宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第3部
7.想定外-2
今日は早く帰ってジェイの話を聞いてやりたい。ここのところまともにジェイと会話していないことに思い至る。
(『俺のこと、好き?』あんなことを会社で聞くなんて…… 放ったらかしが悪かったのかもしれない。そう言えば首の傷もまだ残っているし)
疲ればかりで構ってやれていないことを悔いてしまう。
その後はもう休憩どころじゃ無かった。昼、三途川が買って来た弁当をかき込むように食べ、お茶で流し込んでから後はただバタバタと仕事に追われた。
やっと自分の椅子に座る。すかさずそこにアイスティーが置かれて目を上げると砂原だった。
「冷たい方がいいかと思って……」
「ああ! 助かるよ、喉が渇いていたんだ」
開けてあっという間にゴクゴクと飲み干した。
「課長お疲れでしょう。仕事し過ぎですよ」
「しょうがないんだ。今は厳しい時期だからな、落ち着くまでの辛抱だ」
「お夕食、ちゃんと食べてらっしゃいます?」
「ここの所、冷凍が多くてな。それより眠くなるんだよ」
「私………もし良かったらお夕食……」
「課長!! すみません、サーバが落ちたみたいで」
「え!? どうした? データ、バックアップ取ってあるか!?」
「はい、それは大丈夫なんですが……」
蓮が立ち上がって砂原が座った。
「あ、復旧しました! すみません、お騒がせしました!」
「おい、頼むよ。バックアップ、こまめに取っておいてくれ。池沢、三途のとこ見てやってくれ」
「了解!」
(ごめんね、課長。けど夕飯まで作りに行くなんて言わせるわけにはいかないの)
心の奥で詫びてはいる。けれど、自分だって課長のことを僅かでも好きだった。それを来たばかりの女にしゃしゃり出られては敵わない。可愛いジェロームだからこそ許せるのに。
(それに……相手が女だなんて冗談じゃないわ!)
複雑な女心だ。
退社時間。お互いに残業だがジェイの方が早く上がった。エレベーターに向かいながらメールを打った。
『連絡くれたら駅に行くから。どっかで何か食べようよ』
『分かった、連絡待っててくれ』
駅に向かう。どちらかと言うと、とぼとぼという歩き方。
(砂原さん、俺より先に帰ったから大丈夫だよね。それにマンション知らないはずだし)
そう思いながら歩いていたから後ろからの気配に全く気付かなかった。
「姫」
その頃には自分が『姫』と呼ばれているらしいことを知ってはいた。けれど誰も面と向かって呼ばないからなんとなく他人事。
「姫、久しぶり」
そこまで言われてやっと振り向き、固まった。
「相田さん……」
「元気? そろそろ帰りかなぁと思ってね」
動けない、息が苦しい……
確かに会社を辞めただけだ。普通に暮らしているのだからどこにいても不思議は無いが、まさか自分の前に、それも話しかけてくるとは思いもしなかった。
「ね、夕飯食べない? この前のお詫びだよ。変なことになっちゃったけど僕は君を責めるつもりは無いよ。正直ただ酔っ払っていただけなのにあそこまで騒がれるとは思わなかったけど」
まるでジェイが悪いような言い方だ。
「それに僕は知ってるよ。君さ、ゲイだろ?」
何を言われているのか…… 『ゲイ』の意味くらい知っている。けれどそれと自分とを被せたことなど無い。
「特定の恋人がいるの? あのさ、良かったらセックスフレンドにならないか? 君はセクシーだし」
一言も言葉が出ない。どう反応すべきなのかが分からない。それをいいことに肩に手を置かれた。
「今夜空いてる? 別にいいんだよ、単なるその付き合いだけでも。お互い楽しめればそれでいいと思っ」
「相田」
相田の肩を掴んだのは蓮だった。
「何の真似だ」
「河野君。久し振りだねぇ。もう辞めたんだから偉そうに言われたくないよ。今ジェロームと話してるんだ。あんたの許可なんて要らないよ」
「何の話だ?」
「プライベートだよ。ね、姫」
蓮には真っ青になっているジェイの顔がはっきり見えている。
「これから僕ら、仲直りで飲みに行くんだよ。放っておいてくれないかな」
「お前、ここでジェロームを待ち伏せしてたのか?」
「待ち伏せ? 人聞きの悪い……相性が合う者同士、仲良くやっていこうって話をしに来ただけだ。とにかくあんたには関係ない、さっさと家に帰れよ」
「生憎だったな、この後飲みに行く約束をしているのは俺だ。お前こそ帰れ。ジェロームにつきまとうな」
