J (ジェイ)の物語」

第二部
15.救い -3

「さ、ジャンケンしましょ」
「おい、三途! まだ後でもいいだろ!」
「ダメ! 課長、金だけ置いて逃げる気でしょ。三途さん、構わず続けて」
「じゃ、一発目! 負けたら哲平と対決だからね。いくよ、ジャンケン…」

 一回目でジェイは勝った。

「やったっ!!!」

 人生でこれほど力の入ったジャンケンは初めてだった。ジャンケンそのものでさえ経験が少ない。普通は小学校からそんなものをする。けれどジェイは疎外されていたからその輪に入ったことがほとんど無い。最後にやったのは母とだった。負けた方が寝る時に電気を消す…

 思わず叫んだその声にみんなが微笑んだ。
(こいつ、こんな顔もするんだな)
なぜか池沢の目頭が熱くなる。
(そうだ。お前はチームの末っ子だよ)
大事にしてやりたい。そう思う。

 結局残ったのは池沢だ。

「ちぇっ! 俺、チーフ苦手なのに」
「哲平、チーフに勝ったこと無いもんね」
「哲平さんにも苦手な人っているんですか?」
「聞いてなさい、すぐ分かるから」

 始まった途端に分かった。池沢の声がデカい。哲平も大きい方なのに、撥ね退けるように哲平の声を消していく。
(割れるような声って、こういうのを言うんだ)
けれど池沢の歌は上手かった。

「やっぱりね! こうなると思ってたよ」
「男らしく一気食いね。お水ここに持っててあげるから」
「千枝は優しいよなぁ」

 けど食べ慣れているらしい哲平はあっという間に平らげた。

「こんなもん、味わっちゃえらいことになりますからね」

 それでも2杯目の水を千枝から受け取った。

「じゃ、次! 負けたら課長とだからね」
「おい、その前にウィスキー、Wで頼め」
「はいはい、お酒の力が必要なんでしたっけ。軟弱なんだから、もう」
「何と言われようといい」

 ウィスキーが届き、それを飲みながらジャンケンを眺める。もう諦めるしかない。一抜けは、三途。二抜けは池沢と千枝。残ったのは、花とジェイ……

(おい………冗談だろ…)
もう、飲むどころではない。一瞬ジェイと目が合った。縋りつくような目。
(負けるな! 絶対に負けるな、お前とやりたくない!)

 2度、あいこになった。焦るジェイはミスを犯した。

「おい、今の後出しだろ」
「え? ち、違いますよ、ちゃんと勝ちましたよ!」
「見てたわよ、逃げようったってそうは行かないからね」

 こんな美味しい場面をどうして見過ごせるだろう。三途川の心の中に今は悪魔が住んでいる。

「もうジャンケンしなくていいわ。花、あんたの勝ち」
「だよなー。ジェローム、課長と初対決だな、頑張れ!」

「お前、歌えるのか? 歌、あんまり知らないだろ?」

 蓮は家でもジェイの歌を聞いたことが無い。くちずさむことさえ無かった。酔いも醒めた蓮の声には悲壮感さえ漂っている。
(歌えないってことにするんだ、ジェイ!)

「いいのよ、ジェローム。知ってる歌が無いなら課長の不戦勝ね。緑、食べなさい」

 三途川の悪魔が二人を追い詰める。ジェイは蓮の顔を見上げた。
(いやだ、あれ、食べたくない。蓮、食べたくない)
必死に曲を探し始めたジェイに蓮は目を閉じてウィスキーを飲み干した。

「これ! これなら歌える!」
「どれだ? スピッツ? 古いなぁ」
「母がよく口ずさんでたんです。これなら多分歌えます」
「でもこれ、キーが高いぞ?」
「チーフ、大丈夫! ジェローム、キー高いんですよ」

「おい! 俺の意見は!?」
「却下。課長、これ知ってるでしょ? 哲平、曲入れて」
「OK、三途さん!」

 イントロが始まる。
(もう一杯酒が要る……)

 出だしから躓いた。しっかり出遅れた。追いかけようと早口になった。声が引っくり返る。キーが出ない。焦って早送りの歌になる。隣を見るとジェイがしっかりと蓮の側の耳を塞いでいる。

(負けない! もうわさびは食べない!)
(ジェイ、愛はどこに行った? 俺だってわさび食うのはいやだ!)

