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Fel & Rikcy 第1部

13.憎み合う 思い合う

「おかえ…… どうしたの! 今度は何! あなたって子は……どれだけ母さんを心配させれば……」
「母さん、そんなに叩かないで……的確にケガの上叩いてるよ」

17の頃を思い出す。あの時も母さんはこんな風にケガして帰った僕を叩いてた。


「すみません、俺がついてながらホントにすみません……」

母さんはリッキーの胸にすがって泣いている。

「あの……」
「あなたなんか、知らない!! どんなに……どんなに……」

そう言うと わあわあ とリッキーの胸を濡らす。

 見た目、僕は今酷いことになっている。口元は切れて腫れてるし、頬は黒ずんでいて自分で言うのもなんだけど痛々しい。腕は三角巾で吊っていて、リッキーの肩を借りて玄関を入る有り様。母さんがびっくりするのも無理はないんだ。

 目の前の抱き合う二人を見て思う。いつの間にこの2人はこんなに仲良くなったんだろう…… 思い返して、ああ、病院だ と納得した。入院してる間、リッキーと母さんとシェリーが看病していてくれた。思い出してみれば母さんをこうやって抱きしめていたんだ、リッキーは。

 

「本当にごめん」

少し落ち着いたらしい母さんは僕の肩を撫でた。

「ごめんなさい、母さん悪かったわ。座んなさい、あなた、まだよくなってないんだから。あ、待ってて」

部屋を出るとすぐ戻ってきた。手には羽根枕が2つある。ソファにそれを重ねて一緒に持って来た薄手のブランケットを渡して来た。

「横になりなさい」

有無を言わせぬ断固とした声に、大丈夫 という言葉を飲みこんだ。この声の時に逆らっちゃいけない、答えなんか要求してないんだから。

 大人しく横になるとリッキーがそばに来て頭を撫でてくれた。

「みんなして子ども扱いするなよ!」

母さんとリッキーが目を合わせて ふっ と笑った。

「なんか、いやな感じ」
「何が?」
「リッキー、いつの間に母さんとそんなになったんだよ」

分かっていても聞かずにいられない。

「何言ってんの! あなた、リッキーのお蔭で退院出来たのよ。自宅療養の方が治りが早いからって、病院を説得してあなたをリッキーが引き取ってくれたの。あなたが病院を嫌がったから」

それは知らなかった。リッキーを見上げると困ったように母さんを見た。

「あなたね、リッキー リッキーって大変だったのよ。リッキーと帰るんだって」

ちょっとそれはさすがに恥ずかしい…… 家族の前で恋人の名前を連呼してたなんて。

「夕食、どうしよう。何かリゾットみたいなものを作りましょうか」
「母さん、僕はもう普通に食べられるよ」

母さんの顔が固まった。

「ごめんなさい、ちょっと二人にしてもらえる?」
リッキーはこくっと頷いた。
「荷物、片づけて来ます」

もう自分のものだと言われた部屋に僕の荷物も持って向かった。母さんが椅子を引き寄せて僕の手を握りしめた。

 

「辛かったわね……」

 母さんの涙は魔法の雫だった。リッキーの名前と同じように。いつの間にか濡れている自分の頬。

(そうか  僕は泣いてなかった……)

リッキーにしがみつきはしたけど泣きはしなかった。あの時…… 最初にリッキーが真実を言った時、泣いていいんだと言ってくれた。多分それは必要なことだったんだ。今はそのことが分かる。

 それを見て母さんが僕を抱きしめてくれた。小さな体の母さんが。

「ごめんね、私があなたに言わなきゃならなかったのに、リッキーに言わせてしまった…… きっとあの子も辛かったと思う。よくそれを受け止めてくれたわね」
「母さん……」

これは僕の声? 久しぶりだ、こんなしゃくりあげる様な声……

「僕は受け止められるかどうか、まだ分からないんだ……まだ思い出せば吐き気がするし目眩がする…… すっかりだらしなくなったよ」

「大変なことだから」
「母さんも……辛かったね。ホントに辛い思いしたんだね。分かってなかったよ、ごめん」

声を上げて泣いたのは母さんの方だった。リッキーが部屋の隅にそっと入って来た。

「私もね、泣きたかったの。でも泣く相手がいなかった」

リッキーが後ろに来て母さんの背中を抱いた。僕は前から抱いた。


「泣けたのか…… 良かった。良かったな、フェル」

僕の涙の痕をリッキーの指がなぞった。目を閉じてそれを感じる。そのまま僕の口から自然に言葉が出た。

「愛してる。リッキー、愛してる」

 


