J (ジェイ)の物語」

第二部
12.波紋 -3

 小さなミーティングルームに通された。
(さすがにみんなの前ではつるし上げ出来ないか)

「忙しい中、済まなかったね」

 湯川は職位は同じ課長だが、経験年数ではベテランだ。

「いえ、部下が先々のことをご心配いただいたようで有難いと思っています」

(ジェイのことを言えないな。俺も最初っからケンカを売っている)
 心の中では苦笑いが出ている。けれど引けることと引けないことがある。自分には預かった19名を守って育てるという責任がある。

「……部下は上司の鏡だというがその通りだね」
「お褒めいただいて恐縮です。自分の責務には真正面から取り組むと言うのが私の信念ですから。部下にそれが反映されているのなら嬉しいことです」

 湯川は口を閉じた。そこにノックがあって塩崎が入って来た。

「しばらくだな、河野。いや、河野課長とお呼びするべきかな」
「塩崎君! 君を呼んだ意味は分かっているだろう!」
「ええ、確か謝罪でしたね。河野課長。この度は面談の折り少し行き過ぎた言葉を使ったようです。その件について謝罪します」

 深々と頭を下げた塩崎を冷めた目で見た。今の言葉の中のどこに謝罪の気持ちがあるだろう。

「どうだろう。本人も反省している。その気持ちを汲んでもらえないだろうか」
「塩崎さん。真摯な謝罪に感謝します。あなたの使った言葉、態度全てに対して頭を下げていただいたということを心にしっかりと留めておきたいと思います」

(思っただけだ。な、ジェイ。思うってのは便利な言葉だろう?)
 皮肉たっぷりの蓮の言葉に、頭を下げたままの塩崎の握り拳が震えている。

「他になにか? 謝罪もお聞きしましたし戻っていいでしょうか?」
「いや、もう少し話したいんだが」
「何でしょう?」
「その前に、塩崎君。席に戻っていい」
「は? 私はまだ言いたいことがありますが」
「塩崎くん、君は」
「聞かせてください。その言いたいことを」

 湯川は何とかして止めようとしたが、塩崎が止まらなかった。

「謝罪はした。河野課長。あんた、どう部下を教育してるんだ? 人事との面談の最中に口答えはするは、勝手に退室するは。やりたい放題だな」
「そうですか? なら言いたい放題というのは許されることなんですかね。休職しろと言ったり、女性へのセクハラも」
「セクハラ? 何のことだ?」
「湯川課長。部下を把握なさってないんですか? これ以上ここでお話してもお互い時間を無駄にするだけです。私は査問会を開いてもらうよう上に申し出るつもりです。お話の続きはそこでしましょう。私は冷静な話し合いの場でこのことについて判断をしてもらいたい。その上で出た結論なら黙ってお受けします」
「職を賭けるということかね?」
「ええ。無責任な上司でいるわけにはいきませんから」

 席に戻った蓮はデスクの電話の下にある二つ折りになった茶封筒を手に取った。袋越しに固いものが手に触れる。開けると手のひらに鍵が落ちた。封筒を覗くと小さなメモ。

――着替え、駅のコインロッカーにあります

(ジェイ……このことが片付くまで帰らないと分かったんだな)

 何か言いたい。何か伝えたい。それが今は叶わないことだと知ってはいるけれど。この席にいる以上、今 "自分" を優先するわけには行かない。
 ジェイの投げかけた波紋は大きい。それが大きな波になろうとしている。自分もジェイもその波に呑み込まれて溺れるわけには行かない。自分は例え虚構であろうと、防波堤にならなければならない。

『分が悪いと承知してるんだろう?』

(部長。ここが俺の踏ん張りどころです。ここで崩れるならその程度の人間だということです)

 ほんの一瞬。手のひらの鍵に、ジェイを抱きしめたい という衝動的な思いが生まれた。セックスとしてではなく、安心したかった。
(持っている荷物が重い)
 19名を背負っている。今自分がコケれば彼らは会社の中で浮草となる。波に揺れる浮草ではなく、波が押し寄せても倒れず立つ木になってほしい。

(防波堤? 違うな、俺は土嚢だ。あいつら以上にこの会社で守りたいものは何も無い)

