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J (ジェイ)の物語」

第三部
​4.歪んだ影 -1

「おはよう」
「おはようございます!」
 池沢の声が響く。
「朝から気合入ってるな」
「ええ、今日はしっかりやっとかないとケツに火が付きますからね。やかましかったけど、もう哲平が恋しいですよ」
「そりゃずい分早いな」
 みんなが揃い始めて変わらない忙しい一日が始まった。

「相田、昨日の性能のデータ送ってくれ」
「はい」
 データを送り終わって相田は蓮をじっくり見た。
「課長、お幾つですか?」
「幾つ? 歳か?」
「ええ」
「29だ。それがどうした?」
「は? 29……なんだ、俺より年下?」
 一瞬でフロアが静かになった。
「呼び捨てって無いんじゃないの?」
 蓮の手は止まらない。いつもと変わらぬスピードでキーボードを打っている。
「いくら課長でも最低限のマナーは守らないと。結構そういうの、気にしてる人いると思うけどな」
「業務に支障あるか?」
「支障って……コミュニケーションってものがあるでしょ? 確かに課長だから俺も敬意は払うけど、それってお互い様じゃないのかなぁ」

 柏木は(始まった!)と思った。『引っかき回す』この言葉が相田には一番ピッタリ合う。横浜でも新任の課長がとうとう潰された。相田はこういうことを楽しんでやる。相手の痛いところを突き、自分の方が常識人だという印象を与えつつ上司で遊ぶ。

「で? だから仕事が進まないとでも言うのか?」
 手が止まらない。蓮は蓮で忙しい。
「話してる時はちゃんと向き合いませんかね。みんなよく我慢して来たね。仕事なんてもっと気持ちにゆとり持たないと上手く進みませんよ。これじゃみんな課長に怯えて萎縮したまま仕事してるようなもんだ」

 ただ一つ、相田には誤算があった。ここの仲間の結束力だ。

「相田さん、その位にしときませんか?」
「池沢、あんただってやりにくかっただろ? 誰かが悪役になってでもこういうことを正さないとダメなんだよ」
「相田、喋くってるより仕事したらどうだ? まず自分の仕事みんなに見せろよ」
「野瀬さんだっけ? あんた、幾つさ」
「28だ。それが悪いか?」
「ほらね? 上が上だと下もこうなる」
 周りが騒然となり始めた時にツカツカと三途川が相田の前に立った。
「相田。私、32。もうすぐ33になるわ。あんた、うるさい。ここで一番仕事してるのは課長なの。見なさい、このバカバカしい騒ぎの中でも課長の手は止まってない」
 確かに。周りの騒ぎを聞いてはいるが、目の前のデータ分析は午前中に終わらせなければならない。正直言って相田に付き合っている暇が無い。
「相田、悪いな。俺は今忙しいんだ。お喋りには手が空いた時に付き合う」
「子ども扱い、止めてくんないかな」
「相田チーフ!」
 みんなが後ろを振り向いた。
「課長は仕事してるんです。みんなもそうだ。なのにあなた、邪魔ばかりしてるじゃないですか!」
「ジェローム、止めろ」
 思わず蓮が口を開いた。
「止めません。これを言うのは俺たちの権利です。課長は手が空いたら参加してください」
 蓮は思わず吹き出した。手が止まる。
「おい、俺を笑わせるな! いや、ホント、お前って……」
 震えながら笑っている。釣り込まれたようにみんなも笑い始めた。
「ね、一番下のジェロームの方がよっぽど仕事を意識してるわ。あんた、ごちゃごちゃ言うんならきっちり仕事すんのね」

「ここではあんたの理想は叶わないって思った方がいいよ。尊敬されるのはそれだけのことをしてるってことだよ。あんた、まだ何もやってないじゃん」
「君は宗田花って言ったよね。名前の割には辛辣なんだね」
 一気に花の目が冷えた。声が凍る。今相田は花の地雷を踏んだ。
「俺にケンカ売る? いいよ、買うから。ここじゃ迷惑だから外行こうよ」

 蓮が立ち上がった。

「そこで終わりだ。仕事しない者はフロアから出て行け。俺はプロが欲しいだけだ。遊びに来てるやつは要らない」
 そのまま座ってまたキーボードを打ち始めた。みんなもすっと自分の仕事に戻った。これ以上は課長を怒らせるだけだと知っている。
「これで終り? 課長の一喝で終わっちゃうの? 横暴だと思わないの?」
 もうそれに反応する者はいなかった。