相田はジェイを振り返った。
「ねぇ、ホントにこの人と約束してたの?」
カクカクと頷く。
「なんだ、じゃそう言えばいのに。じゃ、さっきの話考えといて。いい返事待ってるから」
肩に乗った手がぐっとジェイを掴んで離れた。
普通に歩いていく後姿をじっと蓮は睨んでいたが後ろからジェイのか細い声がした。
「れ……きもち……」
そのまま胃の中の物を吐いてしまった。
「ジェイ! 大丈夫か!?」
崩れそうな体を支える。背中をさすりながら抱えていたところに花が通りかかった。花も今日は遅くまで仕事をしていた。
「どうしたん……ジェローム!?」
反対側から花が支えた。
「一体何があったんですか!」
「相田が待ち伏せしてたんだ」
「え!?」
「あいつ、ジェロームに絡んでたんだよ。仲直りをしに来たとか言って」
「冗談でしょ!」
「またどこかで待っていても困るから家に連れて行く。ちょっと考えなくちゃならないな」
「そうですね……俺が引っ越すんじゃなかったら来いって言えたんだけどなぁ。もう家を空けちゃうから」
「俺んとこでしばらく引取るよ。それが一番安全だから」
「そうですね。あいつ、これからもつきまといますよ。本当に何とかしないと」
花と別れてバッグを持ってやり、ゆっくりと歩いた。
「辛かったら言え。どこかで休憩しよう」
「蓮……俺、ゲイなの? そういうことなの?」
「相田が……そう言ったのか」
「そんな風に考えてなかった……」
「ジェイ、そんな言葉に振り回されるな。それを言うなら俺もそうだということになる」
「蓮は違うよ……」
「なんで? 同じだよ」
「蓮、女の人と付き合ったことあるじゃないか……今だって……」
「今だって?」
「今だって砂原さんと……」
ピンと来なかった、ジェイが何を言っているのか。
「砂原がどうしたんだ?」
「お弁当……美味しかった? 俺も明日から作る」
やっと言っている意味が分かった。嫉妬。
(ちょっと待て、俺は何も喜んで無いぞ)
ジェイの足が止まる。
「どうした?」
「れん…だめ…はきそ」
けど何も出なかった。ただえづくだけ。落ち着くまで冷たい空気を吸わせた。通りかかったタクシーを拾った。タクシーの中でぐったりと蓮に寄りかかって浅い呼吸を繰り返す。
マンションの前で下りて、一緒にゆっくり階段を上がった。タクシーにも酔ってしまったし、エレベーターにも乗れそうもない。
部屋に入ってやっと人心地がついた。
「ちょっと待ってろ」
濡れタオルを用意して顔を拭いてやる。まだ顔色が悪い。スーツを脱ぐのを助けてやり、取り敢えずベッドに寝かせた。自分も手早く着替えてジェイの脇に腰を下ろした。髪を梳きながら話しかける。
「お前、砂原とのこと心配するな。単なる部下だ。みんなと変わらない。お前が不安がるようなことは無いよ」
「ホントに?」
「ああ、本当だ。お前以外に真剣になる相手なんか出来るわけが無い。俺はちゃんと信じろって何度も言っただろう?」
「うん……」
「俺も迂闊だったよ。向うがそういうつもりだと思ってなかったんだ。お前に言われて初めて気づいた。確かにそう取れるよな。気をつける。約束だ」
「うん」
まだ気持ち悪いらしい。冷や汗をかいているのが分かる。
「何とかしなきゃな。相田のこと、あまり考え込むな。ちょうど花が来て良かった。あいつなら気を回してくれるだろう。俺はもうしばらく残業が続きそうだからな、何かしてくれるなら甘えてしまえ」
「セックスフレンド……」
「え?」
「それになろうって……楽しもうって」
「そんなこと言ったのか!?」
どんなにショックを受けただろう……辞めたから好き放題にジェイを振り回す気なのは目に見えている。砂原のことで悩んでいるところに相田が現れた。
(ジェイ、俺が守ってやるからな)
ジェイが落ち着いてからシャワーを二人で浴びて、ただそれだけで寝た。時々腕の中のジェイが寝苦しそうに動いたが、蓮の胸に頬をぴたりとつけて動かなくなった。気持ちが不安定なのだろう。自分の疲れも忘れた蓮は、ジェイが寝たことにホッとして眠った。
次の朝、考えに考えて車で出社することにした。どこに相田が出てくるか分からない。
「ジェイ、車で行こう」
「いいの?」
「大丈夫だ、気にしなくていい」
ちゃんとした理由がある。だから大手を振って一緒にいられる。
「お前2週間あれば免許取れるだろ。残業続いたから行けなかっただけだし。今日から残業無しにしてやるから免許を取ってしまえ」
