J (ジェイ)の物語」

第二部
16.いらなかった真実 -1

「おはよう」

「おはようございます!」
「早いな、哲平」
「昨日弾けましたからね、また今日から頑張んないと」
「そうだな……お前の言う通りだ」
「課長?」
「たまにはお前を見習おうと思っただけさ。いつもお前は前向きだ」
「照れますよーー。ま、俺はいっつも前向きですけど」

 カラリと笑う哲平に笑みが浮かんだ。

「おはようございます、課長、早いですね!」
「それを言うならお前もだろう」
「少しは課長の肩を軽くしたいですからね、ここのことは俺に任せて厄介な問題にだけ集中してください。何かあれば相談しますから」

 田中の存在がデカい。
(昇進を願い出て良かった)

 5月からそのために駆け回って下準備をした。部長に笑われた。

『俺に話を持って来ればすぐに済んだものを。相変わらずお前は頑固だ』

 どんなに会社とこじれようとも、田中の件だけはもう心配が無い。部長がきっと引き受けてくれるだろう。これで、たとえ職を辞することになったとしても引き継いでくれる者がいる。

 もう報告書は出来ている。あとは査問会を開いてもらえるよう具申するだけだ。

 電話が鳴った。

『河野、すぐに来てもらえるか?』
「はい、伺います」

 電話の主は大滝部長だ。ちょうど良かった。資料を持ってオフィスを出た。エレベーターを降りて通路を少し行ったところにある明るい木目調のドアをノックする。

「河野です。入ります」
 電話中だった。ソファにクイッと顎を振られて座る。

「バカにするんじゃない。戯言など聞く気はない。ここまで事を大きくしておいて一人の 辞職だけで済ますつもりか? 問題はそこじゃないだろう!」
 強い口調の声は昔のままだと、蓮の中でたいして遠くない過去が蘇る。

(あの頃は楽しかったな)
「私のことは分かっているはずだ。うやむやにする気は無い、このことは公表する。謝罪するならみんなの前でしてもらおう」

 電話が切れた。怒りが伝わってくる。口を開くのを待った。大滝は自分をコントロールする。ただ待てばいい。蓮の前にどっかりと腰を下ろした。

「それは今回の資料か?」
「はい」
「少し、私に預けろ」
「は?」
「この件を預けろと言ったんだ。君が前に出る必要はもう無い」
「何かあったんですか?」
「君は知らなくていい」
「ですが、私はここで手を引くわけには行きません。今回のことは私の部下の面談から始まったことです。部長は」
「君は査問会を要求するつもりだろう。もしかしたらそれは出来ないかもしれん」
「権利はある筈です! 部下の受けた扱いは報告書の通り酷いものでした」
「分かっている。無かったことにするつもりは無い。だがちょっと事が大きくなりそうなんだ。後は聞くな。もう君の手を離れたと思っていい。もちろん結果は君たちの願うものにかなり近くなるだろう」

 あの後、かなり部長のオフィスで揉めた。

『訳も分からず手を放すつもりはありません』
『つもりがあろうと無かろうともう事態は変わっている』
『どう変わったんですか!』
『だから知らなくていいと言っているだろう!』
『誰の目にも触れないところでいつの間にか終わった話にされるんじゃ堪りません!』

 部長の目がふっと笑った。

『駄々をこねるんじゃない。会社に裏の話は付き物だ。そこに首を突っ込むな』

 

 納得が行かない。行かないが、さりとてどうすればいいのか。部長に取り上げられた以上、自分に出来ることは何も無い。憮然とした表情で自分のオフィスに戻った。

 ドアが開くなりお喋りが止み、みんなの手が止まった。

「早かったですね」

こういう話で時間がかからないのは、たいがいが悪い結果だ。

「話、聞いてもらえなかったんですか?」

田中だけじゃない、みんなが結果を聞きたくて待っている。

「いや、そういう訳じゃない。報告書も部長に渡してきた。しばらく待てと言われたよ」

『取り上げられた』と言いたくなかった。部長が最初に言った言葉は『少し預けろ』だった。もしかすると更に事態は変わるかもしれない。本当に自分が外されたのか、まだ分からない。

「待てってどういう意味なんですか?」

「待てってことさ。俺にも分からないよ」

「あの、そしたら出張とか転勤とかどうなるんでしょう?」
「それも分からない。すまん、井上。俺にはまだ答えられないんだ」
「じゃ、俺のインドも決まりとは言えないってことですか?」
「悪いな、本当に答えられないんだ。部長の答えを待つしかない」

