無かった奥へと蓮は向かっていた。
激しく左右に振れるジェイの顔を口で追った。やっと合わせた唇に舌を差し入れる。速まっていく腰の動きと舌が連動する。
「ああ ジェイ ジェイ、おれも……」
イきそうになるのをなんとかやり過ごし、ジェイを扱いた。
「も、れ……ん……、は……ぁぁ」
胸を仰け反らせてジェイが達する直前に蓮は一気に腰の動きを速めた。激しい射精感に襲われて外に出たのとジェイが昇りつめたのは同時だった。
「ね! ジェローム、大丈夫!?」
ハッとした。いつの間にか体が震えている。息荒く、熱が体を駆け巡っていく。
「具合悪いんでしょ、今日は帰りなさい」
千枝だった。帰りの遅いジェイを心配して見に来たのだ。
「待ってて、何か冷たいもの持ってきてあげる」
「い、いいんです」
「絶対熱あるわよ。待ってなさい」
トイレに走っていく知恵の背中を見送った。
昨日のことを記憶でなぞっていた。若く敏感な体は、簡単に記憶の中の快感に捉まり抜け出せずにいた。鼓動は早く、肩で息をする。
千枝が携帯を片手に戻って来た。
「はい、そうなんです。帰してもいいですよね? ええ。はい、分かりました。じゃ来るまでそばにいます」
携帯を切ると、濡らしてきたハンカチでジェイの顔を拭った。
「ひどい汗! そう言えばオフィスでも暑いって言ってたわよね。我慢することないのに。辛い時は言わなきゃだめよ」
まさか夕べの余韻でこうなったとも言えず、返事も出来なかった。足早にエレベーターから向かってくる蓮が見える。
(どうしよう、怒られる)
そうは思っても体をコントロール出来ない。
「悪いな、千枝。後は任せてくれ。ちょうど打ち合わせも終わったしコイツを家に送ってくるよ」
「すみません、課長。よろしくお願いします。ジェローム、良かったわね。明日も無理しないで。どうせ連休に入るんだし、顧客もみんな休みに入ってるから」
千枝がエレベーターに向かったのを確認して蓮はジェイの肩に手を置いた。
「立てるか? どうした、本当に具合悪くなったか? 夕べ……無理させ過ぎたか?」
体の震えが止まっていなかった。
「だ だいじょうぶ、ごめん、れん」
「ちっとも大丈夫になんか見えないぞ。さ、車に行こう。今日は電車にしないで良かったよ」
朝、動きの重いジェイを気遣って車で来たのだ。早めに会社の近くまで来て、そばにあるカフェの手前でジェイを下ろした。そのまま自分は会社に向かい、ジェイはコーヒーを飲んで出社した。
朝は周りを気にしたが、今は堂々と出て行ける。
「お前、我慢してたのか? 朝言えば良かったんだ、具合悪いって」
「ちがうんだ、蓮……」
「なにが」
「俺……ごめん、俺、夕べのこと思い出しちゃって……」
蓮の足が止まった。まだ震えている若い恋人を覗き見る。
「ばか、会社でそんなもん思い出すな」
自分まで顔が赤くなりそうだ。
初めてセックスをした頃を思い出す。大学どころじゃなかった。ずる休みを何日もして、溺れるようにセックスをし続けた。最初はそんなものだ。蓮は小さく笑った。
「そうか、お前思い出しただけでイきそうになったんだな?」
「れ! やめて、そんなこと言うな!」
「だってそうだろ? そういう時は我慢せずにトイレに駆け込めよ」
「ばか 蓮のばかっ」
大きい声も出せず、駐車場へと抱き抱えられながら歩いた。
すっかり腰が抜けていて力が入らない。
「そら、入れるか?」
ドアを開けてもらって中に押し込められた。
「家に連れて行くけどな、俺はすぐに会社に戻るからな。途中でなんか食うもの買ってやる。だから俺が帰るまでそれで我慢しとけ」
「分かった……」
消え入りそうな声に蓮はまた笑った。