
宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第二部
20.始まりのために -3
「どうした? 風邪でも引いた?」
仕事をしているのにぼーっとしていた。鳴った電話に出たが声が掠れていた。花の心配そうな顔に申し訳ないのと恥ずかしいのとで俯く。夕べ騒ぎ過ぎたのだと思う。
(きっとまた叫んだんだ)
体が重かった、すごくだるい。
「お前の分さ、俺やっといてやるよ。そのデータ、グラフ化するだけだろ? 俺手が空いたからこっちに転送しろ」
でも という顔に花が笑った。
「お前さ、たまには先輩の顔、立てろよ。ちょっとは頼れって言ってんの。いいから4階に行け。どうせもうすぐ昼だしこのまま飯に行ったって構わないから」
こくんと頷いて花にデータを転送した。
「お願いします」
「了解。ほら、行け」
まるで追い出されるようにオフィスを出た。少し涼しい所に行きたい。冷たいものが欲しい。そう思っていたから有難かった。
「何、姫は休憩?」
「ちょっとしんどそうだったから。ジェロームの前じゃ言わない方がいいですよ、それ。マドンナも嫌がったんだし」
「もう『姫』はみんなに定着しちゃったよ。あいつが知らないだけ」
花は手を止めた。椅子をくるりと回して真正面から哲平をじっと見た。
「な、なんだよ。そんな変なこと言ったか?」
「俺、結婚します」
「は? え? はい? 結婚?」
「聞こえなかったですか?」
そんなに小さい声で言ったわけじゃない。だからみんなが振り向いた。
「花さん、結婚するんですか!?」
素っ頓狂な声が橋田菜美から上がった。
「おい、いつだよ」
日頃そんなに反応しない広岡が反応したから周りがそっちにも驚いた。
「11月。お祝い、ここで直に受け取るからよろしく! 無駄なもんもらうのイヤだから何がいいか聞いてください。ウチのチームはみんな式に招待します」
「俺、その頃ここにいないぞ?」
「だから早めに祝い、ください」
「はぁ?」
昨日休みを取っていた者の面談も終わり、報告書を提出してきた蓮は4階に寄った。何か冷たいものが飲みたかった。大滝は不在で、書類は秘書の成瀬に渡してきた。
「データで送ってくださっても良かったんですよ」
カチンと来た。ペーパーでくれたのはそっちだ。だから返事をしなかった。
「河野さん。まだまだ子どもですね」
成瀬が笑っている。37だと聞いた。しかし見た目はそう自分と変わらない。
「すみませんね、ガキで」
そう言って出てきた。そんな言い返しをしてきた自分が本当にガキに思えて苦笑いをする。
アイスコーヒーを買って振り返ると、座っている一人の後姿に目が留まった。ぐったりしている様子が分かる。
「どうした?」
その声に飛びあがった。
「れ……課長」
「しんどいのか?」
「ちょっと……花さんが休憩して来いって」
「そうか……悪かったな」
「え? あ、いえ、もう大丈夫ですから。飯、行ってきます」
立とうとしてジェイが顔をしかめた。
「大丈夫か?」
思わず手を出しそうになる。声もまだガラガラだ。
(あれだけ叫んだんだ、無理も無い…)
途中で自分の口でジェイの叫びを塞いだのだが、イけない苦しみから逃れようとジェイは息も絶え絶えに悲鳴を上げ続けた……
(あんなイき方、初めてだもんな。俺も初めて見たよ)
「課長?」
我に返った。こんな時間にこんな場所で思い浮かべることじゃない。
「しっかり食って来い。行けるか? 一人で」
「大丈夫です。今日は社食に行きます、地下だし」
「そうか。ゆっくり休め」
危なかった、あれ以上脳内妄想すると変な汗をかく。
今日は大滝は出張先から戻らないと聞いた。
(やっぱり週明けか)
さっさと答えが出て欲しい。もしジェローム・シェパードが処分の対象になるというのなら、同等の処分を受けるつもりだ。
(これはジェイだからじゃない。どの部下だとしても同じだ)
そこに蓮の迷いは無かった。
午後になるとだいぶジェイの動きが楽になった。声もある程度は出るようになり、ホッとする。
(やっぱり平日は気をつけないと)
仕事に影響するし、何よりも自分が居心地が悪い。チームのみんなの心配が痛いほど伝わってくるから余計に申し訳なくて仕方ない。
