
宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第三部
8.この腕の中に-2
駅の近くにレンタルビデオの店がある。初めてそこに入った。
「蓮は? 蓮はどういうの見るのが好き?」
「俺か? そうだなぁ、ダビンチコードみたいなのかな、サスペンス」
「俺、笑うのがいい」
「日本? 外国?」
「どこでもいいけど、外国の見たこと無いから」
コメディコーナーに並んでいるのを片っ端から見ていく。気がつけば11本。
「ごめん、減らすから!」
蓮が目を丸くしてるから返すものを選ぼうとした。
「いいよ、1週間14本までいいからな。後3本、選んでいい」
「でも蓮は?」
「お前と一緒に笑うよ。だからいい」
だがその夜は笑うことは無かった。シャワーを浴びると蓮が抱く。喘いで喘いでそれでも放してもらえず、何度もイかされた。くたくたになって何も考えることなく眠りに落ちる。
次の日も夜になるとイヤだと言っても抱かれてしまった。気がつくと朝、蓮は出社した後。途中からの出社がしにくくて休んでしまう……
結局ビデオは日中にあっという間に見てしまったから、返すついでにまた借りて来ようと思った。映画は面白かった。時間を忘れる。けれど……
(え? これ、なに?)
行く支度をしようと、シャワーを浴びる前に首の痣に気づいた。頬骨のちょっと下、自分では見えにくい場所。最初より薄れてきているが、それでも強く吸われた痕がなかなか消えずにいる。
(こんなとこに痣なんか無かった…)
なんだろうと思う、心当たりが無い。
(こんなとこ、ぶつけないよな)
そう思いながらシャワーを浴びて出た。
心にひっかかったそれがいきなり解ける。
(これ……違う違う、なら蓮が何か言う……)
でも自分を思って言わないとしたら?
(『俺がいいと判断してから』……あれってそういう意味?)
なら繋がる、蓮の言った言葉、ここのところの蓮の態度。
(会社に行かせたくなくて抱き続けているんだ、朝起きれないようにって)
「ただいま」
帰って来てジェイがただ座っているのを見つけた。
「どうした?」
「俺、聞きたいことあるんだ」
「なんだ?」
「この首の痣、つけたのあの人なんでしょ?」
(知ってしまった……)
蓮は咄嗟に返事が出来なかった。
「やっぱりね。そうなんだ、俺はそんなことされたのに知りもしないで……抱いてる最中、蓮はそれを見てたの? どんな気持ちで? 俺の首を何度も行ったり来たりして何も感じなかったんじゃないよね? どういう気持ちだったんだよっ!」
見たことも無い怒り。テーブルの上を見た。開けてなかったはずのワイン。半分近くが消えている。
「ジェイ、酔ってるのか? 酔いが醒めてから話そう。今は何を言ってもお前は聞く耳を持たないだろう?」
「いっつもそうだ、蓮は俺を子ども扱いして楽しんでるんだ! 俺は今日知ったのに蓮は 最初っから知ってたんだ! 後、誰が知ってるの!? みんな? みんな知ってるの!?」
「誰も知らない、大丈夫だ、誰も知らないから」
「ウソだっ! 蓮は俺にウソばっかりついてる、みんな知ってるから会社に行かせたくないんだ……」
そばに寄った。肩に手を置こうとした。
「触るなっ! 嫌いだ、蓮なんか! ずっとこれ見て憐れんでたんだ、俺のこと。だから東京タワーにも連れて行っ」
手形が付くほどに頬を引っ叩かれた。