「でもそれじゃみんなに悪いよ」
「お前の行き帰りを心配しなきゃならないよりいいと思うがな」
「それに……車無いし」
「買えばいい。一緒に選んでやる」
「蓮! 俺、そこまで甘える気、無い!」
(そうだった、そういうヤツだよな、お前は)
「一旦俺が立て替える。額を決めて俺に返済しろ。それならいいだろ?」
それならまだ受け入れやすい。何から何まで出してもらうなんていやだ。今、生活費として月6万円渡している。5万でいいと言うのを、そうしてもらった。残業が多いから、手取りで26万弱。生活費を渡しても20万弱は残る。昼飯代に約3万。定期券に約1万。元のアパートの家賃に3万。本当は6万だが半分蓮が出してくれた。雑費と小遣いを引いても充分車の分割払いが出来そうだ。一緒に住んでから貯金も50万はある。ジェイとしては貯金は300万を目標にしている。目的があるわけじゃない。ただ、万が一のことを考えるからだ。入院すると収入は入らないし、会社を辞めなくてはならない時が来るかもしれない。
「分かった、そうする。ありがとう」
「教習所までどうやって行く?」
「えと……」
自分はついて行けない。花はジェイの分も本気で仕事を抱えるつもりだ。
襲われるということがどんなに辛いか、花は身を持って知っている。未遂に終わったがアレは忘れられるもんじゃない。ましてジェイなら立ち直れないだろう。
「今日から昼飯、毎日俺と食え。簡単な技だけど教えてやる。自分の身を自分で守れるようにならなきゃな」
「お願いします! 俺、これ以上みんなに迷惑かけたくない。一生懸命覚えます!」
ジェイも相田に怯える自分が嫌だった。
(俺は悪いことしてないんだ、怖がるのはおかしいんだ)
11時ごろ。仕事は午前の山場を迎えていた。仕事上、いろんな相手から打ち合せや問合せで電話がかかってくる。携帯が鳴って、ジェイは何も考えずに出てしまった。一瞬くらりとした。真っ青な顔でデスクに手をついて体を支えた。それでも体がふらつく。花が気付いて反射的にジェイの携帯を取り上げた。
『……らね、君の都合に合わせるよ。割り切ったセックスをするだけ。いい関係になれると思わないか? 僕たちきっと体の相性いい』
「あんたさ、恥ってもん知らないのか? 何がいい関係だよ、この変態ヤローッ!!」
返事も待たずに切った。花の怒鳴り声だけでチームにも野瀬にも何のことか分かった。蓮がツカツカと歩いてきた。
「花、とりあえず着拒にしてしまえ。ジェローム、早めに携帯変えるんだ。池沢、野瀬、後を頼む。俺はちょっと部長と話してくる」
「なんだって!?」
「どうしますか? 元社員が社員の尻を追っかけてる。ウチくらいの企業になると格好のスキャンダルですね。会社の対応も問われるでしょうし、だからと言って警察沙汰にも出来ない。会社にとっては大事な時期です」
「君がそういう言い方をするということは、何か提案があるんだな?」
大滝は飲み込みが早くて聞く耳を持っている。
「まず、向うの待ち伏せにはジェロームが自動車通勤に変えればそれでかなりの効果があると思います。幸い今免許取得中なんですが、残業が多くて先に進めずにいます。私は時間を与えて早急に免許を取らせたらどうかと思っています。携帯は在籍中にアドレスも番号も知られてますが、買い替えればいいかと。前にも電車で後をつけられたことがあったようなのできっと自宅も知っているでしょう。セキュリティの無い住まいだったので、思い切って引っ越しさせるつもりです。何か起きるよりずっといい」
「そこまでする必要があるか?」
あまりにも仰々しくないだろうか。個人にそこまで会社としてテコ入れしていいものか。痴漢騒ぎになる社員は結構多い。だがそこまで手を打ったことが無い。
「じゃ、手放しで見ていますか? 既に相田は辞職してからもジェロームに接触して来ています。就業中にも電話をかけてくる。守り切れるわけが無いです。本人の自覚や自己防衛の範囲を超えています」
「しかし……」
「部長。想像してください。夕べ、ジェロームは相田から面と向かって『セックスフレンドになろう』と言われてます。次に何かあってジェロームが警察に駆け込んだとしても責めるわけには行きませんね。これだけ前もって会社側は状況を知っているんですから」
大滝の眉間に深い皺が寄った。
「セックスフレンド? 彼は確かまだ22歳だったな」
「はい」
