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J (ジェイ)の物語」

​第3部
14.守りたい

 午後の部長面談は藤野弁護士の紹介が主だった。40代前半のやり手。紹介されてすぐに花が尋ねた。

「藤野さん、ストーカー事件やレイプ事件を担当されたこと、ありますか?」
「残念ながら無いですね」
「今回の事件、ジェロームを守っていただけるんでしょうか」
「そのために来たつもりですが?」
「こんなことを言ったら失礼になると分かっています。藤野さんにも大滝部長にも。それでも言わせてください。こういう事件では勝つことに意味、無いです。被害者本人をどこまでも守っていただきたいんです。真実が必要なわけじゃないです」

「裁判というものはね、」

「傷害だけならいいです。でもそれ以外のことにまで波及するとなるとこういう問題を扱い慣れている弁護士さんが有難いです。お願いします。こいつを晒し物にするような裁判ならやらない方がマシです」

 花は粘った。根気よく頭を下げた。その内花の真剣な態度に藤野弁護士が微笑んだ。

「ちょっと失礼します」

携帯を取って部屋を出ていく。

「君の気持ちが伝わったようだね」

大滝部長の声には(良かった!)という響きがあるように感じた。

「ありがとうございます。無理を言いました」

「いや、大事なことだな。私も事件の方向性をもっときちんと言って依頼するべきだった。済まない」

そこへ藤野弁護士が戻って来た。

「お待たせしました。私のパ―トナー、西崎紀子という弁護士が受け持ってくれることになりました。彼女は女性社員が被害者になる性犯罪を何度か手掛けています。頼りになる弁護士です。彼女なら彼みたいなケースを安心して任せられると思います。それでいいですか? 大滝部長、宗田くん」

「有難い。助かりますよ。よろしくお願いします」

「我が儘を聞いてくださってありがとうございます!」

花は深々と頭を下げた。藤野弁護士は頷いてくれた。
「では、彼女と早めに面談できるように予定を組みましょう」


「花さん……俺、何から何まで助けてもらって……」
「たまたま同じような目に遭ってたからな。あんなイヤな思い出だってこうやってお前の役に立てれば意味があったかもしれないって思える。礼を言いたいのは俺の方さ。やっとあのことに向かい合う自信がついたような気がする」

 その後はブルーバード宅配の資料をまとめることに専念した。仕事に没頭していれば救われる気がした。
(俺……やっぱり仕事から離れることなんか出来ない)
 砂原が自分を嫌っているのだけははっきり分かったが、その原因に心当たりは無い。けれど、今はもうそんなことはどうでも良かった。あの相田の笑い顔から逃げたい。声から逃げたい。この恐怖から逃げたかった。

(困った……)
 毎年この日には頭を抱える。自分の誕生日など放っておいてほしいと芯から思う。

(手編みとか手作りとか。どうしろって言うんだ、この俺に)
 バレンタインのチョコならホワイトデーでチャラに出来る。だから気が楽だ。けれど誕生日のプレゼントほど厄介なものはない。
(いいか。来週菓子でも買って渡そう)
デスクの上に乗った包みの山を見てため息をついた。周りのメンバーはにやにやと笑っている。

「課長、今年もすごいじゃないですか」

 哲平がいないから静かに終わるかと思うのは甘かったようだ。このオフィスにはなにかあれば放っておかない連中がうんざりするほどいる。今は澤田だ。一番目立つキラキラした金色の包装紙の包みを取り上げた。大きいし真っ赤なリボンにバラの花が一輪ついている。

「中身、なんですかね。ここで開けませんか?」

周りの連中も振り返る。興味津々という顔だ。蓮は真面目な顔で答えた。

「お前が今夜俺に自棄酒を奢ってくれるって言うなら開けてやるよ」

みんなこういうことを蓮が本心からイヤがっているのを知っている。だからこそからかいにくる。井上がいつものように大きな手提げ袋を持ってきていくつものプレゼントを入れてくれた。

「後ろに置いときますね」

「悪いな、いつも。助かるよ」

ため息交じりの声に井上は笑って、周りに聞こえないように答えた。

「大変ですね。課長だけですよ、こんなにモテてるのは」

「イヤなこと言うな。花が羨ましいよ」

 