 結局蓮が極端に音が外れたせいで、ジェイは死に物狂いだったが歌い通すことが出来た。

「おめでと! 勝ったわね、ジェローム。たいしたもんだわ」
「お前、上手いなぁ! なんて声してんだよ、普通に上の方、出るんだな」
「課長、大丈夫ですかぁ。もう、ぐったりしてますね。でも哲平はやる気満々ですから頑張ってください!」

 ジェイは歌うことに必死だったから正直蓮の歌がよく分かっていなかった。

(……カラオケ、来るの止めたら良かったのに……)
『歌いに行こう』蓮にそう言うのは止めようと思った。

「ねぇ、課長酔ってるよね」
「だいぶイッてるな」

 カラオケを出て歩く蓮の後姿に千枝と哲平がひそひそ喋っていた。

「チーフ、課長、あのままじゃまずいんじゃないっすか?」
「そうだなぁ、多分ジェロームに負けたのがショックだったんだろう」
「あれ、飲み過ぎですよ。ここのとこ課長忙しかったし疲れてたろうし。3杯も飲んで歌ったから一辺に酒、回ったんじゃないですか?」

 足元がふらついている様子が分かる。少し足を引きずっている。痛むのだろう、杖は取れたがまだ危なっかしい。

「ジェロームに送らせたら? 慣れてるんだろうから」

 三途川は、今二人が離れて生活していることを知らない。

「そうだな、俺がついてったっていいんだが。ジェローム、どうするか? 無理なら俺が行くよ」

 チーフが連れて行くとしたらマンションだ。それはマズい。

「俺、行きます! 酒全然飲んでないの俺だけだし。課長送り届けて帰ります」
「そうか? 悪いな、すっかり課長担当にしてしまって」
「いえ、平気です」

 大丈夫だと言い張る蓮はみんなに説得されてジェイと帰ることになった。

「心配ですからね、また事故に遭ってもらっちゃ困るんです」
「そうだよ、大人しくジェロームに送ってもらってください!」

 心配されつつみんなと別れて二人になった。

「蓮、大丈夫?」
「大丈夫だ、お前まで過保護だな」
「疲れちゃったんでしょ。ずい分歌わされたもんね」

 哲平とのバトルは3度続いた。何とか蓮は勝ったが、正直どっちが勝ったのかなんて誰も確信していない。ただ課長に最後は花を持たせただけだ。

「お前、ここで帰れ。俺なら心配要らないから」

 そう言う間も体が揺れているのが分かる。

「一緒に行く。言うこと聞かないからね。送ってく。ホテルどこ?」
「タクシー使うから」
「この近くだって言ってたよね、タクシー使うなんて嘘でしょ」

 疲れきっていた。もうあれこれ言うのも面倒だった。ずっと残業続き。問題は山積みでホテルでも寝た気がしない。ストレスが溜まりに溜まっている、その中で溺れていた……

……一緒にいたい………そう、思った。

「こっちだ」

 だめだと思う。今は一緒にいていい時じゃない。分かっているのに酒のせいにしたい。なんだか今日は自分自身が頼りなかった。

――酔ってるせいだ
――疲れてるせいだ

 理由が、ある。いくつもある。辛いのに、一緒にいたいのに、抱き寄せたいのに、なぜ離れる……

 ホテルが近づいてきた。

「ここだ」
「ここに泊まってたの? こっちの方あんまり知らなかった。蓮が中に入るまで見てるよ」
「ああ。おやすみ、ジェイ」

 背中を向けた。このまま別れるべきだ。まだ一緒になるのは早い。

「うん、おやすみ。今日はありがとう。俺、間違わずにすんだよね?」

 振り返った。ふわっと巻き毛が風に揺れている。

「ジェイ……」
「なに? 立ってるの、辛い? 部屋の前まで行った方がいい?」

 体が揺れているのか、心が揺れているのか。

「ジェイ、部屋に……送ってくれるか?」

(ダメって言えよ。ダメだって)

「いいよ。送る。俺の肩に掴まって。ホントに蓮、辛そうだよ。足、痛いんでしょ」

 どうしてこんなに今日は一人になるのがイヤなんだろう。どうしてジェイ無しではいられない気持ちが強いのだろう。
――帰るって……帰るって言え……

――酒の……

 エレベーターのドアが開く。フロントに「送ってもらっただけだ」と告げた。キーを取り出し、開けようとして取り落とした。拾おうとしてよろめいた。下からジェイがその体を受け止めてキーを拾った。
 見えた首筋に…目を誘われる、奪われる……
――酒のせいなんだ

 手が。蓮の手がジェイの背中を掴んだ。驚いた目が、素直で優しい目がじっと自分の目を見つめた。

「蓮……寂しいの?」

 