「家族がいなくて独り暮らし。頼る者もいない。そうだな?」
「はい」
「セキュリティが無いというのは?」
「古いアパート住まいだからです」
しばらく考えているから黙って待った。
「分かった、少し時間をくれ。考えてみよう。早急に返事をするが全部通るとは思わないでくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
当然蓮もそこまで会社がしてくれているとは思っていない。ただ会社に、というより大滝に状況報告はしたかった。大滝はあの時来てくれたし、ジェイの首のマークも見ている。もしかしたら多少は動いてくれるかもしれない。
「チーフ、千枝ちゃんだけ何も知らないというのはちょっとマズいですよ。千枝ちゃんの中で相田ってのはただの元チーフなんだから」
三途川がチーフを脇に引っ張って言う。
「しかしなぁ、そんなこと言ったって他のチームにだって知らないヤツはたくさんいる」
「チームの中での情報共有は必要だって言ってるんです。私たち、今の状態じゃ話し合うことも出来ない」
「ジェロームが決めることだ。俺たちはたまたまあそこに居合わせたから知っているに過ぎないんだ。これはプライバシーだぞ」
確かに池沢の言うことは尤もだ。三途川は自分の意見を引っ込めた。ジェロームが自分から人にその話をしていいと言う訳が無い。
「ジェローム!」
花とコピー室から出てきた千枝がまだ顔色の優れないジェロームを抱きしめた。
「可哀想に! 酷い目に遭ったのね……ごめんね、私何も知らなくて……」
「いえ、あの……」
「俺が喋った」
「花!」
「他の誰かに言う気無いですから。千枝さんは知っておいた方がいいです、万一外線で電話かけてきたらジェロームに回しちゃいますよ」
今度は池沢が自分の意見を引っ込めた。その通りだとも思う。どちらにしろ千枝は聞いてしまった。
「さ! 仕事しようぜ。忙しいんだから考え事してるヒマ、無いって」
普段以上に花も三途川もジェイをこき使った。
「残業しないんだからな、しっかり働け」
お蔭で目が回るような忙しさの中にジェイは溺れて行った。元々が仕事熱心だから今度はストップをかけないと休みもしない。
冷ややかな目で見ている人間が一人いた。砂原美智。なんでみんながそこまでジェイに甘いのか分からない。何があったのか知らないが、どう見ても業務を逸脱しているではないか。他の人たちは何と思っているのだろう?
「あの、和田さん」
「なに?」
「ずい分あのハーフの子、大事にされてるんですね」
「ああ、姫ね。彼、頑張り屋だから」
「でもみんな頑張ってるじゃないですか」
「彼は特別だよ。あんなに仕事に真面目なヤツ、見たこと無い。普通の新入社員とは全然違う。それに彼、苦労してるからね」
「そうですか……」
今一ピンと来ない。だから何だと言うのだろう。苦労なら自分もしている。しばらくして丁度手の空いた柏木に聞いてみた。
「あのジェロームって子、どういう子なんですか?」
「真面目だね、恐ろしく。あのチームは顧客とのやり取りの最前線にいるけど新人なのによくやっているよ。それにあの子は可愛いんだ、特に飲んだ時」
柏木も温かい目で見ているのが分かった。
悪い評価は無い。けれど自分から見たらこの部署に来て以来トラブルしか起こしていないように見える。歓迎会でもすったもんだしていた。
(歓迎会が途中で打ち切られたのも、確かあの子のせいなのよね)
蓮は部長室から戻ってまっすぐ自席に座った。仕事も進めなくちゃならないし、大滝からの電話も待たなくてはならない。猛烈な勢いで飛ばして仕事をこなしていく。みんなは久しぶりに見る鬼課長に舌を巻いていた。
(こんなに忙しくちゃ課長、壊れてしまうわ)
そこに電話が鳴った。
「はい。はい。分かりました、すぐ行きます」
立ち上がって上着を羽織る。
「ジェローム、俺について来い」
(またなの? 一体なんだって言うの)
池沢チームの全員の手が止まっている。見送って仕事が再開した。
(要するに問題児ってわけね)
「失礼します」
「失礼します」
中に入ると大滝が座るように手を振った。ジェイはなぜ呼ばれたのか分からない。
「シェパード君、ずい分不愉快な思いをしたようだね。会社としてもいろいろ対策を立てることにしたよ。問題が起きてからではお互いに取り返しがつかない。河野にもだいぶ脅迫されたし」
大滝は笑った。蓮はにやっと笑って返した。
(対策って? 蓮、何話したの?)