「痛み、無いと思っていいのかしら?」
「まだあるんです、ジーナ。ただフェルはファントムペインだって理解してくれた。だから少しずつ良くなっていくと思います」
「リッキー……フェルに全部話してくれてありがとう」

母さんは彼の手を握って自分の額に当てた。
「ありがとう ありがとう……ありがとう……」
リッキーの手に涙が零れていった。それを見て、後は自分が頑張るだけなんだと知った。

「ジェフは?」

 僕は今下着だけの姿にされている。蹴られた痕や顔の傷を手当てされているんだ。何せ最後は顔面にも蹴りを喰らった。今はすっかり腫れあがっていて、母さんはやっぱりリゾットにすると言ってくれた。

「今日は会社に行ってるわ。今夜戻るってさっき電話があったの」

そこで母さんが言い淀んだ。

「どうしたの?」
「アルが一緒に帰るって…… ね、グランパの持ってる離れに行ったらどうかって思うのよ。そうしない? 食事なら運んであげるわ。ビリーもいるし」

 離れって言ったってさほど離れたところじゃないし、たいした物じゃない。釣り道具やらキャンプ用品やら、普段使わないものを突っ込んでる。倉庫と言った方が似合ってるような建物だ。

 ただ……寝室は2階に2つ。そして、1つはグランパとグランマの古き良き時代の思い出の品で塞がっている。つまり、僕らには寝室は1つしかないってことだ。


「母さん、離れの2階は……」

「いいの。私はもうとやかく言うつもり無い。多分ジェフも。今回のことであなたたちを良く見たわ。リッキーは本当にフェルのことを心から思ってくれてる。そしてフェルはリッキーを信じ切ってる。病院でもさっきのことでも、あなたたちが一緒にいるべきなんだってことが分かったわ。まだ若くて本当は先のことが見えて無いんじゃないかとも思ってた、けどそうじゃないわね。リッキー、こっちにいらっしゃい」

立ち上がった母さんの前にリッキーが立った。

「フェルをお願い。頼んだわね。よろしくお願いします」
母さんはリッキーを抱きしめると背中を叩いた。
「お願いね、フェルを。無茶な子だから大変だと思う。お願いね」

その言葉にリッキーが目を閉じた。声が震えた。
「はい……はい、ジーナ」
抱き返すその手に安心する母さんの顔がそこにあった。

 

 

 しばらく僕は考えていた。

「どうした? 何考えてんだ?」

「うん……母さん。離れには行かないよ」

「え、どうして? アルが……帰ってくるのよ?」

母さんはアルと僕の間にある確執を知らない。けど、こんな時に一緒にいていい相手じゃないとは思ってる。

「だって一生会わないってわけにもいかないし。延ばしたってしょうがないよ」
リッキーは頷いてくれた。

「でも、今わざわざ辛い思いを増やさなくても……」
「いいんだ、構わない。アルとははっきりさせておきたい。言われることも覚悟してる。でも今夜ケリをつけてしまいたいんだ」

「俺も一緒にいる」
僕は首を振った。

「これは僕らの問題だ。お前はいなくていい」
「いるよ、フェル。お前の問題は俺の問題だ。そうだろ?」

「私もいます」
「母さん!」
「私、アルをよく知らない、息子なのに。だからちゃんと知りたい」
「母さんはいちゃだめだ」

きっぱりと言った。これは譲るわけにはいかない。アルの本当の顔なんて母さんは見ちゃいけない。

「いい? 絶対にだめだ。自分の部屋から出ないでほしい。ここを借りていい? まだ柔らかいとこしか座れないんだよ」

苦笑いが出る。みっともない、こんな時でも。

「……分かった。あなたの言うことを聞くわ。ここ、使って。まだ無理してほしくないから」
「ジーナ、俺がいますから。どうか任せてください」


 食事の後、ビリーがぐずぐずとリビングに残っていた。僕に起きたことをあっけなく受け入れたあたり、だてにブロンクスで過ごして来たわけじゃないことが分かる。

『大変なのはフェルなんだ、俺じゃないよ、フェルだよ。そいつ、殺してやりたい!』
零れそうな涙をそれでも零さずにビリーは僕を抱いた。

「部屋に戻れよ」
「アルが来るって聞いた」
「お前はいない方がいい。すぐカッとなるだろう?」
「ええ? フェルに言われたくないなぁ。『ニトロ』って言われてたくせに」