「来週は野瀬チームにまとまった資料を渡したい。今日は残業だ、いいな。もし仕上がらないと休日出勤になるぞ」
反応が早かった。花は結婚式の準備がある。哲平と千枝はデートの時間を減らしたくない。何しろ哲平の自由が利く時間は後少しだ。三途川も、休みになるとボルダリングを欠かさない。トレーニングをしないとあっという間に体がなまる。ジェイは調子悪いのと早く帰って蓮と二人になりたいのと。だからみんなピッチが上がった。
「お前たち、まだかかるのか?」
「あ、課長は上がってください。こっちは仕上がったら解散しますから」
『今日は外食』
そう言ってはいたが、きっとこれじゃ無理だと思う。こっそりメールを打った。
『先に帰って、ゆっくりしてて。俺、帰りに食べて帰るから』
蓮が携帯を手にするのがチラッと見えた。小さく頷くのが分かった。
「じゃ、悪いな。お先! 頑張れよ」
「はい、お疲れさまでした!」
チーム以外誰もおらず、みんな早く上がりたい一心で仕事が進んだ。
池沢チームの業務はリサーチが主だ。今は顧客の求めているシステムを提案するための下地となる分析を行っている。クライアントの事業の方向性。今後の事業に変化が出るのか。現在使っているシステムのどこが気に入っていてどこに不満があるのか。池沢チームの分析資料を基に野瀬チームは開発していくのだから、責任は重い。
9時を回って、ようやく池沢がOKを出した。
「よし、明日明後日、ゆっくりしていいぞ。残りは月曜にちょっと踏ん張ろう。お疲れっ!」
みんなホッとした表情。
「飯食って帰んない?」
「お、いいね、花! チーフ、ご馳走さまです!」
「哲平は大食らいだからダメだ。他の連中は奢ってやる」
「ええ、そんな!」
「ありがとうございます!」
「あ、三途! お前もだめだ」
「あら、器の小さい男ってもてませんよー」
「小さくていい、懐も小さいんだから」
仕事に集中していたからジェイは気がつかなかった。6時に上がった蓮から7時半にメールが来ている。
『着替えてきた。表で待っている。車にいる』
(もう9時過ぎてる……きっと帰ったよね?)
試しにメールをしてみた。
『今、どこ?』
『終わったのか? 表にいるぞ』
(表?)
『どの辺?』
『会社の裏側だ』
「ジェローム、何が食べたい? 和食系? イタリアン?」
「花さん、あの、俺まだ調子悪くって。今日はもう帰ります」
「大丈夫か? なんか食った方がいいんだぞ」
「ちょっと落ち着いたら食べますから」
「悪かったな、無理させた。週末ゆっくり休んでくれ」
「はい、チーフ。みんなもお疲れさまでした」
「お疲れっ! 消化のいいもん食えよ!」
いったん表で別れた。ジェイが一緒じゃないから居酒屋へ行くと言う。その後ろ姿を見送って、会社の裏側に回って行った。
(どこだろう?)
裏側は外灯だけで薄暗い。すぅっと車が寄って来てやっと蓮が分かった。
「ずっと待ってたの?」
「お前、体辛かっただろう。悪かったな、本当に」
「ううん、だってあれ……」
自分がせがんだ……
「外食しようって言ってたからな。何が食べたい?」
「中華以外なら何でもいいよ」
「ってことはあっさりした物がいいんだな?」
あまり凝った店じゃなくて和食系のファミレスに入った。
「いいか? ここで」
「うん!」
メニューに釘付けになっている。選んだのは刺身定食と抹茶クリームあんみつ。
「幸せそうな顔してるなぁ」
「へ?」
「あんみつ、美味いか?」
口に頬張っているから頷くだけのジェイに笑ってしまう。
「今日は普通にぐっすり眠ろう。お互いに疲れた一週間だったな。落ち着くまでゴタゴタしそうだが、ま、すぐそれも終わる」
「蓮、仕事……」
あ という顔で口を閉じた。仕事の話はNGだ。蓮は大きく頷いた。
「それでいいんだ、ジェイ。俺たちの間で仕事の話はしばらく止めような」
話したとしても二人で気が滅入るだけだ。それより楽しみたい。
「この週末はお前の過ごしたいように過ごそう。ずっとテレビでもいいよ。つき合う」
「明日、見たい番組があるんだ」
「何がみたいんだ?」
「バラエティ……なんだけど」
「いいよ。一緒に見よう」
ジェイはすっかりお笑いやバラエティに嵌っていた。
