宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第3部
8.蜘蛛の糸-1
蓮が不動産屋に電話してくれたおかげで、ジェイが契約に行けばすぐに話が進むようになった。これはジェイには言えないが蓮の計画的犯行とも言える。ご近所さんの引っ越しが分かった時点で蓮はジェイにアパートを引き払ったらどうか? と提案する気でいたから。
ジェイは、確かに蓮と一緒にあのマンションで暮らしてはいたが、自分の家だと思ったことが一度も無い。蓮の家に置いてもらっている、それが正直な気持ちだった。だから今回のことが嬉しくて堪らない。4時で早退させてもらってまず教えられた不動産屋に行った。『下見を』という勧めを断ってすぐに仮契約を済ませた。会社に届けを出して後の手続きをしてもらわなければならない。これでもう住居の心配は無くなった。
その後はまっすぐ教習所。今日は変則的な行動をしているから相田の接触は考えにくい。教習所には蓮が迎えに来てくれることになっている。教習所の事務室にも最短の免許取得のスケジュールを確認して予約を入れた。そのスケジュール表は会社に提出した。
みんなにもう迷惑をかけたくない。出来る限り効率よく仕事をこなしたい。仕事のメモもたくさん持ち帰ったが、これは蓮に内緒だ。蓮は家に仕事も持ち込むのを嫌う。蓮は蓮の、ジェイはジェイの忙しさに埋没していった。それでも明るい希望に包まれたジェイには何も苦にならなかった。
会社はすぐに手続きをしてくれていつでも入居できるように段取りをつけてくれた。後は実際に引っ越すだけなのだが、教習所のこともありすぐには動けずにいる。けれどそれも後少しの辛抱だ。何もかもが順調にことが運んでいる。まるでこれまでの不運を帳消しにしようとしているように。
けれど見えない蜘蛛の糸は、ジェイを絡め取ろうと着実に張り巡らされて行った。
蓮は困り果てていた。
「これ、食べてみてください。朝作ってきた煮物なんです。お弁当と一緒にどうぞ」
「それだけじゃ栄養が偏りますよ。サラダ持ってきました」
「このコーヒー、豆から煎ってきたんです」
この手の親切は断り難い。けれどどこかで断ち切らなければならない。三途川にしても防ぐには限界がある。ハラハラしている時に、蓮自身が動いた。
「砂原、もうこれで終りにしてくれないか?」
砂原を窓際のオープン席に呼んでとうとう意を決して蓮は言った。ミーティングルームのような閉じた空間は避けたかった。
「気持ちは有難い。だが一部の部下からこういう親切を受けるわけにはいかないんだ」
「なぜですか!」
「お互い、異性だからな、変な誤解を受けるのはお前も困るだろうし俺も困る」
「変な誤解……私、構いません……私!」
「砂原。俺は誰にとっても上司でしかない。お前にもだ。俺は今、このR&Dを大きくすることで頭がいっぱいなんだ。そのために頑張って来たし頑張って行くつもりでいる。互いに良識を持った大人として接していきたい。同じ仕事をする仲間として」
うなだれる砂原に改めて礼を言う。
「ありがとう。美味い料理ばかりだった。お前はいいお母さんだと思うよ」
『いいお母さん』
それは女性として見ていないということだ。砂原は具合が悪いと言って午後早退した。
(しこりにならなきゃいいんだが)
けれど今は他の事に追われているから無理に意識の外に追いやった。
みんなの助けを受け、ジェイはついに免許を勝ち取った。
「ホントに一発OKだったんだな!」
えらいえらい と花が頭を撫でてくるからジェイは逃げ回った。
