J (ジェイ)の物語」

​第3部
12.赤

「ジェローム、飯!」

 考え事をしていた。だから花に声をかけられてビクッとした。
(そうか。やっぱり何かあったんだな)

「フェアリー、行くぞ」
「え、いいんですか?」
「俺、今太っ腹。だから奢ってやる」
「あら、花! 私には奢らないの?」
「俺より給料ある人には奢らないですよ、失礼になるから」
「そんな失礼だったらいくらでも受けていいけど」

にっこり笑う三途川に花はにっこり返した。


 黙々と歩いた。いつの間にか考え事の迷路に踏み込んでいる。

「今日は何を食うんだ?」
「え?」
「デザート。何にするかって聞いてんの」
「まだ決めてないです」
「じゃ、お前フルーツパフェ食え。俺、どうしようかな」
「花さん、デザート食べるんですか!?」

(深刻な顔してたのにそこには食いつくのか)

「何だよ、食っちゃ悪いか?」
「いえ、珍しいなって」
「あんまりいつも美味しそうな顔してるからさ、ちょっと食ってみる」

そして花は後悔した。

 

「これ、無理だ……」
「なんででふか?」
「スプーン咥えずに喋れ」
「なんでですか?」
「上から下まで甘い」
「当たり前じゃないですか、デザートなんだから」
「お前に騙された。これ、お前払えよ、あとやるから」
「そんな……」

花のペースですっかりいつもの自分に戻っていた。

「お前さ、昨日帰りなんかあった?」
「帰り?」

ドキリとする。

「別に何も」
「そ、ならいいけど」

ほっとした、あまり突っ込まれない。

「で、相田、相変わらずだった?」

 

 手が止まった。ストレートに聞かれて固まってしまった。

「そうか、やっぱり相田か。なんで一人で帰ったんだよ」
「あの、用があって」
「付き合うから。だから一人で帰るな。もうすぐ車買うんだろ? それまででいいから」
「はい……」
「お前を束縛してるみたいでさ、悪いなって思うしお前もイヤだろうし。けどちょとだけ辛抱しろよ。な?」
「はい」
「あんまり言いたくなかったけど」

花はパフェの器を横にどかして手を組んだ。

「ああいうのって病気だ。お前は厄介なウィルスにひっ捕まったんだ。そこ自覚した方がいい。甘く見たらだめだ、一人になるな」
「はい」


 支払は花がした。

「俺も払います」
花がちょっとつついたパフェも平らげたし。

「いいよ。奢るって言ったんだから奢る」

花は頑固だからこれ以上何か言えば本気で怒りだすだろう。

「ありがとうございます。ご馳走さまでした」
「よくあんなもん、2つも食えるよなぁ。呆れるよ」
「美味しかったですよ」

 昼間だし、花がいるし。デザート食べたし。やっとジェイは気持ちが解れた。今日は、いや自動車通勤になるまで一人になるのは止めよう。そう思った。


フェアリーを出て右に向かう。

「あ、ちょっと待ってろ、そこの自販のコーヒーが好きなんだ」

ほんの数歩の距離。ガタンと落ちたコーヒーを取って花が振り向いた。

「ジェロームっ! 逃げろっ!」

 

 

 スローモーション。

 声に驚いてジェイの動きが止まった。チクリと手に痛みが走った。花がジェイを突き飛ばしそこで全てが止まった。


 アスファルトに赤い雫が垂れた。

 

 

 

 

 

「はな……はなさ……ん、花さんっ!!!!」

 倒れるのだと思った。花が倒れると思って、突き飛ばされたジェイはよろりと立ち上がった。


 にやっと笑った相田が花にのしかかる、その時に花の体がすっと沈んだ。次の瞬間、相田の体が宙に浮いた。アスファルトに叩きつけられ相田は気を失った。

 

「花さん、花さん……」

腕から血が流れている。座り込んだ花が左腕を押さえた。その横に膝をつく。わなわなと震えているのはジェイの方だ。

「血、が……」
「うん、ちょっとやられた。お前は? どこか刺されてないか?」
「俺は、たいしたことないです、花さんが……助けてくれたから」
「泣くなって! 大丈夫だから。くそっ、コート着て来りゃ良かった。でもスーツがクッションになったんだ」

