宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第3部
17.俺がいる
「花、よく話してくれたな」
「アイツの性格なら自分からは何も話さないだろうと思って」
「そうだな」
「せっかくあんなに頑張ってるのに。変わるんだって必死だったのに、俺、見てらんないんです」
「分かった。調べてみるよ、そういう裁判の流れってヤツを」
「あ、そうですね! 俺も調べてみます。大学の仲間で法学やってたヤツいるし」
「悪いな、助けてもらって有難い」
「何言ってんですか! 俺、兄って言われてむちゃくちゃ嬉しかった。弟のためにやるんです、悪くなんかないです」
酒なんか飲めなかった。花もたいして食べることも無く帰って行った。
(どうしてやればいいんだ? どうやったらお前を守れるんだろう)
このままじゃ出口が無い。それでもなんとかしたい。
(お前のためならどんなことでもしてやるからな)
気を取り直してジェイに電話をかけた。けれどなかなか出ずに留守電になってしまう。まだ相田が出てきたわけじゃない。けれど焦燥に駆られる。
(どうした? 何があった?)
何度かかけてやっと出た。
『はい』
「ジェイか!? 電話に出なくて心配したんだぞ。今どこだ?」
『会社……』
『ちょっと! どういうつもり!? 人が真剣に話しているのに! 電話、切りなさいよ!』
この声……
「砂原か? 砂原と一緒にいるのか?」
『あの……切ります』
店を飛び出した蓮は会社に走った。明らかに様子がおかしい。
砂原に気圧されるように、立ち上がったジェイは後ずさりをしていた。すぐ後ろは壁。
「私ね、最初っからあなたが嫌いだった。みんなに甘ったれて大事にされてそれが当然だと思って! なんであなたのせいで課長が苦しむの? 疲れるの? おかしいでしょ、尋常じゃないわよ、あなたの依存度!」
蓮は階段を駆け上がった。オフィスは目の前。飛び込んだ時に砂原の怒鳴り声が響いた。
「あなたがいなければ課長はもっと幸せなのに! 私たち、きっと幸せになれるのに! 出て行ってよ、会社から! この前もそう言ったでしょ、仕事辞めてって! あんたなんかより私は苦労してるわ、苦労を振りかざさないで!」
いきなり砂原は体を反転させられた。頬が鳴る、憤怒の形相の蓮が立っていた。壁にもたれたジェイの目が空をさまよっている。蓮は息を整えて呆然としている砂原を見た。
「どういうつもりだ」
「どういうつもりって……私……こんな子のせいで課長が振り回されてるのが気の毒で……」
「俺をバカにしているのか? 気の毒ってなんだ? なぜ俺が人から憐れみを受けなきゃならないんだ? 俺の幸せは部下が成長していく姿を見ることだ、上司なんて部下に振り回されてなんぼのもんだ。そしてそれをいい方に活かすことに醍醐味を感じる。それが俺の幸せだ。お前には何も分かってない」
砂原の体をジェイに向けさせた。
「見ろ。こいつは必死に頑張っている、けれどずっと謂れのない理不尽な状況に叩き落とされ続けてきた。それでもまた這い上がろうと手を伸ばしている。その手を握るなと言うのか? お前には見えないか、こいつの本当の姿が」
言われても分からない、ジェイは自分と課長の間にいつも割り込んでくる。
「この子は……あなたに迷惑ばかり……」
「迷惑に感じたことは無い。今こいつの手を離したら、俺には後悔しか残らない」
「なぜですか! 事件だ何だ、トラブルばかり起こす子をなんでみんな受けれるの!?」
「砂原、お前をみんな拒絶したか?」
なんのことだろう。
「お前に起きたことはここの連中だってみんな知ってるよ。けど誰か一人でもお前にイヤな思いをさせたか?」
忘れていた、ここに来てからそれは遠い昔のことになっていた。
「どうしてお前はコイツを拒絶する? よく考えてくれ、ここは仲間で成り立っている。誰一人として誰かを見放したり責めたりしない。それは甘やかすこととは違う」
どこかに砂原の抵抗を感じる。
「なぜこいつが気に入らない? どこだ? お前の中で引っかかることを言ってくれ」
「苦労……してるからって……親がいないからって……みんなおかしい、私だって苦労してきた、なぜ私だけ課長は拒むんですか!」
