J (ジェイ)の物語」

第二部
9.試練 -4

「奢るよ、アイスコーヒーでいいか?」

 ジェイが頷くのを見てチャリンと硬貨を落としていく。

 花はいまだに不思議な人だ。哲平とは言いたい放題になるが、あまり口を開かない。だが喋る時にははっきり物を言う。その形のいい唇から出てくる言葉はいつも辛辣で痛いところを的確に抉っていく。黙ってさえいれば首が隠れるほどの細く風になびく髪、体格的には細い体。白い肌。長い首。花という名前が似合うくらいに女性的できれいな顔立ち。
.

最終.jpg

 しかしその容姿を甘く見て絡んできた酔っ払いを投げ飛ばしたという実績がある。合気道は三段だ。

「ジェローム、来たんだろ、召集令状」
「どうして……」
「ああ、頼むから『どうして知ってるんだ』なんて聞くなよ。お前の顔見りゃ一発で分かるんだから」

 涙が溢れそうになるのを慌てて堪えた。

「やっとここに馴染んだんだもんな、人と上手くやっていくって俺たちには難しいのに無茶だよ。入社していくらも経ってないのに」

 花が優しい。こんなに話し込むのは初めてだ。

「行きたくないんだろう? お前、恋人出来たろ。入社した時とずい分違うからさ、きっとつき合ってる彼女が出来たんだなって思ってたんだ。どれ? 出張? 転勤?」
「……海外勤務」
「キツイなぁ! それじゃ彼女に会えないじゃん! 断っちゃえよ」
「断る?」
「そ! 俺、去年蹴ったよ。誰が行くか! ってさ」
「断れるんですか?」
「頑張ればね。断固として断んなきゃ無理だけど」

 花なら相当断固として声を荒げただろう。

「俺、頑張ります!」
「一応言っとくけど、チャンスではあるんだよ、経歴としては」
「いいです、そんなの。出張だって異動だってイヤなのに海外だなんて……」
「こう言っちゃなんだけど、ジェローム、ハーフだからさ。会社としちゃ行かせやすいんだと思うよ。言葉だって心配無いし」
「言葉? 英語ですか? 俺、だめですよ」
「え?」
「TOEICはたった780点だし発音全然自信無いし。知識としちゃ知ってるけど」
「お前、喋れないの?」
「はい」
「ウソだろ……」

 吹き出した花の笑いはだんだん大きくなっていった。

「笑い過ぎじゃないですか!? 花さん!」
「いや……ごめんごめん。だってさ、おっかしくって。まさかお前が英語苦手だなんて誰も思わないよ」
「だって……日本にいるんだからあんまり英語使わないし。外人に知り合いいないし」

その言葉にまた花は大笑いする。
「そうかそうか。『外人』な。俺、ますますお前が気に入っちゃった。な、考え過ぎるな。断っちゃえばいいんだ、そんなもん。だいたい対象になった全員が行くわけじゃないんだしさ。そんなことしたら業務が成り立たなくなる。多分ウチの部署からは多くて2、3人ってとこかな? だから気を楽に持てよ」

 少し楽になったような気がする。
(そうか、断っていいのか)
さっきまで息が詰まりそうだったのに今は深く息が吸える。

「ありがとうございます! なんだかホッとしました! 花さんって優しいですよね」
「は? 俺が? そんなこと、初めて……いや言われたの、二度目だ」
「最初のは彼女さんですか?」
「まぁね、そんなとこ。お前の彼女はどんな感じの人? 俺は3つ歳上なんだ」

 そんな質問が飛んでくるなんて思わなかった。

「え、あの、髪が黒くてストレートで……背が……高くて、優しい人……」
「良かった、お前一人っきりだったからさ、そういう相手が出来たって安心だよ。俺、まだ内緒だけど近い内に結婚するかもしれないんだ。結婚式呼ぶからさ、彼女同伴で来いよ」