 誰もが悶々としている。今回のことに直に関わっていない者も、結果によっては部署の解体も有りえると思っている。

 蓮がこの部署の課長になった経緯も、前にあったシステム開発部が組織替えになったからだ。理由は開発部の管理者のセキュリティ事故だった。4件の得意先の情報と依頼されたプロジェクトが入ったノートPCを酔った帰りの電車の中で紛失し、それは見つからなかった。顧客は他の開発企業を探すところから始まり、会社は多大な違約金とその顧客だけでなく得意先を何件も失った。これから伸びて行こうとする歴史の浅い会社には大きな痛手だった。
 開発は保守派の抱える開発部と、大滝が部長昇進とともにクリーンなイメージを前面に押し出したR&Dとに二分された。大滝が指名した課長は河野蓮司。まだ25歳。入社して3年ちょっと。大抜擢というより、陰口の嵐の中に放り込まれたようなものだった。何度も辞退したが大滝との多くのやり取りの末、蓮は大滝に従った。

『君が期待されているのは……違うな、私が君に期待しているのは『清廉潔白』だ。ごちゃごちゃ抜かすヤツは放っておけ。真っ直ぐ業務に集中していればいい。尻込みするな。私のメガネ違いなら他の者に任せる』

 それからは仕事一途に過ごしてきた。『部下を預かる』その考え方も大滝の影響だ。

『私は君と、君の部下と、営業1、2課の連中を預かっているんだ。監視でも管理でもない。死なば諸共だよ。君たちを預かる。私も自分を君たちに預ける』

 その大滝が自分に前に出るなと言う。
(いったい何があるというんだ? 一人の辞職……塩崎のことか?)
なら臭いものにフタをして、見えない場所で誰かの頭が誰かに下げられて一件落着となるのか。
(それは部長らしくない……)

 定時を過ぎても部長からは何も言って来ない。
(やることもあるし、残業しながら待つか)
今日連絡するとも言われてはいないが、帰る気になれない。

「課長、これから時間空いてます?」
「ん? お前、帰ったんじゃないのか?」

 三途川は確か20分ほど前にオフィスを出たはずだ。

「出来たら付き合ってほしいんですけど」

 殆どの者が定時に帰った。何か言いたそうに何度も振り返るジェイも、僅かに首を横に振る蓮に下を向いたまま帰って行った。だがまだ数人残っている。

「何の用だ? 俺はまだ仕事するつもりなんだけどな」
「そんなことしてると体に悪いですよ。いいじゃないですか、もう止めちゃいましょうよ」
「止めちゃいましょうって……」
「今度登山仲間とボーリング大会があるんですよ。課長、得意じゃないですか。ちょっとコーチしてくれません?」
「おい、まだボーリングなんか出来ないよ」
「分かってますって。見ててくれればいいんです。アドバイス欲しいだけだから」

 なんとなく様子がおかしい。そんなことで仕事を中断させるような三途川じゃない。

「分かった。ちょっと待て。片づける」

 どこへ行くのかと思ったが本当にボーリング場だった。

「おい」
「いいから」

 シューズも借りなければフロントにも行かない。真っ直ぐレーンに向かって歩く後ろをついて行った。

「三途ちゃん、ありがと!」
「どういたしまして。私はただでボーリング出来るんだからそれでいいですよ」

 声に驚いた。

「裕子、どうして……」

 言ってから あ と思った。

「悪い、もうそんな風に呼んじゃいけないな。来月には退職だろ?」
「気にしなくていいわよ。結婚式には呼ばないからね。それから人事にはもうコネは利かないわよ」
「分かってる。門前払いされるだろうな、この先」

 三途川は反対側のレーンで気持ち良くボールを投げている。

「どうしたんだ? いったい」
「蓮司が……私も変わんないわね、ごめん。あなたが関わってる今回のこと。もう騒いじゃダメよ。それを言いたかったの」
「どういう意味だ? 何がどうなってるんだ」
「多分人事の上の方、総取っ替えになるわよ」
「なんだって!?」
「いい時に辞められてラッキーよ、ホントに。実はね、ずっとアイツに中を引っかき回されてたの。ここ3ヶ月くらいかな」
「アイツって……塩崎か? アイツに何が出来るっていうんだ」
「男なら出来ることが、いっちょ前にアイツにも出来たってこと。人事部長のね、一人娘に子ども作っちゃったのよ」
「はぁ?」
「で、娘が泣いて頼むから結婚の方向に進んでたの。昇進の話も出てる。娘の夫が平社員じゃ困るもんね、あの部長は凄く見栄っ張りだから。それで大っぴらにアイツ、のさばり始めて。湯川さんは急に態度変えるし。がっかりよ、あの人には」

