Fel & Rikcy 第1部

11.ズキッ

水の音だ  ここはシャワールーム
  冷てぇよ!
ああ  リッキーの声  怒ってるけど、怒っちゃいない
  あいしてる

  あいしてるよ   フェル
優しい声  その言葉が苦しそうな声に変わる


  悲鳴
  悲鳴
  悲鳴  悲鳴 悲鳴 悲鳴
  ころしてくれころしてくれころしてくれ…………


リッキーが呼んでる  僕を呼んでる  助けなきゃ  リッキーが泣いている  さけんでる

待ってろ  助ける   絶対助ける  でも なんで足が前に進まない?


  悲鳴   ころしてくれ

行かなきゃ  足動けよ  間に合わないよ  なんでこんなに痛いんだよ  間に合わないよ!!

「寝てねぇんだ」

なんとなく聞こえるリッキーの声

「だって睡眠薬は!?」
「叫ぶんだ、リッキー、ころしてくれ リッキー助けてやる!って」
「リッキー……」

「滅茶苦茶なこと叫ぶんだ。どうしたら…」
「今はあんたがそばにいてやって。それしか出来ることなんか無いわよ…」

ぼんやりとリッキーとシェリーの声がする……

 セラピー、カウンセリング。よく分からない。苦しいのはリッキーなのになぜ僕の話ばかりを聞きたがる?

僕は何度も説明した。

「僕よりリッキーを助けてほしいんです。辛い目にばっかり遭うんだ」

握り合う手に力が入る。下を向くリッキー。大丈夫だ、僕がそばにいるから。

「君の話を聞きたいんだよ、フェル。どんな夢を見る?」
「苦しそうな声が聞こえるのにリッキーのそばに行けないんだ。僕はいつも間に合わない……ごめん ごめん、リッキー……」

なんて辛そうな顔。ごめんな、リッキー。助けられなくて。僕は間に合わないんだ。いつも。

「君はどうなのかな? 何か辛いことは無い?」
「リッキーを助けられないことが辛いんです」
「助けたい?」

当たり前じゃないか!

「助けるためなら何でもする。本当だ、何でもする」

リッキーは何も言ってくれない……

「信じられない? リッキー、僕を信じることが出来ない?」
「信じてるよ。誰よりも信じてる、フェルのこと。いつもフェルは俺を助けてくれてるよ」

リッキーがカウンセラーの顔を見た。彼がリッキーに頷く。


「フェル。俺は今、なんともねぇよ。すごく元気だし、フェルの心配するようなことは何も無ぇんだ。フェルが救えないのは夢の中の俺だろ?」

「だからさっきからそう言ってるじゃないか!」
「なんで怒ってんだよ。夢の中なんだろ? なんで間に合わないって言うんだよ」
「僕が間に合わないせいで、お前は苦しむんだ」


 リッキーの顔が俯いた。膝にぽたりと雫が垂れた。悲しい目が僕を見上げる。

「俺、認めんの怖かった。けど俺が先に認めなきゃお前を助けられないんだよな……フェル、間に合わなくてごめん。助けられなくてごめん」

「何言ってるんだ? なんでリッキーが謝るんだよ!」


訳が分からない……間に合わないのは、僕だ。カウンセラーが横から口を出す。

「フェル。シャワールームの中のリッキーの顔は見えた?」

頷いた。あんな苦しそうな顔、忘れられない……

「よく思い出して。それは、一体誰の顔かな? 君は誰に怒っている? 誰に助けてほしかった?」


一瞬、頭の中が空っぽになった。


「フェル。間に合わなかったのは、誰だい?」

 

 

 

「あんなやつにお前のこと、分かりゃしないよ。もっとちゃんとしたカウンセラーを探そう。リッキーの気持ちが楽になるならいくらでもカウンセリング付き合ってやるよ」


 最近あまり眠れてないようでリッキーが心配でたまらなかった。でも寝る時は僕がしっかり胸に抱いて寝るのに、目が覚めると僕が胸に抱かれてるのは何故なんだろう。

 リッキーは僕の前でシャツを脱がなくなった。何かの拍子にチラリと見えた体に息を呑んだ。肩にも背中にも痣や爪痕が痛々しく付いている……。僕の知らないところで酷い目に遭ってるんだろうか。なんで何も言ってくれないんだろう。問いただしても『気にしなくていい』と何でもないことのように言う。