ジェイは蓮に苦労をかけたくなくて、一人朝早く出勤し残業できない分を取り返していた。だから実質的にはほとんど仕事で迷惑をかけていない。
「後は車を買うだけか」
花がこの先を心配してくれた。
「先に引っ越しを済ませます」
「そうだな、しばらくはお前も忙しいな。いつする?」
「次の土日にしようかと思って。今週の夜はアパートの荷物を整理します。物が少ないからすぐまとめられると思うんです」
「そうか。でも俺、2、3日まだ忙しいんだ」
花は本人よりもまだ不安だ。
「大丈夫ですよ、一人で。たいした量じゃないし。それに……相田さん、全然会わないし。この前の花さんの電話で諦めたのかもしれないです」
「でも油断するなよ。何かあったら言うんだぞ」
「はい」
7時までは仕事をした。何度となくもう帰っていいと池沢に言われたが、これまでのことを考えるとつい、もう少し、もう少しと仕事をしてしまった。帰りにアパートに寄って荷物をまとめるだけ。10時には電車に乗ろう。そう思った。
『今日は止めたらどうだ? 明日なら俺も少し早く帰れる。一緒に行って片付けよう』
『だめだよ、蓮は疲れ切ってるよ。自分でやれるから蓮はマンションに帰ってて。アパートを出る時に電話するから』
新しい携帯に変えたから、ジェイはそれにもホッとしている。もうあの声を聞かずに済む。安心する材料はいくらでもあった。
『アパートに着いた時と出る時に必ずメールくれ』
『分かった』
外の冷たい空気は気持ち良かった。足早に駅へと向かう。電車は混んでいた。時折り周りの鞄や持ち物が触れてくる中で、さっきから腰より下の方に当たるものがあった。電車の揺れでそれがちょうど後ろの谷間にぶつかってきてちょっと気まずい思いをした。
ドアが開いて電車を降り、改札を抜けて商店街を歩いていく。まだ開いている店は多い。今は8時20分。急げばかなり片付くだろう。
コンビニの前を通ってアパートの方向に折れる。ここら辺は薄暗い。アパートの階段を上って部屋に入り蛍光灯を点けた。相変わらず薄ぼんやりした光。我ながら思う、よくこんな部屋で2年も過ごしたものだと。
母のことを思い出し、少したたずんだ。僅かに涙が流れた。
(俺、ここを出るんだ、母さん。新しいところに引っ越すんだ)
鍵をかけていなかった。ドアが開いたのにも気づかなかった。『パタン』 その音に振り向いた。まだ頬には涙の跡が残っている。
『カチャリ』
鍵の閉まる音がした。目の前にいる男のことを認めるのに時間がかかる。
「どうしたの? 泣いてたの? 」
(なんで? なんでこの人がここに)
「電車の中から一緒だったんだよ。気がつかなかった? 君、後ろからの刺激に感じてたじゃないか」
あの硬い動き……吐き気を催す。近寄ってくるのを咄嗟にテーブルを掴んで体の前に立てた。
「無駄だよ、僕は結構体鍛えててさ、ボクシングやってたからね」
テーブルを離すまいと必死に掴むジェイと取り上げようとする相田の攻防が始まる。とうとう壁に力任せにテーブルごと叩きつけられた。
勢いで一瞬呼吸が止まる。力が抜け、テーブルを取られた。防ぐものがない。
「あんた、頭がおかしいよ! 俺はそういう関係なんかなりたくない!」
「あの時すごく感じてたくせに」
「俺は酔ってたんだ!」
「君のジュニアはこの手の中でデカくなったけどな」
相田は何を言っているのか。
「うそだ……」
「ウソなんかじゃないさ。姫の感触、この手に残ってるよ。本気になろうって言ってるわけじゃない。君は恋人と付き合ってればいいんだ。ただたまに刺激的なことしようって提案してるだけ」
とっくにアパートに着いていておかしくない時間。
(ジェイ、メールどうした?)