 頷くしか出来ない。次から次へと降ってくる難題に頭がいっぱいだ。

「じゃ、戻るか」

 立ったところに三途川が階段を下りてきた。

「ジェイ、話があるの。花は?」
「俺、戻るとこ。じゃ、またな」

「花はあんたのこと、気に入ってんのね。『またな』なんて言うの、初めて聞いたわ」
「あの、三途川さんも俺の転勤のこと? 今花さんが断っちゃえって言ってくれて」
「なんだ、そうだったの? あんまり思い詰めた顔してるからと思ってたのよ。花は断るの得意だからね」

 三途川が笑う。釣られてジェイも笑った。確かにあっけらかんと当たり前のように『断る』という言葉が出た。

「私も断る気なの」
「え、三途川さんにもメール来たんですか? どこに?」
「人事部。冗談じゃないわ、今の仕事が楽しいって言うのに今さらそんなとこ行きたくないわよ」
「でも人事って出世なんでしょ?」
「人事課長にだって。出世かもしれないけど興味無いし。でも多分哲平は行くと思うわ」
「哲平さん!? どこに?」

 自分のことでいっぱいだったから、周りの様子など目に入らなかった。

「あの様子だと東南アジアかな。インド。あそこは業界ではトップクラスだし、向うの技術を身につけてきたら課長と互角になるかもしれないわね」
「あの、課長ってそんなに凄いんですか?」
「あんた、知らないの?」
「家で仕事の話とかしないから」
「課長らしいわね。じゃ実家のことも知らないってわけ?」
「弟さんと妹さんがいるっていうのは知ってます」
「そう……」

 三途川は迷った。課長が言わないことをジェイに教えていいものだろうか。でもどうせいずれは分かることだ。時計を見た。

「後5分だけ話しましょ。それ以上は休憩取り過ぎだから」

 どんな話なのか。蓮の実家のことなど聞いたことが無い。優しそうなあのお母さんの顔だけが浮かんでくる。

「『コーノソリューションズ株式会社』って知ってるでしょ?」
「はい」

 ソフトウェア開発で小さいながらも有名な企業だ。小さいのは同族経営だからだ。どうしてもその体制が大きな企業への成長を妨げている。ジェイは知らないが河野一族の資産は相当なものだ。

「あそこ、今の社長が課長のお父さんよ」

 驚きで声も出ない。

「物心ついた頃からそういう環境にいたからね、他の人とは比べものにならないのよ。でも課長は御曹司だという目で見られたくないから人一倍仕事を頑張ってるの」

 だから大滝部長は蓮を大切にしてる?

「これを言ったのはね、変な噂で知ってほしくないから。いろいろ言う人がいるの。今の地位をどうやって手に入れたんだとか、部長に特別扱いされてるだろうとか。みんな勘違いしてるわ、部長は実力主義なのに」

 心を見透かされたような気がした。自分も大滝部長は蓮を特別扱いしていると思い込んでいた。

「じゃ、蓮は……」

 あ! という顔をしたがもう遅い。つい言ってしまった名前。

「いえ、あの、課長はあの……」

 三途川が笑いを堪えるようにジェイから目を逸らした。

「あんた、会社でそんな風に呼ばないでよ。私でさえヤキモチ焼いちゃう。大騒ぎになるわよ」

 顔を上げられなくなってしまったジェイの肩を叩いた。

「ほら、しっかりする! いちいちそんな反応しない。もう気をつけるわね? 私の前でも言わないこと」

 小さく頷いたけれど自分の迂闊さに腹が立つ。

「で? さっき聞こうとしたのは何?」
「えと、課長は家に戻って後を継ぐんですか?」
「さぁね、そこまでは知らないけど、課長はそれがイヤで家を出たんだって聞いたわ。自分の実力でやっていきたいってね」