溜息が出た。
「砂原、俺に男女の関係を求めているのか? 悪いな、それは無理だ。はっきり言っておく。俺は女性と付き合う余裕も、そのつもりもない。誰であろうとだ。そういう対象に見られたくもない。俺の答えが気に入らないなら俺を恨め。こいつに八つ当たりするな」
くらりとした。はっきりとNOを突きつけられた。
「苦労か? お前、ここのみんなのことをどれだけ知っている? 池沢は体の不自由な父親を抱えて結婚さえ考えていない。嫁さんに苦労させるのはイヤだと笑っていた。広岡はいきなりパニックを起こす自分をずっと薬で押し殺していた。口が利けないほど震えていた時もあった。尾高には自閉症の子どもがいる。一日に何度もメールを送っているが返事を受け取ったことは無い。井上は母親が倒れて半身不随になってしまった。三途川は弟が行方不明だ。高野は婚約中の彼が先月事故に遭った。他にも聞きたいか?」
みんな明るい……そんなものを抱えているなんて知らない。
「勝手に個人情報を漏らしたと思うかもしれないが、誰も隠していないよ。お互いにみんな知っていることだ。何かあれば助け合う、それがここの強みだ。俺はお前にも仲間になってほしいよ」
「仲間に……私が?」
「そうだ。ジェロームは天涯孤独だ。こいつには誰もいなかった。ここに来て初めて仲間ってものを知ったんだ。今じゃここのみんながこいつの家族だ。それを奪えって言ってるのか? 先週ジェロームは逆恨みで殺されかけた。そいつにここから出て行けと言っているのか?」
(殺され……? え?)
「ショックを受けているコイツをみんな一生懸命助けたいと思っているんだ。お前はどうしたいんだ、ここをどんな職場にしたいんだ? お前の望みは何だ?」
「わたし……別にそんな……どうしたいかなんて」
「なら、考えろ。いつまでに答えを出せとは言わない。お前自身の中で冷静に考えてくれ。そして理解してくれ、俺たちを」
砂原が出て行った後、まだ壁にもたれているジェイの肩に手を置いた。瞬きもしないジェイの目から涙がほろほろ零れ始めた。
「おれ……おれ、頑張るつもりで……変わり……たくて、おれ」
「知っているよ。いいんだ、お前は充分頑張ってる。ゆっくりやっていこう。今日は何も考えなくていい、疲れただろう? 車は俺が運転するよ、酒は飲んでないから」
オフィスには誰もいない。ジェイの持ち物を整理した。上着とコートを着せて荷物を持たせる。
「持てるよな? 廊下に出ろ、ここの電気を消すから」
素直に廊下に出たのを確認してから電気を消した。肩に手をかけて歩みを促し、エレベーターで地下に向かう。車のドアを開けて助手席にジェイの体を押し込んだ。
「さ、帰ろう。のんびりしような、今日は」
ゆっくりと車を走らせる。少し遠回りをすることにした。車の揺れにジェイは目を閉じる。蓮の膝にジェイの手が載り、その手を軽く握る。ちょっと離して道路の脇に車を止め、今度はしっかりと手を握った。疲れ切ったジェイの寝息を聞きながら蓮は誓った。
(お前は俺が守る。必ずだ。相田が出てきても心配するな、俺が守る)
しばらくして車はマンションに向かって静かに走り始めた。
「ジェイ、ジェイ、着いたぞ」
穏やかに眠っていたけれど、起こさないわけにもいかない。目がゆっくり開いたから頭に手を載せた。ジェイの頭がコテンと蓮の肩に乗った。
「寝惚けてるか?」
「ううん、起きた」
「シャワー浴びて寝よう。飯さ、また鍋焼きうどんでいいか?」
クスリとジェイが笑った。
「いったい幾つ買ったの?」
「いつも冬はいっぱい買って……」
「だから幾つ?」
「……10個だ」
「10個?」
「美味いんだよ! 嵌ってるんだ、これに!」
「毎年嵌るの?」
「そうだよ、大学の頃から……」
「大学!? え、そんな昔から?」
「昔ってなんだよ! そんなに前じゃないよ!」
「ははっ、じゃ冬の鍋焼きは鉄板なんだね」
普通の会話……けれどどこか歪な笑い声。
「さ、下りよう」
「うん……」