打ち合わせの合間に電話をしてみた。メールも出した。なんの返事も無い。イヤな予感がするが今日の打ち合わせは抜けられない。僅かな休憩時間にオフィスに駆け戻った。
池沢チームは残っていた。帰り支度を始めている。千枝は哲平に夕食を作るために一足先に帰っていた。息を切らせて飛び込んできた蓮にみんなが驚いた。
「どうしたんです?」
「ジェロームと、連絡が、つかない」
「あいつ、今日はアパートに」
「アパートに着いたら、連絡寄越せと、言っておいた。それが来ない」
心臓がバクバクしている。すぐに花が携帯を出した。しばらく鳴らしたが出ない。
「どれくらい連絡取れずにいるんですか!?」
「15分前くらいにはアパートに着いてるはずだ」
「俺、行きます!」
「俺も行くよ」
「私も!」
花、池沢、三途川がコートを掴んだ。
「電車じゃ時間がかかる」
「俺の車で行きますよ。課長、今日は大事な会議でしょう? こっちは任せてください。連絡します」
「池沢、頼むな」
「了解!」
住所を渡した。車ならここから40分とかからないはずだ。何も出来ない自分が歯がゆかった。
「帰れっ!! そんな提案なんか受け入れる気無い! 帰れ!」
「じゃ、1回だけ。それでもいいよ。こういうのも楽しいかもしれない。イヤだって言いながらさ、それでも結ばれて行く二人ってゾクゾクしない?」
「俺にそんな趣味無いよ!」
近寄ってくる相田が初めて会った時の相田と違って見える。
(花さん! どうするんだっけ、どうやって相手を押さえるんだっけ!?)
昼休み、花が教えてくれたことを思い出そうとするのに半分体がすくんでいる。端に追いやられ逃げ場が無くなる。思わず上がってきた手の指を捕えた。
(そうだっ、これだ!)
掴んだ指を反対に反らせた。
「痛っ! なにするんだよっ!」
相田が引こうとする手を両手で捕まえて、さらにもう一本掴まえた指を思い切り捻じった。
「離せっ! 折れる、指が、あああ!」
その声につい慌てて手を離した。手を撫でさすりながら相田はニタっと笑った。
「姫は優しいねぇ。だから可愛いんだ。みんな君を大事にするの、よく分かるよ」
「人を呼ぶぞ!」
「いいのか? そんなことして。会社は困ると思うけどなぁ、警察沙汰になると。課長とか部長とかさ、困ったことになるんじゃないのかな」
いろんな計らいをしてくれた部長を思い出す。困るはずなのに「訴えるか?」とわざわざ聞いてくれた。
「1回寝るだけなのになんで騒ぐの?」
「なんで俺なんだよ、他にそんな相手、探せばいいじゃないかっ」
「あの抱き心地が忘れられなくてね、君のせいで会社も辞めさせられたんだしそれくらいいいだろ?」
少しずつ相田の表情が変わっていく。
「時間はいくらでもある。誰もここには来ないよね。一晩ゆっくり過ごそう」
「いや……」
いきなり腹に一発入って倒れた。
「だからボクシングやってたって言ったろ? あまり怒らせるなよ!」
そばにあった目覚まし時計を振り回した。相田の頬に当たる。今度は腹を蹴られた。それでも手に届く物を投げつける。それほど物が多いわけじゃない。手持ちはあっという間に無くなった。
「終わりか? ちょっとやり過ぎだ、ただじゃおかないからな」
まだ普通の暴力の方がマシだと思う。そばに来たのを足を掴んで引っ繰り返した。その手を思い切り掴まれ畳に体を押さえこまれる。背中に乗った相田に頬を撫でられ、鳥肌が立った。
「ジェロームッ! いるか!? ジェローム!!」
「俺だ、池沢だ! 開けろ!」
玄関のドアが何度も叩かれた。相田の目が忙しなく部屋の中をさまよった。窓に駆け寄って下を覗く。ここはベランダを伝って下りればケガもせず下に着く。
「悪かったよ、乱暴する気は無かったんだ。またな、姫。今度落ち着いて会おうね」
急に優しくなった言葉に不気味なものを感じた。窓から出て行く後姿をただ見送ってしまった。
明かりが点いている。話し声と言うより怒鳴り声も聞こえた。
