宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第一部
11.そばにいて
「課長。課長!」
「あ、ああ、三途、どうした?」
「どうしたって、こっちが聞きたいですよ。どうしたんですか? 朝からずっと心ここにあらずって感じで。まさか彼女出来たって言うんじゃないでしょうね?」
「まさかって何だよ、俺にだってまだ青春は残ってるぞ」
あちこちから笑いが聞こえた。今日はほとんど電話も無く、オフィスが静かだから声が届く。
「花! お前まで笑うんじゃない! お前ら、俺のこと何だと思ってるんだ?」
「鬼課長。そう思ってますよ」
「花、お前今度じっくり話そう」
「冗談」
三途川の報告のまとめを聞き、カレンダーにスケジュールを書き込む。
「連休の分、仕事の反動がその後にデカく来そうだな」
「そうですね。ま、仕方ないですよ、毎年そうだし」
「三途、山気をつけて登れよ。天気を気にするんだぞ」
「ご心配ありがとう。大丈夫よ、素人の引率なら年中やってるんだから」
「仕事の無い時にそんなボランティアやるなんて、三途さんホントに物好き」
「やっぱり花、私と一緒にいらっしゃい。山で年上を敬うってこと、叩き込んであげるから」
「土産、大人しく待ってますよ」
みんな連休前だ、仕事というより残務という感じ。
蓮は時計を見ながらジェイにメールした。
『起きてるか? そろそろ病院の支度をしろ。読んだら返事くれ』
10時前。用意しているか心配だ。5分経って席を立った。廊下に出て電話をする。
(どうした、電話に出ろ)
7回、8回、9回、…… 足早にオフィスに戻った。
「おい、田中、野瀬、池沢」
「何です?」
「済まん、ちょっと外出する。午前中回しといてくれるか? 今日はたいしたことは無いだろうし。午後は戻れるから」
「いいですよ。何かあれば連絡しても平気ですか?」
「ああ、携帯は気をつけておく。悪いな」
財布と車のキーを確認してエレベーターに向かったがなかなか来ない。
(クソっ、どうして俺はエレベーターと相性が悪いんだ!)
蓮は階段を駆け下りて駐車場に走った。
「ジェイ、起きてるか? ジェイ!」
玄関に入るなり呼びかけたが返事が無い。寝室に入るとまだジェイが眠っていた。頬が赤く、浅い息をついている。
「ジェイ、ほら、病院に行こう」
用意した冷たいタオルで顔を拭いてやると瞼が開いた。
「れん?」
「ああ、迎えに来たぞ。さ、病院だ。着替え手伝ってやる。お前を置いたら会社に戻らなくちゃならないんだ。悪いな」
「ひとりでいける、れん、かいしゃにもどって」
今にもまた目を閉じそうなジェイのパジャマを脱がし始めた。つくづく今朝余計なことをしたと反省しながら半ば夢うつつのジェイの支度をテキパキとしていく。
そうだ とまた熱を測った。39.0℃ 。動けない熱じゃないが、この時間にこれじゃ夜はどれだけ上がるだろう。
(帰って来て良かった!)
今度はしっかり起きたジェイを連れて駐車場へと向かった。車の中でジェイは消え入るような声で謝った。
「蓮、ごめんなさい。俺、眠り込んでしまって…」
「無理無いさ、また熱が上がったんだ。それより病院に放りっぱなしで帰るが大丈夫か?」
「うん。それは大丈夫」
しっかりした受け答えに蓮はホッとしていた。
「じゃ、行くぞ。家に戻ったらメールくれ。いいな?」
「蓮って過保護だよ。子どもじゃないから」
「ピーマン食えないヤツが生意気言うな。水分、ちゃんと取れよ」
言うだけ言って慌ただしく病院を飛び出して行った蓮を目で追いかけた。
(大事にするって言ってくれた)
本当に大事にされている。そう思う。仕事中に自分のためだけに帰って来てくれたことが申し訳無いのと同時に嬉しくてたまらなかった。初めて甘える。それが心を浮き立たせた。
昼の休憩時間中には会社に着いていた。もう安心だ。薬もちゃんと出るし後は栄養を取らせて安静にさせておけばいい。
(今日は誰にも捉まらないだろう。上の連中はみんなもう休みを取っている)