 ジェイがキーを回し部屋を開けた。蓮の手を引き中に引き入れた。そのままそっと口付ける。蓮の手が背中に回りひしとジェイを抱きしめた。

「俺は……」

 何を言うつもりなのか。
――酔っているせいだ、ジェイの匂いを間近に嗅いだせいだ……

 違う、理由なんてどうでもいい、抱きしめずにはいられない。求めずにはいられない。今自分を救ってくれるのはジェイ以外に誰がいるだろう……
(寄りかかれるのは、受け止めてくれるのはお前だけだ……)

 ジェイの心にも火種が燻り始めている。

「俺、蓮の邪魔になってる? いない方がいいとか、そういうんじゃなくて。蓮を愛してるってこと、このことが終わるまで忘れなきゃだめ? 蓮が辛そうなのが俺、辛い……」

 蓮の胸に頭を預ける。
(ああ、蓮だ。課長じゃなくて、蓮だ)

 けれど……自分の体を蓮から無理矢理引き剥がした。

「俺、終わるまでアパートに戻る。自分のベッドに寝なくちゃだめだよ。こんな生活、蓮、壊れちゃうよ。家にもどっ」

 顎を持ち上げられ口を塞がれた。まるで貪るように貪欲に蓮が口を犯し続ける。

――キスに酔いたい

 追われるような感覚が少しずつ遠のき始め、緩やかにジェイの口の中を舐め続けた。それに逆らうように今度はジェイの舌が激しく動き始めた。

 いつの間にか主導権が変わっている。そのキスに蓮は自分を任せた。喘いでいる、自分が。首を下りていくジェイ。こんな声を出したことが無い。体が震えるのを抑えきれない。密やかに押し殺すように耐える自分から漏れ出る声……

 ジェイの体を突き放した。

「だめだ……」
「やだよ」

 しがみついてくる体。この体の全てを自分は知っている、どこが弱いのか、どこで甘い声が出るのか。

 ジェイから離れた。

「ジェイ、ごめんな。今日はもう帰れ。すまなかった」
「今日だけ、今夜だけ蓮に戻ってよ。お願い、今夜だけ……」

 ジェイも自分が我が儘を言っていると知っている。帰らなきゃいけない、マンションを出てアパートに戻らなきゃ、蓮のために。なのに……抱いてほしい…… キスが[我慢]の衣をあっさり剥ぎ取った。

「だめだ、おとなしく帰れ」

 ジェイを煽ったのは自分だ。ジェイの気持ちを引き返せない所まで追い込んだのは自分なのだ。

「いやだ! 離れるの、いやだ! 蓮、抱いて、俺を抱いて。お願い、抱いて……」

 ジェイの言葉に…心が引き裂かれる…
――愛して、何が悪い? ジェイが欲しい 欲しい

 額にキスをした。

「この問題が終わるまでだけだ。その間だけ。俺はずっとお前を愛してるから。お前の気持ちは邪魔になんかならない。俺の支えになっている。俺を信じろ。俺はお前を信じている。今日はこのまま別れよう」

「蓮……」

(お前を抱きたい)
俯く顔から雫が落ちた。
(引き寄せたい)

「ごめんなさい……」
「謝るな、俺が悪いんだ。全部俺が悪い。下まで送らなくてもいいか?」

 小さく頷くジェイの髪に指を潜らせた。見上げる顔に微笑んだ。

「お前は俺の宝物だ。大切にしたい、本当だ」

 背中を向けてドアを開いた。唇を噛んだ。今度抱きしめたらもう離れることなど出来ない。身も心も救ってほしい……
 だからこそ一緒にいるわけにはいかない。

「お前は家で俺を待っていてほしい。必ず帰るから」

 もう何も言わず、ジェイは雫を拭って蓮の前を通って部屋から出た。

――ぱたん

誰もいない冷たい色をした通路に、乾いた音が響いた。締まったドアを叩きたい、『開けて! 抱きしめて!』と叫びたい。『帰るな』そう言って欲しい。もう一度。もう一度キスが欲しい。


 外は心地いい風が吹いていた。ホテルを見上げる。

「おやすみなさい。蓮」

 タクシーを拾った。

  

「バカだ、俺は」

 どこがバカなのか分からない、多分何もかもだろう。自分のしたことはジェイを苦しめただけだ。ジェイは帰ろうとしていたのだから。自分が望んだからここまで送ってくれただけだったのだから。

「俺は……バカだ」

 欲しかっただけだ、この辛さの捌け口を。抱えているトラブルが重くて酒の勢いで逃げようとした、ジェイの体に。ジェイの存在を利用しようとした。
(今の俺に、ジェイの体に触れる資格なんか無い)
そう思った。