J (ジェイ)の物語」

第二部
3.新しい日々 -2

 ゴールデンウィークを過ぎると怒涛の仕事の嵐だ。7月半ばまで祝日も無い。たっぷりの飴をもらったあとのたっぷりの鞭みたいなものだ。それでも仕事の楽しさが分かり始めたジェイは生き生きと働いた。

「ジェローム、変わったね、本当に」
 花が後ろから見ながら池沢にそう言った。
「そうだな。課長の言ってた通りあいつと仕事してると楽だ。受け答え早いしな」
「悪かったですね、遅くって」
「違うさ! あいつ、素直だからな。気分いいんだよ、捻くれてる誰かと違ってさ」
「それ、結局俺をけなしてません?」
 池沢は笑った。
「お前もずいぶんと素直になったよ。とにかくウチはいいメンバーに恵まれた。このまま行くといいんだが」

 夏が近づく。この会社では海外研修や転勤の話が出始める頃だ。去年は池沢のチームからは出なかったが今年はどうなるだろう。本人の先行きを考えればいい話なのだから喜んで送り出さなければならないが、出来上がっているチームから誰が出て行っても池沢には痛い話だ。

「最近じゃ新人も飛ばされるしね。ジェロームなんか危ないんじゃないのかな、ハーフだから会社としても行かせやすいでしょ?」

 花の言葉に考え込む。やっと溶け込み始めたジェイを手放すのはまだ早いという思いが強い。また殻に閉じこもってしまうかもしれない。歓迎会でジェイの言った言葉。
――仲良くなったってどうせすぐいなくなるんだ
 身内が誰もいないことを知ってからどうしてもジェイのことが気がかりになって仕方がない。そういう意味ではジェイはチームの中で末っ子と言っても良かった。

「何にしても今から不安がってもしょうがない。目の前の仕事を片づけていくだけだ」

 週末だ。振り向くと蓮は出かける支度をしていた。

「ちょっと出てくる。すぐ戻るから」
「どこ行くの?」
「実家。妹の誕生日だからプレゼント置いてくるだけだ」
「あの……ゆっくりしてくれば?」

 蓮はこういう話を普通にしようと思っている。家族を持たないジェイを気遣うのに、間違ったことをしてはいけないと思う。自分に家族がいることは仕方の無いことで、生活にそのことが絡んでくるのも仕方の無いことだ。

「いつもプレゼント渡して終わりなんだよ。お前が気にしなくってもいいんだ。それより早く帰って来てお前を抱きたいし」

 途端にパッと赤らむジェイを見て蓮がニヤニヤと笑う。

「今の、わざと言ったでしょ」
「なんのことだ?」
「俺で遊んでる。俺を弄んでる」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ホントに今夜はたっぷり抱くからな、土曜なんだし」

――週末を楽しむ

 首筋まで赤くなり、つい足をもぞもぞと動かしてしまった。

「おい、帰ってくるまで待てよ。今から感じるなんて早過ぎる」
「ばかっ! 感じてなんかいないよっ!」
「そうか? 確かめさせろ」

 伸ばしてくる手を引っ叩いた。そんなことされたら一人になってから悶々としてしまう。

「いいから出かけて。俺、片付けとかやっとく」
「はいはい」

 そのまま出かけようとするから蓮を呼び止めた。

「連、キー忘れてるよ」
「あ、今日はこっち」
 いつものキーじゃない。
「なに、それ?」
「バイク」
「バイクも乗るの!?」
「たまにな。今日は渋滞してるだろうからこっちが楽なんだよ」

 目を丸くしているジェイに笑った。
「明日でも後ろに乗るか? 連れてってやるよ、どこか。考えとけ」

 今度はバイク。自分の知らない蓮がたくさんいる。

 そう言えば家族の話をあまりしない。それは自分のせいなんだろうか。余計な気遣いをさせてしまってるのだろうか。
――俺を信じろ
あの言葉を思い出すとちょっとの不安は消えていく。

(変なこと、考えないようにしないと)
(今夜は……楽しむんだ)

蓮が出かけた後のベッドの上で意味も無くいきなり蓮の枕を掴むと ぽむっ と顔を押しつけた。
(蓮の匂い……)
いつの間にか一人でいる時に蓮の枕を抱きしめるのが癖になっていた。
(見られたらきっと笑われる)
だからいない時に味わう、枕を。


 綺麗好きな蓮とジェイだから、片付けと言ってもたいしたことはない。やたら家事に励む二人だから洗濯ものも台所もほとんど手間がかからない。しょうがないから冷蔵庫の中を片づけて拭いたけれどあまり物を突っ込まないからそれも手早く終わってしまった。

 テレビをつけて見る。のほほんとあれこれ見る。こんな風にテレビを見たことが無かった。下手をすると何日もテレビをつけることさえ忘れて眠る日が多かった。
 ホットミルクを作ってソファに陣取って、面白そうな番組を物色しては笑った。ただそれだけなのに、信じられないほど幸せだ。

 電話が鳴った。気がつけば蓮が出かけてから2時間半が経っている。

『何がほしい? 今夜何が食いたい?』
「何でもいいよ。あ、蓮の味噌汁飲みたい」
『味噌汁はお前が作れ。そろそろ料理覚えてもらうからな』
「ええ、蓮のが飲みたいのに」
『甘い! 今日はお前が作るんだ。じゃ他のは適当に買ってくからな』

(味噌汁は俺? じゃ、もう蓮は作んないの?)
蓮の味に慣れてしまってそんな我が儘が出てくる。それでも冷蔵庫を覗いた。
(なんの味噌汁にしよう?)
そうとなれば帰ってくるまでに作って驚かせたい。あれこれ手に取り茄子を選んだ。ジェイは茄子料理が好きだ。

