
宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第3部
10.新生活
「ストーカーだな、完全に」
駅に迎えに来た蓮は、話を聞いていっそ警察に届けてしまおうかと思った。
「でも哲平さんがカッコ良かった。『俺の彼女に手を出すのか?』って」
「『俺の彼女』だ?」
「違うよ、本気じゃなくて……蓮、睨まないで。助けてくれたんだから」
「そうだけど」
その役は自分がやるべきだった。今さらだがそう思う。もちろん、相田にとって未知数の哲平がやったからこそ意味があった。それは分かっているけれど、蓮はどこか釈然としなかった。
(俺のいいところ、今回は全然ジェイに見せていない)
いつの間にかガキっぽい発想になっていた。
次の日、ジェイは千枝に頭を下げた。
「ありがとうございました。まさか哲平さんが来るとは思ってもいなかったです!」
「そう? 役に立った?」
「すごかったです、まるで映画見てるみたいでした」
「そんなに? 俺、くっついてって見れば良かった」
「え、哲平が活躍したの?」
池沢が話に加わって来た。
「そうなんです、あの人もう怖がっちゃって。哲平さん、空手やってるとか言って」
途端にみんなが吹き出した。
「空手ぇ? 哲平が? 歌で倒した方がいいんじゃないか?」
「チーフ、言い過ぎです!」
「ほら、千枝ちゃんが怒った」
三途川もからかう。
「で、その後こう言わなかったか? 『ホントに殴られたらどうしようと思った!』って」
花はなんでもお見通しのようだ。
「言ってました、それ! ヤクザみたいだったって言ったら、ちょうど映画見てたからって」
「相変わらず哲平さんの頭、軽やかだなぁ」
「花、あんたまで言わないで!」
「千枝ちゃんが怒るからそこまで。でもお蔭で助かったわね」
「はい。千枝さん、哲平さんにお礼伝えてください。もしこっちに来ることが出来たらウチに遊びに来てほしいです」
『ウチに遊びに』
言ったことの無かった言葉。嬉しくてつい笑顔になる。
そして引っ越しは土曜の午前中で終わらせようということになった。手伝いのメンバーは、蓮と池沢と花。三途川と千枝は夕食の買い出し。終わってからみんなで引っ越し祝いをやるつもりだ。
物は少ないが、冷蔵庫があることと行き先が8階。エレベーターに傷をつけてはいけないことなどから運送は引っ越し業者に頼んだ。だからあっと言う間に終わる。配置というほどでもない、大したものが無い。
「ジェローム、一つ提案なんだけど」
「何ですか、花さん」
「俺、電化製品なんか、リサイクルで金出して引き取ってもらう物がいろいろあるんだよ。二人分あるからさ、新居でダブるんだよね。それ使わないか? 余裕出来たら新しいのと買い替えればいいだろう?」
「本当ですか!?」
「お、食いついたね。あるのはテレビとオーディオだ。チェストとかテーブルとかソファとかも。今度、見に来いよ」
「テレビ!」
そばで片づけを手伝いながら、蓮は吹き出すところだった。、
「花、俺んとこにいる間、ジェロームはずっとテレビを占領してるんだ。お笑いに嵌ってるんだよ」
「ジェロームがお笑いねぇ」
「池沢、隣同士座って見てると面白いぞ。どこでも笑うんだ、ジェロームは。どこがツボなんだか分からない。終いにはテレビよりコイツを見て笑ってる」
(なんだよ、蓮、そんな風に見てたの?)