鍵を開けて荷物を置いてコートを脱いで上着を…… ジェイの手からストンと上着が落ちた。蓮は自分の上着とジェイの上着を片付けた。肩が震えているのが分かる。後ろから手を回してワイシャツのボタンを外していった。その手にぽたりぽたりと雫が落ちる。肩からシャツを下ろす。また後ろからズボンを下ろしてやる。背中を胸に包み込む。
「シャワー浴びて、食って寝よう」
頷いて先にバスルームに向かった。遅れて蓮が入る。ただ洗ってきれいにしてやった。この空間に言葉は要らなかった。背中を洗ってくれるジェイの手が動いて、止まって、動いて、止まって。
互いに流し合い、少し抱きしめ合い、蓮はバスタオルでジェイを包む。出てからは鍋焼きうどん。ジェイが残したのを引き寄せて蓮が食べた。
片付けて、歯を磨き、ベッドへ。いつもと同じに。同じように。ベッドでジェイの手が蓮を求めたから体を寄せた。
「キス……して」
囁くような声だった。体を起こして唇をそっと舐める。優しく食んで優しいキスをする。何度もそれを繰り返して唇を放した。
「れん……俺、れんが好き。愛してる。俺で……いい?」
「ああ、いつまでもお前がいいよ」
「うん……ありがとう、れん」
蓮の腕を枕に、ジェイの目が閉じた。
「見ててやるから。お前の眠るのを見てる。だから安心して眠るんだ」
微かに揺れる顔からつーっと涙が流れた。
「俺がいるからな。お前のそばには俺がいる。安心しろ、俺が守るから」
疲れきったジェイの耳に、その声は優しく響いた。まるで子守歌のように。
「おはよう」
ジェイの声に振り返った。起こそうかどうしようか。蓮は迷っていたがキッチンからの音に自然と起きたのだろう。大きなパジャマを着たジェイが袖からちょっと指を出して寝室の出口を掴んでいる。蓮は味噌汁の火を止めてジェイの前に立った。
「おはよう、眠り姫」
自分の目に愛らしく映るジェイの頬にキスをした。
「姫って……言わないで」
「どうして? みんなそう呼んでたぞ」
「あいつもそう呼んだ、俺のこと」
すぐに抱きしめた。
「二度と言わない。約束だ、もう言わないよ」
小さく頷くジェイに口付けた。ゆっくり動く唇が優しくて、ジェイは蓮に体を預けた。
は っは……ぁぁ
蓮の手が体を優しく撫でていく。
「時間はあるよ、シャワーに行こう」
バスルームの中で抱き合った。壁に手をついたジェイの背中に覆いかぶさる。ジェイの首が逃げるように横に揺れる……蓮はゆっくり速くジェイの中を突いた。
ぁ、も……
その声に前を握る、大きく膨れ上がったジェイを。蓮の動きが速くなり あ! とジェイが吐き出した。遅れて蓮も精を放つ。高鳴る鼓動を重ね合わせて抱きしめ合った。互いに相手の唇を食みながら愛おしいキスをする。
「さあ、準備しないと」
「うん……」
ジェイは思ったより食べてくれた。
「どうする? 会社、行くか?」
「行く……一人はいやだ」
「分かった。じゃ、行こう。お前の車に乗せてもらっていいか?」
こくりと頷いてジェイは支度を始めた。
「来ないかと……来ないんじゃないかって思ってたんだ」
オフィスに着いた途端に花が抱きしめてくれた。
「よく来たな。頑張ったんだな」
涙が出そうになるのを堪えた。後ろを通る池沢がぽんっと肩を叩いて行った。
「ジェローム! プリンターが調子悪いの。見てちょうだい」
三途川が用事を言いつける。
「ジェローム、たまには『自分でやれば?』って三途さんに言っちゃいなさい」
「言わ、ないです、千枝さん。三途さん、怖い……から……」
泣くまいと必死なジェロームの顔に三途川は笑いかけた。
「いいのよ、言って。さあ、言ってごらん?」
「言いませんってば……」
そのまま肩が震えるジェロームに野瀬の声が飛んだ。
「ジェローム、プリンター終わったら西側の壁のポスター、みんな剥がしてくれ」
中山が被さるように声を張り上げる。
「おい、それが済んだらここの段ボール、始末しちゃってくれよ」
「みんな……みんな、酷いですよ……俺、俺、自分の仕事したいです……」
「生意気言ってるな、朝から。新米は先輩にこき使われるためにいるんだ」
「無茶苦茶だ、広岡さん……」
「俺が手伝うよ。一緒にやろう」
とうとう花の体に掴まってジェイは泣き始めた。
「4階に行っておいで、ジェローム」
三途川の声が優しい。