 他にもおかしなことがいろいろあった。やたら、母さんが電話をかけてくる。聞くのは僕の体の事ばかり。まあ、あんなことがあったから仕方無いんだろうけど。

 シェリーが優しい。すごい違和感。だいたいシェリーに優しさなんて似合わないのに。持ち前のあの刺々しさが消えて、やたら僕を過保護に扱う。

 病院に行くとナースもドクターもみんな優しくて笑いかけてくる、声をかけてくる、待たせないで診てくれる。他にたくさんの患者が待ってるのに。

 退院してから何もかもがおかしくなっていた。


そして、何度もいろんな医者が聞く。カウンセラーが聞く。シェリーも聞く。リッキーさえもが聞く。


「最後に覚えているのはなに?」

 僕はあの日、バットで殴りかかられたリッキーを助けようとしたのに、なぜか足がもつれて飛び出すのが一足遅れた。頭から血を流したリッキーを抱えて「救急車を呼べ!」 と叫んだ。

 搬送された病院で何故か僕の方が倒れてしまって、気がつくとベッドに寝かされていた。

「腸捻転の手術をしたからしばらく酷く痛むだろう。鎮痛剤を点滴に入れているから、頭がぼんやりするかもしれない」

と医者が言う。おまけに倒れた時に頭を打ったそうだ。知らない内にいろんなことが起きたらしい。


 多分その間にリッキーは回復したんだろう。僕が医者から説明を受けた直後にリッキーが来て、廊下で医者と話していた。途中からリッキーの怒鳴り声が聞こえた。何を言ってるのか聞こうと思っているうちに僕は眠ってしまった。


 術後は思わしくなかった。痛みが引かずに退院は遅れた。身動き一つ出来ず、息をするのも辛かった。リッキーが何度も抱きしめてくれた。

 医者には 「何ヶ所も縫ったから」 と説明されたけど、腸捻転ってそういうものなのかと思ったっけ。いつまでも傷はじくじくと痛み、熱は下がらなかった。脂汗が滲む僕の顔をいつも冷たいタオルでリッキーが拭いてくれた。

 病院には母さんまで来て、リッキーと母さんとシェリーが3人がかりで世話を焼いてくれた。仰々しい話だよな。口を開くと『動くな』と言うリッキー。どっちにしろ酷い痛みに僕は動けなかったけど。

『もう一度手術が必要かもしれない』

 医者がリッキーにそう話しているのを聞いて嫌がったのを覚えている。我が儘ばかり言ってたような…… リッキーの困る顔を何度も見たような…… 点滴のせいなのか、病院でのことはあまり覚えていない。ただ、いつもそばにはリッキーがいてくれた。

 歩けるようになるまでずいぶん時間がかかって、結局大学に戻ったのは2ヶ月近くも経ってからだ。母さんは何度も 「家に帰っておいで」 と泣きながら言ったけど、何だかそれも遠い記憶。リッキーはいつまでも母さんの肩を抱いていた気がする……

 その間にリッキーには、カウンセリングが必要になってしまっていた。きっと僕のせいで疲れ果ててしまったんだ。僕がまだ本調子じゃないせいか、リッキーは何も話してくれない…… 助けてやりたい、何をそんなに苦しんでいるんだ? 僕が入院してる間に何があったんだ?

 

 他にカウンセラーを探そうと言う僕にリッキーが痩けた顔で答えた。

「フェル。話がある」

 昼前の公園はまだそこまで暑くはなかったけど、リッキーは木陰のベンチを選んで僕を座らせた。この頃はいつもそうだ、座るのに手を貸すのがリッキーの癖になってしまってるらしい。確かに手術痕がまだ痛む。薬なんか縁の無かった僕が、いつも持つようになった鎮痛剤。


「何か飲み物欲しくねぇか? 買ってきてやるぞ」
「僕は要らないよ。でもリッキーが欲しいなら」
「ああ、欲しいんだ。何がいい?」
「水でいいよ」
 どうせコーヒーは飲めない。医者に止められている。食事制限までされた。消化のいいものを。それでも排泄には……いつまで悩まされるんだろう。
 リッキーが水を2本持ってきた。しばらく無言が続く。

「どうした? 何でも聞くよ。退院してからあまり喋ってない気がする。ひょっとして……何か僕、悪いことした?」

ボトルがリッキーの手から落ちた。拾おうと屈むところを抱きしめられた。

「何か辛いこと抱えてる?」

体が震えている……肩が濡れる。泣いている、リッキーが。声も出さずに。僕はリッキーの背中をずっと撫でた。どうすれば楽になれる? 助けてやりたい。

「どんなことを聞いたって僕はそばにいるから。安心して喋ってくれよ」
「ごめん、俺が泣いちゃいけねぇのに」
「辛いなら泣けばいい。僕が必ず支えるから」

「フェル、これから話すこと、お前は受け止めらんねぇかもしれない」
「入院してる間に何かあったんだな?」
「俺、お前が強いやつだって信じてるんだ。だからどうか最後まで聞いてくれ」

