宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第4部
1.新年へ
毎年28日の仕事納めは、フロアで簡単な打ち上げをする。飲み物はお茶とジュース。後はポテトチップスや煎餅、チョコ、クッキー、そんなもの。蓮の奢りでたっぷりあるから分けて持って帰ってもいい。家庭持ちもいるし、帰りに待ち合わせをしたりそのまま買い物をしたり。だからアルコールは抜き。忘年会で騒いでいるのだからそれで充分という蓮の考えだ。最後の日はさっさとみんな帰りたいだろう。1時間業務を早く切り上げる。
「みんなお疲れっ! 今年もよく頑張ってくれた。頼むから正月、羽目外し過ぎるなよ。年初め早々トラブルは聞きたくないからな。7日にはみんなの元気な顔が見たい。急ぐ者は途中帰って構わないから挨拶だけはしていってくれ」
「課長、すみません、帰ります」
「おう、井上、お母さんによろしく伝えてくれ」
「俺も帰ります」
「和田、しっかり奥さん孝行するんだぞ。武史によろしくな」
「課長、まだ言っても分かんないですよ」
「賢く育てろ」
「無茶苦茶だ」
和田は笑いながら帰って行った。
「池沢、お前もチームに挨拶したら帰っていいぞ」
みんなの事情は分かっている。残れる者だけで喋って帰ればいい。
「休みの間は仕事なんか忘れろよ。三途、また山か?」
「ええ、山頂から初日の出を眺めて来ます。また写真送りますよ」
「無茶だけはするなよ、休み明けだけはお前の元気な姿を見たい」
「チーフ! 休み明けだけですか?」
「もちろんだ。花、寒稽古だろ? 風邪引くなよ」
「了解。チーフも休んでくださいよ、お姉さん来るんでしょ? たまには息抜きしてください」
「千枝、哲平によろしくな」
「はぁい、哲平は31日まで出社で休みは3日までなんです」
「鬼畜だなぁ! 優しくしてやれよ」
そしてジェイ。池沢は肩に手を置いた。
「楽しめ。のんびりするんだぞ。お前の元気な顔が見たいからな」
なんだか、うるうるしてしまう。何度も頷くのが精一杯だった。
「だから泣くなって。年が明けたら嫌でも会うんだから」
池沢が笑った。
「じゃ、また来年な」
みんながそうやって帰っていく。少しずつ減っていくオフィスがやけに広く感じた。
「課長! あとやっときますから帰ってください」
「いや、三途。俺はいつも通り……」
「帰んなさい。たまには年上の言うこと聞くもんです」
「あの……私も片付けますから」
「砂原……」
「俺も! だから休み明けの掃除、勘弁してください!」
みんな笑った、実は澤田のその話は誰も覚えちゃいなかった。
「ジェローム、あんたも帰んなさい」
「でも俺、新人だし……」
「言うこと聞けっての。可愛くないぞ」
急かされるように挨拶もそこそこで追い出された。
今日は蓮の車。何せ同じマンションだから誰も気にしない。それどころか、あの事件が起きてからジェイを一人にしたくないのがみんなの気持ちだ。
「さて、どうするかな。俺は元日だけは実家に帰んなきゃならないんだ」
元旦は一人にしたくない…… そう思うのに。
「大丈夫だよ、いつも正月は一人だったし今はゲームもあるし」
笑う顔が悲しい。無理して笑っているのが伝わってくる。かといって、こればかりは仕方なかった。外せないものが河野家にもあって、これはそのうちの一つだ。
