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J (ジェイ)の物語」

​第3部
9.蜘蛛の糸-2

 会社に送ってくれた池沢が帰って、オフィスにはジェイと花だけになった。フロアの電気がチームの所だけついているから、花はフロア全部の電気をつけた。急に明るくなってジェイは上を見た。

「暗いのって滅入るからさ、そういう時は明るくするんだよ」

花の頭にさっきのアパートが蘇る。暗くて薄寒い部屋。引っ越すことになって良かったと心から思う。

「土曜と日曜を使うって言ってただろ? さっきの様子じゃホントに物が少なかったから、土曜を朝から使って日曜はのんびりした方がいいと思うんだ。結構疲れるもんだよ、引っ越しって」
「はい」
「カーテンとか買った?」
「いえ、まだ……」
「ま、8階だって聞いたから慌てること無いだろうけどなるべく早く買えよ。お前、好みの色ってなんだ?」
「好み?」
「何色がいいんだ、例えばカーテンとかさ」

好きな色……そういう基準で物を買ってこなかったからぱっと出て来ない。

「じゃ、明るい色にしろよ。好きなように部屋ん中飾りつけられるのって贅沢なことだって、俺分かったんだ。次の新居、どんどん彼女の好みになってきちゃってさ、参ってるよ。今の内に独り暮らし楽しんでおけよ」

 

 飾り付け。カーテン。好きな色。明るい部屋。……欲しかった生活。

「俺、幸せなんだと思うんです……この会社に入っていろんな人に出会っていろんなことがあって……夢みたいな生活が出来る。俺、そういう生活に憧れてました。でもそれ、母さん込みの夢だった……」

 幸せなのが哀しい。どうして自分だけ幸せになるんだろう。だからこれは罰なのかもしれない……罰が姿になったのが相田なのかもしれない。

「ジェローム、幸せになるタイミングってあるんだと思うんだよ、俺。憎まれ口で彼女のこと、『こいつでいいやって思った』なんて言ったけどさ、ちょっと違うんだ。誰もいないって思ってたらそうじゃなかった。彼女が見てくれていたんだ、俺のこと。それに気づかなかったら俺はきっとずっと不平不満抱えたまま生きたかもしれない。でも気づくことが出来た。俺の幸せのタイミングってそこだった」

 幸せのタイミング。自分にはどこがそのタイミングになるのだろう。もう来たのか、まだ待つのか。それさえ今は分からない。

「お前、まだ22じゃん。仕事は確かに出来るけど社会人なり立てでさ、まだ大人とは言えない。あれこれ考え込むにはまだ若いって。老け込んじまうぞ。頭年寄りになるなよ」
「頭年寄り?」
「そ! 頭の中だけさっさと年取ってくってこと。中身干からびたら何も楽しめなくなる。我を忘れるほどの思いってしたことあるのか?」

 ドアが開いた。

「悪かったな! 遅くなった」
「いえ、お喋りしてましたから」
「そうか、今日は助かった。ありがとう」
「弟ですからね。俺一人っ子だったから楽しいですよ。じゃ、帰ります。あ、アイツから殴られて蹴られてるんです。ちょっと気をつけた方がいいかもしれません。骨は無事ですけど」
「……分かった」
「ジェローム、またな」
「はい、ありがとうございました」

 

 花が出て行ってジェイをよく見た。池沢の言った通り、確かにおかしいと思う。表情が乏しい。どこか虚ろな気配がする。

「疲れたな。帰ろう。家でのんびりしよう」
「うん」

頭をくしゃっとして、身支度をしに行った。
(飯、外で食って帰るか)
帰ってあれこれやるのは自分もしんどい。いつもイタリアンだから今日はジェイの好きな和食にしようと思った。前に行ったことのあるファミレスだ。

「行くぞ」
「はい」

 車に乗ってからもほとんど会話は成り立たなかった。ファミレスに入っても蓮と同じものを頼み、デザートのページも見ない。代わりに蓮が注文した。

「抹茶パフェ、一つお願いします」

ジェイの目が宙に浮いている。良くない兆候だと思う。機械的に食べて、機械的にデザートに手を出した。美味しそうな顔をしない。

 家に着いてすぐに服を脱がせた。自分も脱いでシャワーに引っ張っていく。抱き締めてただシャワーに浸った。
「体、痛むか?」
首が横に振れた。何も反応の無かったジェイの手が少しずつ背中に回ってきた。