 

 ジェイは我に返って携帯を取り出した。体も携帯を持つ手もガタガタと震えている。ナンバーを押すのに時間がかかる。蓮の声が聞こえた途端、涙が止まらなくなった。

『どうした?』
「花さんが、花さんが」
『花がどうした?』
「刺されて、相田に……」
『え!? 今どこだ!?』
「フェアリーの、前……」
『すぐ行く!』

 

 警官が走ってくるのが見えた。この通りの反対側に交番がある。誰かが知らせたのだろう。警官が来てすぐに蓮と何人かが走ってきた。会社から走って3分かからない。ワイシャツ姿のままの蓮の体にジェイは飛びついた。蓮は震える体をしっかり抱きとめた。

「花、大丈夫か!?」
「はい……大丈夫、です」

声が震える。けれど蓮の声を聞いてほっとした。

 警官が相田の手にある包丁を取り上げている。手錠をかけられた相田がみじろぎをした。脳震盪でも起こしているのだろう、起き上がれずにいるらしい。もう一人来た警官が周囲の人に声をかけ始めた。話を聞いては連絡先をメモしている。何人かの人は残ってくれた。

 ジェイにはその光景がまるで夢の中のように揺れて見えた。自分は遠いところにいるような。

 

 救急車の音を聞いて花が露骨にイヤな顔をした。遅れて来た池沢が花と少し喋って小さく肩を叩く。蓮は震えているジェイに囁いた。

「ここにいろ。いいな?」
頷くのを確認して花の元に行った。

「何があったんだ?」
「そいつがジェロームの真後ろにいてチラッと光るもんが見えたんですよ。で俺が投げ飛ばしたんです」
「腕……」
「強がり言いません。痛いです、マジで。でも救急車はごめんです」
「そう言うな。ちゃんと手当てしてもらって来い」

警官がそばに来たからちょっと離れた。
「貴方は?」
「被害者の上司です。これからどうすればいいですか?」
「病院で手当が先ですね。それから事情聴取をします。そちらの彼も手当てが必要みたいですね」

驚いて振り返った。花ほどじゃないがうっすら手から血が流れている。
「俺は平気です、ほんのちょっと掠っただけ」
声がまだ震えている……

「えらいことになったなぁ」
野瀬がぼそっと呟いた。
「池沢!」
「はい!」
「お前、病院について行け。俺は部長と話をするから」
「分かりました」

「お前も行くんだジェローム。ちゃんと傷を見てもらえ」
「でも」
「いいから行くんだ。花が一緒だ。池沢もいてくれる。警察から話も聞かれると思う」
「どこまで……話していいの?」
「全部いいよ。お前は被害者だ。こうなったらどこまで話しても同じだ」
「……うん」

 

 池沢が嫌がる花を説得して救急車に乗せ救急隊員と話をしてきた。振り返りながらジェイも救急車に乗った。

「課長、矢田総合病院だそうです。俺、車で向かいます」
「頼む」

池沢は駐車場に走って行った。相田は救急車の後から到着したパトカーに乗せられて行った。

「参った! とうとうこうなってしまったか」
「こればかりは防ぎようがありません。昼休みも行き帰りもそばについていて、その真昼間に襲われたんですから」
「分かっている。誰にも落ち度は無いよ。しょうがない。しばらくはマスコミがうるさいだろうな。……部署内に戒厳令を敷いておいてくれ。余計なお喋りをしてほしくない」
「分かりました」
「全社的にも周知させておく。いや、しかし参った!」

何度目かの『参った』を連発し、大滝は腕を組んだ。
「二人のケガは?」
「元気でしたから。たいしたことは無いと思います」
「不幸中の幸いだな。通行人にもケガ人は出ていないし、被害が最小限で済んだのは良かった」
「ええ。今はいろんな事件が多くて人の心もすぐに次のニュースに移りますから、しばらくの辛抱だと思います」
「後は上の連中と話す。君はオフィスに戻ってくれ」
「はい」

 出て行こうとした蓮を大滝が呼び止めた。

「二人には会社の弁護士をつける。何も心配しなくていいと伝えておいてくれ」
「ありがとうございます」

 報告も終わって一息つき、やっとジェイのことを考えることが出来た。
(しばらく目を離さないようにしないと)
どんなにショックを受けているか。花は大丈夫なように見えた。。見てくれと違って肝が据わっている。だがジェイは心が脆い。前にも増してそばにいてやらなければならない。
(お前が心配だ、ジェイ……俺がついてるからな)