震えるような声が辛い……

「俺はお前に『嘘をつかない』『隠し事をしない』そう初めの頃に言ったよな。覚えてるか?」
「覚えてるよ」
「正直お前に……話していいのかどうかは分からない。お前のためにならねぇのかもしんない。それでも俺は言う。殴るなら殴れ、それで済むなら」


話の方向性が見えない……なんで僕がリッキーを責めるんだ?


「お前、記憶を塗り替えられちまったんだ。お前が悪いわけじゃねぇ。いろんな状況や思惑や自己防衛が重なって、お前はその罠に嵌っちまったんだ」

 リッキーはほんの少し言い淀んで喋り始めた、有り得ない話を。

 バットのケガの話。あそこから違ってんだよ、フェル。

 俺は怪我をしてない。かすり傷さえ負わなかった。それはフェルのお蔭なんだ。

 俺を庇って振り下ろされたバットの前にお前は飛び出した。ひどく出血して気を失って倒れたんだ。
 部屋に連れ帰ったけどお前の具合は悪くてな。シェリーに言われて病院に連れてくことにした。

 俺はお前を車に乗せた。けど病院に着く前にお前はまた気を失った。全部頭部の打撲のせいだ。
 だからそのせいで記憶が途切れたり抜けたりしてもしょうがねぇんだ。

 


「リッキーはケガしてない?」
「してねぇよ」
「そうだったんだ……ならいいんだ。良かった。何で覚えてないんだろう?」

「お前はちゃんと間に合ってくれたんだ。助けてくれたんだよ、俺を」
「間に合った……」
「そうだ、間に合ったんだ。だから俺は元気だ」

覚えてない………そうか、頭を打ったせいなのか。

 

「お前さ、セバスチャンって覚えてるか?」
「セバスチャン?」

なんだかむかむかしてきた。急にどうしたんだ?

「……その名前、嫌いだ」
「じゃ覚えてるんだな?」
「覚えてない。知らないよ、誰?」
「じゃ、なんで嫌いなんだ?」

「……分から……リッキー…ごめん、きもちがわるい……」
「分かった、ちょっと休憩しような」

 リッキーは僕が落ち着くまで話を待ってくれた。どういうわけかその名前には、厭わしくて吐き気がしておぞましい汚物のような匂いを感じた。


「少しはいいか?」
「いいよ、話して。まだ先は長いんだろ?」
「……長いよ、フェル。うんと長いんだ」


 病院に着いて、脳震盪を起こしてるって言われた。間違えば命取りになっていたって。

 その時のお前の担当医がセバスチャンだ。


「バスタブで死にかけた時にも担当医だった。それなら覚えてるか?」
「顔、覚えてない。 男のドクターだったっけ?」

 


 そうか……
 そいつはお前に入院が必要だと言った。
 俺はお前のそばを離れたくなかった。俺を庇ってお前は大怪我をしたんだ。ずっとそばにいたかった。

 けど頭の状態が悪いのに俺がいるとお前の精神状態に影響するからって言われて俺はそばを離れた。

 一日に5分。それだけなら会ってもいいって。

 だから俺はお前の部屋の前にずっといたし夜は駐車場の車の中にいたんだ。

 

 

「ごめん、ずいぶん迷惑かけたんだな」
「迷惑なもんか! 俺は……お前のそばを離れちゃいけなかったんだ……」

 


 お前は担当のリズっていう親切なナースと仲良くなった。
 それで彼女に何かあった時の連絡先を俺にしてくれって頼んだんだよ。
 だから彼女はお前に注意を払っていた。何かあれば俺に知らせるために。

 担当医のセバスチャンは

 


そこでリッキーの言葉が止まった。良かった。また吐き気が始まってたから。


 悪い、一気に喋る。
 こっからはお前にも俺にもしんどい話だ。具合悪くなったら言え。

 野郎は、セバスチャンはお前が目当てだったんだ。
 確かに脳震盪を起こしてたけど、ヤツのいうほど深刻な状態じゃなかった。
 ヤツはお前を自由にする時間が欲しかっただけだ。

