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J (ジェイ)の物語」

第二部
2.新しい日々 -1

「じゃ、先行く」
「うん、行ってらっしゃい」

 連休が終わった。今日から出勤だ。蓮は会社で30分ほどコーヒーを飲みながら一日のスケジュールを確認したりぼーっとしたりする。だからいつも通りに出ることにした。
 ジェイはその後の片付けや戸締りを確認してから出て電車を1、2本遅らせて会社に着く。いよいよ会社と家での二重生活が始まる。

 

 蓮は少し不安を抱いていた。大丈夫だろうか、いつも通りにジェイは振る舞えるんだろうか。けれど真っ直ぐ仕事に打ち込むジェイの様子に安心した。ジェイは仕事を楽しんでいた。多分心が安定したのだろう、自然に笑って自然に喋っていた。

「ジェローム、連休いいことあった? すごく変わったね」
 千枝の言葉に微笑んだ。
「そうですか? 俺感じないんですけど」
「いや、確かに変わった! このヤロー、生意気に彼女出来たんだな」
「哲平さん、やっかんでんの?」
「バカヤロー、誰がやっかむか! 花だって彼女いないだろ!」
「いますよ、彼女くらい」
「なに!? なんで黙ってたんだよ!」
「報告する義務ないですから」
「いっつもお前は生意気なんだよっ」
「おいおい、連休明けで仕事詰まってるんだ、そのくらいにして集中してくれよ」

 池沢の声でようやくお喋りが仕事に切り替わった。
「ある程度進めておかないと三途さんに絞められちゃうからね」
 花の言葉に哲平がブルっと身を震わせて、そこからピッチが上がった。

 昼はみんなと打ち合わせながら食事となり、蓮は蓮で野瀬チームと食事に行った。今日はお互いに残業確定。 ジェイは寂しさから解放されて、仕事に忙殺される時間を楽しんでいた。

 そして、10日。無事、三途川が山から帰って来た。
「三途さん、また逞しくなって帰って来たね」
「そうそう! 絶対腕相撲したくないよな、花」
 元気満々に出社してきた三途川に蓮もホッとした顔だ。

「あら、課長。私がいないと寂しいですか?」
 にこやかな顔に大人の顔で蓮も返した。
「お前がいないとここも静かでいいんだがな。けどま、無事で何よりだ」

 そのちょっとしたやり取りにジェイは思わずドキッとした。
(三途川さん、蓮が好きなんじゃ……)
そう思うとジェイの目は三途川を追い始めた。とうとう花にこずかれた。
「やめとけって。三途さん、30過ぎてんだぞ。それとも大人の色香ってヤツにやられたか? でも三途さんは色香ってタイプじゃないけどね」
「ち、違いますよ! じゃなくて、その、すごく日焼けしてるなって……」
「ああ、確かにね! 見事に焼けてるよなぁ」
「なんなの? そこ! 二人でこそこそ笑うんじゃない! ジェローム、今日から私と一緒だからね」
 花が、(お気の毒に)と小声で囁いてそばから離れて行った。

 三途川のこき使い方は半端無くて、しかも彼女はエレベーターを嫌う。ジェイも最初は高を括っていたが、さすがに届いたばかりのOA機器を持って8階までを3往復には参った。
「ジェローム、へばったんじゃないでしょうね」
 男だから、少なくとも一度に運ぶ量は三途川の2倍は持っている。最後は意地になって無言で運んだ。
 哲平たちはにやにや笑ってみていたが、ちょっと目をやると蓮が心配そうな顔をしているから慌ててシャキッとした顔をした。へこたれているのを見られたくない。

 ふっと気になった。ついさっき三途川が変な目つきをしたのは何だったんだろう? 荷物を三途川から受け取った時のことだ。一瞬だったが確かに変な……怪訝な顔をした。だがその後は運んだ機器の取り付けや接続に追われ、そのまま忘れてしまった。

「今日は大変だったな。大丈夫か?」

「大丈夫、俺だって鍛えてたんだから」
「明日筋肉痛になってるかもしれないぞ」
「平気」

 シャワーを一緒に浴びるのはどうやら日課になりそうだった。夜は何もしなくても寄り添って寝る。一緒にいることを実感できればそれで良かった。キスだけで終わる日もある。
 そうやって10日ほど経ち、二人の新生活は軌道に乗り始めていた。


「ジェローム、ちょっといらっしゃい」
 三途川に急に呼ばれて「はい」と立ち上がった。
「コーヒー飲みに行きましょ」
 どことなく有無を言わさぬ様子に不安を感じながらジェイはついて行った。
 てっきり4階に行くのだと思っていたのに、三途川はそのまま通りに出てしまう。通りを渡った所に小さな喫茶店があって、そこに入った。