「ジェロームッ!」
静かになったのに焦って花が体当たりしようとした時、鍵の開く音がしてドアが開いた。飛び込んだ3人が見たものは、まるで泥棒でも入ったかのように散らかった部屋だった。
「ジェローム、相田が来たのね?」
呆けたように座り込んでしまったジェイを三途川が抱きしめた。頭を撫でて背中を撫でた。
「大丈夫よ、もう大丈夫。私たちが来たからね」
池沢は開いている窓を見て外に飛び出して行った。花もその後を追った。
「三途、さん……」
ジェイの反応が鈍い。
「大丈夫。私たちがちゃんとそばにいるから」
「いなかった」
二人が戻ってきた。
「凄い有り様だな! お前頑張ったな」
その背中を花もさすった。微かに震えている。
「よく持ちこたえたよ。間にあって良かった!」
「チーフ、どうして……」
「課長がな、心配して俺たちに言いに来たんだ、連絡が取れないって」
(蓮が気づいてくれた……)
「ここさ、明日俺、手伝ってやるよ。今日はもう止めろ。課長んとこにチーフに送ってもらおう」
素直に頷いた。立とうとして呻く。殴られて蹴られている。
「どうした!」
「蹴られて……」
「どこ!?」
「腹……」
その時気づいた、ジェイの手首が真っ赤になっている。相田が掴んだ痕だ。
「ちょっと休んでからにしよう」
池沢がそっと座らせてくれた。3人は改めて部屋の中を見回した。
(ここで? ここで暮らしてたのか?)
言葉にならない、長いことこの部屋で独りで暮らしていたのかと思うと。
「そばにコンビニがあったわね。飲み物買って来るわ、あったかいの」
「俺も行くよ」
外に出た三途川と池沢はぽつんと言った。
「本当に寂しかったでしょうね」
「そうだなぁ……俺……泣けてくるよ」
「腹、見せてみろ」
武道をやっているからある程度は体のことが分かる。ジェイの体をあちこち触ってみた。
「骨は大丈夫だな。しばらく痛むだろうけど心配は要らないよ。教えたことはやれたか?」
「指掴むことだけ」
「初めてにしちゃ上出来だ。また教えてやるから頑張れ」
「はい」
ジェイが騒がないのが心配だった。もっと震えたり泣いたり。いつもならこんなに落ち着いていない。異常なことが起きた反動なのかもしれない。
自分の時を思い出せば確かにそうだった。信じられないのと、認めたくないのと。捌け口の対象として見られたことにショックを受けた。今のジェイがまさにあの時の自分の姿だった。
池沢からのメールが来た時、まだ会議は続いていた。相田は窓から逃げたのだと言う。通報も出来ない、何もやりようが無い。まるで空に向かって拳を突き出すようなものだ。
(どうすればお前を守れる?)
ショックを受けただろうと思うと居ても立ってもいられない。
『悪いがジェロームを会社に連れてきてくれないか? 俺が自分で連れて帰る』
『了解です。その方が安心ですから。ただ様子がおかしいので課長が会議終わるまで花がそばにいると言っています』
『助かるよ。頼む』
みんなの支えが有難い。引っ越し先が早く決まって良かった。通勤も心配なくなるだろう。次に相田が何か仕掛けてくるとしたら何なのだろう。
(ストーカーだな。完全にジェイにつきまとう気か)
だとしたら病的なものになる。どうしたらいいのか。
「ジェローム、会社に行こう。課長が車に乗せて帰るって言ってる」
「はい」
「三途はもう帰っていいぞ。遅くまでありがとうな。一人で大丈夫か?」
「誰に聞いてんだか。そっちお任せしますね。ジェローム、何かあったら言うのよ。みんなあんたの味方なんだから」
「はい」
花はじっと様子を見ている。何とかしなければジェイが壊れてしまうような気がした。
「いいのか? お前に任せて」
「大丈夫。チーフも歳だから帰って休んだ方がいいですよ」
「バカヤロ、俺はまだ28だ」
それにしちゃ老けてると、花は笑った。
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