宗田花 小説の世界
九十九と八九百と十八
6. 振り回されて
起きたら10時半。今日はバイトしか予定がない…… もうちょっと寝てもいいかも……………… (十八!)
飛び起きて隣の部屋に行った。いない、もぬけの殻。いや、布団が乱れて脱ぎっ放しの八九百の服。タンスの下から2番目が開いているから多分着替えたんだろう。スーパーの袋には明らかに何枚ものシーツの切れ端。縛ってもいないからほのかに匂っている残り香。
(俺、ひょっとしたら特大級のバカ?)
仏壇の通帳、実印、カード、仏壇預金を慌てて確認。タンス預金? それって泥棒が来たら真っ先に調べる定番の『お持ち帰りください』場所でしょ?
あった。全部。荒らされているのは寝床だけ。
(記憶が戻って帰ったのか)
厄介ごとが減ったような、ちょっとあのミルクっぽい十八の匂い(あそこに開きっ放しのウンチの匂いじゃない!)が懐かしいような。
ついでに唇に残ったおでこの感触……
何はともあれ、無事に父子が帰ったのならそれでいい。元の穏やかで荒んだ生活に戻るだけだ。
「日本語、覚え直そ!」
嬉しいことに天気がいい。布団を干して、スーパーの袋は二重にしてきっちり縛り、ゴミ出しは明日だからと考えてもう 1 枚袋を被せた。
味噌汁を作って、そこで面倒になり納豆だけ出す。そこで十八のもう一個の残り香を思い出して急いで納豆をしまった。ちょっと嫌だ。しょうがないから振りかけ。ジャーを開けたらそのままだったマグカップが、中がカピカピのまま入っている……
「十八……ちゃんとしたミルク飲んでるか?」
「いえ、まだ」
「飲ませてもらえよ……ん?」
振り返って引っ繰り返るかと思った!
「八九百! いるのかよ!」
「いますけど。十八がぐずりだしたのでいいお天気だから散歩して来ました。九十九さん、ぐっすり寝てたから」
嬉しくない。絶対に嬉しくないから。違うから、頬が緩んでるのは十八が可愛いからだ。
八九百と一緒に目玉焼きを作って急いで朝食を済ませた。買い物に行かなきゃならない、ミルクにオムツに着替え。
出かける前にまたネットを見て必要なものをメモった。
「九十九さん! あそこですよ!」
十八を抱いておむつコーナーを指差す八九百の頬がほんのりと赤い……
いや、冗談じゃない、八九百の野郎、風邪引きやがった! 十八に移しちゃ困るんだけどこれはどうにもなんない。だから俺はカートを押してほとんど走ってる。二人を病院に連れてかなきゃならない。
車の中で「九十九さん、寒い」と言う八九百は青い顔でガタガタと震えていた。それで割引率のいいちょっと離れたスーパーを諦め、定額で売ってる近い店に飛び込んだんだ。
真っ先に体温計だけ買って八九百の熱を測ると38.5℃だった。
「九十九さん、あっち!」
買い物メモを持ってるのは八九百。それを見ながら上にぶら下がってる商品名から探して場所を教えろって言ったんだが、嫌がらせか? と思うほどにばらばらに指が行き来する。
はあはあ、と息を切らせて八九百のところに戻った。
「あと、何買えば、いいんだよ」
「えっと、ベビー服と哺乳瓶と帽子とよだれかけとミルク缶と」
「必要なもの、順番に書いただろ! どうしてバラバラに読むんだよ! ここは衣類は売ってないの、だからミルクと哺乳…… 八九百、ひょっとしたら熱、上がった?」
「分かんないけど、とにかく暑くて」
急いで階段脇の椅子に連れて行く。カートを前に置いて十八を抱いて体温計を渡した。
「測ってみろ」
「はい」
なんとなく息が上がっているような。
ぴぴぴ と可愛い音が鳴って八九百が体温計を取り出した。すぐに取り上げて熱を見ると、39.4℃。
「ここで待ってろ、すぐに買い物終わらせるから!」
ダッシュでミルクと哺乳瓶を掴んで清算した。お会計は2万近かった。
車の後部席に放り込むように荷物を入れる。ふらふらしてる八九百を助手席に座らせて病院に向かった。
「……四月一日……八九百さん」
戸惑うようなナースの声に(ふりがな、してんの読みゃいいじゃん!)と心でぶつくさ言った。俺もよくそういう呼ばれ方をされる。しまいには笑われたりあれこれ名前の由来を聞かれたり。面倒だからたいがい『知らない』と答えるが。
保険証が無いということがどういう事態を招くのか、俺は初めて知った。
「全部実費扱いになります」
「実費?」
「全額負担っていうことです。後で保険証を持ってきて頂ければ返金しますから」
知らなんだ、普段払ってるのは 3 割なんだって。だって、俺は病院にかかったことねぇもん。一人になってから病気をしてない。十八も一応診ておいてほしい。そうなると二人とも全額負担だって言われた。それが一体いくらになるんだか……
ああ、そうだ、呼ばれたんだった。俺は十八を抱っこして八九百についていった。
(ついでに記憶喪失も診てもらうか?)