 夜中にヤツはお前の部屋に行った。お前はクスリを打たれて体の自由を奪われた。
 それだけじゃない、媚薬も使われて自分じゃどうにもならない状態にされた。

 ヤツはお前になんの敬意も払わず、思いやりも持たず、ただ遊んだ。

 普通なら使うジェルでさえ使わなかった。
 何もお前の準備をすることもなくお前で楽しんだ。
 巡回に行ったリズが中の様子がおかしいのに気づいて急いで俺を呼びに来た。


 俺は

 

「俺は間に合わなかったんだよ、フェル。お前を助けられなかった」

 
その言葉が終わらないうちに僕は吐いていた。 きぶんがわるいんだ よくきこえない きぶんがわるいんだ


口を拭いてくれて、リッキーがそっと抱いてくれる。

「フェル。辛いの分かる。俺もそうだった。けどお前と違って俺はガキだった。だから順応力がまだあったんだ。それにこんな目に遭ったことない。今のお前が受け止められるわけ無ぇんだ。でも事実を認めて受け入れていかねぇと、いつかこいつに追い詰められるんだよ。どっかで記憶の歪みが出る。思い出した時に返ってくるのは倍以上にデカいリスクだけだ。俺が手伝う。一緒に戦う」


  ――背中のリッキーの手が優しい  なのに僕はただ具合が悪い

 

 たくさんの偶然と、そこにつけ込んで来た悪意と

 そして変な気遣いのせいでお前に間違った記憶が刷り込まれちまった。

 俺はお前に起きたことに冷静に対処できなかった。

 お前はずっと薬のせいで正常な意識を保てなかった。

 そこに病院側は少しでも自分たちに有利なようにと

 記憶が曖昧になってるお前に別の病名を用意した。

 そして俺は……お前に本当のことを伝えずに済むならと、それを黙認しちまった……

 シェリーも母さんもそのことに触れることが出来なかった、お前を傷つけると思ってな。

 そしてお前の中に、真実からは程遠い『事実』ってヤツがどんどん重ねられてった。

 罪があるとすれば俺だ。

 お前から離れた。

 お前を一人にした。
 間に合わなかった。
 お前の前に並べられた嘘を黙って見ていた。

「お前が俺に謝るところなんて一つも無ぇんだよ」

 

  風が吹いてたんだ
  気がつかなかった
  気がつかなかった
  気がつかなかった………

 


「フェル。泣いていいんだ。俺がいる。いてもいいってお前が赦してくれるなら」


僕は話の中身も碌に呑み込めないままリッキーに聞いた。

「僕のこの痛みはそいつが僕の中に入ったせい?」

「そうだ」

「そいつが入っただけでこんなに悪い状態が続いてるのか?」

「そいつは…入っただけじゃない、ヤツは……いろんな物をお前に無理やり突っ込んだ。だからお前の体は耐えられなかったんだ」

「僕は  僕はそれで感じてた?」

「フェル……」

「娼婦みたいに感じてた? それでイッた? 喜んでた? もっと欲しがった? 僕は」

「やめろ! お前はそんなことで喜んじゃいなかった。助けを求めてた。俺の名前を呼んでた。苦しいって、辛いってそう俺に言った。助けてくれって……殺してくれって……お前が欲しがったのは俺だけだ。フェル、本当に俺だけだ。俺だけにお前はしがみついてたんだ……」

他のヤツに抱かれて。でもリッキーを求めた。自由を奪われていても。

その話が本当だとして、だからって何が変わるんだろう。

本当のことだっていうんなら、僕は誰かに抱かれて素知らぬ顔で母さんやシェリーと話してナースやらドクターやら周りが憐れむ中で……しゃあしゃあと入院してたんだ。

吐くものがもう無い。腹の中は空っぽだった。それでも何かが突きあげてくる。

いや、違う。僕は腸捻転とかいう厄介な病気だった。手術さえしたんだ。ナースもドクターも優しかった。これ以上ないほどの手厚い看護を受けた。部屋だって個室にしてくれた。


「僕は……さっき聞いた話がまだよく分からない。本当だとも思えないんだ。だって本当の事ならなんでこんなに冷静なんだろう。おかしいと思わないか?」

「それは……なぁ、お前の母さんのとこに行かねぇか?」

リッキーはさっきの答えを知っている。

「なんでこんなに冷静なんだろう。おかしいと思わないか?」

その質問の答えだけを要求している僕に、リッキーは重い口を開いた。

「お前は何も認めたくねぇからさ。俺に突きつけられちまった本当の事実ってヤツに打ちのめされるのが怖いんだ。お前は逃げてんだ、行先も分からねぇのに」

『行き先も分からずに逃げている』
すごく分かりやすい。でも分からない。

「僕の中で欠けているピースなんて無い。全部ピッタリと埋まってる。今聞いた話が入る余地がないくらい。今持ってる記憶が本物だと思ってるよ、リッキー」


ある筈の無い記憶。僕には矛盾の無い記憶がちゃんとあるのに。

 