「正月の間にお母さんの墓参りに行こう」
ジェイの顔が輝く。
「初詣はどこに行こうか。ちょっと遠出しよう」
正月から嬉しい事ばかり。去年の正月を思い出す。周りはどんどん内定が決まっていく。取り残されるような気持ちで買ってきたカップ麺を食べて一晩過ごした。あの年越しの2日間は辛かった。母の料理が恋しくて、カップ麺は味が無かった。
「テトリスだけじゃ詰まんないだろう? 何か他にもゲームを買おう」
寂しい思いをさせたくなくて、2つ3つゲームを買った。ジェイの好むものは、穏やかなものばかり。バトルものや逃げたり隠れたり。そんなものは欲しくない。
「31日はビデオを山ほど借りていいぞ」
蓮の思いが伝わってくる。寂しくないように。その気持ちに包まれる。幸せだった。
30日は蓮に叩き起こされた。
「まだ眠い……」
布団にもぞもぞと潜る。夕べはセックスはしていないから疲れてはいない。ただ抱き合って寝た。
「寝坊助! 起きろ!」
布団を一気に剥がして抗議も聞かずベッドの足元に置いた。ぶつぶつ言いながら洗面所に向かう。
「出かけるからな」
蓮がさっさと支度をするのを見て慌てた。
「ねぇ、どこに行くの?」
「眠いんだろ? しばらく走るから寝てろ」
眠るつもりは無かった。何となく子供扱いされている気がして、逆に眠るもんかと思った。けれど小さな音楽。ヒーターの程よい暖かさ。車の振動。好条件が揃い過ぎている。結局、緊張感の無いドライブはジェイに安眠をもたらした。
(お腹が空いた……)
それで目が覚めた。
「蓮、どこ?」
「起きたか」
「お腹が空いたよ、朝から何も食べてないし」
ちょっとご機嫌斜め。この休みの間はうんと甘やかしたい。
「ここ、どこだか分かるか?」
そう言われて景色を眺めた。
「見たことある」
ジェイの記憶力はバカにならない。
「あれ? これ、横浜に向かってる?」
「やっぱり分かったか」
ジェイのこういうところを見るのが蓮は好きだ。言ってみれば親バカみたいなものだが誇らしくなる。
「え、じゃお蕎麦屋さん!?」
「ああ。ちょっと早い年越し蕎麦だ」
途端に蕎麦が食べたくなる。
「お代わりするからね!」
嬉しそうな顔に口元が緩む。
近くの駐車場に車を止めた。並んでいるのは10人ほど。今日は北風が冷たい。ポケットに手を突っ込んで順番を待つ。回転が速い、次々と出てくる。あっという間に自分たちの番になった。
「こんにちは!」
こういうところはジェイは怖いもの知らずだ。親父さんはチラッと目を上げて奥さんに顎を振った。奥さんが湯のみを二つ持ってきた。
「温まりますよ、蕎麦茶です」
周りの目がこっちを向く。
「良かったら奥に来ませんか?」
奥があるなんて蓮は知らなかった。
「いいんですか!?」
「じゃ、どうぞ」
みんなの箸が止まっている。
「食わんなら帰れ!」
親父さんの一喝に慌ててみんな食べた。
落ち着いた部屋だった。
「ここには滅多に人を通さないんですよ」
障子を開けるとガラス窓越しに広くはないが、よく手入れされた庭が見えた。
「これは親父さんが?」
蓮の問いに奥さんはにっこり笑った。無骨そうなあの姿からはとても想像出来ない。奥さんが引っ込んで、しばらく待たされた。襖が開いて、お盆に二つ丼が乗っている。
(なんだろう?)