「そ! 野瀬チーフと中山さんがコーヒー奢りたいって」
「げ、井上、何てこと言うんだよ!」
橋田が野瀬と中山に手を差し出す。
「徴収します、チーフ、中山さん、100円ずつ罰金」
ブツブツ言いながら二人が100円ずつ橋田に渡した。
「ほら、これで何か飲んでらっしゃい。後は頑張って仕事しましょ!」
「あり、がとう、橋田さん、井上さん……」
「おい! 礼を言うなら俺と中山にだろ!」
「はい……ごちそうさまです」
花に肩を抱かれたジェロームがオフィスから出て行った。蓮はそのやり取りをずっと見ていた。
(ありがとうな、みんな)
「殺されてたかも……しれないんだよな」
ぽつんと和田が言った。
「安心できないって聞いたよ。相田のヤツが出てきたらまたジェロームは狙われるんじゃないかって」
尾高の言葉にみんなが しん とする。砂原はその重い言葉を聞いた。
(……こんなに大事にされてるんだわ)
不思議なことに昨日までよりそれが悔しくなかった。ジェロームの姿がすごく儚く見えた。
『お前には見えないか、こいつの本当の姿が』
河野課長の言葉が蘇りそうになる。
(いやよ、そんなの認めたくない……)
「時間、まだあるからさ。慌てずに考えよう。みんなも助けてくれるから。お前は自由に決めろよ、どっちに転んでもリスクあるんだし。俺、課長といろいろ調べてみようって話したんだ。いい道が探せるって約束できない。けどお前、一人じゃないんだからな。それ忘れるなよ」
「うん。ありがとう、花さん」
「俺、お前の兄貴だからさ」
驚いたようにジェイは顔を上げた。
「言ってくれたろ? マリエに。兄を頼みますって。哲平さんは長男だってさ。俺が次男。お前は三男だ。三途さんと千枝さんが姉ちゃん。チーフは……叔父さんにでもしとくか?」
泣きながらジェイは吹き出した。
「そうだ、その意気だ。笑っとけ、お前の笑顔みんな好きなんだから。お前が明るい顔してると俺たちホッとするんだ。だから一人で悩むな。あのオフィスのみんながお前の兄ちゃん、姉ちゃんなんだから」
(みんなが……兄弟……)
オフィスに戻ってプリンターを直し、ポスターを剥いで段ボールを片付けた。その後はブルーバードの資料の手直しを花とやる。昼は池沢に引っ張られて無理やり食べさせられ、午後は隙あらば雑務に忙殺させられた。あっと言う間に退社時間。
「ジェローム、明日も忙しいからな! 覚悟して来いよ」
澤田がにやりと笑って お疲れっ! と帰って行った。砂原がすれ違いざまに小さな声で言った。
「あの……お疲れさま」
慌てて顔を向けた時には砂原は廊下に出ていた。その後ろ姿に頭を下げた。
(お疲れさまでした)
まだ砂原の心は解けてはいない。けれどあれほどの怒りは収まりつつあった。消化するには時間がかかりそうだが、傍観する事ならなんとか出来そうな気がしてきた。課長へのあの思いはどこから生まれていたのか。今はまだ知りたくない。
「今日も鍋焼きうどん?」
「今日は焼き鳥」
「ほんと!?」
「ああ、おばちゃんもそろそろ寂しがってるだろう」
「俺もおばちゃんに会いたい」
思い切り甘えたかった。今日はどうしても甘えたい、みんなに。蓮に。
は ぅう……
焼き鳥を食べて帰って、ジェイはほどよい疲れにぼんやりしていた。そこを蓮が押し倒した。
だ……め、しごと……
「黙って抱かれろ、気持ち良くなってればいいんだ」
きもち、いい……、れん っは……あぅ
急がないセックスは舟に乗って揺れているみたいだ。喘ぐ声を塞ぐ蓮の舌が、ゆっくりとジェイの口の中を溶かしていく。手が体をそわりと這う、ジェイの体が震えた。蓮の押しつけてくる昂ぶりがジェイを直に刺激していく……
ぁ……れん、や……さわっ、て……
「いやだ、まだ触りたくない」
れん……れ、ああ、どうにか……して
「溺れてしまえ、感じていればいいんだ」
胸を吸われ、甘噛みされ脇を手が下りて行きまた上がっていく。また首筋を唇が這い上がりジェイの口に辿り着く。耳を食まれながら蓮の声が低く響く。
「感じてるか?」
こくこくとただ頷く。声が止まらない、言葉にならない。下りていく蓮の口が一気にジェイのものを含んで吸って先を嘗め上げた。
っは っは あ、あああ!