「野瀬チーフ、池沢チーフ。すみません、昼飯、一緒しませんか?」
「いいけど。どうした?」
「話があります」
 柏木は二人に話しておこうと思った。横浜で自分が見聞きしてきたことを。昼休みも社食でパッと食べ仕事をする野瀬と池沢だが、柏木と連れ立って外に出た。ちょっと洒落た店に入る。ここならあまり会社の者が来ない。
「え、ここ、俺には……」
「奢ってやるよ。俺は高給取りだからな」
「高いのは給料じゃなくて、見栄でしょ?」
「それを言うな、池。それくらいは見栄張らせてくれよ」
「で、話しってのを聞かせてくれないか?」

 柏木が話すことを二人はじっと聞いていた。

「へぇ! 課長潰しってわけか。なるほどねぇ、あれがアイツの趣味なのか」
「知ってるだけで二人です。他は知りません。あと……これは言っていいのか」
「なんだよ、ここまできて渋るなよ。俺は高いもん奢るんだぞ」
「はい。あいつ、『男喰い』ってあだ名もあるんですよ」
「『男喰い』?」
「ええ、文字通り。カモを見つけると喰らいつくんです。どっか連れ込んだり。みんな大っぴらに出来ないから泣き寝入りで、噂だけが流れるんですよ。どこまで本当か知らないけど薬使うなんて話も聞きました。ここでは無いかもしれないですが」
「そりゃちょっと洒落にならないな」
 野瀬の眉間にしわが寄る。
「とにかく様子を見ましょう。それにウチの課長があんなヤツに潰されると思いますか?」
 池沢の言葉に野瀬が笑った。
「一度くらい潰されるところを見てみたいくらいだ。多分賭けをしても賭けにならないぞ。潰れんのは相田の方だろうからな」


 午後になって明らかに蓮の仕事に余裕が出来たのが分かった。

「課長。朝の続きなんですがね」
「ああ、そう言えば何か話してたな」
「何かって……そういうところ……」
「で、お前の要求はなんだ? どうしてほしいんだ?」
「まず、お前ってやめてもらえませんか? 不愉快です。呼び捨ても」
「『相田さん』そう呼んで欲しいのか」
「ええ」
「それは無理な相談だ。お前をそう呼んだらあれこれ他の者も呼び方を変えなきゃならない。お前という言葉も俺は誰かれ構わず呼ぶ。悪いが俺は俺のやり方を変える気は無い」
「それって民主主義に反してませんか?」
「お前が思っている民主主義がどういうものかは知らないが、俺の思っているものと違うのは確かなようだな。仕事をきちんとするヤツはみんな平等だ。それは目立つ仕事という意味じゃない、質の問題だ」
「綺麗ごとにしてないかな、それって」
「綺麗ごとで何が悪い? 汚くすることなんて簡単にできる。見栄張って綺麗ごとを言って、その中身に相応しくなるように努力する。それでいいと思っている」
「課長は自分がその綺麗ごとの中身に相応しいと思ってるんですか?」
「相応しくなるように努めている。だから綺麗ごとはいくらでも言う」
「開き直ってますね」
「開き直らないとお前みたいなヤツに付き合っていられないからな」

 相田は気づいた。ずっと蓮の口元に笑いが浮かんでいる。堪えていない、自分の言葉に。それどころか相手は自分で遊んでいる。
 周りも皆聞いてはいるが、口を出すことはしなかった。午前中と違い、課長は自分で受け答えをしている。誰も心配などしていない。というより、皆内心楽しんで聞いている。

「他に何かあるか? 意見ならいつでも幾らでも聞く。だがお前が手を止めて喋っている間、お前のチームは黙々と仕事をしている。これは評価すべき点だな」

 今は10月頭。今月は賞与のための査定がある。上長の評価を基に11月に金額が決まる。暗に課長が『お前の賞与はどうしようか?』と言っているのだと思った。

「ずい分と卑怯ですね。見損ないましたよ」
「いくらかでも俺を評価していたということか? 誰かにどう見られるかということを気にしていたら中間管理職なんぞやってられん。こっちはなりふり構っていられないんだよ。さて、この先は話が堂々巡りするだけのような気がするが、まだ続けるか? もう一度言うが、『お前』も『呼び捨て』も変える気は無い。以上だ」
「……部長がどうこういうやり方を思うでしょうかね。こういったトラブルを管理職は好みませんよ」
「部長の邪魔をしたければしろ。俺は構わない」

 話が終わったということがみんなにも伝わった。溜飲が下がるとはこのことだ。
(チクショウ、恥かかせやがって! あいつもだ、出しゃばりやがって! 絶対にお前を俺のモノにしてやるからな!!)
 事の成り行きにホッとしたジェイが花と笑って喋っている。とことん歪んでいる相田は、自分のことで笑っていると思い込んだ。
(覚えてろ、膝まづかせてやる!)