そう考えると気が楽だ。
『今、家。これから少し食べて薬飲んで寝ます』
ジェイから連絡もあり、午前中とは違って落ち着いた仕事ぶりに戻った。
「課長、ジェロームなんですけどね」
池沢だ。内心どきりとした。
「あいつ、一人っきりで今寝てるんでしょ? 誰か行かなくていいですかね」
「それなら連絡があったよ。熱ももう下がりかけているそうだ。連休中はゆっくり休めと言っておいた」
「そうですか! ああ、良かった! そんな連絡がついてるなら安心しましたよ」
「悪かった、お前にも伝えるべきだったな」
「いいんですよ、いや、安心しました」
池沢のチームに預けて良かったと、つくづく蓮は思った。他のチームも悪くはないが、業務柄チームワークという意味でここが群を抜いている。だからこそ花も居心地がいいのだと思う。入社してきた頃の花はケンカ腰で、ジェイとは違う意味で問題児だった。それが今じゃすっかりチームに馴染んでいる。
呆気ないほど一日が過ぎ、部下たちに連休前の注意を呼びかけた。
「課長! どっか行くんでしょ? 土産、期待してます!」
「お前もな。みんなも土産、期待してるぞ」
あちこちからブーイングを受けて笑って蓮は会社を後にした。
電話に出るだろうか。そんなことを思いながらかけてみた。
『蓮? 仕事終わったの?』
「ああ、全部片付いたよ。今日は誰の誘いも無かったからこれから帰る。何か欲しい物は無いか?」
『えと、……牛乳買ってほしい。あとヨーグルト。……構わない?』
そう言えば牛乳が好きだった。もしかしたらこの状況は牛乳がきっかけかもしれない。
「もちろんさ! 他には? この際だから言えよ」
『あんまり食欲無いから……』
「スポーツドリンク、後何本だ?」
『待って、今見る』
動けるところを見ると、だいぶ落ち着いたに違いない。
『後2本ある』
「分かった。それも買って帰るよ。追加があったら連絡して来い」
今7時半。いつも寄るスーパーは8時半まで開いている。
(食材を買って行かないと。ジェイにちゃんとしたものを食わせないと)
料理にうるさい蓮はたいがい自炊をしている。それが今、役に立っている。
「ただいま」
「お お帰りなさい」
両方がどぎまぎしていた。最後に言ったのはいつだろう。蓮は実家にいてもほとんど言ったことがなかった。4つ下の妹の結にだけ。1つ違いの弟の諒とはあまり反りが合わず、組んず解れつしたのは中学の頭くらいまでだ。何かにつけ蓮と比較され続けた諒はいつの間にか兄を疎んじるようになっていた。
ジェイはどうしても最後に言った母への「ただいま」を思い返してしまう。けれど、それは懐かしい思い出に変わっていることに驚く。
しばらく無言になった二人は、蓮がスーパーの袋をテーブルに置いた音がきっかけで話し始めた。
「あの、会社のみんなは?」
「お前を心配してたぞ。特に池沢がな」
「池沢チーフ?」
「ああ。だからお前から連絡があったと言っておいた。もう大丈夫だって」
ホッとした顔のジェイに笑いかけた。
「そんなに心配するな。誰もお前が休んだことをあれこれ言わないよ。言ったろ? この時期新米が休むのは恒例なんだ」
そこにジェイの携帯が震えた。自分にメールして来る者などいないはずだ。見ると花からだった。仕事上、同じチーム内ではアドレスを交換している。短いメール。
『大丈夫?』
「蓮……」
「どうした? 誰からだ?」
「花さん」
「なんだって?」
「大丈夫かって」
「心配してるんだ、返事しとけ」
「で、でも」
そこにまた携帯が震える。今度のメールは長い。
『熱、下がり始めたって? 風邪は治りかけが大事なんだ。疲れからじゃないか? 俺もそうだったから分かるよ。おまけに連休明けに会社行き辛くてさ、結局また休んだんだよ。鬼課長から電話鳴ってどやされたんだ、「お前の連休はいつまでだ!?」ってさ。もし来づらかったら連絡しろよ。じゃ、ゆっくり休め』
読みながらぽろぽろと涙が落ちた。牛乳を持ってキッチンへ行こうとした蓮が慌ててそばに来た。