 報告書の残りのまとめに取り掛かった。

「チーフ。ご相談があるんです」
「ん? 珍しいな、お前が相談だなんて」
「お時間、取れますか?」

思い詰めたジェイの顔に、池沢は『今は……』という言葉を呑み込んだ。

「4階でいいか?」
「はい、どこでも」

 連れだってオフィスを出て行くのを花はじっと見ていた。

「どうした?」
「俺、面談の時に『外の風に晒された方がいい』と塩崎さんに言われました。俺にはそれが、『この会社から出て行け』と言われたように聞こえたんです。だから『それって左遷ですか?』と言いました」

 池沢は黙って聞いている。

「海外勤務はほとんど決まっている、そう言われた後でした。だからそれを壊してやろうとも思ったんです。過激な言葉を言えばお前なんか海外に行かせない。そういうことになるかもしれない。そこに、『出て行け』って言葉が重なりました。だから『左遷』という言葉を選んで使いました」

 夕方が近いから4階のラウンジは広々と感じるほど人がいない。静かな空間に小さくメロディが流れている。その中でジェイの告白が続いた。

「俺、騒ぎになるとは思っていました。でもそれは俺が今後の異動や昇進や、そんなものが取り上げられる程度のことだと思っていたんです。俺ならいくら罰を受けてもいい。でも課長には迷惑をかけたくない。さっき課長に言われました。他の事はいい。パワハラの問題もいいと。けれど『左遷』という言葉を使ったことにだけは謝罪をすべきだ。考えろって。甘ったれているとは思います。でも一人で考えてもちゃんとした結論に辿り着かない……」

「ジェローム、一つずつ問題を減らして行こう。迷惑をかけるつもりじゃ無かったと言ったな。それ、誰に迷惑をかけていると思ったんだ?」
「え? 課長に」
「そうか? 確かに失態は犯したかも知れない。よく考えずに感情のままに言葉を使った。そうだろう?」
「……はい」
「チーフも課長も似たようなもんだが、尻拭いするのは上にいる以上付いて回るもんだよ。もしお前がこの件で迷惑をかけたとしたら、面談に関係しなかった仲間に対してというのが筋じゃないか?」
「面談に関係しなかった仲間……?」

 そうだ。面談を受けた者は当事者だ。他にも自分のように不当なことを言われた者はいた。けれど面談に関わらなかった人たちは?

「分かるか? 課長は今、お前のためにだけ動いているわけじゃない。お前が発端で見えていなかったものが見えた。その解決のために頑張っているんだ。もう問題はお前の手を離れている。後は課長の仕事だ。俺たちに出来ることは課長の信頼を裏切らないことだ。これから戦う課長を独りにしないことだよ。俺たちの壁になってくれる課長を後ろからみんなで支えるんだ」

 自分にはまだ分かっていない部分がある。夕べ分かったのは、上司と部下の立場を生活の中の自分たちと混同してはいけないということだった。この公の場所では[河野課長]の前にいる部下の中の一人なのだと。

 みんなで支える。
(蓮のことなら俺は支えになれるかもしれない。でも河野課長には俺一人じゃ足りないんだ。みんなと一緒に頑張らなきゃならない)

「だからお前のやったことは迷惑と言うより、ポカだな」
「ポカ? そんな軽いもんじゃ」
「ああ、デカいポカだからな。でもそのお蔭で救われるものもいる。少なくとも、井上と澤田はお前が何も言わなかったらそのままにされてしまったかもしれない」

 自分の視野がいかに狭いか。蓮がどんなに大変な立場なのか。今回ほど思い知らされたことはない。


「ちょっとキツいことを言ってもいいか?」
「はい」
「俺な、お前のこと、大変だったと思っているよ。だから人一倍気にかかる。きっと課長もそうだろうし、チームのみんなもそうだ。けどな、大なり小なりみんな大変な思いを抱えている。お前のがデカすぎるだけでな。だからってそれを書いた看板背負って歩けるわけじゃないだろう? お前の事情をまったく知らないヤツの方が世の中には多いんだ。みんながお前の地雷を避けて通ってくれるわけじゃないんだよ。地雷を踏まれても自分が吹き飛んだり、人を吹き飛ばしたりしない強さが必要なんだ。お前、一生可哀想なヤツで過ごしたくないだろう?」

(可哀想な……ヤツ……)
抉るような言葉だ。けれど……痛いけれど、自分のために言ってくれている言葉だ。

 ジェイは勉強は出来る。難しいことも分かるし、仕事も出来る。けれど心の土壌が育たないままここまで来てしまった。自分で大人になるしかなかったのに、ならないまま来てしまった。初めて教えられることばかりだ。