「お前、本気でそう言ってるのか? 俺がそんなヤツだと本気で思っているのか!?」
「思って……るよ……」
「本心か?」
「…………」
「本心で言ってるのか?」
「れん……」
ジェイの怒りが静まっていくのが分かる。
「来い……」
動かないジェイの手を取って手繰り寄せた。
「痛いか? 悪かった。加減できなかったんだ」
「蓮……本気で怒ったんだね? 俺があんなこと言ったから……本気で怒ってくれた……蓮……」
縋りついて泣いた。その首を見た。光の加減で分からなかった。着ているシャツの襟元が赤く染まっている。痣のそばに傷があり血が垂れていた。
「これ、どうした!」
触ると指に血がついてくる。
「……消そうと……思って」
「まさか……バカっ! 切り取ろうとしたのか!?」
「うまく行かなくて」
座らせてタオルを掴んできた。
「これで押さえてろっ!」
酔った勢いでやったのだろうが、どれほど深く切ったんだろう。しっかり動くところを見るときっと大した深さじゃない。アルコールを飲んだことで出血が止まらずにいるのに違いない。消毒薬とガーゼと包帯を用意した。消毒してガーゼを当てる。
「何時ごろ切ったんだ?」
穏やかに聞いた。
「多分……7時くらい……酒飲んでたらそれが一番いいような気がして来て……」
「こういうこと、もうするな。一歩間違えばお前死んでるぞ」
「大丈夫だよ……」
その手を強く掴んだ。
「しないと誓えっ! お前がそれで死んだら俺も死ぬからなっ!」
ジェイはその激しさに息を呑んだ。頭が冷めてきた。
「ごめ……ごめんなさい、ごめんなさい、蓮、ごめんなさ……」
落ちそうになるガーゼを蓮はジェイの傷に当てた。そのままジェイの唇を塞ぐ。
「いいんだ、俺も言えば良かった。でもこれ以上お前を傷つけたくなかったんだ。この頃の俺の気持ちは空回りしてるな……お前を不安にさせてばかりいる……」
「蓮は……悪くないよ、俺が悪いんだ」
もう一度口付けた。
「仲直りしよう。俺も悪かった。お前もちょっとな。けど原因はどっちのせいでもない。他の所にある。だからそのせいでケンカするのはやめよう」
頷くジェイの頬を撫でてガーゼを外してみた。さっきよりはいくらかいい。
「痛いだろ。よく出来たな、こんなこと。頸動脈切ってたら大変なことになってたぞ」
「うん……」
「縫いに行くほどじゃ無さそうだ。でもしばらくじっとしてろ。酒飲んだから余計血が止まらないんだ。ほら、自分で抑えて」
ジェイにガーゼを任せて、濡れたタオルを2本冷凍庫に放り込み着替えた。
「何か食ったのか?」
「食べてない」
「食べずに飲んだのか。それもだめだ、空きっ腹で酒飲むな。碌なことにならない」
「目が……回ってる」
「当たり前だ」
冷凍庫からかなり冷えたタオルを取った。
「ひゃっ!」
目の上から覆った。もう一つはさっき引っ叩いた頬の上。
「冷たい!」
「当然だ、冷やすんだから」
だいぶ酒に強くなったと思う。これだけ飲んで吐かずにいる。歓迎会ではワイン、ビール、水割りを飲まされていたと花が言っていた。それなら前後不覚に酔って当たり前だ。きっと相田と自分を間違えたのだろう。それでも途中で気づいて拒んだ。それだけ酔っ払っていたのに。
「どら、見せてみろ」
もう、ほんのちょっと滲む程度になっていた。新しいガーゼを当てて包帯を巻いた。
「明日の朝まで外しちゃだめだぞ」