  そうか?
  違う、それは正しくない。

  じゃ、なぜ僕は毎朝リッキーの胸にしがみついて寝てるんだろう。

  シェリーも母さんも、みんな同じ顔に見える。

  同じ表情で、それは

  それは、可哀想なものを見る様な顔で………?

 


「苦しいか? 少し横になろうか」

そっと抱えられ、そっと横たえられる。これが僕か? これが僕の現実か?

 


 ふいに起き上がった       ズキッ

 芝に座った           ズキッ

 溢れるはずの言葉が見つからない ズキッ

「痛い」


リッキーの手が肩に触れようと伸びてきた。それを振り払って僕は立ち上がった。

 

  ズキッ ズキッ ズキッ

  セバスチャンなんてドクターはいなかった。そんなヤツ、僕は知らない。

  リッキーのことを鼻で笑った。やけに粘着っぽかった。ナースを寄せ付けずやたら僕のそばに来た。

  そんなヤツ、僕は知らない……僕は覚えてない…知らない……


  なのにこの痛みはその記憶の歪みに指を突きつけてくる。


  さあ、見るんだ
  思い出せ
  それがお前だ

  なんだかんだ言ってもお前は抱かれたんだ

 

知ってたんだ。僕は知ってる、アイツの声も、顔も。アイツの……そこを……僕は知ってる、自分の体で。

 

  ぬめっていて生温かくてぎちぎちと入り込んできた  何回も僕の奥に吐き出した


蓋が外れていく、まるでペットボトルのキャップを捻るように簡単に。押し寄せてくるフラッシュバックに喉首を掴まれる。


  もうしっかり濡れてる
  ずいぶん感じてるね
  淫乱

  イッちゃったね


 医者はずっと僕の尻を治療していたんだ。痛むのはその奥だった。何かが入って僕をズタズタにした。何がズタズタにしたんだ? 何を受け入れたんだ? 僕は何をした? されたんじゃなくて。自分から何かしたのか?


「フェル、俺を見ろよ。こっち向け、俺を見ろ!」

なぜこんなことになったんだ? 僕のどこがいけなかった?

「何がいけなかったんだろう……僕はきっともっと気をつけるべきだったんだよな……お前がいるのに、お前がいるのに、どうしてそんなヤツに抱かれたんだろう……」

 抱きしめてきたリッキーが震えてる。

「あのな、どんな被害者でもこう思うんだ、自分に悪いとこがあったんじゃねぇかって。俺もそうだったよ、俺はどっかおかしいんだろうって。だからみんなそんな目で見るし、そんな風に扱うんだって。それって自然なんだ。周りの事認めるくらいなら自分が悪かったって思う方が楽だもんな」

震えてるリッキーが温かい。

「俺もずっと自分を責めてる。今、この瞬間も。なんで離れた、なんで間に合わなかった……俺は自分が許せねぇんだ」

震えて、温かくて、ぎゅっと抱いてくれる。そんなリッキーの背中が遠い。


「お前が俺を助けようとして足掻く夢を見んのは、お前が俺を大事に思ってくれてるからなんだ、って教えられた。お前は俺を責めるくらいなら自分を責める方を選んだ。助けてほしかったのに、間に合ってほしかったのに、そうしなかった俺をお前は本当は怒ってて……憎んでるんだ…… でもそれを認めたくなくて一生懸命記憶の穴を自分で埋めてんだよ、夢ん中で。でも、それじゃいつか壊れる。お前が壊れていくのは見たくない。壊したくない。だからきちんと俺を見て、俺に怒るべきなんだ。お前はどこも悪くない。いけなかったとこなんて、何も無ぇんだ」

 

「ぼくは……あいつをうけいれたんだ、リッキー、ぼくはかんじたんだ、おまえがいるっていうのに」

「バカ!! じゃ、なんで苦しんでんだよ! なんで記憶から削り取ったんだ! お前が愛してんのは俺だ、俺だけだ。お前、うなされるように毎晩言い続けてんだぞ、『リッキーだけを愛してる』ってな!」