 花が初めてプレゼントをもらった時の話は有名だ。プレゼントを持って来た女性の目の前でさっさと開けるとお洒落な一輪挿しの花瓶を手に取った。

『なに、これ』

『花瓶なんです、一輪挿し用の』

『見りゃ分かるよ。なんでこれを俺がもらわなきゃなんないの?』

『家で使ってもらいたいと思って』

『俺が? 花買って帰れっての?』

『そうしてるだろうな、って。薔薇の花とか買って帰るイメージが……』

『わ、キモい! 本気で言ってんの? 妄想すんのそっちの勝手だけど俺を巻き込むなよ。迷惑でしかないし、こんなことされるとマジ、ムカつく。趣味悪いもんをウチに持ち込む気無いんだよ。要らない」

破いた包装紙ごと相手に突っ返し、それ以来誰からもプレゼントをもらっていない。

(立場上、そんな過激なことできないもんな……)

「あの、課長」

そんなことを考えているところへ声をかけられた。砂原だ。

「ん? どうした?」

「今日、お誕生日だと聞いて……これ、良かったら使ってください」

(おい……)
他のフロアの女性からならあまり顔を合わせずに済むからまだいい。けれど自分の部下からだと話が違う。まして砂原の意図が見え隠れするから余計に困る。

「砂原、有難いがこれは受け取れない」
「どうしてですか? 他の人のプレゼントは受け取ってらしたじゃないですか!」
「この前言ったはずだ、お前と俺は上司と部下の関係だ。それ以上でもそれ以下でもない。これをくれた子たちには、来週菓子を買って渡すつもりだ。お前もそれで構わないか? それなら受け取るよ。この袋に一緒に入れて持って帰る。お返しのリストにお前の名前も入れておく」

蓮は後ろにあるプレゼントを突っ込んだ袋を指差した。

(あの中に? リストに載ってお返しを受け取る……それじゃプレゼントじゃない。課長はどうして私を避けるの!?)

「お前だけじゃない、俺は部下からは誕生日もクリスマスも何も受け取らないことにしている。みんなに聞いてくれて構わない。別にお前だけという訳じゃないんだ。分かってほしい。お前のを受け取ることによって、ここの女性の中には自分もするべきかと考えてしまう者が出るかも知れない。そういうことは避けたいんだ」

唇を噛みしめる。言うことは分かる。でも自分の気持ちも分かってほしかった。

「私……課長のことが」
「悪いな、今から会議なんだ。仕事の相談ならいつでも聞く。中山と一緒に3人で考えよう。あいつは君らのチームのチーフ代理だからな」

 包みを持ったまま砂原はオフィスを出て行く蓮の後姿を見つめていた。

「どうだった? 疲れただろう。明日はゆっくりしような。明後日は花の結婚式だ。一緒に行こう」
帰りの車の中。隣に静かに座っているジェイの手をそっと握って離した。
「今日一日、よく頑張ったな」
「……今日、来て良かった。いろんなこと考えちゃうし……キツいけど、それでも来て良かったと思う。澤田さんと和田さんがいろいろ話してくれた。広岡さんにね、お昼戻って来てからコーヒーもらったんだ。橋田さんは何度も笑いかけてくれて。他にもみんな……来て本当に良かった」
「そうか。なら、いい」

 もう今日は余計な事を言いたくなかった。それよりもジェイを抱きしめたい。


「あの」
「ん?」

マンションの蓮の部屋の前だ。

「俺、しばらく蓮のとこにいていい?」
「もちろんさ! 俺、そう言ったろ?」

一人で寝せる気なんか無い。落ち着くまでは手元に置きたい。

「着替えを取りに行きたいんだけど」
「構わないよ、部屋をあっためておくから」
「違うんだ……一緒に来てほしくて」
「怖いのか? 相田はもう捕まったんだ、心配なんか」
「蓮、お願い……」

ジェイの顔は怯えている。
(そういう問題じゃないんだな?)

 

 蓮の後ろからくっついて部屋に入った。電気をつけて蓮は納得した。

「これ、片づけておこう」

 部屋の真ん中に大きめの赤いラグが敷いてあった。引っ越し祝いにと、井上と澤田がくれたものだ。二人ともあの夏の面談でジェイに助けられたと思っている。だからジェイに何かしたかった。部屋がいっぺんに華やかになったような気がしてジェイは気に入っていたのだが。
(赤い色が怖いのか……)

『本当は俺の血の色のはずだったんだ』

(そんなことになって堪るか!)
ジェイの性格から言って、人から殺意を向けられたことにどれほど心に深手を負わされたか容易に想像がつく。
 くるくると巻いて部屋の隅に置いた。裏側は赤くないから目に刺さらないだろう。ちょっとホッとした顔でジェイは手早く着替えた。他にも必要なものを手に取る。鍵をかけて少し表情にゆとりが出来た。