天ぷら蕎麦だった。
「美味しそう!」
「美味しそうとはなんだ、美味しいんだ!」
奥さんの後ろから親父さんが来ていた。相変わらずムスッとした顔。けれどちょっと印象が変わっていた。
「寒いからな。あったまれ」
「はい、いただきます! でも、この後でざる蕎麦もらっていいですか?」
「足りないのか」
「いえ、せっかく来たんだからあの蕎麦が食べたくて」
一瞬、蓮は親父さんの顔が歪んだ様な気がした。
「欲張りめ。後で持ってきてやる」
「美味しかったね!」
「ああ、美味かった」
蓮は帰り間際の親父さんの様子を思い出していた。
「また……来るか?」
「もちろんです、来ますよ、あいつと」
会話という程のものじゃない。けれど優しい目をしていた。
「蓮ってば!」
「あ、なんだ?」
「全っ然俺の話聞いてなかったでしょ!」
「話? 喋ってたのか?」
今のはマズい質問だった。当然ジェイはそれきり窓の外に目をやった。
(参ったな。どうするか…)
蓮は途中から道を変えた。ジェイが あれっ? っという顔をして蓮を見た。
『どこに行くの?』
そう聞きたいけどさんざん不貞腐れた後だ、ジェイは聞くに聞けない。蓮はにこっと笑った顔をジェイに向けた。
「ちょっと買い物をする」
「なにを?」
思わず聞き返して あ! という顔になったから蓮はニヤニヤした。
「俺も甘いよな、いいとこ連れてってやる」
「どこ?」
「内緒」
通りにある洋品店に入る。自分とジェイのパーカーとセーター、ジーンズ、下着、手袋を買った。蓮は自分にだけ帽子を選んでまた出発した。
「こんなの買ってどこに行くの? 教えてよ」
「想像しとけ」
買ったものに統一性がない、想像出来ない。でもきっと蓮は言わないだろう。
それほど混んでいない道路を1時間くらいは走っただろうか。右に逸れて角を左に曲がると先の方に変わった建物が見えてきた。
「あれ、何?」
「目的地」
「あそこが?」
白い丸い建物が2つくらい並んでいる。駐車場は左側に広い。
「さすがに今日は混んでないな」
言いながら蓮はなるべく建物近くに車を止めた。
入り口に書かれている文字を読んで驚いた。
「え? スケート場?」
「前はずいぶん通ったんだ。でも久し振りだからな、まともに滑れるかどうか」
「俺、無理だよ! 出来ないよ、スケートなんか!」
「出来ると思ってないよ。教えてやる」
(すけーと……俺が?)
また、やったことの無いものだ。少しぼおっとしたまま蓮の後を大人しくついて行った。蓮がてきぱきとチケットを買うのをぼんやりと機械的に見ている。
「来い」
言われて蓮の後を歩いて行くと『貸しスケート靴』がずらっと並んでいた。まるでボーリング場の玉みたいだ。一組渡されて傍の椅子に座って試着する。
「どうだ? 大きめだから一つ下にしたけどきついか?」
ちょうどいいから首を横に振った。靴に戻して、ロッカールームに買って来たジーンズと下着、着ている上着を脱いで入れた。靴も脱いで入れる。スケート靴を蓮の見よう見真似で履いてみた。蓮がチェックしてくれる。
「途中で脱げたら危ないからな」
よく分からないまま頷いた。
「ほら、寒いからこれを上から着るんだ」
セーターとちょっと分厚いパーカー。蓮は毛糸の帽子を被っている。ジェイには脇にあるデカいケースからヘルメット、肘当て、膝当てを取ってつけてやる。まるで親が子どもにしているような光景。
「大丈夫か? 俺を掴んでおけ」
足元がだいぶ危ない。そこから繋がっているリンクへと入っていった。
「広い……」
「やっと喋ったな」
「蓮、俺滑るの?」
「二人でな。なるべく前かがみでいろよ。引っ繰り返ると頭を打つからな。ヘルメットをしてても危ない」
周りを見渡す。大きななりをしてヘルメット等を着けているのは自分だけ。
「俺、これイヤだ」
「バカ、脱いじゃダメだ」
「……カッコ悪い……」
蓮が笑っている。
「お前の顔なんか誰も見ないよ。それに引っ繰り返って頭打つ方がカッコ悪いぞ、係員がすぐに来るからな」
脱ごうとした手を止めた。
蓮は掴んでいたジェイをすぐそばのリンクの手すりに掴まらせた。
「この手すりを離すな。いいな? 初めての時は俺もそれで練習したんだ。いきなり中を滑るなんて出来ないからな」
言われずとも手を離す気なんか毛頭無い。掴まっているのに足が勝手に動き出す。不安定で怖い。
「足は踵を付けて70度くらいのVの字にする。そうそう、それなら勝手に滑って行かないからな」
それでも油断をすると足が分解してしまいそうだ。
「手すりに掴まったまま足踏みして見ろ」
片足を床から離す……?