「そして、『左遷』。これは俺が答えをやることじゃない。お前が納得するかどうかの問題だからな。けど手伝うことは出来るかもしれない。左遷と言うのは会社の中で個人が個人に対して出来ることじゃないよ。一人飛ばすのに、えらく手間がかかるもんなんだ。要するに下ごしらえが必要なのさ、手続きの嵐がな。塩崎一人が出来るこっちゃない。人事が具申して更にその上の人間が決定するしかないんだ。または上の人間がいきなり決める。ま、そっちの方が多いか」

 池沢の言っていることは分かる。左遷は簡単なもんじゃないのだということ。けれど、どうしてそれが「謝罪」となるのだろう?

「チーフ。すみません、俺、それは謝罪って問題からズレてるような気がするんですけど」
「そうか? さっきの『迷惑』ってのと同じだと思うんだけどな」

益々分からない。

「最初、誰に迷惑をかけてると思った? 課長一人にだったろ? それは違うって分かったか?」
「はい。分かりました」
「おんなじさ。お前、誰に謝罪するのか分かってるのか?」
「誰に?」

 その言葉を使った相手。つまり、塩崎に対してなのだとジェイは思っていた。だからこそ、必要を感じなかったのだから。

「後は考えてみろ。それで分からなかったらまた相談すればいい。俺にでも誰にでも」

 謝罪の相手。

(蓮、相手が分からない。誰に謝れって言ってるの?)

 答えが分からないまま退社時間になった。黙々と仕事をしている蓮を見る。今回のことがあったから、他の仕事が溜まっていてそれを片付けないと帰れない。

「お先に失礼します!」
「ああ、お疲れ!」

 そんな挨拶が飛び交う。けれどそれがなかなか口に出せない。どんどん人が減る中、ジェイは立つことも出来ず席にいた。消えたディスプレイを見つめている時に、ふと視線を感じた。

 課長席を見る。蓮が自分を見ていた。ほんの少し目が優しくなった。口元に笑みが浮かんだ。それだけで泣きたいほど嬉しかった。

「ジェローム、お疲れ。また明日な」

 そう言って蓮は書類に目を落とした。ジェイはやっと立ち上がることが出来た。

「お先に……失礼します!」
「ああ。気をつけて帰れ」

 顔を上げないまま蓮は答えた。
(みんなとは違う返事だった……)
蓮のメッセージだと思う。ジェロームにじゃない、ジェイという自分に。
(頑張るよ。俺、ちゃんと頑張る。頑張ってもらうんじゃなくて)

 自覚はないが、今ジェイは一つ大人になった。今までと違う世界が見え始めていた。

「ジェローム! こっち!」

 1階で花が待っていた。

「花さん!」
「おい、俺もいる」
「私もね」
「私も!」

 みんながいた。そこにはチームの4人の姿があった。

「今日はこれからみんなで騒ご! たまにはいいでしょ?」
「千枝さん……みんなも俺のこと、待っててくれたんですか?」
「当り前だろ? 今日はカラオケだ。パッと楽しもうぜ」
「カラオケ?」
「そ! あんた、行ったことないなんて言わないでよ」
「無いです」
「うっそー! ホントに?」
「はい」
「こりゃ、天然記念物だな」
「哲平さん、音痴だから歌わないでよ」
「何だと!? なら20曲以上歌ってやる!」
「げ、拷問」

 体が……震える。

「ジェローム……ばかね、泣くんじゃないの。みんなで乗り切ろ」
「お前さ、みんなから何て呼ばれてるか知ってるか?」

 泣きながら花を見た。

「マドンナ。その辺の女の子よりピュアだからってさ。初めてだよ、俺の周りでマドンナって呼ばれるのがいるの」
「マドンナって……ひどいよ」
「おい、泣くか怒るかどっちかにしろよ」

 わいわいがやがや。みんなで行った初めてのカラオケは楽しかった! 初めて人の前でマイクを持って震えるように歌う。

「すげ! 声、高け!!」
「裏声ってわけじゃないんだな……」

 初めて人の歌うのを目の前で聞いた。花も三途川も千枝も上手い。哲平が歌った。目を丸くしたジェイは思わず言った。

「これ、歌じゃない……」

みんなが涙を流して爆笑する中を、哲平は最後まで歌いきった。