 強情な蓮のことだ。充分納得できる。ならこのままの生活は続けられるんだろうか。けれどそれも、まず海外勤務の話をなんとかしなければ考えても仕方の無いことだ。

「じゃ、行こか。これ以上サボると怒られちゃう。あんた課長に対する態度、変わんないわよね? それ信じて話したんだから。これで変わるなら課長に対する裏切りとおんなじよ。分かった?」

 その日はあれこれと考えることが多過ぎて、結局仕事が手につかなかった。スッキリした顔で仕事をしているところを見ると、哲平はもう心を決めたのだろう。ジェイも断ると決めてはいるが、それでも不安な気持ちがずっしりと心の中にあった。

 定時上がりでデスクを片づけている時にメールが来た。

『今日は遅くなる。先に帰って寝ててくれ』
(そんなに遅くなるの?)
『帰りは? タクシー使ってくれる?』
『そうするよ。だから大丈夫だ。飯も食うから心配しなくていい』

立ち上がってちらっと蓮を見た。ちょうど鳴った電話を取ってメモしている。忙しそうな蓮をあまり見ないようにしながらジェイはオフィスを出た。

 蓮は玄関をそっと開けた。もう1時だ。あの後会議が8時過ぎまで続いて、さらに部長や他の課長たちと食事になった。転勤や異動の話。それぞれの部署の様子。4月に常務になる大滝部長はあれこれ聞きたがったが、さすがに皆、疲れた顔だった。

 シャワーを浴びて静かに寝室に入った。途端に吹き出しそうになって慌てて口を抑えた。ジェイが蓮の枕を抱きしめたまま眠っている。それを見ていっぺんに疲れが取れた。ベッドの端に座ってじっとその姿を見つめた。頬にキスをし、唇を重ねる。起こす気は無い。ただ愛しい。

「枕無しで寝ろってことか? お前、欲張りだぞ」

 くすっと笑ってジェイに腕を回してすんなりと眠った。

 二人は互いに話を避けていた。蓮はどう声をかけていいか分からない。ジェイは聞いたら蓮が困るだろうと思っている。立場が邪魔になる、思いやりが邪魔になる。

 そうこうしている内にみんなの面談が始まった。歴の浅いジェイはこの部署では最後だ。

 三途川は機嫌の悪い顔で帰って来た。池沢でさえ聞くのを躊躇った。その様子を見て蓮が三途川を呼んだ。

「三途、どうだった?」
「どうもこうも! あのボンクラたち日本語が通じないんだから! 二言目には『まあ、そう言わないで』って、じゃどう言えってのよ!」
「おいおい、落ち着け。つまり断ったんだな?」
「私はね。でもあの連中がどう思うんだか。課長! 私、行きませんからね! なんて言われたと思います? 『開発じゃ若いのが欲しいだろうから』 ふざけんなっつうの!!」

(こりゃだめだ)

オフィスにいたみんなが同時に思ったことだ。結論が出るまでこの荒れ方が続くだろう。

「人事もバカなこと言ったな。三途さん、もうひと暴れしそうだな」
「哲平さん、次の次でしょう?」
「ああ、もう行くよ」

 落ち着いた顔だった。三途川が言っていた通り、心は決まっているのだろう。
(哲平さんがいなくなってしまう……)

 最初に揉めたのが哲平だった。そしてわだかまりなく受け入れてくれた。風邪の時にメールをくれた。何かあれば声をかけてくれた…… 現実味を帯びてくるとひどく物悲しくてやるせない。ただ、あの時の自分とは違っていた。

[失うことが分かってる仲間意識とか友情とかより、もっとビジネスライクにいった方が気持ちが楽です]

(違う。大切にしたい、いなくなっても。そしてきっとまた会えるんだ。帰って来た時に元気な顔を見せるんだ。たくさん話をする、いなかった間のことを。そして聞くんだ、どうしてたのか)