 あまりにかけ離れた『真実』というヤツに、蓮は呆然とした。

「それが……なんでウチの連中の異動に首を突っ込んで来たんだ? ウチだけじゃないよな、あちこちだ」
「あなたのせいよ」
「俺? なんで!」
「あの人、あなたとのこじれが原因で開発追い出されたじゃない? だから嫌がらせね。元々レベルの低い人だったから」

 冗談じゃない、そんなことで面談を受けた者は辛い思いをしたのか。

「特にあなたのとこ。大きな理由のある人は無理だけど、そうじゃない人を無作為に飛ばそうとしてたの。ホントは他に3人候補がいたんだけど、さすがに数が多すぎるって湯川さんに止められたらしいわ」

 8名を部署から出すつもりだった。19名の中でそれだけ人員が変われば業務が成り立たなくなってしまう。

「嫌がらせだけであれだけのことをしたっていうのか……」
「だって、バカだもの」
「でもアイツのことがバレたからってなんで総取っ替えになるんだ?」
「それはね、他の連中がこぞって部長のご機嫌取りをしてたから。正確にはアイツの機嫌取りだけど。いいとこに飲みに連れ出しては交際費で落としてたのよ。それまでバレちゃったわけ。大滝部長って本当にすごいわね」

(部長が裏で動いたのか)

「かと言って、人事部長を飛ばすことも出来ないだろう。人事はどうなるんだ?」
「しばらく大滝部長預かりね。その先は分からないわ。だって常務になるんでしょう? だから大滝部長の息のかかった人が引き継ぐのは確かね」

 大滝には政治力がある。人脈もある。だからこういう時に活きるのだろう。

「じゃ、塩崎は?」
「ああ、アレね、多分一番貧乏くじ引いたかもね。子どもは4ヶ月に入ったんだけど流産しちゃったの。当然話は全部流れたわ。だから辞職すると思う。クビになるよりマシなんじゃない?」

 そういうことなら、部長の言った通り査問会は開かれないだろう。大っぴらに出来る話ではない。すでに人事部は大滝部長次第ということになっているというわけだ。

『会社に裏の話は付き物だ。そこに首を突っ込むな』

(そういうことか……だが俺は納得いかない。振り回された連中はどうなるんだ)
 どうにもならないことだろう。だが悔しくてならない。

『結果は君たちの願うものにかなり近くなるだろう』
 あれはどういう意味なのか。


「じゃ、私行くわ。三途ちゃんのポーズ、ちゃんと直してあげてね。それからもう会うのはこれでお終い。長いことお世話になりました」

 頭を下げる裕子に焦った。

「世話って……君ならいい奥さんになるよ。こっちこそ色々ありがとう。最後までこんな面倒かけて申し訳なかった。何か結婚祝い……」
「元カレから? 勘弁してよ、あの人に何て言えばいいの?」

[あの人]その言葉がすんなり出た裕子にホッとする。後ろめたい気持ちはまだあった。女性そのものがもうダメなのだと言えなかった。

「それもそうだな。じゃ、お幸せに。また社内でばったり会うかもしれないが、もう声はかけないよ」
「私も。だからこれでさよなら。あなたも早く結婚なさいね」

 手が上がる。その手を握った。別れの握手。それが出来て良かった。

 

「課長! 私待ってんですけど。元カノの後姿見んの、そろそろ終わりにしません?」
「バカ、そんなんじゃないよ」

 三途川のポーズを見ながらあれこれアドバイスを始めた。元々体育会系だから飲み込みが早い。その後ボーリング場にあるレストランで夕食を奢った。

「よく食うなぁ」
 呆れたような顔に三途川がにやりと笑う。
「高い物を奢ってもらうと食欲旺盛になりますからね」
「お前らしいよ」

 それでも裕子の話がなんだったのか、聞こうとはしない。
(お前のいいところだ)

「ありがとう、三途。今日のこと、お前が手を回してくれたのか?」
「まさか! 裕子さんから連絡があったの。課長の携帯繋がらないからって」

 そうだ、元の携帯は事故の時に壊れてしまった。あれにはジェイの写真も入っていたのに。

「そうか。どっちにしろありがとう。そう言えば、携帯はお前に返したが借金したまんまだな」
「あら、思い出しました? あのね、私11月の誕生日に欲しい物あるんですけど」

 はっきりしている彼女に笑ってしまう。

「なんだ、言ってみろ」
「まだどっちにしようか迷ってるから、内緒」
「あんまり高いのふっけるなよ。俺は貧乏だからな」
「そういう社交辞令は聞かないことにしてますから」


 駅のホームで三途川の電車に乗り込む姿を見送った。さて、どうしよう。ホテルに向かうために改札に戻ろうとして、ピタリと足が止まった。