それでも嬉しい、殺風景な部屋が変わっていく。
この部屋は蓮の部屋と向きが対照的だ。だから初めて見るようで新鮮な気持ちになる。ピシッと貼ってある壁紙。綺麗にハウスクリーニングされた明るい部屋にクローゼット。もちろん、天井に染みなど無い。ぶら下がっている蛍光灯じゃなくて、壁のスイッチを押すと大きな電気でいっぺんに明るくなる。蓮の部屋でも味わっていたはずなのに、どうしてこうも違って感じるのだろう。
「これで終わりだな。2時だろ? 女性陣、来て驚くんじゃないか?」
「あれ? ジェロームは?」
「あいつ、バスルームとトイレ覗いて感動してる最中だ」
「マジ? だって課長んとこにいたんでしょ?」
「俺んとこと向きが違うからだとさ」
「らしいねぇ」
池沢の言葉に笑った。トイレから戻ったジェイがキョトンとしてるから尚笑う。
「お邪魔しま~す」
三途川と千枝が来た。
「え、もう終わったの!?」
「わぁ、物が少ない!」
「花さんにいろいろもらうんです。だから物が揃ったらまた来てください」
「お料理一緒にやろう。ずっと独り暮らしだったんだから上手でしょ?」
「千枝、止めとけ。腹壊す」
「課長!」
「こいつが作った茄子の味噌汁は、ダシが砂糖だった」
「うそ! 食えないじゃん!」
「あれは……ちょっと勘違いして」
三途川が手でジェイを追い払った。
「分かった、ジェロームは座ってなさい。今度勉強してからご馳走して。じゃ、手伝える人はよろしくね」
手作りの料理がどんどん並ぶ。ジェイが持って来た小さなテーブルでは足りないから、蓮は自分のテーブルを運んできた。みんなでわいわい食べた。ジェイに迷惑をかけちゃいけないと、アルコールは無しの夕食だ。一番美味かったのは、蓮の作った茶碗蒸しだった。ジェイのキッチンでは足りなかったから、自分のキッチンで作って持って来た。
「課長、スゴ過ぎ! 完璧な男って、モテませんよ」
「千枝ちゃんとこは完璧から遠いからモテモテね」
「三途さん!!」
「さて、ジェローム。これ、俺たちからだ」
「何ですか?」
「引っ越し祝い。いろいろ考えたんだけどさ、これにしたんだよ。開けてみろよ」
じわっと涙が出そうになって、ぐっと堪えた。ガサゴソと開けていく。
「これ……!」
「気に入ったかな」
置時計と、鉄アレイと、合気道の道場衣。
(頑張ったのに……)
とうとう涙が溢れてしまった。
「俺の勝ちっ!」
「ジェローム、早いよー」
泣きながらみんなの顔を見た。
「お前が祝いもらってどれくらいで泣くかって賭けしたんだよ。1分以内って言ったの俺だけ。お蔭で月曜にみんなからコーヒー奢ってもらえる」
「俺には花さん、奢ってください」
「なんで! 泣きながら何言ってんだよ」
「俺が泣いたから飲めるんでしょ? だから」
「言うようになったねぇ」
「チーフ、何喜んでんですか。こういうの生意気になったって言うんですよ!」
(ジェイ、良かったな。本当に良かった! 自分の生活も楽しまなきゃな)
少し寂しいけれど、ジェイには必要なことだったと蓮は思う。ジェイの笑顔が嬉しかった。
「じゃ、またな!」
「明日はのんびりしろ。月曜からまた頼むな」
「課長、ご馳走さま。 またよろしく!」
「勘弁してくれ、こんなの今日だけだ」
「あら、残念」
「哲平の時間が空いたら一緒に来るね」
静かになった。
「俺、キッチン片付けなきゃならないから戻るよ。少し横になれ。疲れただろう」
パタン
周りを見回す。
(今日から俺の家……)
急に本当のこととは思えなくなってきた。立ち上がってあちこち見て回る。空っぽのクローゼット。真新しいバスルーム。落ち着いた淡いベージュの壁紙。白い光を放つ蛍光灯。
パチン、パチン、パチン
点けたり消したり。テーブルをどかして大の字に寝転がった。
(俺の家)
ムクッと起き上がる。隅に積んだダンボールを開けた。タンスに入れっぱなしにしていた服を出した。持ってきた針金のハンガーにかけてクローゼットにかけていく。そんなに無い。
「クローゼットに服をかけたよ、母さん」
ゴミ箱を壁際に置いて眺める。
「あっちがいい」
場所を動かして、また眺める。
「こっち」
また、動かす。どかしたテーブルが気になる。
「えと……」
あちこちに置いて元の場所に戻した。
「今はこれでいいや」
そんなことで2時間近くが経って、外は暗くなっていた。
コンコン