 頼んだコーヒーがテーブルに来てから三途川がポンッと包みをテーブルに置いた。顔を見ると眉が上がる。別に怒った顔ではない。

「あげる。それ、使いなさい」
 恐る恐る袋を開けた。シャンプーとボディソープ。
「同じ物を使うんじゃないの。分けなさいね。分かる人には分かるのよ」
 何を言っているのだろうと思った。
「あんた、課長と暮らしてるでしょ」

  

 頭の中で三途川の言葉が渦を巻いた。
『課長と暮らしてるでしょ』『課長と暮らしてるでしょ』……

「ジェローム、しっかりなさい!」
 腕が掴まれた。ふっと三途川の顔に焦点が合った。
「まったく。あんたってホントに隠すって事出来ないのね。そんなんじゃこの先上手くやっていけないわよ。どうする気なの? こうやってちょっとつつかれるたびにそんな反応してたら認めちゃうようなもんなのよ」
「……え、じゃ三途川さんは知らなかっ……?」
 自分が墓穴を掘ったのか、そう焦った。

「いいえ、私は確信してたわよ。あんたに最後に会ったのは具合悪くて帰った日。課長が送ってったのよね。あの次の日課長の様子がおかしかったわ。そしてあんたずい分変わった。さらにあんたの香り。課長とおんなじ」
 あの時変な顔をしたのはそのせい?
「それにね、私課長が好きだったのよ」
 サラッと言うから言葉が何も出ない。
「だから普通の人よりそういうの分かるの。あんた、今のままじゃ自分から全部バラしちゃうわよ」

 何を言っていいか分からない。頭の中が整理できない。否定さえしていない。

「ね、落ち着きなさい。私あんたを苛めてるわけじゃないんだから」
「だって……三途川さん課長を好きなんですよね?」
「好きだったわよ。しょうがないじゃない、失恋しちゃったもんは。まさかねぇ、あんたが恋敵になるだなんて思ってもいなかったわよ。でも気にしなくっていいわ。失恋なんて初めてじゃないし」

 これからどうしたらいいんだろう ジェイの頭にはそのことしかない。

「あれこれ聞きたいわけじゃないし、あんたも余計なこと言わないでいいから。それよりまず冷静になりなさい。私の見た感じじゃ誰も気づいてないから大丈夫。ただね、あそこ、みんなが課長を支持してるわけじゃないの」
「え? だってみんな仲いいじゃないですか」
「表立って敵対心表わすわけ無いでしょ? 気をつけてほしいの、田中さん。あの人は課長のポストを狙ってる。救いなのは、あいつこういうことには疎いってことよ。あの人は実利主義だからね、ロマンスとかってバカにしてるからそういう意味じゃ大丈夫よ。でも他から聞いたらそうはいかない。格好のスキャンダルになるわ」

 蓮の立場が悪くなる……それはゾッとするのと同時に吐き気を催した。
「おれ、離れた方が……」
「こら、そんなこと言ってんじゃないわよ。あんたのそういう天然なとこが課長はいいんだろうけど、そのままじゃ通用しないから強くなんなさいって言ってるの」
「三途川さん、変ですよ、どうして? 俺とれ……課長のこと止めないんですか?」
「なんで? これも私だから分かることかもしれないけど、課長幸せそうだわ。あんたほど目立たないけど目が優しくなった。前は時々子どもっぽくって、ま、そこが好きだったりしたんだけど今じゃすっかり大人の人だわ。それ、あんたのせいでしょ? ならいいんじゃない?」

 自分の存在が蓮にプラスになってる? 三途川のような人が初めてで、そのことにも戸惑いを覚える。

「私、課長とのやり取りが好きなんだと思うの。そういう意味じゃこれからも変わんないと思うのよ。つまり本物の恋とかとちょっと違ったってところかな」

「俺、これから先どうしてったら……」
「まず自分に自信持ちなさい。あんた、仕事は大丈夫。立派にやってると思う。これまでの新人に比べたらとんでもなく仕事出来てる。課長は2年も誰かとつき合わなかったのよ。それがあんたを選んだ。だからそれも自信持つの。そしたら自然と変わっていけるわよ」

 漠然とし過ぎていてよく分からない。

「例えばね、課長に片思いしてる子って結構いるの。あのフロアだけじゃなくてね。あのフロアじゃ私だけだからそれはもう安心ね。だからそういう子が廊下なんかでアタックしてるのを見かけても顔色一つ変えずにその横を通り過ぎる。それくらいのこと、出来なくっちゃだめ」
「そんなこと……」
「難しい? これから暑くなってくるわ。みんな肌を露出してくる。毎年のことだから私は知ってるけど、みんなそうやって課長のそばをただうろうろし始めるのよ。バカみたいだけどね。そんなの見て、いちいちうろたえてちゃダメってこと」