 

 もう業務が始まっている時間だが、社内は騒然としていた。真っ直ぐオフィスに戻って、みんながいるのを確認する。

「聞いてくれ。噂が先行して話が膨れ上がってほしくないからちゃんと伝える。今、花とジェロームは病院に行った。池沢が付き添っている。すぐ分かることだから隠さずに言う。相田がジェロームを刺そうとして花がそれを助けた。その時に二人は負傷した。花の憎まれ口を聞いたから、ケガはたいしたことなさそうな気がするが、報告を聞かないと分からない。事実としては以上だ。マスコミがうろつくと思う。憶測で物を言ってほしくない、特に社外では。俺は『関係者の証言』とかそんな類を聞きたくない。いいな?」

「あの……」
「なんだ、井上」
「なぜ相田さんがジェロームを刺そうとしたんですか?」
「ここが大事なところだ。俺は憶測で話したくない。今は起きた事実しか分からない。本人のプライバシーもある。なぜ被害に遭ったのに何もかも曝け出さなきゃならない? 俺は被害者が誰だったとしてもそういうものから守りたい。そういうことだ」
「分かりました。すみません」
「気持ちは分かるんだよ、井上。みんなもな。だが俺たちだけでも守ってやろう。これからあちこちから突かれるのはジェロームなんだから。あいつの性格からしたら耐えられないだろう」

それにはみんなも頷いた。

「じゃ、業務に戻ってくれ。こんな時だからこそ気合入れてやっていこう。きっとガタガタして支障が出るだろうからな。ヘルプは池沢チームが主になるが他のチームも必要なら言ってくれ。そこに俺が入るから」
「分かりました」
「池沢チームはチーフが戻るまで、三途、お前に任せる」
「了解です」
「全体をフォローするのに、野瀬、お前が俺の補佐についてくれ」
「は、はい!」

 


(結局課長が全部引っ被るの? おかしいじゃない! なんなの? 騒ぎばかり起こして。迷惑かけてるって分かってるの?)
 砂原に腹の底から怒りが湧いてくる。なぜみんな分からないのだろう。たった一人のために大勢が振り回されているということを。

「河野課長だから良かったよな。これ、他の課長ならチームはもう潰れてるよ」
和田の言葉に反応した。
「何でですか? 課長、大変じゃないですか、こんなスキャンダルが起きて。余計な仕事まで抱えて」
「ああ、砂原さん知らないから。課長なら大丈夫ですよ。このR&Dが出来た時、酷い状態から始まったんです。顧客はそっぽ向くしチームの連中は反逆児ばっかりだったし。それまとめてここまで引っ張ったのは課長ですよ。だから鬼って言われてんです。上にも負けないし」

それでも納得はいかない。
(いっそ……辞めさせてしまえばいいのに)

 4時頃になって、池沢がジェロームと左腕を三角巾で吊った花を連れて帰ってきた。

「戻りました!」

 みんながざわめく。
「こっちに戻って良かったのか? 花」
てっきり自宅に帰るものだと思っていた。
「俺も言ったんですがね、無理です、こいつを説得するのなんて」
「俺が仕事するって言ってんですからそれでいいじゃないですか」
「分かった、分かった。3人ともミーティングルームに入ってくれ」

野瀬がみんなに声をかけた。
「お前ら、手を止めるな! 仕事しろっ!」


「で、ケガはどうなんだ?」
「俺は8針縫って全治3週間。ジェロームは5日間。どっちも超大事を取ってっていう話で。俺はいいです。こいつのケアは必要です」

ジェイはいまだに夢の中にいるようだ。蓮は花に頷いた。

「他には?」
「警察には事実確認以外、たいしたことは聞かれてません。後日改めて呼び出しがあるんで、多分そこでじっくりってことじゃないかな」
「二人には会社から弁護士がつくそうだ。だから心配しなくていい。弁護士の指示に従えばいい」
「帰りに襲ってくりゃ良かったんだ。なまじ真昼間だから大騒ぎになって、何をとち狂ったんだか。課長、こいつ昨日も絡まれてるんです。それを袖にされ逆切れしたんですよ、きっと」
「やっぱりそんなことだったのか……言わなきゃだめだ、ジェローム。俺とチームの連中には隠し事するな。お前のことだからどうせ迷惑かけるとか思ったんだろう?」