(蓮、俺転ぶ!!)
けれどそれは口に出せなかった、言ったら本当のことになりそうだ。
「ほら、こういう風にだよ。焦んなくていいんだ、ゆっくりやれば」
しっかり手すりに掴んだまま、恐る恐る左足を上げてみた。下ろして、右足。それを繰り返す。たまに、つっと足が動き、ヒヤッとした。
「大丈夫、上手く出来てる」
「ホントに?」
「ああ、上出来だよ。もっと自信持て。お前バスケもやってたんだし、きっと体が勝手に覚えてくれる」
励ましもあって、蓮がいいというまで足踏みを続けた。
「じゃ、周りを歩いてみようか」
「歩くの? 滑るんじゃ無くって?」
「今日は練習だけだ。体が慣れ始めたらすんなり滑れるようになる」
「そうだね……ごめん、俺なんだかぼーっとしてるみたい」
(いいんだよ、ぼーっとする時間がお前には必要なんだ)
「刃を床に直角に立てるんだ、すべりにくくなる」
言われたことを一生懸命に守ろうとするけれど、なかなか足が言うことを聞かない。
「もう少し足踏みしていい?」
「いいよ。でもだいぶいいような気がするけどな。俺なんか教わらずにやったから初っ端からえらい目にあったよ」
「蓮がえらい目?」
足踏みしながら興味津々。なんでも出来るように見える蓮の失敗を聞くのは楽しい。ジェットコースターの時の蓮を思い出す。
「みんな中央ですいすい滑ってるしさ、俺は自分の運動神経を過信してたんだ。手すりに掴まってるのなんて子どもだけだったし。それで結構すんなり立てたもんだからそのまま中央に向かっちまった」
「それ、いくら何でも無謀でしょ!」
ジェイならそんなことは出来ない。
「そ! 無謀だった。案の定止めども無く滑ったと思ったら引っ繰り返った。他の人にぶつからなかっただけ良かったよ。で、そこからはもう立ち上がれなかった。結構ジタバタして、他の人が助けてくれてさ、手すりまで連れて来てくれた。そして怒られたよ、『初心者はここで練習しなさい、手すりから手を離すんじゃない』ってさ」
蓮がジタバタ。凄く見たかった。完成度の高い蓮は時々手が届かない遠い人に感じることもある。常に蓮が手を伸ばしてくれるからこそ、今の自分があるような。だからそんな話はただ可笑しいだけじゃなくて、自分と蓮との距離感を埋めてくれる。
「もういいんじゃないか? ゆっくり歩こう。そばにいてやるから」
足踏みで床から足を離す感覚にはもう慣れた。だからそれを前に出すだけだ。2歩、3歩と前に進み始める。
「な? 大丈夫だろ? 体が慣れてきたら早く歩けばいい」
寒いはずなのに、もう汗びっしょりだ。
「こんなに着て来なきゃ良かった」
「転んだ時のクッションさ。ケガしなくて済む」
その内、足がつーっと流れることが増えてきた。
「手を手すりに添える感じで後ろ脚を蹴ってみろ。手すりを掴むんじゃないぞ」
蹴ってみるといきなりスピードが上がって一瞬で(止まらなきゃ!)とパニックが起きた。慌てて手すりをしっかり掴んでしまって足だけが滑っていく。蓮がジェイの腕を掴んだ。
「焦るなって。蹴ってもスピードはすぐに落ちてくるよ。そしたら次の足でまた蹴るんだ。強く蹴らなきゃいいんだ」
心臓の暴れ方がやっと治まって来て、再度やり直した。
この辺りからちょっとずつジェイの負けん気が顔を出し始めた。言われた通り、落ち着いて両足を交互に出すと止まることなく前に進んで行く。
「よし、休憩」
「まだ出来るよ!」
「お前、明日は多分動けないぞ」