 思ったより状況は厳しい。耐えられるんだろうか、そんなこと。蓮の言っていた言葉を思い出す。

――人前では他人でいなくちゃならない 辛いぞ、これから

「おれ……分からない、頑張れるかなんて分からない……」
「ばかねぇ」
 三途川の声が優しくなった。
「そうね、これだからあんたのこと、放っておけないんだわ。私だって余計なことしちゃって。私、あんたが可愛いわ。昔弟がいたのよ、あんたみたいな天然の。天然過ぎて東南アジアに行っちゃってね、それっきり。だからあんた見てると弟みたい。とにかく強くなんなさい。それから私が知ってるってこと、課長に言っちゃだめよ。いい? 絶対にダメだからね」

「三途川さん、どうして俺とれ……課長のこと認めてくれるの?」
「んんー、結構多いしね、私の周り。あんまりそういうの気になんないわ。でもそれは私くらいだと思っときなさいね。普通は受け入れないわよ、そんなの」

 思ったより道が厳しいのだと分からされた。ただ一緒にいて幸せだ、そう思うだけでは蓮と生活していけない。自分が蓮の立場を危うくするわけにはいかない。だからといって、蓮から離れるなどとうてい出来やしない。

「俺、頑張ります。三途川さん、ありがとうございました」
「我ながらバカだと思うけどね」
 三途川の笑顔にほっとした。
「これ、使わせてもらいます」
 もらった包みを胸に抱いた。
「何か困ったことがあったら相談なさい。あんた、そんな相手もいないんでしょ?」
 頷くジェイを見てふっと笑う。
「じゃ、私あんたの姉さんになってあげる」

ジェイの目が見開いた。兄弟なんて考えたことも無い。それが、姉さん?

 立ち上がった三途川をただ見上げた。

「まったく! そういう時にはすぐ立つ! そしてさりげなく会計票を取る! 相手に払わせちゃだめ」
 そう言われて慌てて立つ。レジに会計を済ませに行った。
「そ! その調子ね。男同士で同僚ならいいの、割り勘でも。でも女性相手とか、取引先の人とか、そういう相手には支払いをさせちゃだめだからね。そしてどんな時でも必ず領収書をもらって。『上様』じゃなくて、会社名でもらうのよ」

 三途川は三途川で楽しかった。世間知らずで純を絵に描いたようなジェイ。出来るものならこのままでいさせたいけれど、それでは生きてはいけない。本当に弟の面倒を見ているような気がする。

「思ったよりいい匂いだな。花の香り? お前には似合うけど俺にはちょっと無理かなぁ」
「い、いいよ、蓮は今まで通りで。蓮の匂い好きだから。買い物しててどうしても使ってみたくなっちゃって」
「いいんだよ、珍しいじゃないか、自分の欲しい物素直に買うなんてさ。これからもそうやって買い物していいんだからな」

 一瞬焦った。蓮まで同じ物を使ったら意味がなくなる。たしかに三途川の言う通りだ、同じ匂いは良くない。夏になればもっと目立つことだろう。
 それでもこの香りは蓮の気に入ったらしく、頭に鼻を埋めてはくんくん嗅いでいる。それがだんだん可笑しくなってきた。

「連、犬じゃないんだから」
「なんだと?」
「だって匂い嗅ぎっぱなしって」
「頭だけじゃないさ、体からもいい匂いがする」

 そのまま蓮の顔がすぅっと下に降りていく。

「……ぁ……だめだ、って、明日朝か……ら企画会議……」
「分かってる。しないから」

 そんなことを言いながらも蓮の手が体をまさぐっていく。

「だめ……っはぁ……」
「じゃなんでこんなになってるんだ?」
「れんがわる……あ」

 何度も営みを繰り返してきたからジェイの体にはすっかり蓮の手が馴染んでいる。だめだと言いながらも自然蓮の頭を抱いてしまう、背中に手が回る。先を先をと欲しくなる。

「おねが…れん、…」
 明日はまだ水曜日。ちょっとずつ性に貪欲になり始めていて、理性が働くうちにセーブしないと溺れてしまう。今週は仕事のスケジュールがタイトだ。

「分かった、ごめん。もう遅いしな。週末楽しもう」

 その言葉がエロティックに感じる。週末を楽しむ、蓮と。きっとベッドで。そう思うと今度は蓮の体が離れたことが寂しい。中途半端に刺激を受けた体が疼いてしまっている。

「れんの……ばか」
 小さく呟いて背中を向けた。多分しばらく眠れないだろう。
「ほら」
 引き寄せられて顎を上に向けられる。たっぷりのキスを受ける。舌が絡み合う、互いに味わう……

「今夜はこれで。な。こうしててやるから眠れ」

 痺れるようなキスをもらい、ジェイの喘ぎが切ないほど蓮の耳に沁み込む。落ち着き始めると少しでも満足したのかさっきより楽になった。蓮の腕の中にすっぽりと包まれてようやく体が静まり始めた。10分もすると寝息が聞こえ始めた。頭にキスを落とす。

「ばか。俺が眠れなかったんだよ、お前が欲しくてさ」
 蓮は蓮でそんなことを呟いた。

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