 バスルームを出た後、珍しく蓮はワインを出して来た。

「ちょっと飲もう」
グラスに半分ほど注いでやり、自分にも注いだ。ちょっと飲んでにっこりジェイに笑う。
「よく冷えてる。お前の好きな甘口を選んできたんだ」
一口飲んでジェイの目が大きくなった。
「すごい! 今まで飲んだ中で一番甘い!」
シャワーを浴びたばかりで体が火照っている。そこに冷えたワインは贅沢なほど冷たかった。
 2杯目を飲んだジェイの目元がほんのり赤くなっている。蓮は肩を引き寄せてジェイと唇を重ねた。左手に持っているグラスをそっと取り上げてテーブルの上に置く。そのままジェイをソファに押し倒した。

 ジェイの口の中は甘くて冷たかった。その中を何度も掻き回す、舌で犯す。

  ん……っふ……ふっ……

 僅かに息が上がってくる、酔いも手伝ってジェイが大胆に反応する。蓮の首に手を回し首へと移る愛撫に顔を仰け反らせた。自然に開いた口から甘い吐息が漏れていく。パジャマを脱がせながら愛撫する。

 蓮の背中に何回もジェイの手が載った。擦り合わせてくる蓮の昂ぶりがジェイの熱を煽る。再び交わした口づけがどんどん深いものになってジェイは溺れて行った。動き回る蓮が……蓮の硬さがジェイにぶつかり腰がジンと痺れる……

 「れん……っあっあ、れん……」

 いつの間にか解した後ろに蓮が自分を突き立てた。息が詰まる、突然の奥へのズシリとした挿入に。何度も突かれて抜けるかと思うほどに引かれてまた奥へ。

  ぁぁ さわっ……て、れ……

 体が跳ね上がった、蓮がジェイの中の弱いところをを熱い塊で何度も擦る。ビリビリと走る電気に声も出ない、激しい呼吸で胸が苦しい。強くそこを突かれてジェイの体が大きく反った。蓮はジェイを正面から膝に抱き抱えた。深く深く蓮を感じ、肩にしがみついて体が上下する……

  しん……じゃぅ…… イ、かせて

やっと蓮の大きな手で掴まれた。それだけで大きく痙攣し背中がしなる。胸の尖りに蓮が吸い付いた。その新しい刺激にジェイがすすり泣く、涙が溢れる……痙攣はジェイの奥にも広がり蓮を締め付けた。蓮ももう自分がもたない。

「……いっしょに」

 再びジェイをソファに組みし抱き、蓮は一気に貫いて激しく動いた。ジェイを掴む手が大きく小さく波のようにうねる。狂いそうなほどの快感がジェイを掴んで離さない……

 全てを吐き出した時、ジェイはもう息も絶え絶えだった。とうに意識も手放していた………

 目が覚めたのは10時半だった。いつもなら例え休日でもとっくに起きている時間だ。けどジェイはただ億劫だった。ベッドから離れたくない。体の鈍痛からいくと、夕べの激しさを感じる。

 天井をぼーっと見ていた。また眠りに引きずり込まれそうな、そんな浮遊感の中にいる。夢の中で泥沼の中に、足掻いても足がどこにもつかない中に落ちていく。痛みも体への衝撃も無くて、ただ自分の体に花の血しぶきを全身に浴びている。

 花が倒れて『逃げ……ろ……』と微かな声で囁いた。その体を抱え込む。後ろから激痛が走る。花の赤に自分の赤が混じって道路が美しい色に変わっていった。花を抱きしめたまま、広がっていく赤を見つめていた。

(きれいだ……)

そう思う。赤い。どこまでも赤い色が道路を、街を染めていく。
(赤い きれいだ)
目を奪われるほど美しい……背中に何度も激痛が走る……

(花さんを はなさんを……)

ただ抱き締める、赤を眺めながら……相田の狂った笑顔が血だらけの自分のズボンからそれを引き出す。『大きくなってるよ……』


 絶叫を上げた、あらん限りの悲鳴を。体が硬直する、声だけが止まらない、息を継ぐことも出来ないまま、叫び続けた。どこまでが夢なのかまるで分からない……

「ジェイ! ジェイ、俺を見るんだ、ジェイ!!」

 抱き締められて、それが温かくて、まるで蓮の声のように聞こえる。
「れん……たすけて……れん、たすけ……て……」
「俺はいる、ここにいる、お前は今俺の腕の中にいるんだ」
慣れ親しんだ体に包まれた。赤く染まった泥沼の中から、その逞しい腕が引きずり出してくれる。