返事が来ない。

「よし、分かった。花、加減して帰れ。池沢、三途と上手いこと仕事を進めてくれ。後で俺も入る。ジェロームはちょっと俺と来い」

 

 人目を引くから外に連れ出した。それでなくても喋りたくて堪らない連中は社内にはいるだろう。外の喫茶店に連れて行った。

「ジェイ、しっかりしろ。今日はのんびり仕事していい。一人で帰るな。俺が仕事終わるまで会社で待ってろ」
「俺のせいで花さんが……」
「花はそう思ってないよ。お前を助けられたことが嬉しいんだ。そういうヤツだよ」
「でも……」
「あまり思い詰めないでくれ、そう言っても無理だろうが。いいか、お前には俺がいる。一人にはしない。ずっと一緒にいよう。昼食べに行くのがキツいなら朝何か買ってこよう。どうせ俺だって自席で食べるんだから。外には出たくないんだろう?」

本当は家に帰したいし、休ませたい。けれど一人にするのはもっと怖い。

「一人じゃない。いいな? お前には俺もみんなもついてるから。何かあったり不安になったら全部言うんだ」


 オフィスに戻るとちょうど花がキレていた。

「あのさ! 俺をチラチラ見るより仕事してくんない? これでここの評価下がるの、溜まんないんだけど! 俺、プライドあるからさ、こんなんでケチつけられたくないんだよ!」

「どうした?」
「別に。みんなの目が鬱陶しかっただけ。あ、浜田さん!」
「な、なんだよ」
「あれこれ喋り回んないでくださいね! 俺そういうの嫌いだから」
「分かってるよ! 喋らないよ!」
「あんた、一番信用出来ないから」

 どうやら花は毒舌モードに入っているらしい。入社したころはこれが日常だった。浜田も無駄に花を刺激しちゃいけないことを思い出したらしく、文句も言わなかった。
(こいつも気が立ってるな。無理も無いが)
花にもケアは必要そうだ。そう思う。

 

 池沢を手招きした。

「ジェローム、2、3日ダメかもしれない」
「承知してますよ。大丈夫です」
「俺がヘルプに入る。仕事は前倒しで行く」
「げ! それ……」
「四の五の言うな。戻れ」

戻った池沢は小さい声で言った。

「課長が入るって。仕事、前倒しって言われたぞ」
「えぇ、それ地獄」
「千枝、余計な事哲平に言うなよ。あいつ、インドを蹴りかねない」
「分かりました」
「言いそうだな、お前」
「努力します、言わないように」
「三途、そのつもりで」
「はいはい、前倒しね。了解」

 花を見るとワイシャツ姿で腕も吊っていない。
「おい、無理するな」
「あれ、ストレスになります。腕は自由じゃないと」
「お前はピッチ上げなくていいから」
それにはジロっと見上げられたから池沢は黙った。
(こいつ、分かってんのかな。課長に一番似てるの、お前かもしんないんぞ)

 ジェイは口も開かずデスクから離れず、ただひたすらキーボードを打った。池沢も単なるデータ入力だけをジェロームに回した。口を利かないジェロームが心配だった。

 

 池沢が花を送っていくと言ったから蓮は安心した。
「花、彼女のところに帰るんだろ?」
「そうですけど」
「池沢、悪いがお前から謝っておいてくれ。危険な目に遭わせて済まなかったと。本当は俺から言うのが筋なんだが」
「いいですよ、そんなの」
「そうは行かない。結婚前にお前を傷ものにしたんだ」
「傷ものって……」
「分かりました。きちんと頭下げて来ます」
「頼む。花、日曜の結婚式、大丈夫か?」
「こんなんでドタキャンしたら殺されます」
「そうか。今日はありがとう。お前のお蔭で助かった」
「最近そう言われるの多くて……照れます」
「め、珍しい! 花が赤くなってる!」
「うるさいです、チーフ!」