「ニトロ?」
「リッキー、相手するな」
「俺、聞きたいよ」
「私も聞きたいわね」

応援があって、すっかり調子に乗ったビリー。僕が素早く動けないのを知っている。

「触らなきゃいいものを触って、ちょっとでも揺らすと大爆発起こすんだ。だから『ニトロ』。俺はカッコいいあだ名だと思ってるけどね」


 ずいぶん昔の話のように思える。16までいた街。一番の敵は、甘える自分、逃げる自分、強がる自分。あそこじゃいつも自分が相手だった。


「女の子が目の前で殴られてるの見た時のフェルが一番カッコ良かったなぁ。相手は6人だったよ。けど物も言わずにそいつらのリーダーに突っ込んでいったんだ」

「あの時とおんなじだな」
「え、何?」
「テッドの時さ」

「大学でもなんかやらかしたの? なんだ、フェル、変わってないじゃん! あん時はさ、後ろから殴られてもそいつを離さなかった。胸倉掴んでぶん殴り続けてさ。って言ったってフェル、力あるから3発くらいで相手ダウンしたけど残りのやつらが囲んだんだ。俺も突っ込もうとしたらフェルに来るな! って怒鳴られてさ。で、全部のしたってわけ」

「そんなことがあったの!?」
「母さん、知ってるはずだよ。ほら、フェルがあばら折って帰って来た時さ。覚えてるだろ?」

「階段から落ちたって……」
「そんなの常套文句だよ。そんなこと言ったら俺たち何度階段から落ちたか分かりゃしない。それじゃマヌケだ」
「ビリー!」
「昔のことじゃん、フェル。いい思い出だよ。それにアルと違って素手……」
「ビリー!! そこまでだ、自分の部屋に行け!」

 母さんもそれ以上はビリーの話を聞こうとしなかった。キッチンに行こうとして急に振り返った。

「フェル。あなた、刺されて帰って来た時があったわね」
「なんのことかな、母さん。あれははずみだったって言ったはずだけど」

 間髪入れず返事した僕をじっと見て、ビリーを見た。僕は顔を逸らさなかったけど、多分ビリーはドジ踏んだだろう。視線を落とした母さんはそのままキッチンに行った。振り返った時にはビリーはいなかった。


「お前、ホントに無茶するヤツなんだな」
「昔の話だよ」

「そうでもねぇさ。俺、お前がこんなにキレ易いヤツだとは思ってなかったんだ。テッドたちとやり合った時、お前いい顔してたよ、セックスん時みたいにさ」
「こんな時にそんなこと引き合いに出すな」

言い終わらないうちにリッキーの顔が目の前に来ていた。
「俺、お前のそんなとこも好きだ」

傷ついてる口を気遣うように、そっと唇が合わさった。

 

 

「良いざまだな。へぇ、弄ばれてケガして母さんのところに泣きついてきたのか」

3人きりになった時のアルの第一声はそれだった。

「で? いくらかは感じたか?」
立ち上がろうとしたリッキーの手を掴んだ。

「僕にはリッキーがいるからね。善がらずにすんだよ」
「それは残念だったな。いい思いが出来ただろうに。相手はどんなやつだ?」
「医者だ。知ってるんだろう?」

リッキーが口を開く前に僕が答えた。アル相手に怒鳴ったって無意味なのは分かってる。クッとアルが笑った。

「じゃ、慰謝料請求するから事細かに書いてくれ。こんな風に弄られたとか、どういう気持ちだったとか」
「期待外れで悪いな。家に帰る前に病院に寄ってきた。もう示談が成立している」
「手回しがいいな」
「褒められるとは思わなかったよ」

 アルはリッキーに目を向けた。口を開いたところを先に制した。

「僕は彼とパートナーになる。式には出てくれるかな? 招待状書くから」
「君は他の男に抱かれてまともに座りも出来ない男と結婚する気か?」
「答える価値も無いね」

リッキーの返事も短かった。

「こいつは自分の女も守れなかった情けないヤツだ。君を守れるとは思えないがね」
「あんたがその子をどうしたのか知ってる。いい兄貴を持ったもんだ」
「俺は後ろ暗いことはしてないよ。君には誤解されたくないな。それより考え直しちゃどうだ?  そいつより俺の方がいい思いをさせてやれる」