イきそうになるのを感じて快感に身を委ねようとしたのに根元を抑えられた。
や! ぃやだ、ぁあ、やだ!! くるし……
そのまま蓮の口が動く、ただ刺激が与えられ続ける……
イか……おねが……
とっくに後ろは解されていたから、片足を蓮に持ち上げられ入って来る蓮を受け入れていく。けれど手を外してもらえない、吐き出すことの出来ない恐ろしいほどの快感……体が震えて止まらない、ただイきたい……
も……っあ、
ジェイの中のあの一点を擦られる、突き上げられる、なのに手が離れない。
ぅくっ! れ、もむり……イき……やぁあ!
出すことを許されないまま達してしまったジェイの目から涙が落ちる。
は、くる……くるしぃ……
もう一度火花が散る、何も考えられずイかされ続け縋って喘いでとうとう蓮の手が離れた。
あああぁあ!
その激しい締め付けに蓮もイくのを感じる。陶酔感に酔いしれてコンドームの中が膨れ上がった。ジェイの体がずっと跳ね続けながら精を吐き出した。
「そのまま眠ればいい、ジェイ、お休み」
疲れ果てて蓮に抱きしめられながら深い眠りに落ちて行った。蓮は静かにジェイを清めて抱きしめた。
「ゆっくり寝ろ。こうしててやるから」
「酷いよ……夕べみたいなの、前にも困るって言った」
「ゆっくり眠れたろ? お前10時前には眠っちゃったんだぞ」
「俺、だるい」
「じゃ、休むか?」
休むこと。ジェイが今、一番避けていること。
「行く」
「平気か?」
「行く! もう今夜はしないからね!」
「約束は出来ない」
「俺がもたないよっ! ちっともイかせてくれないなんて……」
「じゃ、今夜はすぐイかせてやるから」
「しないっ!」
「はいはい」
ジェイの運転で会社に行くのはだんだん普通になってきた。
「上手くなったな。お前、運転が性に合ってるだろ」
「うん、すごく楽しい」
「でも慣れてきた頃が一番危ないんだ。気をつけろよ」
「それ、教習所でも言われた」
「大事なことだからな」
ジェイはもやもやと気になっていたことを口に出した。
「あの、聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「どうして……みんな知ってたの? 俺の事件のこと、蓮話したの?」
「いや、相田が刺そうとしてきたとは話したが詳しくは言ってない。噂の元はどうやら秘書課らしい。お喋り小娘たちがさえずったのが流れてきたんだろう。全くどうやって嗅ぎつけるんだか。大滝部長は漏らすような人じゃないからな」
あの刺された直後は、相田はクビになったことを逆恨みして見境なく包丁を突き出したんだという話になっていた。居合わせたジェイと花は気の毒だったと。それが今は相田はジェイを特定して狙ったのだと噂が広がっていた。その理由については話が出ていないが。
「蓮……訴えるのイヤなんだ…」
「分かってるよ」
「みんなに何も知られたくない」
「ああ」
「俺、どうしたらいいんだろう……」
だんだん声が沈んでいく。
「ジェイ、そこ、脇に止めろ」
車が止まる。
「下りろ、運転変わる。今のお前じゃ事故を起こす」
会社に近づくまで二人とも黙ったままだった。
「ジェイ、まだ時間はある。答えを出すのはもうちょっと後にしよう。今お前は冷静じゃないだろう? 俺もそうだよ。だから一緒に考えよう。家にいたくないなら会社にいればいいんだ。みんながお前に考える暇なんかくれないからな。その方がいいだろう?」
「うん……昨日は楽だった」
「難しいだろうけどしばらく相田のことは忘れるんだ。きっとここにいる間はそれが出来る。仕事はお前を助けてくれる」
今は少しでも忘れる時間を作ってやりたい。蓮にはもう分かっている。ジェイは相田を暴行では訴えない。
それから数日の間は帰りにはくたくたになるほど使われ続けた。雑務なら掃いて捨てるほどある。お茶くみが無いだけマシだ。そして花のプレゼンも出来上がり、蓮からもOKが出た。花は今後の動きをジェイと打ち合わせた。
「後は年明けて先方とのスケジュールが決まり次第になるな。お前と二人でやる初仕事だ、頼むぞ」
「はい。頑張ります」
(まだ元気が無いな。話をするにはちょっと早いか)
まだ何も裁判のことが分かっていない。大学の同期にも頼んだが、生憎彼は法律関係の仕事には就いていなかった。出来るだけ協力するとは言ってくれたが、年末に向かってきっと忙しくなることだろう。他に当てになる相手もいない。花は長いこと他人を拒んで生きてきた。
いくら雑務が多いと言っても限りはある。主軸となるブルーバードは先が見えたし、池沢たちのやっている坂井病院の方も目途が立って来たと言われた。