「蓮。聞きたい」
「なんだ?」
「蓮が俺を好きになってくれたのって……俺にそういう気があるって思ったから? 俺が好きって言うより……俺がゲイに見えたから?」
「何を言うんだ! そんな風に好きになったんじゃないぞ!」
「俺、簡単に感じるらしいんだ。そう思ってなかったけど、電車の中でも感じてたろうって。俺、あの酔ってた時もあの人の手の中で……大きくなったって。感触……手に残ってるって……」

(それって……あのホテルで直に触られてたってことか!? 電車の中って!?)

「ジェイ、電車って今日か?」
「うん」
「痴漢にあったってことか? 相田から」
「そうだったみたい」
「みたいって……」
「分かんなかったんだ。何かが当たってるって思っただけで。ね、蓮は本当に俺が好きなの? 俺、もう分かんないよ……ゲイってそういうものなんでしょ? 俺、相手が男だったら誰でもいいんだ。蓮の前は高校の担任の先生が好きだったんだと思う。優しくていい先生だった。でも俺、その先生のこと考えて……感じてたんだ……」
「ジェイ……俺はお前だから好きになったんだ。お前の人間性に惚れたんだ。同じにするな、どれもこれも。相田は病気だ。普通じゃない」
「その普通じゃない人が俺がいいって言うんだ。じゃ、俺ってなんなの?」

 それに答えずにジェイの体を洗った。
  は……っ……
そこに手を当てると声が漏れた。優しく手を動かした。ジェイの息が荒くなる。
(頭を空っぽにしてしまえ。考えるな、何も)

しがみついてくる体を撫でた。少しずつスピードを上げる。
  ……っぁ……っ……
指が背中に食い込んでくる。爪が立ってくる。 くっ! と息を詰めたままジェイはイった。抱き締めて何度も頭にキスをする。

「俺はお前だから好きなんだ。あいつは明らかにおかしい。そんなヤツに俺たちが振り回される必要なんて無い。俺がお前を好きかって聞くのか? 信じろって言ったろ? 疑うな。もう一度言うぞ。俺を信じることがお前を守る。忘れるな」

何度も頷くうちにやっと心が解れ始めた。
「蓮、俺を好きなんだよね? ゲイだからじゃなくて。俺がいいって言ってくれたんだよね?」
「そうだよ。お前が今言った通りだ。俺はお前がいいんだ」

ベッドに横になった。互いに疲れた。相手の体に手を置いたまま目を閉じた。

 

 


 目を開けると朝の光の中でジェイが座っていた。

「ジェイ? もう起きてたのか」
「俺、決めた。強くなる。いつも守られてばっかりだ。花さんに真剣に合気道習うよ。自分で自分を守れるようにする。もう泣き言、言いたくない」

 

 


「おはようございます!」
「お、おはよう……ジェローム、大丈夫か?」

あまりに夕べと違うから池沢の方が面食らっている。

「はい、夕べはありがとうございました。チーフにも三途川さんにも花さんにもずっと迷惑かけてばっかりで……だけど俺、仕事頑張りますから」
「良かった! 心配してたのよ、今日は出勤出来ないんじゃないかって」
「もう休みません。仕事うんと回してください」
「張り切り過ぎるのも良くないぞ」
「花さん、お願いがあるんです」
「なに?」
「合気道、ちゃんと覚えたい。強くなりたいです。すぐ怯えるし動けなくなるし。そういうの、もう卒業したい」

夕べは酷く心配した。ジェイはあまりにも素直過ぎる。だから自分をまた閉ざすんじゃないかと。

「分かった。その代り俺は厳しいぞ。音を上げるなよ」
「はい、よろしくお願いします」

(そうだ、ジェローム。強くなれ。あんなヤツ、自分でぶっ飛ばしてやれ)

 千枝が小さい声で三途川に聞いた。

「また何かあったんですか?」
「相田がね、また襲ってきたのよ。あいつ、マジ病気だわ」
「そうなんですか! それってもうストーカーじゃないですか!」
「いっそのこと、誰か『俺の恋人に何するんだっ!』ってアイツをぶっ飛ばしてくんないかしらね」