 

 

「蓮、今日のこと……」
「止めよう。お互いに愉快じゃない話だ。それに会社の愚痴をお前と話したくない。一度始めたらキリが無いからな」
「うん……」
 言っている意味は分かる。けれど愚痴ぐらい聞いてあげたい…… だが、蓮がどれだけ会社の話を嫌がるかを知っているからその言葉を飲み込んだ。
 まだ週の初めなのにお互いに疲れているのが分かる。シャワーを一緒に浴びて腕を絡ませながらストンと蓮は寝た。頬を撫でる。髪を梳く。指の間にさらりと滑る。肩にキスを落としてジェイも眠った。


 次の日から穏やかな日々が続いた。まるであのことが無かったかのように蓮も相田も仕事に取り組んでいる。最初は不安だったみんなも少しずつ元に戻っていった。
 一番居心地が悪かったのは[相田チーム]の面々なのだが、それも時間と共に落ち着き始めた。相田は仕事は出来る。軽妙な会話、意外だが仕事に対しての真面目な態度。それは認めざるを得なかった。

 退職した笠井智美の後任で砂原美智(28)が入って来た。仕事は出来るが真面目過ぎるところが難と言えば難。笑顔が無い。黒い縁のメガネをかけていて、長い髪は常に縛っている。服装はかっちりとしたものが好みのようで、ますますとっつきにくい。
 

 

 その二人の歓迎会が翌週開かれた。春にジェイがしてもらった場所だ。久し振りにあのスーツを着た。
「今日はばらけるかも知れないな。メールで連絡取り合おう」
互いに別々の二次会に流れる可能性がある。金曜の夜だからみんな羽目を外すだろう。
「分かった。あんまり飲まないで」
「それはお前の方だ。潰れるなよ」

 それが、潰れた。面白がって野瀬やら浜田、澤田たちが注ぎに来たからだ。
「俺たちの酒が飲めないのか?」
 そう言われるとジェイはグラスを開けた。途中からビールも飲まされたがもう酔っ払っていて味も分からなくなっていた。
「ジェローム、飲み過ぎだ。もう断れ」
花が心配をする。だが言われるままに素直に飲んでしまう。飲むほどにジェイの目が色気を発していく。
「姫、あと1杯!」
 それも飲んだ。いつの間にか『姫』と呼ばれていることすら気づいていない。
「姫?」
 グラスに口を付けながら遠目にジェイを見ていた相田が反応した。
「ああ、ジェロームってその辺の女の子より繊細なんで、みんな姫って呼んでんですよ。本人は知らないんですが」
 やはり酔い回っている和田が教えた。
(なるほどねぇ。『姫』か)

 離れていてもかなり飲まされているのは分かる。素振りが艶めかしい。笑顔が明るいというより色っぽくなり始めている。
(ジェイ、それ以上飲むな!)
 蓮ははらはらしていた。かと言って話の流れを中断してそばに行くことは出来ない。花が世話を焼き始めたのを見てホッとした。三途川と目が合う。ジェイを指差されたので思わず頷いた。了解のサインがその手に出た。ジェイの代わりに飲ませに来るのを片っ端から横取りして飲んでいく。
(お前はウワバミだよなぁ)
感心するほど三途川は酒に強い。池沢とタメを張る。飲み比べだけは絶対にしたくない。

「どうしよう、三途さん。もう潰れかけてるよ」
「そうね……」
 課長を見る。とてもジェイを引き受けられるような状況には見えない。かと言って自分のマンションに連れ帰るわけにもいかない。
「俺、こいつ引き受けますよ。いつも課長じゃ悪いし」
「大丈夫なの?」
「新居に移るんで部屋はがらんと片付いてるし。ベッドとソファはあるから。明日まともになったら帰します」
「じゃ、課長に伝えるわ」
「お願いします。俺、チーフとちょっと喋ってきます」