(こいつに暇を作りたくない)
それは蓮の気持ちも同じだった。仕事自体、年末に向けて複数の案件が手元に来ている。
「花、ジェローム。ミーティングルームに来てくれ」
蓮に呼ばれて二人はすぐに行った。
「新規の仕事を渡す。これが営業から回ってきたばかりの案件だ」
資料にしては薄い。パラパラと中に目を通すと、薬品メーカーの出退勤管理のシステム化。納期は来年の10月だし、普通ならいたってシンプルな仕事だ。花は戸惑ったような目を蓮に向けた。
「花、片手間にやれるような仕事だと思っているだろう」
「だって、これただの管理システムでしょ?」
「現在使われている社員証にチップを入れる。それにはGPSも組み込む。外回りをする社員の管理もリアルタイムで追える。取り込んだデータは真っ直ぐ経理に飛ばしてそのまま労務費に計上することで経理のコストも下げる」
「全部システム化するってこと?」
「そうだ。他社では既にそんなことをやっているな。俺たちはどれだけ金をかけずに独自のシステムを作るか。これが今回の課題だ。余所に幾つも依頼をかけているらしいからこれば戦争だ。実際の提案は6月初旬に行う」
花はざっとスケジュールを頭の中で追った。
「課長、GPSっていうのは? 他にどんな使い途として考えてるんですか?」
「まず、訪問先の確認が出来る。小型の外出用スケジュールアイテムにGPSを埋め込んだカードを通して行動を把握する。帰りに一杯なんてのは勤務時間から自動的に弾かれるということだ。それにカードの紛失なんて厄介なことも激減するだろう。カードを追えるからな」
ジェイは花の難しい顔を見ていた。いつか自分もこんな顔をするようになるんだろうか。
「これ、6月に提案ってことは試作を2月中に上げて3月には試験開始しないとなりませんよね。相手先の配線図も調べなきゃならないし、どうせ工事は無しでやれってんでしょ? 時間的に無理です」
「そういう言葉を聞くためにお前を呼んだわけじゃない」
「けど、どうやったって圧倒的に時間が足りないですよ! しかも課長の今言ったことって単なるアイデアでしょう?」
ずけずけ言う花にハラハラする。
「ああ、単なる一つのアイデアだ。だからお前たちからもアイデアをいくつか出してほしい」
「はあ? それだけで時間食っちゃいますよ!」
「で? 仕事が出来ない言い訳は終わったか?」
「さすがに今回は無理言い過ぎですよ! 俺たち二人でなんて出来ません」
「誰がそんなことを言った? 営業と野瀬、中山のところと連携してやっていく。先方の図面は田中が仕切ってくれる。試験にも田中が加わる。もちろん、俺は全部に入る」
さっきと花の顔つきが変わる。
「これ、どうして俺とジェロームに話を持って来たんですか?」
「池沢には通してある。お前はこれを昇進の足掛かりにするんだ」
「え?」
「池沢は3月でチームを抜ける。お前のところは2つに分ける。三途のチームとお前のチームだ。三途は充分功績を上げているからすぐにでもチーフになれるが、問題はお前だ。これで名を売れ」
「待ってください! チーフは!? 池沢さんは?」
「正式に俺の補佐になる。R&Dの所帯を4月にデカくする。その布石だ」
いきなりズシリと重い荷を背負わされた。花はその少ない資料を食い入るように見た。
「これ、俺の仕事ってことですね?」
「そうだ。お前が全体を仕切る。この仕事で中山もこのままチーフに推すつもりだ。4月にチームの在り方をかなり変える。特にお前のところはな。自分のチームを持つんだという意識で取り組んでくれ。以上だ」
「参った、頭が追いつかない」
「花さん、なんか、凄いです」
「なんだ、その『なんか』って」
「そんな気がするから」
「……お前はあまり頼りにならなさそうだな」
「頑張りますよ、俺だって。チーム2つって……俺、花さんと一緒にいたい」
「三途さんが怒るぞ」
「あ、いえ、三途さんも好きだけど……」
花はそのまま自分のデスクで企画書を作り始めた。スケジュール、どのチームにどう関わって欲しいか。他の仕事も同時進行であるのだからそのスケジュールも追わなくちゃならない。やることが多過ぎる……
「花、聞いたのか?」
「あ、はい。チーフ、俺ちょっとパニくってます」
「冷静な顔で言うな。こっちも片が付く。相談には乗るから」
「はい! お願いします!」
自分は今は見ていることが勉強だ。今回のことを通してチームの在り方、花の動き。そういうものが見えてくるだろう。花の相方として認められるのだろうか?