抗おうとする僕をリッキーが引き寄せる。
抗おうとする僕はリッキーにしがみついている……


「俺はもう、間に合わなくなるのはいやなんだ。今お前を黙って見てたら俺はまた間に合わなくなる。嫌われてもいい。逃げるな! お前は強い、誰よりも。だから……逃げないでくれ、どんなことからも」

 


 時間が過ぎていく。聞こえなかったセミの声が今さらのように耳についた。僕は体を離した。リッキーがギュッ!と目を閉じた、まるで審判を待つように。

 手を伸ばす。
 シャツを掴む。
 めくり上げた。
 逆らわずにリッキーが僕に脱がされていく。

 傷がたくさんあった。

 一番新しい傷は左肩だ。
 爪が食い込んだ痕。
 これは手加減なく掴んだ痕だ。

 

「お前は俺にしがみついて寝てたよ。俺の肌を触ると安心した顔をしてくれた。俺はしがみつかれて嬉しかった。少しでもお前の役に立てる。お前のつける傷なら痛くねぇよ」


分かってる、リッキーは僕を待ってるんだ。眠って縋る僕じゃなくて、起きて真っ直ぐリッキーを見る僕を。


「時間、たっぷりあるよ。お前がイヤじゃなきゃ、その時間の中に俺を置いといてほしい。でもお前が決めることだ。俺を見るときっとお前の傷が抉れる。それは確かなんだ。お前に必要ならどんなことだって受け入れるし、やってやるよ」


リッキーの傷を触る。数えようと思ってやめた。きっと退院してからの日数分の数がある。その傷一つ一つにリッキーの愛が溢れていた。


「お前はそれでもいいのか、他の男に抱かれた僕でも」
「抱かれたうちに入らねぇ」

「善がったかもしれない」
「なら俺がもっと善がらせてやる」

「いやだね、僕はボトムじゃない」
「フェル」


唇が近づいてくる。目を閉じて受け入れると目が眩んだ……気がつくと背中に手があって、そっと上下に動いていた。

「いいんだ、まだ早すぎた。悪かったな、もっと出しちまえよ」

僕の上がる手を見て、リッキーが水を持たせてくれた。なんでも分かっているリッキー。


僕は辛い気持ちを手放した。
その間、ずっとリッキーがそれを持っていてくれたんだ。

僕はまだそれを返して欲しくなかった。
手に取るにはあまりにも重い記憶で。

でも。

「リッキー」
「うん?」

「なんでもっと早く来てくんなかったのさ」
「そうだな」

「なんでそばにいてくれなかったんだ」
「ごめん」

「あんなヤツにいいようにされたくなかった」
「分かってるよ」

「助けてほしかった」
「ああ なのに俺はいなかった」

「抵抗したかった」
「俺は防げなかった」

「挿れられてイキたくなかった」
「俺は間に合わなかった」

「リッキー」
「…………」


「愛してる。あんなヤツ、もうどうだっていい。僕はリッキーだけを愛してるんだ」


 自分の言葉が本物だと確かめたかった。リッキーの頬に触れた。頬と頬とを重ねた。目は閉じなかった。目の前にいるのはリッキーだ。ちゃんと分かっていたかった。


「ふれあうって信じあうってことなんだな」

頬を離した僕にリッキーが囁く。

「お前がふれてくれて嬉しい。謝ることが出来て、そんなチャンスをくれて嬉しい」


 僕じゃなくて、リッキーが泣いていた。謝れなかったリッキーにもきっと出口が無かったんだ。

「時間が」
   ――なにか いないか? ここに いないか?