「アル」

 母さんの声に思わず僕は振り返った。アルでさえ振り返った。

 全部が一瞬のことだった。飛び出して来たビリー。手に煌くナイフ。立ち上がったリッキー。悲鳴の出ない母さん。ただニヤリと笑ってビリーを見ているアル。アルの前に立った僕。


「よすんだ、ビリー」

ナイフを掴んだリッキーの手から血が滴り落ちていた。

「お前に罪を犯させたくなかったからフェルはアルの前に立ったんだ。分かるよな?」
「そんなヤツ、死んで当然なんだ!」

ビリーの叫び声が響く。

「スーがヤク中になったのはこいつがスーを犯して捨てたからだ!  赤ん坊は堕ろさ」

引っ叩いたのはリッキーだった。

「フェルが言わねぇことをお前が言うな。お前がそんなでどうすんだよ。フェルを悲しませる気か?」

リッキーはビリーを抱きしめた。

「お前、正義感が強いとこ、俺の死んだ弟によく似てるよ。俺もお前にこんなことしてほしくない」

 アルが立ち上がった。

「どけ。お前に庇ってもらう必要はない」

僕は黙ってそこをどいた。あんたは変わんないだろうな、アル。僕への憎悪を抱えたまま生きていくんだろう。

 玄関に向かって歩き始めたアルの前に母さんが立ちはだかった。アルの頬からパシーン! という音が鳴る。

「母さん。俺はもうここには来ないよ。仕事はちゃんとやるし、ジェフにも誠意を尽くす。それだけは安心してくれ。俺とフェルのことは仕方ないんだ。俺はコイツが大嫌いなんだよ」

それだけ言ってアルは出ていった。倒れかけた母さんをいつの間にか来ていたジェフが後ろから支えた。

「ジーナ。アルのことは全部私に任せなさい。いいね?」
「待って」

ジェフの手に縋ったまま母さんが僕の目を見つめている。

「スーの赤ちゃんはアルの子だったの?」

僕は……答えられなかった。でもきっと母さんは引き下がらないだろう。

「先にリッキーの手を……」
「ああ! そうだった、ごめんね、リッキー」

ビリーがすぐに動いた。母さんには手を出させずに手当していく。

「俺……ごめん、リッキー。こうなるとは思ってなかった」
「あんな物、もう持つな。約束しろ、俺と」

躊躇ってるビリーの額をリッキーはバチン! と指で弾いた。

「いいな? 次はこんなもんじゃ済まないぞ」
「なんか……フェルが二人になったみたいだ」

「フェル。さっきの話……」
「フェルには答えられないよ、母さん。言い出しっぺは俺だ。だから俺が責任取る」

ビリーに首を振ったけど冷静な顔で見返して来た。

「母さんは知るべきだと思う。俺、母さんにもフェルにも恨まれたっていいよ。でもあの赤ん坊がフェルの子だと思われてるままなんて、俺我慢できない!」

立とうとした僕の肩をリッキーが掴んだ。

「座れ、フェル。俺もこれはビリーの意見に賛成だ。きっといつか、どっかから聞くんだ。だったら家族から聞いた方がいい」

 言われるままに座る。僕には母さんにこんなこと話す勇気は無い…… ジェフも母さんを座らせた。

「あの頃の噂じゃフェルが振られたことになってるよね? で、別れた後にスーに赤ん坊が出来てるって分かったけど流産したって。母さんが聞いたのもそんなとこだろ?」

母さんが頷いた。

「今じゃさ、みんなほとんど知ってるよ。アルがフェルからスーを横取りして、出来た子どもを金出して堕させたんだって。その後からだよ、スーがヤクに手を出したの。今スーがどうなったのか知らないけど」

「あの子は……亡くなったわ」

ビリーがこっちに振り返った。驚いていない僕に驚いてる……

「知って……たのか?」
「俺、そこまでシェリーに聞いてない……」
「花が……花が返ってきたから」


 こういう形であの時の事が出てくるとは思ってもいなかった…… 僕が黙ってりゃ済む話だったんだ。

「花?」
「フェルはずっとスーの病室に花を送ってたんだよ」

「あの子は自殺して……私あの子のお母さんに責められた、フェルは一度も病院に来なかったって。子どもの父親なのにって…… でもまだフェルは16になったばかりだったから……だから私黙って……」