弁護士に何回か呼ばれた。西崎はジェイを説得するつもりだったし、出来ると思い込んでいた。ジェイを助けたい気持ちはもちろんある。だが今、性の解放を叫ぶ風潮の中、同性愛者がレイプの対象になったことに対する訴訟を起こせば社会に対する大きな提起になるだろう。
「俺は訴えません」
「よく考えてみた? レイプとストーカー事件を訴えなかった場合はただの傷害事件として扱われる。宗田さんもあなたもケガは軽かった。初犯だし、当然殺意は認めないだろうし、向うの弁護士も知恵をつけるから裁判では多分執行猶予になる。けどあなたがレイプ未遂で訴えれば目撃証人もいるから勝てるのよ? そしたら相手は間違いなく実刑になるの」
まるで追い詰められているような切迫感に襲われる。
「それって……その事実に対する証言をするだけじゃなくて、あっちの言い分も裁判で聞くってことでしょう?」
「そうよ」
相田をレイプ未遂で訴えれば反論してくるだろう……一番聞きたくない言葉を並べ立てて。
「訴えません。それでいいです」
「メリットを考えて。このまま釈放されれば次の事件が起きることは目に見えているでしょう?」
無言になったジェイに溜め息をついた。
「今日はここまでね。もっと考えましょう。公判は1月になるわ。まだ遅くないから」
「今日の話はどうだった?」
花は毎回面談の後は必ずそう聞いてくれる。
「同じです。傷害だけだと執行猶予で出て来るって。公判は1月だから考えてほしいって」
「そうか……進歩なさそうだな……俺も調べちゃいるんだけど、法律って厄介だな。でもレイプとかストーカーとかにはかなり厳しいよ。例えば強く付けられたキスマークだけでも暴行の一つと考えられるとかさ」
キスマーク……あれだけでも立派な暴行。
「俺……訴えないですから。花さんは言うつもりなんですか? ケガを負うまでの経過を。つまり……俺が絡んでる状況」
「イヤなんだろう? お前がそういう気持ちなら言わないよ。ただいきなり切りつけてきたって言うさ」
「花さんはそれでいい?」
「いいよ。俺はちょっと刺されただけだし。お前が心配なだけだよ」
「はい……すみません」
「なに謝ってんだよ。謝んなきゃならないのは相田だ」
1月。どちらにしろ出廷はしなくてはならない。また相田と顔を合わせる。それを考えるだけでも吐き気がした。会わずに済む方法。それさえも自分を追い詰める。
(逃げ道なんてどこにも無いんだ……)
今は絶望感を見据えたくないばかりに、仕事に縋りついていた。
日々が過ぎるのは早い。11月の最後は三途が拗ねてごねて、それで終わった。
「誕生日なんですけど!」
「あ? 幾つになった、お前?」
「そんなこと聞きますか、ジェロームじゃあるまいし! 女の子にとって誕生日って特別なんですから!」
フロア中から一斉にむせたり吹き出したり笑い転げたり、そんな反応が起きる。
「課長、プレゼントくれるって言ったじゃないですか!」
「………あああ、言ったな、そう言えば」
「そう言えばって……酷い、私信じてたのに……」
「おい、泣き真似は止めてくれ、忙しいから。単刀直入に言え、何が欲しい?」
手で顔を覆おうとしていた三途川がにたっと笑った。
「あのね、ずっと欲しかったイヤリングがあるんです」
「おい! 宝飾品はだめだ!」
「えぇ……ケチですよ、そんなこと言うなんて」
「そんなもの、恋人に買ってもらえ」
「私、仕事が恋人ですから」
「寂しい人生だな、お前も」
周りはただ二人のやり取りが楽しい。
砂原は焼きもちを焼く相手を間違ったような、そんな複雑な気持ちになっていた。確かにジェイに対する態度は大人げなかったと思う。
(みっともない……子どもに焼きもち妬いてたなんて)