 きっと二人賑やかに帰るだろう。
(本当にあれで済んで良かった……花に何かあったら……)
花に申し訳ない。彼女にも申し訳ない。そしてジェイも一生消えない闇を心の中に抱えていただろう。
(ゾッとする……)

「ジェイ、もうしばらく待てるか?」
静かにジェイは頷いた。
「多分打ち合わせは30分位で終わる。すぐ戻るからな」
また頷くのを見てジェイの頭を撫でてオフィスを出た。廊下で砂原とすれ違った。

「どうした? 帰ったんじゃなかったのか?」
「忘れ物を思い出して」
「そうか、気をつけて帰れ」
「はい」

蓮は足早にエレベーターに向かった。

 砂原は本当に忘れ物をしてオフィスに戻った。けれどそこでぽつんと座っているジェイを見た。デスクから小さなスケジュール帳を取って出ようとした。そこで止まってジェイのすぐそばに立った。

「何をしてるの?」

無表情にその声に顔を上げた。

「あなた……どうして課長に迷惑ばかりかけてるの? みんなにもよ。今仕事大変なの…に…あんなに課長大変なのに。分からない? あなたのせいで課長倒れるかもしれない。あなたみたいに働かない人のせいで仕事が行き詰ってるの! それを課長が穴埋めしてるのよ! 自分の働きに見合う会社にでも移ったらどうなの!?」

ジェイの頭の中にその言葉が意味もなさないまま反響した。

「砂原さん、どうしたんですか? 怒ってるんですか?」
「ま……! バカにしてるの!? あなたのせいで課長が……あなたなんかに分からないわ、課長がどんなに一生懸命か…… あんなにいい人なのに、邪魔ばかりしてるあなたなんかに分からない……」

泣きながら砂原は出て行った。

「俺……蓮のこと分かってないってこと?」

ゆっくり砂原の言葉が形を取り始める。

『自分に見合う会社に』

「蓮……俺が一緒に働いてるから苦労してるんだよね……みんなに知られちゃいけないし……俺の迷惑の穴埋めしなきゃならないし……みんなに迷惑かかってるし……俺、いつも邪魔ばかりして」

ふらりと立った。

「ここにいちゃいけないんだ……」

そして思った。

(どこに帰ればいい? 母さん、どこに……)

 


 思ったより早く打ち合わせが終わった。

「ジェイ! 帰るぞ! ジェイ!」

(トイレにでも行ったか?)
席を見ると鞄がある。最後に見たジェイはワイシャツ姿だった。その上着も椅子にかかったままだ。自分の支度をしながらジェイを待った。

 オフィスを出た。トイレを覗く。4階に下りた。誰もいない。
(あいつ、どこに行ったんだ?)
携帯をかけてみた。呼び出し音が留守番メッセージに変わる。
(どうした? ジェイ、どこに行った?)
だんだん不安になってくる。駆け上がってオフィスに戻った。やはりいない。ジェイの上着を掴んで外に飛び出した。鞄なんかどうでもいい。

(まさか田舎に行ったんじゃないだろうな!?)
でも、上着も着ずに…… 持っている上着の傾きで内ポケットを探った。
(財布がある……)

何を考えて消えた? 不安が増した。多分複雑にものを考えてはいないだろう。シンプルに駅へと走った。普段と変わりない行動をするはずだ、呆然としているなら。

 


 駅が見えてきて蓮は足を止めて膝に両手をついた。動悸がなかなか収まらない。駅の階段の下にジェイはいた。顔が空を仰いでいる。それは当てもなく空の下をさまよっているように見えた。まるで迷子のように。白いワイシャツのままだ。コートを着ている人たちが足早に行き過ぎてはジェイを振り返って見ていた。静かにそばに近づいた。

「ジェイ、帰ろう。ほら、こんなに体が冷えている」

体を擦ってやり、上着を着せた。蓮に向けた顔には涙が流れていた。

「さ、会社に戻ろう。車で帰ろうな」

蓮の成すがままに歩き始めた。

「花なら大丈夫なんだぞ。池沢が送っていった。元気に帰ったよ」

静かに話す声に応えが無い。

「疲れたか? 今日は早く寝よう。しばらくはずっと一緒に寝ような」


「俺」

足が止まった。喋ったことに蓮はホッとした。

「会社、辞める」

​.