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九十九と八九百と十八

12. 破壊力

 静かに鍵を開けてそっと家の中に入った。自分の家なのにまるでコソ泥になった気分。
(十八を起こしたくないだけだ、泣かれたらうるさいから)
誰に言い訳してんだか分からない。

 部屋に行かずそのままバスルームへ。いつもそうだ。煙草の匂いがまとわりつくからさっさと服を脱いで体を洗いたい。だからいつもシャワーで済ませる。バスタブに湯を張るのが待てない。でも今日は違った。
(用意してある!)
これはサプライズだ! もうこれだけで幸せな気分。急いで頭と体を洗ってバスタブに飛び込んだ。
「ふあぁぁぁ…… いい気分……」
目を閉じて肩までゆっくり浸かる。なんなんだ、これ。妻がいるような……
(誰が妻?)
湯のせいだ、ほわんと顔が赤くなったのは。

 出るのがもったいないような気がしながら立ち上がった。これ以上は沈む。幸せに包まれて逝っちまうのはこの上ない幸福なんだろうけど、『その幸せ=湯』っていう構図はちょっと寂しい。もっとこう、抱いてくれるのは湯じゃなくて、抱き心地のいい肉体で、互いに乱れ合いながら縺れ合いながらしとどに濡れながら……
 欲求不満なのか? 最近は妄想が激しい。反省して、起き上がりかけたジュニアを叱りつけた。不毛な妄想でイくなんてお手軽じゃないんだ、俺は。

 充分すぎるほど暖まったからパンツ姿で廊下に出た。そのまま自分の部屋に入って電気のスイッチを入れる。喉が渇いた、ビールあるよな、そう思いながら明かりのついた部屋に目を向けて……

 手に持っていたものを全部取り落として俺の口がだらしなく開くのを感じたけど俺は機能停止状態。しばらく呆然自失としてやっと我を取り戻す。いや、完全に取り戻しちゃいないんだが。

「やくも、おまえどうしてここに……」
声が上ずるのはしょうがない、ちゃんとした言葉になっているだけマシだ。

 八九百は昨日貸した浴衣を着て横向きに眠っていた。エアコンがついているからそれほど寒くはないが、掛け布団の上で曲がった膝のちょっと上まで浴衣がはだけている。
(わざとか? わざとなのか、やくも)
 そんなわけ無いのは知っている。八九百にその気が無いのは一目瞭然だったから。俺の妄想は常に一方通行だ。
 なのに眼下に寝転がっている八九百は無防備に白くすべすべの腿を晒して微笑んで寝てる…… 俺が襲わないのは奇跡だと思う。こんなに我慢したのは人生初かもしれない。ごくっと唾を飲んでまっすぐ冷蔵庫に行きビールじゃなくてミネラルウォーターを手にした。一気にそれを飲み干す。八九百に背を向けたまま深呼吸。
(よし。向かい合う覚悟はできた)
八九百を起こすために、振り向いた。

「うわあああああ!」

 ちょこんと座っている八九百を見て飛び退いた。まるでずっと起きてたみたいな顔…… え、じゃ、さっきの俺の怪しい表情の変化も見てた……?

「お帰んなさい、九十九! ごめんね、寝ちゃった」
ちょっと長い髪を掻きながら照れたような顔になる。
(も、だめ)
思った時には膝を突いて八九百を抱き締めていた。その耳元で言う。
「寝てろって……言ったろ?」
「寝たんだよ、一度。でも2時頃起きちゃった。だからお風呂の用意したんだ、すぐ入れるようにって。勝手に九十九の部屋に入ってごめん。お布団敷いて『お帰り』って言おうと思ってたのに寝ちゃったみたい。ごめん」

 大きく深呼吸をして八九百を離した。
(偉いぞ、俺!)
「そうか、頑張ってくれたんだな。ありがとう! 風呂、めちゃめちゃ嬉しかった!」
すっごく嬉しそうな八九百のぶんぶん振り回す大きなしっぽが見えそうだ。
「疲れが一気に取れたよ。でも今日だけでいいからな。毎日こんなことするな。ちゃんと普通の生活のリズムつけとかないと記憶が戻ってから困るぞ」
途端にしょげた顔になる。
「どうした?」
「この生活、僕は好きだ…… 思い出せないのは凄く不安だし怖いけど、それとは別に九十九と一緒にいると安心するんだ」

 俺が連想したのは、生まれたばかりの鴨。卵から生まれて最初に見たものを母親と間違える、あのプリンティングというヤツ。記憶を喪失して初めて見たのが俺だ。ってことは……
「まるでお母さんのそばにいるみたいで。変なこと言ってるよね。でも本当にそんな感じなんだ。それに九十九は僕を助けてくれてからずっと面倒見てくれてるでしょ? 服買ってくれたり病気の看病してくれたり。九十九の匂い嗅ぐと本当に安心しちゃって。だから布団の上で気持ち良く眠っちゃった。お願い、九十九。僕は何も出来ないから九十九のお世話だけでもさせて」

 恋愛より質が悪い。分かってんのか? お前。今お前は俺を生殺しの刑にしたんだぞ。そこまでの信頼を寄せられてどうして襲いかかれるだろう……

「分かったよ、いい子だ、お前は」
またしっぽが揺れ始めるのを感じた。
「よしよし、よくやった。いいよ、無理のない範囲なら。十八はどうしてる?」
「最後に見た時は良く寝てた」
「じゃ見て来なくちゃな」
「僕が見てくるから! 早く何か着なよ、風邪引くよ」
八九百が出て行ってから急いでTシャツとパジャマ用にしてる薄くて緩いズボンを履いた。パジャマじゃないんだが、いつもこの組み合わせで寝ている。あちこち擦り切れてるけどこれが一番楽でいいんだ。