「なんで? なんでフェルにちゃんと聞いてあげなかったの!? 子どものことも引っ被ってさ! それでも花送り続けてさ! 花、返ってくるまで知らなくって、陰で責められて……そんなの、酷いよ……」
「フェルの子どもだとばかり思ってたのよ……」

「そうか、だからだな? あん時、死ぬ気でアルに飛びかかって行っただろう!」

 リッキーの手がずっと背中にあるのが有難かった。この頃はセバスチャンにしろスーにしろ、何かを思い出しちゃ言葉を失ってばかりだ……

「ビリー、やっぱりフェルが刺されたのは」

母さんの声に恐怖が溢れる……

「違うよ! 刺されたんじゃない!  フェルはアルが持ってたナイフに飛び込んでいったんだ! 俺、真横で見てたんだ、フェル、何とか言えよ!」


言葉が……つかえる。


「ビリー、フェルに返事させないでやってくんないか?」
「なぜそこまでアルはあなたのことを……」
「母さんには関係ない話だ」

僕はそのことまで話す気は無かった。それは僕とアルだけしか知らないし、それでいい。

「二人の息子が生き死にをかけて対立するなんて、それでも私には関係無いって言うの!?」
「そうだよ、関係ない。僕とアルの問題だ」

母さん、ごめん。そんな辛い顔、させたくないよ…… でも知らなくたっていい話って本当にあるんだ。

「あれきり、普通にしてろってフェルに言われたんだ。普段通りにしていこうって。何年も経つから俺ん中でもだんだん昔のことになって。でもリッキーがアルにいいようにされそうになって俺、思い出したんだ、あん時とおんなじだって」

「ビリー、俺大丈夫だ。フェルから離れねぇから」
「うん……あの後フェルは誰も好きにならなかった。だからリッキーを連れて来た時、つき合うんだって言った時、すごく嬉しくってさ、俺……フェルに幸せになってほしいんだ」


「私は何も知らずに……」
「母さんは知らなくていい話だったんだ。終わったことだから。もう終わってるよ、母さん。だからいいんだよ。ただの昔話だ」

「だったらなぜ未だに君とアルは憎み合ってるんだ?」

ずっと黙って聞いていたジェフ。僕は目を逸らすしかなかった。答えることなんか出来ない。

「いい。アルに聞くよ」

「アルは何も話さないよ、ジェフ。状況を悪くするだけだ。前に言ったよね、アルには仕事が全てなんだって。それでいい。だからこの話はここで終わりにしたい。母さんはもう充分いろいろ聞いたろ? ジェフ、母さんを寝かせてよ、疲れたろうから。ビリー、お前も終わりにしろ。母さん、これ以上のことはビリーも何も知らない。だから聞いても無駄だからね」


 僕はリッキーに掴まって立ち上がった。もう疲れた。

「リッキー、離れに行かないか? ジェフ、借りてもいい?」

ジェフは尚も聞きたそうにしてる。けど諦めたらしい。

「いいよ。明日はどうするんだ?」
「分からない……ごめん、ちょっとゆっくりしたい」

 離れの中は古臭くて、それが妙に気持ちを落ち着かせてくれた。階段をゆっくり上がる。リッキーが手を貸してくれて、ひどく疲れたから僕はそれを素直に受け入れた。

 そんなに広くはない寝室に、一つのベッド。リッキーは僕を甘やかして、僕は黙って甘やかされた。うつ伏せに横になった僕の髪をリッキーが梳いてくれる。少しずつ気持ちが楽になってくる。


「話しちまえよ。俺は墓場まで持ってくから、その話」
「僕らは父親が同じだったんだよ」

リッキーの手が止まった。誰にも話さなかったのにリッキーにはすんなり言える。

「母さんは同じ相手に二度犯されたんだ…… そして母さんはそれを知らない。その男は町に舞い戻ってきて、すぐに母さんを襲った。それを突き止めたのがアルだ。アルは17で僕は13だった。僕によく似てたって言われたよ。髪も同じ色。目と口元がよく似てたって。アルには僕がその男に見えてるんだ。母さんのことになると異常なほど人が変わるからね。本当に僕が気に食わないんだよ」

 言い始めたら止まらなくなっていた。誰も知らない話。シェリーさえ知らない話。いつも……重かった。

「僕はアルに引き摺られてその男の前に行った。これがお前の息子だ、こいつがお前の父親だってね。言われた通り僕はそいつに似てた。けど」

リッキーの手がまた動き始めて、僕の言葉にまたピタリと止まった。

「その男、しばらく経ってから川に浮いてたよ。飛び下りたんだろうって言われてる」

 