 二人がジェイのそばから離れた。ジェイはテーブルに例のごとく突っ伏している。チラッと周りを見回して、みんなの目が自分からもジェイからも逸れているのを確認した。
「姫。ほら、姫」
「んー もうらめれす、のめらい……」
「花さんが呼んでるよ。だから行こう」
「はなさん……? いく」
 よろめき立つのを支えた。フロアの出口はすぐそばだった。廊下に出ると空気が冷えて心地いい。
「きもち、いい」
「だろ? 出てきて良かったろ?」
「うん きもちいい」
 ぞくぞくする。まるで子どものような返事。しなだれかかる体が抱き心地がいい。この体を思い通りにしたいという気持ちが強くなってくる。トイレに連れ込んだ。他に場所が無い。
「姫、シャツ苦しくない? ネクタイとか」
「ちょっとくるしい……とってもいい?」
「ああ! もちろんいいよ!」
 脱がせるつもりが自分から脱いでくれる。こんな美味しいことがあるだろうか。洗面台に体を預けてジェイがネクタイに手をかけた。ネクタイが滑り落ちる。ワイシャツのボタンが上から外れていく。まるで手伝うかのように上着を脱がせてやった。大人しくされるがままに脱がされて行く。
 ズボンのベルトを外した。それにも何の抵抗も無い。思い切って口付ける。ねっとりと唇を左右に舐めると開いて行った。その中を堪能する。ジェイの呼吸が乱れていく。
 シャツのボタンをもっと外しながら手を滑り込ませた。滑らかな肌が震えるのを感じて、相田の心も震えた。唇から離れて首を下りていく。
「はっ っあぁ……」
 ジェイの喘ぎに焦ってズボンのジッパーに手をかけた……


「ね、ジェロームは?」
「あれ? ここにいたはずなのに」
「トイレにでも行ったのかしら」
「いや、あれは一人じゃ歩けないよ」
 思わず目を合わせて二人でフロア内を見回した。
「相田、いる!?」
「いないわ!」
(やられたっ!!)
花はフロアを飛び出して行った。三途川は蓮に近づいた。
「課長、ちょっとすみません」
「どうした?」
 顔を見て真剣な表情にみんなから離れた。
「何かあったのか?」
「姫が消えました」
「消えた?」
 慌てて周りを見回した。
「相田が絡んでいるかもしれません。今花が探しに行きました。お伝えしときますね。私も花の後を追います」
 それだけ言って三途川も出て行った。
「悪い、トイレだ」

 

 蓮もフロアを出た。真っ直ぐトイレに向かった。まずそこしか思い浮かばない。近づくと悲鳴が聞こえたから飛び込んだ。三途が立ち竦んでいるのを避けて中を見た。花が相田を殴っている。相田の鼻からは血が噴き出していた。そして、そのそばにジェイが床に倒れていた。ジッパーが開き、ワイシャツのボタンが外れて……

 頭に血が上った。周りが目に入らなかった。花の手から相田を取り上げた。2発殴ったところで三途に抑えられた。
「課長、それ以上はマズいです!」
『課長』という言葉が蓮の目を覚まさせた。相田はとっくに気を失っていた。床に落としてジェイを見た。
「俺が入って来た時、ジェロームは酷く抵抗してました。必死に『やめろ!』って。酔ってんのをいいことに、こいつジェロームを抑えつけて」
 そう言っていきなり花は相田の腹に蹴りを入れた。気を失っている相田から呻き声が上がる。
「こいつ、どうします?」
 嫌悪感丸出しの花の目つきが据わっている。
「野瀬と池沢を呼んで来い。三途、どこかジェロームを横に出来る場所を探してくれ。出来れば人目につかない方がいい」
「分かりました」

 相田は完全に気を失っている。ジェイを座らせ、壁にもたれさせた。
「ジェイ、ジェイ、しっかりしろ。俺だ、ジェイ」
 目が開かないジェイが弱々しく手を振り回す。
「やだ……やめ……」
「俺だ、分かるか? もう大丈夫だ、相田じゃない」
 やっと目が開いた。
「れん……?」
「ああ、そうだよ。もう大丈夫だ。ケガはないか?」
 ジェイの体を素早く見たが、傷は無いようだ。
「じっとしてろ、今三途が横になれる場所を探してくれてる」
「ごめ……なさい、れ……」
「お前は何も悪くないさ。みんながいる、蓮と呼ぶな。分かったか?」
 頷いたのを見てホッとした。

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