「分かった」
「お茶漬けでいいか?」
「それがいい」
「よしよし。何が『子ども扱いして』だ、ホントに子どもじゃないか」
またぷっと横を向くから笑って言った。
「やっぱりガキだ」
お茶漬けを食べさせて、自分もそれで夕飯を済ませてしまった。
「ジェイ、ちょっとだけ話そう。さっき一つ嘘をついた。お前の首のそれ、部長も知っている。だから部長はお前に休んで欲しかったんだ、きっとお前が傷つくから。何の痕かピンと来るヤツもいるだろうからな。もちろん会社としても困ることだけど部長はホントに心配してたよ。今日もお前の様子を聞いてきたから俺の所にお前を引き取ってるって言っておいた。お前が一人っきりなのはみんなが知ってることだから」
「じゃ、蓮と今一緒にいるってみんな知ってるの?」
「そう言ってきた。みんなにはお前が具合悪いんだって言ってあるからな。出社したら話合わせろよ」
「うん……でも花さんにはメールで元気だって言っちゃったけど」
「花なら大丈夫だ。あいつは苦労してるから察するってことが人一倍出来るんだ。お前のことを弟みたいに思ってるらしい。出てきたら合気道教えるんだって言ってたぞ」
泣きそうな顔になっているからタオルを渡した。
「なに?」
「今から泣くんだろ? 先に渡しとくよ」
「……泣けないよっ! ばかっ」
その口にたっぷりのキスをした。
……ん……っふ……
息が上がりそうなところで離れた。
「今度からお前が『ばか』って言う度にキスするからな。言い過ぎだ、失礼だぞ」
泣きたかったのが笑いになった。
「少し醒めてきたみたいだな。休む理由も分かったし、俺はもう何も隠して無い。何だか俺の方がホッとしてる」
テレビの前のテーブルの上にはビデオが散らかっていた。
「ビデオ、みんな見ちゃったのか?」
頷いたのを見て上着を取ってきた。
「どうするの?」
「酔い醒ましだ、散歩に行こう。ビデオ新しいの借りたいだろ? 冷たい空気も吸った方がいい」
ジェイにも上着を放り投げる。ちょっと見て、マフラーを出してきた。
「まだ早いよ、マフラーなんて」
「首の包帯見たら誰だってドキッとする。いいから巻いておけ」
素直にぐるっと巻いたから巻きなおしてやった。
「こういう風にするんだ。輪っかにして、その中に通す」
恋人なのか弟なのか、そんなややこしいことを考えないようにした。
「抱きたかったのにこれじゃ今夜は無理だな」
「大人しくするから今日はもう止めて」
「なんで? 飽きたか?」
「じゃなくて、身が持たない」
クスクス笑いながら玄関に向かった。
「ぐずぐずしてると置いてくぞ」
「待って! 蓮!」
次の週、ジェイは仕事に復帰した。
「長く休んでしまって済みませんでした。ご迷惑おかけしました」
頭を下げるジェイをチームのみんなは気遣わしそうに見た。
「もう……いいのか? 無理はするなよ」
「大丈夫です、チーフ。俺、休んでた分頑張りますから」
蓮は忘れていたがあの時部長の脇に池沢もいた。だから首の痣のことを池沢も知っている。気をつけようとするのに、つい首に目が行きそうになるのを我慢していた。
「ジェローム! どうしたんだ、首!」
花の声に池沢がドキッとした。
「切ったのか? 結構大きい傷があるじゃないか」
(切った?)
改めて目をやると痣は消えているのに、あの時に無かった傷があった。
(え? 自殺を図った?)