(課長、やんないわよねぇ)

「お先に失礼します!」
「花、頼むぞ」
「大丈夫ですよ、離れませんから」

蓮は手伝いに行くつもりだったが、花が一緒なら心配はないだろう。
(今日は久しぶりにのんびりするかぁ)
実は少し不貞腐れている。最近、会社では花がジェイ担当になっているからちょっと取り上げられた気分だ。

 


「これで終り? なんだ、もう掃除だけでいいじゃん」

段ボール箱が5つ。エアコンを悩んだが、大家さんに相談したら置いて行っていいと言う。その分修繕費を安くすると。

「ちゃっかりしてるな。中古つけたままで次のヤツに貸すんだろ」
「でも良かったです、処分大変だし」

蓮のマンションは空調が最初から付いている。だから本当に不用品だ。冷蔵庫は新しいのを買えるまではこのまま使うつもりでいる。それより先に車を買いたい。

「捨てる物はマンションのゴミ集積所に入れればいいって。ホントに掃除するだけで済みそうです」
「良かったな! お前、明るい所で生活すればきっと変わるよ。そういうもんだって。思い出は残ってるだろうけど新しいところでもまた思い出は出来る。俺、お前んとこに遊びに行くからな」
「はい! 来て下さい。すごく嬉しいです。人を呼べるって……すごく嬉しい……」

「そうか……あ、恋人は? そうだ、サラサラヘアの恋人どうしたんだ? 掃除とか手伝いに来るのか?」
「え!? いや、あの、今忙しくて」
「何だよ、来ないのか。マンションに彼女来てる時はさすがに遊びに行けないから、ちゃんと教えろよ」
「……はい」

焦った。恋人問題が残っていた……
(どうか花さんが結婚式の招待のこと、思い出しませんように!)
祈るような気持ちだ。

 


 マンションまで送る。そう花に言われたのを断った。もう電車に乗るだけ。今は10時半だし明日はまた仕事だ。きっと花も疲れている。

「駅まで一緒だし、向うは明るい所を通ってすぐマンションだし。大丈夫です」
「そうだな。じゃ駅で別れよう」

意外と花はあっさりと承諾した。

 

 座席が空いていたからすぐに座った。もう後ろから誰かに触られるのはたくさんだ。疲れて揺られて、うとうとしてきた。

「姫」
声と同時に手を握られた。
「相田……!」
「しっ! 気づかれちゃうよ、静かにしないと」

手が後ろにもそもそと回ってきた。ゾッとする。

「この前は残念だった。僕がちょっと焦り過ぎたね。引っ越すの? どこに?」
立ち上がろうとして腰を掴まれた。
「いい加減にしてください!」
「だから静かに……」

「相田さん。あんた、俺の彼女に手を出すのか? いい度胸だな」

どかっと相田の隣に座った男に相田は肩を組まれた。

 

 

 顔を見てジェイは飛び上るほど驚いた。

「て、哲平さん!? どうして?」
「千枝ちゃんと花に聞いてさ。お前がくだらないヤツにちょっかい出されてるって。何で俺に言わなかったんだ? 花と打ち合わせてあったんだよ、連絡あったから俺は駅で待ってたんだ」

 今、相田はジェイと哲平に挟まれた格好になっていた。

「おい、次の駅で下りろ」
「あ あんた、見たことある、確かR&Dで……」
「宇野哲平だ。今横浜勤務になってるんだよ。ほら、電車が止まる。立て」

 

 相田は哲平に腕を掴まれて、三人で降りた。駅から出る頃には相田は大人しくなっていた。

「さて、話そうか。お前、俺のジェロームに首ったけなんだって?」
「首ったけって……」
「誰に許しを得てこいつに触ったんだ? 脱がせたって? ずい分なことしてくれたな」
「いや、俺が手出したんじゃなくて……」
「じゃ、こいつがお前なんかに手を出したってのか? おい、嘘ついてんじゃねぇぞ! 全部聞いた。こいつは俺のもんなんだ、取れるもんなら取ってみろ!!」
「いや、だから……」
「なんだ、その気なくなったか? でも落とし前はつけてもらわないとな。慰謝料、いくらなら払える?」
「慰謝料!? だって会社が困るだろう、騒ぎになっちゃ」
「だから? 俺は構わないよ、騒ぎになろうがなるまいが。お前を潰せりゃそれでいいんだ。で、300万払えるか?」
「さ 300万!?」
「人の彼女に手出すわ、ストーカーするわ、あ、300万じゃ割り合わねぇな、500にしとくわ。明日払え」