「要ると思う。ごめん、リッキーだって酷い目に遭ってきてるのに」

「それは違う。これはあっていいことじゃない。一度だろうが、たくさんだろうが、それは関係ねぇよ」

「でもリッキーには誰もいなかった」

「お前には俺がいる。だから頼ってくれたら嬉しいんだ。必要としてくれるならそれで俺は幸せだ」

いつの間にか僕は鎮痛剤を取り出していた。ずっとその瓶を手に転がし続ける。僕は今、どうしたいんだろう。

「どうするつもりだ?」

その声で自分がどうしたいのかが分かった。

「こうするんだ」

僕は小瓶を遠くに投げた。もう薬はたくさんだ。

「焦ること無いさ。何も変わるものは無ぇんだ、俺たちには」

「ずっと……いてくれるか?」

「ずっといていいのか?」

「僕はいてほしい」

  ――這ってるような……
  ――リッキー…さっきから何かいないか?  ずっと何かがいる、リッキー

「何もいない。俺だけだよ、フェル。何もいない、大丈夫だ。ずっとお前から離れねぇから」

慌てたようにリッキーが肩を抱いた。少し落ち着いた。


そうだ。僕には悪かったことなど一つも無い。何の落ち度も無かった。そしてリッキーはずっと出来得る限りのことを精一杯してくれていたんだ。


「パートナーになろう」
「リッキー……」
「お前は俺にそう言ってくれた。離れたくねぇんだ。ずっとそばにいたい。今度は俺が待つ番だ。お前の返事を待つよ」

「どこか…行きたい」
「しばらくお前の母さんのところに行こう」

僕は頷いた。

「明日ここを発ちたい」

今度はリッキーが頷いた。


 僕らには いや、僕にはまだ時間が必要なんだ。体の奥の傷が僕を責めなくなるまで。もう鎮痛剤は要らない。僕はこの痛みに向き合っていかなきゃならない。そしてこの痛みを受け入れていくんだ。

  ……なにかがいるよりっきー……

 

 

 

「ごめん、嫌かもしれないけどいろいろ聞いておきたいんだ」

「どんなことだ? イヤな思いをすんのはお前だ。俺じゃねぇだろ?」

 その夜、僕らはいつもの様に一つのベッドにいた。僕は爪を短く切った。まだ夜のことは自信が無い。またリッキーを傷つけるかもしれない。この頃じゃ盗聴のことも気にならなくなってる。聞きたけりゃ聞けばいいんだ、踏ん反り返って。

「まず、遠巻きにしてる連中、どこまで知ってるんだ?」
「肝心なことはシェリー以外誰も知っちゃいねぇよ。何かきな臭い噂が出始めると、ロジャーが別の情報で操作してうやむやにしちまう」

くすり と笑い声が聞こえた。

「あいつが自分の希望通りマスコミ関係に進んだら、世の中えらいことになるだろうな」


 確かにそうだ。本人がやたら軽いのも功を奏している。でも本当は頭の中は厄介なことにPC並みに動いてる。今回リッキーに認められたい一心で充分にその能力を発揮しているらしい。


「その……」
「なんだ? 何が聞きたい?」


 深呼吸をする。これは覚悟して聞かなくちゃならない。どうしても知るべきなんだ、自分のためにも。それでも大きな抵抗があって、目を閉じて深呼吸して言葉を吐き出した。


「セバスチャンはどうしてるんだ?」

驚いた顔でリッキーが起き上がった。

「知っておきたい。どっかでいきなり出くわすかもしれない。僕には覚悟がいるんだ。中途半端にしておきたくない」

「お前が気にするこっちゃねぇ」
「僕は訴えてない。だから当然警察沙汰にもなってないよな?」
「ああ。そんな話は出ちゃいない」

そう言ってリッキーは天井に向かって親指を立てた。

「何も心配はいらねぇ。だから安心してろ。俺は野郎をあの後ぶちのめしたよ。ばったり会ったからな。まずあの手じゃ、二度とメスは握れねぇだろう。鼻は叩き折ったから元の形に戻るとは思えねぇよ。もうちっとで殺すとこだったのを通りかかったおっさんに止められちまってあいつは逃げた。その後は知らねぇ。病院にも確認したんだ。ふいといなくなったってさ。噂じゃどっか田舎に逃げたって話だ」

「分かった。なら安心だ。そうなったらどうしようって思ってたんだ」

リッキーが覆いかぶさってきた。

「それよりお前に抱かれて寝たい。何もしなくていいから」

耳に口を寄せてきた。

「消えた」
「え?」
「多分あいつらだろう。だから気にすんな。いつものことだ。もうあいつに会うことは無ぇよ、きっと」

そのままそっと唇に触れてきた。

 

 こうやって生きてきたんだ、リッキーは。アイツみたいに消えて欲しい相手ばかりじゃなかっただろう。自分が関わることで誰かが消えていく。どれだけの辛酸を舐めてきたんだろうか。僕にしたって、殺されたのかと思うとそれはそれで複雑だ。だったらこの手で殺してやりたかった。自分自身にケリをつけるために、止めを刺してやりたかった。