 そうだ。 飛び下りた そう聞いたんだ。そしてアルが笑った。「後はお前だけだ」 そう言って。

 全部話し終えた僕にリッキーは優しかった。

「リッキー、眠りたい」
「ああ。寝かせてやるよ。ちょっとだけ待ってろ」

 部屋を出て、バスルームが開く音がした。何も考えることが出来ない。ただリッキーを待った。戻ったリッキーが全部脱いだ。僕も脱いだ。

「ゆっくりでいいんだ。お前の好きなように動けよ」

僕を見つめる目を見下ろした。

 

 ああ お前がいて僕は救われてる。悲しくもない、辛くもない。荷を下ろしたような気がする、リッキーに話して。柔らかい唇が僕を迎え入れてくれた。僕が無理しないように僕の動きに合わせてくれる。

 

 リッキー。お前の中   あったかいよ。今日は静かなんだな。でもお前の顔は 、息は、 必死に堪えてるのが分かる。意識を飛ばしたくないんだろう、お前のことだから。僕を 守ろうとして。リッキー、僕もお前のことを守りたい。

 不思議な時間だった。お互いに何も言わず、存在を確かめ合うような。あんまり静かな営みだから、互いの息づかいとベッドの揺れがこの世界の全てだった。

 


  欲しがり過ぎず 与え過ぎず
  ただ相手を味わっていく

    時間が止まる
    世界が止まる

 

  壁が消えて 空気の中に漂って
  浅く 口づけ  ひっそりと腰が動き
  胸を重ねて 鼓動を確かめ
  瞳を見つめては 腰が動き
  小さな喘ぎに 身を浸す

  目を閉じれば リッキーの顔が浮かび
  目を開ければ リッキーがそこにいた

   このまま 世界が 終わればいいのに

   今 命を失うなら きっと僕は幸せだ


  ああ
  リッキーのため息に 空気が震える

  ああ
  僕のため息に 風が生まれた

 

  光も闇も 何も無くて
  リッキー
  お前だけがここにいる

  気持ち いいな
  ああ  気持ちいい

  フェル、 俺はここにいるよ
  リッキー 僕もここにいるよ


  僕らは ゆらゆら 揺れていく

「おはよう」
「ああ、おはよう、寝坊助」

笑うリッキーを胸に抱いた。そのままくつくつと笑ってる。

「何時だ? 笑うなよ」
「知らねぇ。起きた時が朝だ」
「凄い理屈だな」

また、くつくつと笑う。
「お前、楽しそうだ」
だから僕も楽しかった。すい と唇が触れた。

「この朝だけでいいな」

意味が分かるよ。同じことを考えたんだ。


 ――このまま 世界が 終わればいいのに――


「シャワー、浴びなきゃ」

立ち上がる僕の痛みが少し薄れているような。

 

 ゆっくり降りる僕の前を、手すりに掴まったリッキーがこっちを向いて下りて行く。僕が落ちても抱きとめられるように。バスルームで互いに洗いあって、その後抱き合ったまま長いことこの雨に当たった。

「熱くねぇか? 傷に滲みねぇか?」
「ぬるいから大丈夫だ」
「腹、減ったな」

今度は僕が笑った。

「なんだよ」
「お前、健康的になったよな。運動して腹減ってる」

赤くなった首筋に唇を当てた。

「バカヤロー、ロマンチックって言葉を知らねぇのか? セックスを運動って言うな」
「夕べたっぷり僕を食ったろ?」

「黒くなってるとこ、押してやろうか?」

「なあ、僕も腹減った!」
「俺を食ったくせに」
「もう消化しちゃったよ」

手が黒い痣に近づいたから慌ててバスルームを出た。

 

 

 

「そんなに食って大丈夫か?」

母さんまで心配そうに僕を見てる。

「何が?」
「後でその……」

食事の席で言うことじゃないと思ったんだろう。

「自然体で座れば、自然に出るってシェリーが言ってたよ」

ジェフとリッキーがコーヒーを吹いたから、僕は素早く皿を持ち上げた。ビリーは逃げそこなって、ジェフの洗礼を浴びてしまった。

「フェル!」

夕べ何も無かったのように怒る母さんに、僕はホッとした。母さんは知らない、自分の相手が同じ男だったこと。

「何が自然に出るの?」

アナとマリーは興味津々。二人を追いやってジェフはため息をついた。

「こんな時に夏休みだなんて全く間が悪い。フェル、君は……体は大丈夫か?」

何を聞きたいか分かるよ。

「ありがとう、大丈夫だよ。この頃、大丈夫ばっかり言ってるけどね。でも本当に大丈夫。そうなりたいから」
「そうか」

「ジェフ。母さん。話があるんだ。ビリーも聞いてほしい」

リッキーがハッとした。母さんが座った。

「なんだ?」

きっとジェフは僕が何を言うのか分かってる。

 