そう思ったけど、それも実費になるのかと思うと金額の見当がつかなくて恐ろしい。
「風邪です。2、3日栄養のある物を食べて、安静にしていてください」
「風邪だけですね?」
「そうですよ。何か?」
パッと見には風邪しか異常が無いってことだ。
八九百が終わったんで小児科に回った。
(すんげぇ混んでる!)
日本の赤ちゃんはみんな体が弱いんだろうか。どの子も赤い顔してるか泣いてるかぐったりしてるか。
十八は機嫌よく俺のほっぺたを触ってくる。口に突っ込んだ指をそのままつけるから俺のほっぺたはもうベトベトだ。最初はいちいち拭いてたけど無駄だと分かったから放ってある。
「俺のほっぺた、好きにしろよ。でも覚えてろよ、大きくなったらその顔舐め回してやるからな!」
「九十九さん、大人気ないです」
「病人は黙ってろ。そうだ、十八をちょっと抱いてて」
壁側の棚にいろんなパンフレットが置いてある。小児科だから役に立ちそうなものばかり。それをほとんど取って、ついでに横に置いてあるマスクを3つ持って椅子に戻った。
「ほら、マスク」
抱き抱えた十八にもマスクをしようとしたら反抗的な態度。無理やりマスクを装着したらデカい声で泣き出した。
「お父さん、赤ちゃんにマスクは無理ですよ」
そばの椅子に座っている若いお母さんが優しく教えてくれた。俺はこういう人とのコミュニケーションに慣れていない。もごもごと礼を言う。すると八九百が隣から病人の弱々しい声で自然に返事をした。
「ありがとうございます。小児科とか慣れてなくて」
「大変ですね、お母さんは?」
「家で寝込んでて」
(こいつ、嘘つきやがった! 平気で言えんのか? お前!)
でも八九百の顔は優しく笑っている。
(……嘘ついてもきれいだ、こいつ)
「まあ!」
お母さんが俺に気の毒そうな顔をする。
「赤ちゃんも風邪なんですか?」
「いや、分かんなくて」
「今、流行ってますからね。気をつけてくださいね」
(もう話しかけんの、やめて!)
「木村あやちゃん」
名前を呼ぶナースに手を上げてお母さんは立って行った。振り向いてお辞儀をされて急いでこっちもお辞儀をする。普段しない作業ばかり。俺も熱が出そうな気がする……
「大丈夫ですよ、健康そのもの! 安心してください。ただ周りに風邪引いている人がいるともらっちゃうかもしれませんからね。気をつけてください」
当たり前のことを有難そうに聞いている自分がアホに見える。笑顔を作るのも疲れるし。そこにまた八九百の笑顔。
「ありがとうございます、気をつけます」
実費分の働きをするつもりなのか、高熱なのに頑張っている。
会計で打ちのめされた。
「2万2千円です」
「……すみません、ちょっとコンビニ行って来ます」
十八を抱いてる八九百が心細そうにこっちを見てるから手を振って、俺は外のコンビニに走って行った。手元にあるのは 1 万3千円だ。ATMで5万下ろす。この後、ベビー服も買わなきゃなんない。
駆け戻って会計にもう一度行った。
「あの、もしかして下ろしに行ったんですか?」
「はい、手元に、あるのじゃ、足りなかったんで」
はあはあ。
「すみません、気づかないで。そこの壁のところにATM設置してるんですよ。今度からそこをご利用くださいね」
返事したくない。けどここは八九百を見倣った。
「ありがとうございます」
「九十九さん」
「いいよ、『つくも』って呼んで。さん、要らないから」
「ありがとう、九十九。今日は本当に迷惑かけちゃって」
(全くだよ!)
と言いたかったけどやめた。あんなカッコで外にいたんだから風邪引いてもおかしくない。肺炎とかならないで良かった。俺が拾っといて良かった。
「いいよ、悪いけどベビー服買うのだけ付き合って」
「はい。お役に立ちたいから。十八を預かってますから行ってください」
「さんきゅ、悪いね…………って、パパはお前だろ! なんで俺がお前に礼言うんだよ!」
「すみません!」
俺たちの関係、どうもゴタゴタしてると思う。どっかで軌道修正したいが、二人を預かるのは3日間。つまり、明日までだ。
(辛抱、辛抱)
どっかに感じる矛盾した自分の気持ちを無視して、『我慢してやってるんだ』というポーズを取った。
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