チャイムじゃない、ノックだからジェイだと思った。開けるとやっぱりジェイだ。シャワーを浴びたのだろう、髪が濡れている。思わず引き入れた。
「何やってるんだ! 風邪引く!」
「あの……寝せて」
蓮の息が止まった。自分の部屋に持っていった枕を抱いている。目の前に立っているのは、枕を胸に抱いた大きめのパジャマ姿のジェイだ…… そのまま口づけた。長い長い優しいキス。やっと離してジェイを胸に抱いた。
「お前、ずるいぞ」
「なんで?」
「それじゃダメだなんて言えなくなる」
「ダメだったの!? もう来ない方がいい……?」
「ばか、違う」
もう一度口づけた。
「初日なんだから自分の部屋で寝たいだろうと思ったんだ。テレビが無いから寂しくなったのか?」
「……蓮がいないから……」
「俺?」
「あっちの部屋には蓮がいない」
(もうだめだ、お前が欲しい)
今度は激しいキス。枕が落ちた。壁に押し付けてシャツに手を入れる。気が急く、欲しくて堪らない。
は……ぁ……
やっと蓮が離れたからジェイは喘いだ。捲りあげた胸に這う唇……
ぁ、あ……
尖り始めた先に舌が立つ。ジェイの手が蓮の肩を掴んだ。あちこちを滑る唇に体が震える。そのままズボンも下着も落ちて、勃っている昂りが柔らかいものに包まれた。
あ! ぁ……ぅ
腰がくねり、逃げようとするのを捕まえる。
「れ……ベッドに、おねがい、べ……」
ベッドに横たえられてジェイは乱れた。いつもと違う、一緒に寝れない日もあるかもしれない…… その想いがジェイを突き動かす。
もっと……もっと、もっ……
せがまれるから蓮も追い詰められる、イかせたい、イきたい……
2度目はゆっくりと愛し合い、夜中に目が覚めてまた相手を求めた。
も……も、だめ……ああ……んふっ
その口を自分の口で塞いで、蓮は3度目の絶頂に追い上げた……
疲れていたせいもあって二人とも寝過ごした。気がつくと携帯が鳴っている。
「ジェイ……ジェイ、お前の携帯だ」
携帯だけは掴んで来ていた。それは玄関に落ちていた。
「う……ん、けいたい?」
やっと起きて取った。
「はい」
『ジェローム?』
「はい……花さん?」
『そ、俺。今さ、下に来てるんだよ。お前生活にすぐ必要なもんあるだろ? もし良かったら今から俺のマンション、見に来ないか?』
「あ、あの! 少し待っててもらえますか!?」
『いいよ、慌てなくても……あ! ごめん、彼女来てたか? そうだよな、初めての新居だから泊まりに来てんだろ』
「ちが! 違います、一人です、ちょっとだけ待っててください!!」
「どうした?」
「花さんが下に来てる!」
「え!? 上がってくるのか!?」
「待っててくれてる、テレビとかくれるって」
「早くシャワー浴びろ!」
飛び込んで3分で終わらせた。蓮から飛んできたタオルをキャッチする。歯ブラシしている間に蓮がドライヤーで軽く髪を乾かしてくれた。服はまだ蓮の所にあるから見繕って順番にソファに乗せてやる。それを端からジェイが身に着けていく。
「これ!」
蓮が2万渡してくれた。
「ありがとう!」
「気をつけてな」
残った蓮は座って一息ついた。
「まるで子どもを送り出した後みたいだな……」
この一週間は楽しかった。夜は蓮のところにほとんど行った。帰りが遅い時は自分の部屋でメールが来るまでごろごろする。寂しくなると蓮の部屋に行きテレビを見る。
(贅沢な気分……)
味わいたかったこんな暮らし。手放したくない蓮との生活。両方をいっぺんに味わっている。
(花さんからもらうテレビとかが今度の土曜日に着くんだ)
頭の中で何度も配置を考える。テレビがついていてもそのことで頭がいっぱいだった。届くのは、テレビ、オーディオ、ソファ、洒落たテーブル、食器棚、本棚。つまり、ジェイの暮らしに欠けているほとんどの物を花からもらえることになっていた。
(どうしよう……決まらない)
どう置くか。それがこの一週間のジェイのテーマだった。
あれきり相田の姿を見かけていない。本当に縁が切れたような気がする。心が軽い。それはみんなも同じ思いだった。チームワークで撃退したようなものだったから。
ジェイのあの子どものような笑い声や不貞腐れたような顔が、以前よりも見えてきた。徐々に本当のジェイの姿が現れてくる。
砂原はそのことに苛立っていた。
(みんなあの子に甘いのね。課長なんか特にそうよ。なんであんな顔をあの子に向けるの?)