「それでだ。まず、携帯電話は申し訳ないが自分で買い替えてくれ。自分持ちになってしまうが取り替えてほしい。ここは自己防衛と言うことで頼む」
「はい」
「免許を取得中だと聞いた。今は仕事が厳しい時期だから取れずにいるんだろう?」
「そうです」
「河野、踏みこたえられるか?」
「もちろんです」
「そうか。じゃ、免許を取ることを最優先にしてくれ。あとでスケジュール表を提出してほしい。最短で取れるか?」
「はい、取ります」
「では、頑張ってほしい。最後に自宅のことだが」
(自宅?)
「会社の社宅を検討してみた。しかし残念ながら空きが無い。そこでセキュリティのしっかりしたところに引っ越しをしてほしい。これに関しては転居補助を出す。会社で借り受けし、社宅扱いにする。光熱費は自分持ち。家賃は半額の補助だ」
「え、そんな……そこまでしてもらうのは申し訳ないです!」
「私たちは社員の安全を第一に考えている。その代わりと言っては何だが、仕事にしっかり励んでほしい。まあ、この前トラブルはあったがな。君の仕事への真摯な取り組み方についてはこちらにも伝わっている。より一層頑張ってほしい。住居の場所だが、こちらでも当たってみるが君も探してみてくれ。沿線駅近、交通費1万以内、セキュリティシステム。最低この条件で探したい。時間が無い中大変だろうが、早い回答を待っている。動けないようならこちらで用意する場所に転居してほしい。ほとんど会社都合だが、何かあるかな?」
降って湧いたような話ばかりで何も言えない。知らない間にどんどん話が進んでいる。分かったことは、蓮と離れて生活することになるということ。
「あの!」
「取りあえず彼にもう一度説明しておきます。それでいいでしょうか。突然の話にどうも面食らっているようなので」
「分かった。しかし、時間的にあまり待てない。実はごり押しで話を決めてきたんだ。河野、苦労かけるが頼むな。ま、この責任の一端は君にもあるしな」
「大丈夫です、これも仕事の内ですから」
「どうなってるの!? 俺、どこに行かされるの!?」
「ばか、声がデカい。いい話になったじゃないか。これでアパートを引き払ってちゃんとした生活が出来る」
「でも、俺家探してるヒマなんか無いよ! それに……蓮と離れるなんて出来ないよ……」
「当てがある」
「ホントに? どこ?」
「俺のマンションの2軒右側に空きがある。先々週空いたんだ」
目をぱちぱちさせているジェイの顔が可笑しい。
「だからな、俺の家の隣の隣の隣。理解出来たか?」
「えと……え、同じ並び?」
「ああ。あのマンションは人気がある。だからすぐに契約しなきゃ取られてしまう。早いもん勝ちだな。不動産屋に電話しといてやる。それでいいか?」
「うん!」
「お前、これで花とか人を呼べるぞ」
誰かが来る、自分の家に遊びに。行きたい時に蓮の所にも行ける。入り浸ってもいい。衣替えであのアパートと行ったり来たりせずに済む。
「俺……」
「おい、頼むから泣くなよ! その代り仕事のハードルが高くなる。覚悟しないと」
「うん。頑張る。仕事好きだからうんと頑張るよ」
蓮もほっとした。さすがに2軒分を支えるほどの余力は無い。貯金を崩せば済むが。けれど会社が負担してくれるなら有難い。
確かに社宅に入れず外に借りて社宅扱いにしてもらっている社員が数人いる。前例があるから何とかなった話だ。
「どうでした!?」
「ジェロ―ムは近々引っ越すことになった。免許も即取る。俺も頑張るからみんなもちょっと助けてくれ」
「いいですよ、ジェロームの分は俺が引き受けましたから」
「いいのか? 花」
「任せてください。課長に苦労はかけませんよ」
花が言い切るのだから安心出来る。仕事の速さはぴか一だ。
「私もいますからね。ジェローム、いろいろ終わったらみんなにランチ奢んなさい」
「はい……」
「泣いてるよー、お前、泣くなよ、全く困ったもんだ。引っ越し先、どこ?」
「俺のマンション」
「ウソ!」
「今なら空きがあるんだ。会社からの条件を全てクリア出来る。だからそれで決まりだ」
「安心じゃん! 俺、手伝いに行くよ!」
「引っ越し終わったら、みんな遊びに来て下さい!」
「じゃ、みんなで引っ越し祝いやりに行こう!」
(にぎやかな家になるよ、母さん!! 俺んちに誰かが……仲間が遊びに来るんだ!!)
.