 哲平はすっきりした顔で面談から帰って来た。入るなり大きな声で言った。

「インドー! 一発で決めてきた!!」

 ジェイは花が一瞬寂しい顔をしたのを見た。
(そうだ、俺より花さんが寂しいんだ)
ずっと二人は掛け合い漫才のように毎日を笑いで彩ってくれた。
『花が柔らかくなったのは哲平のお蔭かもね』
三途がそう言っていたのを思い出す。

「花! 寂しいか!?」
「はぁ? 何言ってんの? やっと静かになるって喜んでますよ。向うでカレー食いまくって腹壊したってメール待ってますから」
「お前、可愛くないなぁ。名前負けしてるよ」
「余計なお世話!」

 こんなやり取りも今年いっぱいだ。


 海外勤務は1~2月いっぱい研修を受けるのだと聞いた。場所はここではなく、横浜の支社でだ。ある程度の専門的会話が出来るように叩き込まれ、現地のことを頭に入れる。とても2ヶ月で出来る内容じゃない。つまり、休日も全部勉強で潰れるだろうということだ。3月になるまで会えないかもしれない。

「哲平さん、彼女いなくて良かったですね。なんなら向うで結婚して落ち着く?」
「その減らず口覚えてろよ。帰ってきてからぶっ飛ばす!」

 その後哲平は蓮に呼ばれた。笑い声がする。蓮の心配する声が聞こえる。

「まだ年内はいるんすから、そんな最後みたいなこと言わないでくださいよー」

 相変わらずの明るい声が哀しかった。

 その日は4人。次の日が5人。そして23日が2人。10時からが井上陽子。10時半からがジェイ。

「ジェ」「れん」

 同時に互いの名を呼んだ。23日朝。

 夕べは二人とも寝付けず、そうかと言って話す言葉が見つからなかった。
(俺もだらしないな)
蓮はこんな自分を初めて知った。互いにただ寄り添って横になってるだけ。

(なんか話したらダメになりそうで怖い)
ジェイもそんなことを考えていた。頑張って意地を張っている、何でもないことだと。
(断っちゃえばいいんだ)
そう思っても蓮に何か言われたら自分が崩れそうで怖い。

 そして朝、どちらからともなく名を呼び合った。蓮がふっと笑った。

「来い、ジェイ」

 言われるままに蓮の前に立った。蓮はジェイを抱きしめた。

「会社では俺は上司だ。けど今は違う。ジェイ、今日は多分遅くなるんだ。けど待っててくれるか? 一緒に帰りたい」

 しがみつくように抱きついた。ただ頷くだけ。結果も出てないのだからまだ泣く必要もなければ縋りつく必要も無い。けれど『別れ』というものが、恐ろしかった。

「さ、俺は出かける。気をつけて来いよ」
「うん、分かった。蓮も気をつけて」
「ああ、気をつけるよ」

 背中を見送った。今日はただの面談なんだ。そう自分にもう一度言いきかせた。戸締りを確認して鍵をかけた。

「大丈夫だよ、そんな死にそうな顔するなよ」

 花の声にハッとする。ぼーっとしていたらしい。10時10分。顔を上げるとみんなが気遣ってくれているのが分かった。

「済みません、仕事中なのに」
「気にすんなって。でもお前がインドだったら俺は嬉しいんだけどなぁ」
「インド、哲平さんだけで充分ですよ」

 また二人の言い合いが始まる。三途川が寄ってきた。

「いい? 落ち着いて話してきなさいね。まだ半年のあんたにはキツい面談だけどここに来た時のあのケンカ腰を思い出しなさい。戦っておいで」
「はい。でも……いいんですか? あの時のあんな感じで……」
「いいのよ。相手はやり手だからね、思ったことを言っておかないと後悔するわよ」

「ジェロームさ、ここがいいんだろ? だったら負けるな」
「そうだよ。お前には俺の後釜になって花の相手してもらわなきゃなんないからな」


 頑張ろう。そう思う。10時20分。704会議室に向かった。