 ここのところ僕はリッキーに守られる立場で、それがキスの形にも現れていた。僕の頭を抱き寄せて覆いかぶさるように唇を寄せてくる。僕はその胸を突き上げた。

「ごめん、まだ……」

「あ そうだった、悪い! つい…気分悪いか? 俺、考え無しだった」

「頬合わせるだけなら平気なんだけど」

僕の鼓動があまりに速くなってるからリッキーは慌てた。こんなことがいつまで続くんだろう。


「こういうのって…恐ろしいんだな…お前も母さんもこんな思いしてきたんだな」
「一緒にすんな、お前は特別だ。お前みたいな酷い目に遭ったことねぇよ。きっと母さんも無いと思うぜ。俺なら乗り越えんのは無理だ」

「……どんなだったんだ? 僕はどうされたんだ?」
「知らなくていい」

即答だった。

「もう過ぎたことだろ? いいじゃねぇか、こうしてここにいるんだから」
「僕だってこの先どうなるか分からない。正直言って自信がない……」

「お前は大丈夫だ。俺は心配してねぇぞ。ただ今はさっきみたいな無神経なこと、お前にしちゃいけなかった。悪かった」
「ありがとう……もう少し時間をくれよ。僕こそごめん」

「俺、前から聞きたかったんだけど…」
「何さ。答えるよ、何でも」
「お前とシェリーって…………どういう関係?」

そうか、説明してなかったんだ。

「えぇと、表向きは」
「表向き?」

「うん、幼馴染みってことになってる。中学からは学校もずっと一緒だし」
「で、表向きじゃねぇ方は?」

「なに? 焼きもちホントに焼いてた?」
「バ バカ言え! そんなもん焼くか! ただ……………妙にお前のことになると過保護だし。最初の頃は俺を目の敵にしてただろ? お前の母さんとすごく親しげだったし、家の事情も知り過ぎだろ?それに………」

「なぁ! そういうの、ヤキモチって言わない? すごく嬉しいな! じゃんじゃん焼いてくれよ!」
「じゃ…やっぱり昔の彼女……」

「違うよ! 母さんの姉さんの子ども」
「つまり…従妹?」
「ってことになってる」

「は? まだ何かあんのか?」
「母さんの娘なんだ。というか、僕の双子の姉」

「ええ!??」

「あっちはそれを知ってて、僕を姉として守ろうとしてるんだ。で、僕はそれを知らないことにしてる。ただの従妹だってね」

「なんか……ややこしいことになってんだな」

「一卵性じゃないからね、似てないんだよ。母さんは女の子をブロンクスに置いときたくなかったんだ、自分に酷いことが起きたから。だから養女に出したんだよ。でもちょっと上手く行かなくてね。結局母さんの姉が引き取ったんだ。暮らし向きも良かったし。頭がいいからもっと上を目指せるのにここに来たんだ。あれで結構弟思いなんだよ」

「だから世話を焼くのか……普通じゃないからな、実はちょっと心配してた」
「それに心配は要らない。シェリーにはちゃんと彼女がいるから」

リッキーの目が瞬きを忘れた。


「もう…お前んとこはびっくりすることばっかりだな」
「いろいろと悪いね」
「もう他に無ぇか?」

「…あるけど。でも今はいいだろ? 隠すつもりないけど、今は話す気になれないんだ」
「分かった。なら聞かねぇ。話したくなったら話せよ、聞くから」

 

 思い出したように時計を見てリッキーは起き上がった。

「おい、薬。これは飲んどけ。まだ完全に良くなっちゃいねぇからな」

渡された薄い青と白い錠剤。

「これは何の薬? ずっと飲んでるけど聞いたことなかったよね」
「いいから飲め。体のためだ」
「リッキー。もう薬は飲みたくない。訳の分からない薬なら猶の事だ」

諦めたような顔。

「睡眠導入剤と安定剤だ。お前、ずっと眠れずにいるから。夜中はうなされてんだ」

しばらく考えて口の中に入れた。

「飲まないかと思った」

「きっとお前が困るだろう? 夜中に迷惑かけたくない。ただもう要らないって思ったら止めにしてくれ。判断、リッキーに任せるよ」

「そうか…しばらくは飲んだ方がいいと思う。今日いろんなこと聞いたばかりだからな。様子を見ててやるよ」


 そして僕はリッキーの胸で鼓動を聞きながら寝た。眠りに落ちるまで、リッキーは僕の額や頬や頭にキスをくれた。

 

   どうか   どうか。

今夜はこの温かい体に傷をつけませんように。リッキーの眠りを妨げませんように。

神なんか信じちゃいない。けど、この瞬間は僕は祈りたい。

  ――どうか僕に力をくれ。僕は自分を取り戻したい。リッキーを愛してるから。


     なにかが うごめく
         なにかが 這いずる
             なにかが…………

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