「れん……れん、れん……」
 名前を呼び続けた。息が出来る、体の傷が癒えていく……相田の顔が薄れていく……
「れん……れん……」

蓮はその体を抱きしめ続けた。頭を何回も優しく撫でた。
「俺はここにいる。お前を抱きしめている。お前は一人じゃないんだ」
囁き続けた。悲鳴は消えていた。背中に手が回り、少しずつ反応し始め蓮のシャツを握りしめて聞いた。
「れん……いる? れん……」
「ああ、ここにいる。お前を抱いてるよ。どこにも行かない、お前は一人じゃない」

 蓮の腕の中でまた眠りに落ちていった。出口が一つしかない長い廊下。扉も無い。ただ歩く、果てしない廊下を。

『ジェイ』

声が響いた、遠くから。歩いていたのがいつのまにか声を探して駆け足になる。

『蓮! 蓮!!』
『ここだ ジェイ、ここだ』

 光るドアが見えた。必死にそこに向かって走る。長いこと走り続ける。辿り着いてドアと開け放した。蓮が……いた。
 跳び付いて抱きしめる、抱きしめられる、体中にキスを浴びせられる、解放感に包まれ、やっと深い呼吸が出来た……

 

「れん れんがいる……」
漏れ出た囁く声。
「いるよ、お前のそばに。ここにいる」

やっとジェイの目が開いた。
「……れん?」
手が上がり、蓮の顔を震える指がなぞっていく。何度も、何度も確かめるように。
「れんが、いる」
「いるよ、ここに。お前のそばに」

ほおっと息をついて、鼓動が穏やかになり始めた。背中を掴む手に力が入り始める。
「れんがいる」
「いるよ、ここに」

何度も言う蓮の声に落ち着き始めたジェイの目が、意志を持って蓮を見上げた。
「もう大丈夫だ。ここは俺の寝室だよ、分かるか?」
周りを見回してジェイが頷いた。
「蓮の部屋」
「そうだ。起きれそうか?」
今度はしっかり頷いた。
「大丈夫、もう大丈夫だよ」
「シャワー、浴びるか?」
「蓮も……一緒?」
「当たり前だ、いつも通りだよ」
「いつも通り……うん、行く」

 

 助け起こしてゆっくり歩かせた。性的な動きを一切やめてただ優しくジェイの体を時間をかけずに洗い流した。手早く自分を済ませてもう一度シャワーを浴びせ、バスタオルで包んだ。ジェイが体を預けてくる。

「今日は牧野さんのところに行くぞ。もうスーツが仕上がっているから」
明日の花の結婚式用だ。
「明日、行けそうか?」
「行く。花さんの笑顔が見たい」
そしたら安心できるような気がする。
「花、喜ぶよ。お前の顔を見たら」


 その夜は、ただジェイを抱きしめてその眠りを待った。
(もう夢を見るな。俺がいるから)

穏やかな呼吸。穏やかな寝顔。額に、頬にキスを落とした。

「俺はお前のそばにいる。いつでもいる。お前を愛しているから」
胸の中にいるジェイを抱いたまま蓮も眠った……

 

 

 


 朝から落ち着かないジェイを見て、蓮はしばらくこの状態が続くのだろうと思った。無理もない、普通の状況なら人は命の危険など感じることは無いのだから。目の前での刃物沙汰。しかもその目標は自分。後になればなるほどそれは実感を伴ってくる。当分夢にうなされるだろう。
 れん と自分を求める声が蘇る。あの時、通りで自分の胸に飛び込んできた震える体が蘇る。

「あの」
「なんだ? どうした?」

落ち着かないジェイに優しく答えた。

「これ」

小さな包みを差し出されて受け取った。怪訝な顔でジェイを見上げる。

「今日渡すから……誕生日のプレゼントじゃないから」

包みを開けた。黒い定期入れ。黙って立ってビジネスバッグを持ってきて座った。擦り切れた定期入れを出す。定期券を入れ替えてジェイを見て微笑んだ。

「ありがとう。助かるよ」
「うん、良かった、気に入ってもらえて。あ、ホントに誕生日のプレゼントじゃないから」
「いいんだよ、お前からなら喜んで受け取る」
「ホント!? じゃ、もっといいのにすれば良かった」
「こういうのがいいんだ。ちゃんと使えるし。飾って置く物とかくれた人の趣味丸出しとか、そういうのは好きじゃない。これ、今俺が一番欲しかったものだからな。嬉しいよ。しかも俺の好きそうなのを選んでくれてる」

立ち上がって胸に抱いた。

「大事に使うよ」

 蓮はほっとした。きっと朝から落ち着かなかったのは、これをどう渡そうか悩んでいたからだ。そう思うと心から愛おしいと思う。

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