拒まれた自分。受け入れられているジェイ。それが理不尽のような気がしている。
土曜日の昼に配送業者の車が来た。窓からそれを見てジェイは階段を駆け下りた。エレベーターが来るのが待てないから。部屋には蓮がいてくれている。今日は花は来ない。大物が無くなったから掃除をして新居に行くのだと言っていた。
「ありがとうございました!」
配送業者に礼を言って階段を駆け上がった。
「先に荷を解いてるぞ」
「ありがとう! 俺、困ってるんだ」
「何を?」
「どこにどれを置いていいか分からなくて」
花の持っていたものはどれも洒落ていたり、高そうだったり。
「それは自分で考えるんだな」
蓮は面白そうに言う。
「だってこんなにあるんだよ? 決めるのに何日もかかるよ」
「いいじゃないか、何日かかったって。お前の家だ、好きなようにすればいいんだ」
「何日も?」
「いっぺんに決められないんだろ? なら時間をかけて考えればいい」
まるでオモチャをもらったような気分だ。
「今日は取り敢えずにしとけよ。暮らしていて不便だったりしたら動かせばいいんだ。カーテンとか他の物はいつ買いに行くんだ?」
「まだ決めてない」
「車のことも考えなくちゃな」
次々に考えなくちゃならないことが増えていく。当分ジェイは忙しそうだ。
蓮がジェイの部屋に行ったりジェイが蓮の部屋に行ったり。そんな暮らしが始まった。けれど、抱き合うのは蓮の部屋でだ。蓮はジェイの住まいにそういうことを持ち込みたくなかった。それより、和気あいあいと仲間を呼んで騒いでもらいたい。
花が2度ほど来てオーディオの使い方を教えてくれた。レンタルで借りたCDで初めてのダビングをする。これから買う車の中で聞きたい。けれどそれ以前に聞きたい曲を選ぶのに二人であーでもない、こーでもない。どうでもいいお喋りばかりで進まない。花が一つ提案した。
「カラオケで歌えるレパートリーを増やしたらどうだ?」
後はアドバイスをもらいながらすんなり選べた。花は素直なジェイが可愛くてならない。それからしばらくはダビングに夢中になった。
休みの日に蓮に連れられて車を見に行った。今日は下見。本当に買うのは会社の提携先。その前にどんなタイプがジェイの好みかある程度対象を絞りに来た。選び方の勉強も兼ねている。
「高い!」
真っ先に新車を見てしまったジェイは絶望的な声を上げた。
「こっち。こっちに来い」
連れていかれた場所にはホッとするような金額の車が並んでいる。
「今日は好みをいくつかピックアップするだけだ」
「蓮と同じでいいよ」
「いいからいろんな車を見てみろ。まるで違うんだぞ」
「どう選んだらいい? あそこにあるのは17万だって!」
「あまり安いのはどうかな。事故車ってこともある」
「事故車?」
「事故を起こして売られた車ってことさ。人を撥ねたとか」
「えぇ! そんなの売ってるの?」
「商売だからな」
「どれくらいを目安にしたらいいんだろう?」
「そうだな……40万ってところかな。オプションも入れて50万くらいか。どうせ買い替えるんだからと思えばいいよ」
それなら蓮に出してもらわなくても何とかなるかもしれない。
「貯金は崩すな。クセになる。それより河野銀行から借りてローンで支払え。正直ローンだぞ」
「河野銀行って……蓮のこと?」
「まあな」
「利息は?」
耳元で囁いたら真っ赤になった。小さい声で言い返す。
「外でそんなこと言わないでよ! 夜払えなんて」
お勧めは? と聞いても、蓮はフィーリングで決めろとしか言わない。あれこれ覗いて、候補が3台出た。
(何十万って買い物するんだ……)
一人になった時、そんなことを考えて現実とは思えなかった。
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