でも目の前のジェロームは落ち着いている。
(課長が止めたんだな。しばらくは気をつけていないと……)
すっかり自殺未遂だと思い込んでしまった。
「間違って、その……」
「間違えてこんなとこ切るか? これ、刃物の痕だろ? ちょっと来い! あ、チーフ、すみません。ジェロームと4階行ってきます!」
「ま、いいけどさ。今日はジェロームは仕事にならないだろうって思ってたし。メール片付けんのだけで午前は終わるだろうし」
「チーフ、聞こえるように独り言言わないでくださいね。哲平の代わりに花が引き受けようとしてるんだから任せといていいんじゃないですか?」
池沢としてはジェロームに頼ってほしいのに、みんながその役割を取ってしまう。だからちょっといじけた顔になった。三途川はその顔に溜め息をついた。
「何やったんだ? まさか死のうとしたんじゃないだろうな!」
花の剣幕にジェイはたじろいだ。
「ちが、違うよ、そんなことしてない、本当にうっかり間違ったんです」
「お前さ、メールじゃ元気だって言ってたじゃないか。俺安心してたんだぞ、課長んとこに行ってるって聞いて。課長の前で切ったのか?」
「いえ、課長、まだ会社から帰ってなくて……」
「そうか。本当に変なこと考えたんじゃないんだな?」
「はい」
花はほっとして深呼吸をした。
「ならいいよ……教習所は行ってる?」
「先週は行かなかったけど」
「後どれくらい通うんだ?」
「学科と適正検査は終わってて……」
「ウソっ! まだそんなとこ? おい、さっさと取れよな。1ヶ月待ってやる。その後は合気道だからな。水曜と木曜の夜、空けとけ。俺が教える」
「え、でも……」
(蓮に聞かないと)
そう言いそうになって口をつぐんだ。
「なに? 文句あんの?」
「いえ! あの、合気道って護身術を教えてくれるんですか?」
「護身術? 身を守りたいだけだったら合気道は要らないよ。危ないとこに近づかない、逃げる、助けを呼ぶ。これが護身術だよ」
「え、じゃ、合気道って……」
「じゃなくて、技を教えてやるって言ってんの。合気道ってのはケガをしないための武道なんだ。最初は呼吸法から。初心者だからな、それくらいから教える。取りあえず基本技だけ教えてやるから」
最初は困ったと思ったが、体を動かすのは好きだ。部活はあんな形で断念したから何かやってみたいという思いはある。かといって蓮と一緒に走ろうと思いはしても、つい何となく思うだけになっていた。
「はい、じゃ教えてください。免許も頑張って早く取ります」
花がやっとにこっと笑った。
「俺たちみたいなのにはそういうの、必要なんだよ」
「合気道ですか? 俺たちみたいって?」
「きれいで優し気」
一瞬花が何を言ったのか分からなかった。
『きれいで優し気』
確かに花はきれいだ。細身の顔に大きな目と形のいい鼻、赤い唇。風にふわりと舞う髪と白い肌。男を投げ飛ばすとは思えないほどの花奢な体。女性に間違えてもおかしくない。でも……だから素で言ってしまった。
「花さん、優し気なんかじゃないですよ」
「なんだって?」
急に真面目になった花を見て、目をパチパチさせ自分が言った言葉をリピートした。
「花さん、優し気なんか…… ごめんなさい! そういうつもりじゃ」
「いい度胸してるよな、そんなこと平気で俺に言うのは哲平さんくらいだったのに。しかもお前、本心で言ったろ!」
「えと、……」
言葉なんか続かない。マズいことを言ったのは分かっているがどう修正していいか分からない。
「いい。罰としてコーヒー奢れ。昼飯の後と3時な」
ただ黙って頷いた。また変なことを口走りそうで。
午前は忙しくてあっという間に終わった。溜まっていたメールは230通……
(もう長く休むのは止めよう!)
自分が悪いわけではなかったけれど、本気で反省した。それに休んでいる間、4人で仕事を回したのだと思うといたたまれない。
「あのね、課長が入ってくれたの。だからそんなに気にしなくって大丈夫よ。逆に私たち仕事煽られちゃって困っちゃった」
千枝がこそっと教えてくれて、それはそれで蓮に申し訳なく思う。
昼飯は、「久しぶりにみんなで食べよう!」と池沢が連れ出した。休んでいた間のことには誰も触れず、笠井智美の後に来た砂原美智の話が中心になった。
「おっかないんだよ、ジェローム、あんまり近づくなよ」
「おっかないって、花さんがおっかないの?」
「なんかゆとり無い話し方するからさ、こっちが追っかけられてるような気になっちゃうんだ」
「ここに来る前に何かあったんでしょ。慣れたら落ち着いてくるわよ、きっと」
「私も朝トイレで会って『お疲れさまです』って言ったのよ。そしたら『仕事前から疲れてるの?』って……」
「チームが違うんだからあまり気にするな。きっと異動直後でピリピリしてるんだよ」
そんなことを聞いて(怖そうな人だなぁ。綺麗なのに)と呑気にジェイは考えていた。まさかその[怖そうな人]が恋敵になるとも知らずに。