「どうした? あれこれ言うヤツじゃないんだが」
「違う……哲平さんから」
渡されたメールを読んで蓮の口元に笑みが浮かんだ。
「返事、しろ」
「なんて?」
「いいか、お前の仲間なんだ。自分で考えろ」
そばに行ったついでにジェイの額を触った。
「ベッドに行け。メールはそこでも打てる」
喜ばしくない熱さだ。大人しくベッドに入ったジェイは、真剣にメールを読み返した。大学の時は多少なりともメールのやり取りはあったが自分を心配するような内容じゃなかった。バイト先とのやり取りは、シフトの確認と急なヘルプくらい。
迷いに迷って、返事を打ち始めた。時間がかかって打ち終えたジェイは、まるで一仕事終えたような顔で目を閉じた。蓮は様子を見ながら心の中で二人に感謝していた。
(ジェイ、良かったな。これでお前もチームの一員だ)
一番難しい花が受け入れたのが不思議だった。ジェイとはまるでタイプが違う。何か通じるものを感じたのだろうか。
「疲れたか?」
目を開けると蓮がカップを差し出した。座って受け取るとホットミルクだ。
「ホットミルクなんて……久しぶりだ。自分でも作んなくなってた……」
蓮はくしゃっと髪に指を入れてキッチンに戻った。そっとしておいてやりたかった。
「美味いか? 気持ち悪くなりそうなら無理するな」
鶏肉の挽肉を潰した小さな団子は生姜の味がほんのりして食欲をそそった。菜が刻んで入っている。こんなおじやは初めてだ。
「美味しい」
「そうか? なら良かった! 食えるならしっかり食っとけ。薬飲んだらベッドだ」
「蓮って母さんみたいだ」
泣いていない。笑っている顔に安心した。
「恋人掴まえて母さんは無いだろう」
「ごめんなさい!」
「謝んなくていいよ、ほんのちょっと傷ついただけだ」
ジェイが慌てた。
「蓮、俺」
「冗談だ、バカ」
少しずつ慣れさせなきゃならない、この関係もチームの仲間にも。
大きめのパジャマを着ているジェイは可愛く見えた。
(パジャマ買うの、止めよう)
自分のが何枚もあるんだから、などと言い訳めいて考えた。ジェイはさっぱりして少し気分が良くなったらしい。
「蓮、眠れないの?」
「いや、寝るよ、お前が眠ったら」
冷たいスポーツドリンクを持たせる。
「ちゃんと水分取れ。飲み終わったらトイレ行くか?」
ジェイは吹き出しかけて飲みかけたペットボトルを慌てて離した。
「どうした?」
「蓮、過保護だってば。そこまで心配しなくったってトイレくらい行ける」
「お前が子どもだから心配なんだよ」
途端に膨れっ面になるから笑ってその頬をつっついた。
「な、膨れてる。ぷっくんぷくんだ」
「蓮、嫌いだ」
毛布を被ってしまったから引き剥がした。
「俺が起きてる間にトイレ行けって」
あの姿を思い出すから起きている間に行ってほしい。プイっと向うを向いてしまったジェイの首が露わに誘う。思わずそこに唇を這わせる。
ぁ…は
ほんの少し愛撫してもう一度繰り返した。
「トイレに行け。いいな?」
今度は素直に頷いた。
赤くなった顔を蓮から逸らしてトイレを済ませた。鏡を見る。首を撫でた。
(蓮の唇が触れたところ)
自分で触るとなんでもないのに、どうしてあんなに感じてしまうのだろう。何度も撫でてみる。何も感じない。
(蓮に……抱いてほしい……)
まだ性行為には慣れていない。自分がされることを思うと恥ずかしくてたまらない。けれど……
(感じたい、触られたい)
少しずつそんな欲が生まれていた。
朝一度目が覚めた。隣を覗きこんで すぅすぅ という寝息が聞こえることに安心する。時計は6時ちょっと。習性でこの時間には目が覚める。
(連休も仕事してたしな)
せっかくの休み、少しは朝寝がしてみたい。ジェイの額を触ると熱が無くてホッとした。ようやく治りそうだ。でも今日はのんびりさせないと…… そんなことを考えていたらいつの間にか眠っていた。
……カチャカチャ……
微かな音で目が覚めた。キッチンだ。時計は8時少し前。思いの外眠れて寝坊特有のだるさが出ている。
(喉でも渇いたのか?)