「脅迫か!? 警察に」
「言えば? お前も逮捕されるんだから俺はせいせいするよ。会社が困ろうが知ったことじゃない。俺はお前を潰すまで追っかけ回すからな!」
「僕はボクシング……」
「あ、そ! 俺は空手。俺が強いからこいつは俺に惚れたんだ。相手するか?」
「分かった! もう近寄らない、何もしないよ!」
「じゃ、念書書け」

哲平は紙とペンを出した。
「どっちでもいい。ジェロームにつきまとうのを止めるってのと、500万払うってのと。好きな方、選べ。どっちにしろ『私はジェローム・シェパードを襲い、ストーカーしました』って書いとけ」

 もう相田は戦意喪失していた。哲平の勢いと脅しが半端無い。呑まれて、つきまとわないこと、いつジェロームを襲ったか、住居侵入したか、ストーカー行為をしたか。全部言われるままに書いた。

「次、いつコイツにちょっかい出す?」
「出さない! 出さないよ」
「へぇ! 今度そういう話聞いたら俺、何するか分かんないからな。警告はしたぞ。分かったな!」

その後は逃げるように相田は走り去った。

「びっくりした……ホントに千枝さんと花さんが?」
「千枝、言うの遅いんだもん、もっと早く教えてくれたら良かったのに。今日千枝から電話もらってさ、お前が困ったことになってるって。で、夕方花に電話したの。大体の時間聞いたから駅で待ってたんだけどお前ら遅いよー。俺、風邪引くかと思った。オマケに相田来なかったらバカみたいだ」

哲平が来てくれた……泣かないと誓ったのに泣きそうだ……
「泣くなよっ、俺が泣かしたみたいに見えるだろっ」
その言葉に思わず笑った。

「哲平さん、空手出来るんだ。俺知らなかった」
「俺も。あいつボクシングやるなんてさ、ビビったよ! 殴って来たらどうしようって。警察なんて言うしさ、げ! って思った」
「強いんじゃ、ないの……?」
「あ! 今、お前バカにしたな!」
「してません! 哲平さん、まるでヤクザみたいだった」
「そう? ほんと? ここんとこヤクザ映画嵌ってんだよ。カッコいいよなぁ、入れ墨とかさ。でもあれ、痛いんだってさ。それはイヤだよなぁ」

相変わらずのとぼけた調子にすっかり重苦しい気持ちが消えた。

「ありがとう、哲平さん。顔が見れてすごく嬉しかった。いきなり哲平さんの声が聞こえたから夢かと思った」
「あれもカッコ良かったろ? 『いい度胸だな』 一回言ってみたかったんだよぉ。お蔭で念願叶った。ありがとな」

久し振りに会った兄。そう思う。

「ほら、この念書持っとけ。それからまだアイツがウロチョロしたら連絡寄越せ」
「でも哲平さん、忙しいでしょ。今日だってこんなとこに来る暇無かったでしょう?」
「お前のことで成績下がったら千枝に殺される。あそこさぁ、学校みたいに毎週テストやるんだぜ? 宿題も出るし。でも千枝に怒られるからさ、可愛い弟の面倒見ろって。だから何度でも呼び出せ。その代り殴られそうになったら助けろよ」

 最後まで笑わせながら哲平は帰って行った。


「もしもし? 俺」
『遅かったな! 電話しようと思ってた』
「電車の中であの人に捕まっちゃって……」
『相田にか!?』
「そしたら哲平さんが助けてくれて」
『哲平?』
「で、お喋りしてたら遅くなった。これから帰る」
『何がどうなってるんだ? お前、ケガは?』
「無いよ。詳しいこと、帰ってから話すね」
『分かった。駅まで行くからな。近くなったらメール寄越せ』
「うん、そうする」

(もう現れないような気がする)
哲平の剣幕に気圧されていた相田を思い出す。
(哲平さんとカラオケバトル、したい)
久し振りのあの声が嬉しかった。
(俺、強くなるよ。哲平さんに電話かけずに済むように)

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