あれから何度もジェイの笑い声を聞いたり落ち込んだ顔を見たりしている。その度に(この子は本当に子どもなんだ)と感じた。確かにみんなが保護したくなる気持ちが分かる。一度そう感じてしまうと怒りの対象にしようとしていた自分が恥ずかしくさえ思う。
(三途川さん、課長が好きなのね。課長も楽しそう……)
三途川が相手では敵わないと思う。対等に屈託なく話すその様子は羨ましくて仕方ない。しかもみんなの前で誕生日プレゼントを要求するなんて、自分には決して出来ないことだ。そこには陰々鬱々としたものは全く無い。
結局三途川の誕生日プレゼントは、忘年会の時に渡すということになった。女性にそんなものを渡す蓮では無いが、三途川にはあの時本当に世話になった。約束も確かにしている。周りも(どうせ課長は何かドジ踏んでそんなことになったんだろう)としか思っていない。そういう意味では、蓮にとって三途川は人畜無害な存在ではある。
「忘年会まで待つんなら利息分いいのにしてくださいねっ」
「お前は俺からどれだけむしり取るつもりだ? 今は忙しいんだから仕方ないだろう、買い物に行く暇なんてない」
「週末を私のために使ってくれればいいじゃないですか」
「冗談だろ?」
12月は殺気立つほどに忙しかった。みんな、正月明けに仕事を残したくない。出来れば有休をとって仕事を忘れる時間を作りたい。ジェイには初めての12月だ、周りの様子に圧倒される。
既に花の仕事は始動していた。6月の提案に向けての大まかなスケジュールを立て、どのチームにどんな応援を依頼するかを決めて行く。そのために各チームの現在抱えている仕事の状況も調べてまとめた。それをホワイトボードにジェイが書き出した。
「すみません! これを見て何か気がついたり落ちがあったら教えてください!」
珍しいジェイの大声にみんなが振り向く。
「このスケジュール表、分かりやすくていいじゃないか」
野瀬が褒めてくれた。
「それ、ジェロームが自分で考えてやったんですよ。俺はただ分かったことのメモをどんどん渡していっただけ」
特に花に言われずに自分からやったことだったから、褒められたことが嬉しくて堪らない。そこからは指示待ちではなく、花の言いつけそうなことを先に先にと手を出していくようになり始めた。何か言えばすぐに返事が返る。用を思いつけば片付いていると言われる。
「俺、本当にお前とやってると楽だ。課長がそう言ってたよな、歓迎会の時に」
そんな言葉が励みになった。
3日に一度は花はチーフたちとミーティングをした。資料を渡された時には漠然としていた案件が少しずつ具体的な形を取り始める。
元々持っていた花の才能が、名前通り開花していった。推進力と行動力、早い決断。[自分のチームを持つ]それが花の中で確固たる目標になっていく。
そして、花にとってジェイは単なる同僚ではなく本物の友人になりつつあった。花の突き抜けるような性格をジェイはその温かさで包み込んでいく。常に一歩引きがちなジェイから、芯にある負けず嫌いを花は引きずり出していく。
「お前たち、まるで本当の兄弟みたいだ」
誰もがそう言い、対照的なこの二人を不思議そうに見た。ジェイにとって、そして花にとって初めての真の友人。互いの存在が心地良いものになっていく。
「お前たち、いい関係になったな」
事後の余韻の中でジェイを抱きしめながら蓮は嬉しそうに言った。
「花さんといると楽なんだ。俺が何を言いたいのかしたいのか分かってくれて」
「なんだかヤキモチ妬きそうだ」
「え、そういう意味じゃないよ!」
「バカ、分かってるよ。大切な友だちが出来たな。本当に良かった!」
友だち。遠かった言葉。欲しかった存在。憧れが現実になった。
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