(このくらい)
半分に割った茄子を斜めに切っていく。
(なんだ、簡単!)
沸騰した鍋に茄子を放り込む。すぐに味噌を入れて味見をした。とたんに顔をしかめた。
(こんな味じゃなかった)
もっと甘みがあるはずだ。あれこれ迷って砂糖を手に取った。
(甘かったんだから……これだよな?)
自分でも怪しいとはおもいつつ、小さじ一杯ほど入れてみる。味見をする。
(なんだか不思議な味……まだしょっぱい)

それはそうだ、お椀4杯分くらいの量にお玉1杯味噌を入れたのだから。
茄子を一つ齧ってみた。
(え? これ、変!)
火が通る前に味噌を入れた。見ると味噌汁も少し黒ずんでいる。茄子のあく抜きをしていない。

 水を足したり砂糖を足したり。そんな格闘をしているうちに玄関が開いた。

「お! 味噌汁の匂いだ、もう作ったのか」

 嬉しそうな蓮の声に慌てて鍋を背に振り返った。

「お帰りなさい。どうだった? 妹さん」
「ああ、元気だった。プレゼント渡したら『またね』だってさ」
「そうなんだ……」
「おい、味見させろ」
「え、まだ……」
「途中か? なら余計味見しないと」

 何とか鍋の前で頑張ったがとうとう引き剥がされた。

「ん? 茄子? お前、あく抜きとか知ってたのか?」
「あく抜き?」
「なるほどね、あくは抜きませんでした、と。ま、たいした問題じゃない。どれ」

 お玉でちょっと掬って飲んで、慌てて流しに吐き出した。

「お前、何作ったんだ?」
「なにって…味噌汁……」

 溜息が出た。明らかに全てが間違っている。

「俺が帰るまで待ってれば良かったんだ」
「びっくりさせようと思って……」
「充分びっくりしたよ、この味には。いったい何入れたんだよ。味噌が多過ぎるのは分かったがこの甘さはなんだ?」
「……砂糖」
「はい?」

 笑い転げながら蓮は味噌汁の特訓をしてくれた。正しい作り方。特にダシのことでへこたれたジェイの赤い首筋にキスをする。
「お前といると楽しいよ、本当に」
「褒めてる?」
「まさか!」
 見慣れたはずの ぷぅっ と膨れるジェイの顔に益々蓮は笑った。

――今夜はたっぷり抱く

 言葉の通りバスルームから始まりベッドへ。喘いでも喘いでも蓮はすっと引いてイかせてはくれず、頭の中はただ体の熱さから逃げようとそれだけに必死になっていた。言葉が消えてただ呻くだけ。長引く愛撫に狂いそうなほど蕩けていく。

 感じ過ぎて何度も突き上げられ掻き回され、とうとう悲鳴を上げて体中を痙攣させながらイった。その後は気を失ってもう覚えてはいない……


「ジェイ、ジェイ」

 ひんやりとしたものが顔を拭った。体をきれいにされているのがぼんやりと分かる。胸はまだ高鳴っていて呼吸がやっと追いついている。

「……し、んじゃう……」
「ジェイ、大丈夫だ、死にやしないよ。大丈夫」

 薄い肌がけが体を覆う。潜り込んできた蓮が首の下に手を回しそっと抱いてキスをくれた。

「ごめん。やり過ぎた。悪かった」
「しん、じゃ……」
「しーっ、大丈夫だから。このまま眠るんだ。ゆっくり眠れ」

 掠れた声のジェイの髪を撫でた。ジェイは溜息のような吐息をいくつか漏らしてすぅっと眠っていった。

「ごめんな、今日は無茶をさせた」

 小さく囁いて蓮も眠っていった。

 朝は起き上がれなかった。

「寝てていい、俺が飯作るから。シャワー先に浴びたいならちゃんと手伝う」

 さすがに悪いと思っているのか、蓮は優しいというよりジェイの機嫌を窺っている。

「シャワー、浴びたい。でも動けない」

 まだ掠れたままの声に蓮は済まなそうな顔になった。どう見てもジェイの機嫌は悪そうだ。

「今日、バイクに乗っけてやるから」
「無理」
「あ……そうだよな、いいよ、また今度にしよう。お前の好きなとこ乗っけていくから。シャワー連れてってやる」

 やっと起き上がって蓮の肩に掴まってシャワーを浴びた。体中をまた蓮が泡で撫でてくれたが、そこは触らせず自分で洗った。ジェイは本気で怒っている。

「いい、ベッドに歩いて行ける」

 シャワーを浴びて少し良くなったのか蓮の手を払った。困り果てて食事の世話をし、ソファに寝せてテレビをつけてやった。
 しばらくして徐々にくだらない番組にくすくすと笑い始めたのを聞いて、やっとほっとした。

「ジェイ、悪かったよ。ちょっと夕べは羽目を外し過ぎた」
「俺……ああいうの困る」
「そうだな、もうしな」
「あんなに気持ち……いいもんなの? セックスって……」
「は? え? イヤなんじゃないのか?」
「イヤだけど……何がなんだか分からなくなっちゃって……さっきまで腹立ってたけど」

 蓮は黙ってその続きを待った。

「ああいうの、困るから……平日はやんないで」
「平日はって……」
「次の日が休みじゃないと……俺、動けないから」

 ジェイのそばに膝まづいた。軽いキスをして蓮は真面目な顔で答えた。

「約束するよ。次の日が休みじゃなきゃ夕べみたいなセックスはしない」

 ジェイは微笑んで蓮の手を握った。

「それなら……いい。すごく……気持ち良かったから」