ほんの少し抱き合って。テレビを見て騒いで。苦い! と言いつつ枝豆を食べながら一緒にビールを飲んで。
取り留めなくだらだらと、のんびり2日を過ごした。蓮はそんなジェイの顔を追っていた。笑顔を見ていれば幸せだ。一緒にいるだけで癒される。
(すっかりジェイの虜だな、俺は)
呆れるほど、素直に好きだと思える。いや、惚れきっていると。
週が明ければどうなるのか。今はそれを忘れたい。ジェイの笑う顔がそれを忘れさせてくれる。
そして、週が明けた。
月曜日、9時半。電話が鳴った。
「R&D 河野です」
「お疲れ様です。成瀬です」
秘書からの電話。今まで大滝部長が秘書を通して電話してきたことなど無い。
「10時にオフィスにおいでください」
「承知しました」
目敏く田中がそばに行った。
「呼び出しですか?」
「ああ、10時だ」
「思ったより早かったですね」
「いや、こんなもんだろう。悪いが」
「大丈夫です。後のことは考えずに行ってきてください」
「助かる。頼む」
ノックをして、今回は中からの返事を待った。
「入れ」
「失礼します」
入ってすぐに真っ直ぐに立った。大滝もすぐに立った。
「ま、座れ」
表情からは何も見えない。
「先週の話だが、いろいろ考えた」
次の言葉が出るのを待つ。大滝は真っ直ぐと蓮を見ている。これが一つの救いだ。少なくとも自分にしっかり向き合ってくれている。
「君らの上司としての私の考え。部長としての立場からの考えを言う。まず、上司としてだ。このまま何事も無く全てを続ける。何事も無く、だ。人事の謝罪も君たちからの糾弾も無し。単に人事の中の人員入れ替えをして終わり。つまり一番無難なやり方だな。傷つけあわず、双方の言い分に目を向けず耳を貸さず、丸く収める。それが私の保身にも繋がる。あちこちに余計な波紋を広げずに済む。物事がシンプルに進む。楽だ」
大滝の言葉はあまりにも率直過ぎて思わず笑い声を上げそうになる。何も無かったことに。確かに上司らしい意見だ。
「立場としては、どちらにもペナルティを課す。人事は今回振り回された異動等の対象者への謝罪だ。ただ公としてではない、あくまでも人事対対象者。そこに留める。そして君たちには面談における暴言ともとれる発言や態度を取った者それぞれへの処分だ」
一番大事な部分。蓮の拘っている部分だ。
「まず、三途川ありさ。彼女については処分は無し。引っ叩かれて当然のことを言っているからな」
大滝から初めて笑いが漏れた。
「この件については、会社としては正直言って戦々恐々としているよ。訴えられても仕方ない。君に望むのは彼女と会社側との仲裁だ」
これなら三途川も折れるだろう。彼女も事を大きくしたい訳では無いのだから。
「次に澤田潤。説明も無くいきなりの決定事項として伝えたのは人事の落ち度だ。面談の段階、しかも席に着くなり言う言葉じゃない。ただ彼のそれに続く発言と行動には問題がある。面談も終了していない内に退席するなど以ての外だ。君からの報告書には彼の大阪勤務は可とあったが、その件は流れる。それで了承してもらう」
これも大丈夫だ、澤田はどちらでもいいと言った。
「さて、ジェローム・シェパード。これが厄介だ。どちらにも売り言葉に買い言葉が見られる。社会人としては失格と言っていい。これは君の監督不行き届きということになる。教育が行き届いていなかった。社員は常に冷静且つ立場をわきまえた行動が望ましい。会社側は社員にいろいろな要求をする。一つ一つに気に入らないからと言って反発心を持たれるのは望ましくない」
尤もな話だ。入社してまだ半年しか経っていない。逆にも言える。半年もあった。半年と言う期間は微妙な期間だ。
「彼のパワーハラスメントという訴えには考慮の必要を感じている。三途川の場合と同じだな。それでも経験をさせると言う意味で異動の必要を感じる。あの程度の言葉で一々過敏な反応をされては困る。行き先はどこにしても、若いからこそ会社とはこういうものだという意識を持たせたい」
拳に力が入る。
「『左遷』これについては君の言った通り彼から謝罪があり、人事はそれを受け入れた。だから不問に処す。言葉の使い方を勉強する必要はあるがな。大きく問題として残っているのは彼の退席だ。新入社員の取るべき行動じゃない。処分の対象となるのは主にこの行動だと言っていい。澤田と違って彼は若い。あの若さで気に入らなければ出て行くという姿勢を身に付けさせるわけにはいかない」