「正式に僕はリッキーをパートナーにしたい。リチャード・ハワードにしたいんだ。それを認めてほしい、ジェフ、母さん、ビリー」

しばらく沈黙が生まれた。

「なんだよ! なんで黙ってんだよ! 俺、いいと思う。リッキー、すごくいいと思う!」
「待ちなさい、ビリー」

ビリーの目が吊り上がった。

「俺、許さないからな! フェルの邪魔はさせない!」
「そうじゃない、ビリー。フェル、大学を卒業するまで待てないのか?」
「意味無い、ジェフ。待つつもり無いんだ。ジェフがそう言うならきっとリッキーは待つって言うよ。でも僕は待たない」

「フェル……」
「お前は黙ってろ。言ったはずだ、これは僕がやることだって。ジェフ。反対されたくない。きちんと認めてほしい、リッキーを家族に迎え入れることを」


 僕がリッキーを守るために今出来ることはこれだ。母さんは反対しない。それは知ってる。グランパもグランマも大らかな人だ。反対はしないだろう。だからジェフの承諾を得たかった。

 ジェフの沈黙がリッキーを切り裂く。僕には悲鳴が聞こえる。

「ジェフ。僕は折れない。ちゃんと式を挙げたい。ジェフにも参列してほしい」
「待てないのは、なぜだ?」

リッキーの悲鳴が聞こえる。

「僕がリッキーを愛してるから。それ以上何か言う必要ある?」
「私はリッキーが好きだよ。だから反対というんじゃないんだ。ただちゃんと知りたい。アルのことでも君は関係無いと言った。家族になるリッキーのことでもそう言うつもりか?」

「喧嘩するつもりなんか無いよ。でも僕はリッキーを守っていく立場だ。リッキーに対して彼を幸せにするために責任を持つ。そのためなら何でもする。だからジェフに承諾を貰いたいんだ。それが最初の僕の責任だ」


 ジェフが口を閉じた。リッキーの両の拳が白くなっていく。その上に手を重ねた。大丈夫だ。大丈夫だよ、リッキー。お前のために頑張るから。

「君は、私に承諾してほしいと言った。そして待たないとも。矛盾していないか? 私は君たちのために待つべきだと思っているんだ」
「何が僕たちのため? 待って何が変わるの?」

「リッキー。君は私とジーナの息子になるんだ。その意味は分かっているかい?」

「俺……フェルの言った通りです。ジェフが待てと言うなら待ちます。でもそれじゃフェルを裏切ることになる。ジェフの聞いてることの意味分かってます。親子になるのになんで隠し事があるんだ? そういうことですよね? でも、でも……すみません、言えなくて本当にすみません。お願いです、俺たちを認めてください。お願いします」

ジェフがリッキーをじっと見た。その顔は怒ってはいなかった。

「大学はどうするんだ?」
「やめようかと。元々僕には必要無かった。アルがそれを求めただけだ、みっともないからって」
「俺たち、働いてやっていこうと思ってるんです」

「リッキー、君は今までどうやってきたんだ? つまり、生活や大学の費用。君の言ってた通りなら、誰かが援助してくれたのかな? 今までバイトもしてなかったんだろう?」
「ジェフ、ごめん。それも答えさせたくない」
「フェル、リッキー。君たちは私を納得させる材料を提供していない。何も言わない相手をどうして家族に迎え入れられるだろう」
「言ってること、尤もだと思う。でも信じて欲しいとしか言えない」

大きなため息が流れた。

「フェル。昨日もそうだ。君はこれまで私たちの信頼を裏切ったことなどないよ。私たちが知ろうと知るまいと君は正しい道を選んできた。そうやって私たちを救ってくれていたんだ。いや、ジーナを。だから今度もそうなんだろう」