 すぐに八九百は戻って来た。
「寝てた! あの子は手がかからないね」
「そうだな、パパに似てお利口さんだ」
照れて笑う顔は破壊力抜群で。俺はチョコとピーナッツをもう食べないと自分に誓った。八九百を見てるだけでいつでも鼻血が出せる。


「九十九の仕事してるとこ、見たいな」
「だめ、十八がいるから」
「どうして?」
「バーのカウンターを任されてるんだ、赤ちゃんはマジ困る」
「そうかぁ…… 僕も何か仕事したいって思ったんだけど」
「だめ」
「それも十八がいるから?」
「それもある。でも俺のいないところで何か起きても助けられないからな」
抜き打ちのハグ。俺は脳震盪を起こしそうだ。最後にヤったのはいつだったか? 前のヤツと別れてからとんとご無沙汰だ。そう、約2年近く。明日はマスターに『襲わなかったぞ!』って報告しよう!

 八九百の背中をぽんぽんと叩いた。
「そうだ、マスターに弁護士紹介された。調査依頼することも出来るし、昨日教えた就籍ってヤツの手続きも助けてもらえる。どうする?」
「……今日は考えたくない。九十九も寝ないといけないでしょ?」
するっと体が離れた。怖気づいてるのか? あまり嬉しそうな顔をしていない。
「そうだな、時間も遅いし。俺、明日寝坊していいか? いつも 10時頃起きるんだよ」
「分かった、ゆっくり寝てよ」
立ち上がった八九百を見て、(なんで我慢しちゃったんだろう……)と心で泣いた。
「おやすみなさい。十八のことは大丈夫だからね」
「ん。お休み」


 眠れない。ほどよく疲れてるし湯舟に入って寛いだのに眠れない。チラつくんだ、浴衣がはだけて横を向いて寝ている姿が。
(だめ。『あれ』は対象外。お子さまと変わらねぇ。だめ!)
 俺の中のルールだ。遊べる相手じゃなきゃだめ。『遊ぶ』ってことを知ってるヤツじゃないと。俺が好きなのは駆け引きってヤツだ。互いに上っ面だけを見せ合って、さも本物みたいに張りぼての愛を感じさせ合う。そういうのが楽で心地いいんだ。
 起き上がってビールを飲んだ。そして布団を被って目を閉じた。


「おはよう!」
 朝っぱらから……昼間っから八九百は元気がいい。十八も元気がいいようだ。きゃっきゃと笑う声がする。
「おはよ……ふわぁ」
 大きな伸びと大きな欠伸で満足感を得る。この家では死語だった『おはよう』が復活している状況に俺は早くも馴染んでいる。本当はこういうのは危険なのに。
(一人になったら健康的に男、漁りに行こう!)
一応そんな心の逃げ場を作っておく。避難場所って言うのは天災だけじゃない、こういうのにも必要なんだ。
「ご飯出来てるよ。食べる?」
「いや、すぐに食べるの無理。コーヒーだけ頼んでいいか?」
「はい!」
 年が幾つなのか。一瞬聞きそうになって口を閉じた。それは可哀そうだ。思い出しもしないものをあれこれ聞いたってしょうがないんだ。
「十八はなんで笑ってるんだ?」
「テレビだよ。幼児番組見て笑ってる」
「分かんのか?」
「楽しいって言うのは分かってるみたいだよ。砂糖は?」
「要らない、そのままでいい」
持ってきてくれたカップからがぶ飲み。
「熱いよ!」
「大丈夫。でもこの味は……粉、持ってきてくれよ」
家ではいつもインスタントコーヒー。経済的だし面倒がないし。持ってきてくれた瓶のふたを開けて適当にカップに降り注いだ。
「濃いよ!」
「平気。薄いの、飲んだ気がしない」
バカみたいに濃いコーヒーを飲む。カフェのブレンドの倍っくらい濃いヤツ。ならエスプレッソ飲めよって言うだろうけどそれはめんどくさい。

「今日は何しようか」
買い物は済んでる。この状況の打破は八九百本人がストップかけてるから保留中。となると、思いつくのはザッピングとサーフィンくらい。
「今日はのんびりしようよ」
「ニュースくらいは見とかないと」
 反対の声は出なかったからパソコンを開いた。まずはトップ画面にしてるニュースを眺める。俺がいきなりけたたましく笑ったから八九百が驚いてそばにきた。
「どうしたの!?」
「これ……」

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「ぶはっ……ぎゃははは!」

二人で引っ繰り返って笑い転げる。

「な、なに、これ」

「い、いぬの、えがおだって、うくくくっ」

もう笑いが止まらない。こいつの笑顔にも破壊力がある! これだけで俺たちは3分は笑った。

「な、たまにはニュースもいいだろ? 俺がいない時も見ろよ。何か思い出すきっかけになるものがあるかもしれないぞ」

残ったコーヒーを全部飲んだ。もう冷えてるが笑い過ぎたからちょうどいい。

 心細そうな顔に変わった八九百に、続けて話す。

「でもな、そういう時は必ず連絡しろよ。気持ちが不安定なまま一人でいるな。十八を抱っこして俺が帰るのを待つんだぞ」

「うん!」

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