一人一人に合った対応をしている。これは会社としては人事からの謝罪に匹敵するほどの譲歩だ。だが納得のいかない部分がある。
「部長。お話はよく分かりました。それぞれに対する個別の対応を考えてくださったことを感謝します。ですが一点反論があります」
大滝が眉を上げた。
「ジェロームはきちんと上司同伴で行き過ぎた言葉について謝罪を申し入れました。その彼に対する謝罪は受けていません」
「河野、あまり多くを求めないことだ。これ以上の騒ぎに発展するのは好ましくない」
「好ましく無いから彼に処分を下すんですか。確かに退席は良くなかった。ですがそれを誘発するだけの人事からの言葉があった」
「あれは、塩崎という一個人が喋った言葉だ。人事としてではない。現にその場にいた湯川から何度も両者に発言と行動の行き過ぎについて注意が出ている」
このままではジェイを救えない……
「そして、君への処分。監督不行き届き。部下に対する教育の甘さ。君が課長として果たして適任なのかという疑問の声が上がっている」
降格。それは視野に入っていた。覚悟もしている。けれどジェイは……
「さて。公の立場での話は終わりだ。ここからは私個人の考えとなる。君のこれまでの功績は大きい。君が例のトラブルの後を引き継いでから、徐々に信用を回復し、大口のクライアントも案件も増えた。部下からの人望も篤い。これはなかなか得られない財産だ」
封筒が3つ蓮の前に置かれた。
「読むといい。今朝届けられた」
広げて読み進むうちに目頭が熱くなる。
河野課長のお蔭で仕事に対する姿勢が変わりました。
自分を育ててくれたのは課長です。
課長の在り方が、今後の私の指針となります。
それが間違っているとのご判断でしたら今回の昇進を
お受けするわけにはいきません。
田中正志
河野課長に欠点があるとすれば、仕事に対する妥協が無さすぎる点です。
部下に前向きな姿勢と熱意を望み過ぎです。
しかし、上司としてこれほど部下を信頼してくれる人はいません。
これからも河野課長ほどの上司に巡り合えるとは思えません。
野瀬進一
今自分が力不足とは言え仕事に対する熱意を持ち続けているのは
河野課長の仕事と部下に対する姿勢のお蔭です。
課長の在り方が間違っているとする判断が会社にあるなら、
それは自分たち全員の在り方を否定されていることに他なりません。
私たち一同、課長と同等の処分を求めます。
池沢隆生
「他にこれだけの嘆願書が来ている」
ばさりとクリアファイルに入った書類が出された。
「後でゆっくり読むといい。そしてこの一枚。ジェローム・シェパードからだ。文面は短い」
手渡されたその一枚を握りしめた。
河野課長は私の全てを救ってくださいました。
今回のことは全て自分の不祥事から生まれたことだと思っています。
全部が悪かったとは思っていません。
公正な判断と処分をお受けします。
ジェローム・シェパード
「君はいい部下を持った。普通はそう言うのだろうな。でも私はそうは思わない。君はいい部下を育てた。これは君の作り上げた財産だ。」
大滝が姿勢を正した。
「今回のことについては、一切の処分を見送る。今後の君たちの在り方に期待する。二度目は無い。業務に真摯に向き合い、否と思われる部分があればこれまでと変わらず遠慮なく意見を聞かせて欲しい。私が君に求めるのは、やはり『清廉潔白』だ。これを私の公式見解として報告する。すでにそれは通るようにしてある。人事は処分される。これ以上を望むな。異動等は報告書を基に査定する。希望者は優先される。以上だ」
「ありがとう……ございました」
大滝のオフィスを辞した。しばらくそこで動けなかった。クリアファイルが重い。ここに自分に対するこれまでの評価が入っている。
自分のオフィスに戻った。蓮は躊躇いなくそのドアを開けた。しん と空気が止まる。蓮はクリアファイルを掲げた。
「一切、処分も人事との確執も白紙だ。異動等望む者は優先して考慮される」
歓声が上がった。蓮は敢えて皆に礼を言わなかった。書類を掲げ続けることが今の蓮の出来る精一杯の感謝だった。
―― 第2部 完 ――