ジェフは母さんを見た。母さんはじっと真っ直ぐジェフを見返した。

「ジーナ。君はこれでいいんだね?」
「いいわ。私、この二人の母親だもの」
「そうか」


リッキーの拳の力が強くなる。激しい鼓動と震えが伝わってくる。


「君はずっと前からとっくに大人だったんだ。夕べ改めてそれを知らされたよ。分かった、認めるよ」

リッキーが一気にへたり込んでいく。僕はその拳を叩いた。まだ震えている。涙がその手に落ちてくる。

「ただし」

また拳に力が入り、僕はそれを握りしめた。

「大学は続けるんだ。ちゃんと卒業しなさい、二人とも。今の世の中、それは大切なことなんだよ。高卒のまま夢の様な生活が出来ると思わないことだ。現実はそんなに甘くない。それが分らないようじゃ認めるわけにはいかない。必要な階段はきちんと登るんだ。これから君たちは逆境に生きることになる。世間には君たちを認めてくれない人たちが大勢いる。だからそれを覆すだけの武器を手に入れておくんだ、どんなものでも」

ジェフの言ってくれたことが有り難かった。本当に有難かった。

「ありがとう、ジェフ……僕は……僕らは心の底から感謝してる。時間がかかるだろうと覚悟してたから」
「それにしちゃ、君は全く譲る気配は無かったけどね」

笑っているジェフ。

「ジェフ……俺、感動した。本当は最初っから認めていたんだろう? けどちゃんと筋を通したんだ。ジェフみたいな大人になりたい。もう昨日みたいなことはしないよ。もっとよく考えるようにする。勉強もやり直す」

 ビリーからこんな言葉を聞くなんて思いもしなかった。ビリーの言う通りだ。ジェフは大人だ、本物の。だからアルは受け入れた。

「アルにリッキーがホテルに連れて行かれたことがあったよね。あの時もきちんと僕を戒めてくれたからバカなことをしないですんだ。感謝してる、いつも助けてもらってる。分かった。大学はきちんと卒業する。それも責任を持つことの一部だから」


「式は……」

「挙げなさい。呼びたい参列者は自分たちで選んでいい。君たちに堂々としていてほしいし、私も堂々としていたい。家族は全員出席だ。アナとマリーには私がちゃんと説明するよ、いや、フェル。これは父親の役目だ。君に譲るわけにはいかない」

 僕が口を開く前にジェフは手を上げた。こんなところも見習わなくちゃならない。ジェフは立派な人だ。母さん、今は幸せだよね? だからもう過去のことは断ち切れたんだよね?

「アルも出席させるつもりでいる。あの子も大人になってもらわないと。私が話してみるよ。もしだめだったら悪いが諦めてくれ。それでいいだろうか?」

 一瞬迷ったけどけじめをつけるにはいい区切りなのかもしれない。結果がどうであれ、アルとの間に線引きが出来るのは確かだ。
「ジェフ、階段を登る。ちゃんとね。アルも階段だ。そういうことだね」

 リッキーが立ち上がってジェフの前に立った。ジェフが手を差し出すよりもリッキーがジェフに飛びつく方が早かった。宙に浮いたジェフの手がリッキーの背中に回った。

「ありがとう、ジェフ……ありがとう」
「リッキー。これからも君は私の釣りにつき合わなくちゃいけないよ。それでもいいかい?」
「いいです。釣りの事、もっと教えて……」

やっとジェフから離れて母さん、ビリーと抱き合った。その姿が嬉しくて僕はずっと目で追った。

「ビリー、ありがとうな。いつも励ましてくれた。俺、お前のお蔭でここまで来れたと思ってる。初めて会った時から俺を受け入れて家族になろうって言ってくれた」

「俺……俺、最高に嬉しい! フェルと幸せになってよ。ナイフ止めてくれてありがとう! 俺を抱きしめてくれた。あの後、部屋も覗いてくれた、ケガさせたのに。とっくにリッキーは俺の家族だよ」

 そんなことしてくれてたのか…… 僕でさえビリーのこと、頭から抜けてたのに。

「式はいつにしたいんだ?」
「早い方が有難いんだ、ジェフ。花嫁が誰かにかっさらわれないうちに」
「おい!」
「お前は花嫁だって言ったろ? でも式にドレス着ろとは言わないよ」

泣いてる母さんが笑い声を上げた。

「あら、私ドレス縫いたかったのに」
「ジーナ、勘弁して!」

真っ赤になったリッキーが情けない顔をしている。

 これで責任一つ果たしたよ、リッキー。あと一つだ。その階段を無事に登れば僕たちの生活が待っている。

 

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