んっ! と伸びをしてベッドを立った。
「おはよう。早いな、起こせば良かったのに…」
テーブルに茶碗が並んでいた。
「なにやってんだ、お前」
陽の光を受けたジェイが振り返った。パッと顔が輝く。怒ろうとした声が消えた。
「おはよう、蓮! よく寝てたから。ご飯炊いたよ」
無言で近づいて額に手をやり、大きいパジャマの袖を捲って手を拭いてるジェイをパフッと抱きしめた。
「無理しなくっていいんだ。腹が減ったなら俺を叩き起こせばいいのに」
「違う、蓮に作りたくって……俺、料理下手だけど目玉焼きくらいなら出来るから」
「そうか。熱、下がったな」
「もう大丈夫だよ、体楽だし」
「でも今日は大人しくしてよう。熱が上がらなきゃ明日は出かけないか?」
「車で?」
体を離した。期待でいっぱいの顔。どうやらドライブが気に入ったらしい。
「ああ、ドライブに行くぞ。朝飯、一緒に作ろう。卵は任せる」
朝食の片づけも一緒にやった。蓮が洗ってジェイが拭く。特に会話も無く、けれどゆったりした朝を二人で楽しんでいた。
「薬、飲んだか?」
「飲んだ」
本当に良くなってきたらしい。朝もしっかり食べた。
洗濯機を回してしまうと、やることがもう無くなった。いつも時間を持て余すから連休も仕事をしていた蓮。でも今はジェイがいる。見ると欠伸をしている。病み上がりだし満腹だし、連休ということで仕事のことも考えずに済む。気持ちが解れているのが伝わってくる。
「おい、こっちに来い」
テレビをつけてソファに座った。久し振りの日中のテレビだ。大人しく隣に座ったジェイは10分もしない内に頭を蓮の肩に預けていた。
(やっぱり眠ったか)
そっとジェイの体を横にして膝の上に頭を乗せた。部屋は暖かいから心配は要らないだろう。そのうち蓮も眠くなってきた。ジェイの肩に手を置いたまま蓮もうとうとと眠った。
静かに午前が二人の上を通り過ぎて行った。
「他に要らないか?」
「要らない」
「ヨーグルト、もう食ったろ?」
心の中じゃ蓮は笑っている。牛乳にヨーグルト。次は何が来るのか。真剣に考えているのがまた可笑しい。
「いいよ、適当に買ってくる。ピーマン以外に苦手なのあるか? もう何聞いても笑わないよ……多分」
その時点でもう笑っている。
「いいよ、ちゃんと食べるから。もう好き嫌い言わない」
「なんだ、また不貞腐れか? じゃ今夜はピーマン尽くしだな」
途端に萎れたような顔になるからまた笑った。
(こんなに素直なヤツなんだな)
つい、あれこれ買い込んだ。ジェイの笑顔が好きだ。何度でも見たい。いつの間にかカートの上のカゴはいっぱいになっている。
今朝キッチンで振り返った時のジェイにはどきりとした。きれいだ そう思ったからだ、相手は男なのに。
(完全にやられてるな、俺)
今さらのようにそんなことを思う。仕事中抜け出して病院に連れて行く。以前ならそんなことは考えもしなかっただろう。
「お帰りなさい」
「ただいま」
今度は照れることも無く言い合えた。テーブルに置いた袋から取り出した物をジェイが冷蔵庫に入れる物と分け始める。
「お菓子……多い」
ポテトチップ、ポップコーン、煎餅。スナック菓子が幾つもある。
「好きだろ?」
「……なんで分かったの?」
「勘だよ、勘。ほら、ゼリーもプリンも買ったぞ。俺は食わないからな、全部たいらげてくれよ」
どんな反応をするのか楽しみで買って来たものばかり。どうせぷっと膨れるだろうと。『ガキ扱いはイヤだ』 そう言うだろう。
「これ、俺好き!」
食いついたのは牛乳プリン。ゼリーにも手を伸ばして目を輝かせている。
(おい、マジか? 子どもか、お前)
「そんなもん、好きならいつでも買えたろうに」
「20日になったら買おうと思ってたから」
「20日?」
「給料日」
「給料まで我慢する気だったのか?」
「……給料まで昼抜きのつもりだった」
「なんで!」
「その……金無くて……」
言ってパッと赤らんだ。
『金無くて』
自分はそんな思いをして来なかった。実家はそれなり。自分もバイトは趣味やほんの小遣い稼ぎ、そんなことが目的でやった。一日に数時間。週に数日。そこで生活を、生きる糧を得るためではなく。
「買って来て良かった。腹壊さない程度に食えよ」
「うん。ありがとう」
まるで子どもを一人養っているような気分になっている自分に気づく。喜ばせたい。けれど目の前の青年はベッドでは美しく寝乱れて見せるのだから、それが不思議だ。
その情景を思い浮かべた途端に下半身が熱を持つ。テーブルに牛乳プリンとゼリーを並べて食べ始めたジェイが愛しくて、今夜は抱きたいと思った。
夕食が終わり、薬も飲んだ。熱はもう上がる気配もなくテレビを見て笑い転げているジェイを蓮は見ていた。番組が終わりテレビを消した。
「一緒にシャワー浴びよう」
言われてジェイは自分がその言葉を待っていたことを知った。夕べの自分を思い出す。
(感じたい、触られたい)
「蓮」
「ん?」
「俺……」
パッと顔が赤らむ。
「俺、抱いてほしくて」
どくん 体の奥から脈打つような快感が走る、今の言葉だけで。引き寄せて囁いた。
「バカ、そんなこと早く言え」
抱き寄せられてしがみついた。
「ずっと……こうやってそばにいてくれるの?」
「いるよ。まだ信じられないか?」
「……信じる。だから……そばにいて」