蓮が笑う。慣れないと体中に緊張が走りっぱなしだ。自分は勢いでやっていたから、次の日は動けなかった。ジェイをベンチに連れて行った。
「腿がガクガクする」
「だろ? 少し休んだら今度は転び方と立ち上がり方を練習しよう」
「転び方? 立ち上がり方は分かるけど、なんで転び方を練習するの?」
「いきなり転ぶんなら確かにどうしようもないけどさ、ちょっとでも余裕があったら大怪我をしない様に済む転び方をするんだ。柔道なんかで言う受け身だな。それが上手く行ったら手すりなしで滑ってみよう」
転び方は思ったよりも早く習得したが、立ち上がるのには苦労した。
「みっともないとか、気にするな。両手を前に突いて尻を浮かす。まだ膝は床につけとけ。片足を立てて重心をかけたらゆっくりもう片方の足を立てる」
何度か練習を繰り返した。
「お前、やっぱり凄いな! 説明されたからって出来るもんじゃないのにもう覚えたじゃないか」
しんどいけれど、褒められれば嬉しい。
「少し休憩。そのあとちょっと滑ってみよう」
「蓮、詰まんないでしょ。俺休憩してる間に少し滑って来てよ」
「でもなぁ、最後に滑ったの相当前なんだよ。お前にくっついてる方が楽なんだ」
「そんなこと言って。蓮も楽しんでくんないと」
ジェイは自分のせいで蓮が滑れずにいると思っている。蓮にしてみれば、ジェイに教えたくて来ただけだ。本当に自信が無い。
(でも自転車も乗らなくなってからも体が覚えてるって言うしな……ちょっと滑ってみるかな)
「じゃ、ちょっとだけ滑ってみるよ。すぐ戻る」
すぅっとリンクに向かっていく後姿が(カッコいい!!)。前に重心を傾けて片手だけを振って滑っていく蓮の全てが(カッコいい!!)。目が離れない、知らない蓮の姿を見ている。
1周して、2周目。ジェイは目の前で起こったことに目が点になっていた。転んだのだ、派手に。確かに転び方は上手かった。けれどその後が
(……ジタバタしてる……)
ちょっと座り込んで落ち込んでいるのがこっちから見ていても分かる。だんだん笑いがこみ上げてきた。落ち着いたらしくて、今度はすんなり立ち上がってジェイの元に戻ってきた。その頃にはジェイは大笑いしていた。
「笑うな!」
「だって……立ち方、お、教えてくれたのに……」
「焦るとこうなるぞってお前に教えたんだ!」
「違うよ、蓮、ちゃんと転んでたよ」
「ちゃんとってなんだよ! お前に手本見せたの!」
「分かったよ、も、もう笑わせないで……苦しい……」
蓮は腕組みしてジェイの笑いが治まってくるのを待った。
「もういいか。そこまで笑うこと無いだろ。クソっ! 転ぶ予定じゃなかったのに」
また笑い始めた。
「予定で、転ぶの? ジタバタ……」
そこから言葉が続かない。
「ジタバタしてない!」
「した、してたよ、ジタバタ!」
「お前が転んでも助けないからな!」
「俺はジタバタしないように気をつけるから」
よほど『ジタバタ』という言葉が気に入ったのか何度も言うから鼻を弾いた。
「痛いよっ!」
「もう言うな。行くぞ、今度はお前が滑るんだ」
途端に緊張した。
「ちょっとだけだよね? 端っこでちょっとだけ」
「さあな。どうしようかな」
「やだよ、ちょっとだけなら行く。そうじゃなきゃ行かない」
「人のこと、散々笑ったくせに」
「だって俺は初心者だもん。蓮は……」
また笑いそうだから口を閉じた。怒らせてリンクの上で放り出されたら困る。
リンクに出てまずは手すりに掴まってゆっくり滑り始めた。
「そろそろ手を放せ」
その、『そろそろ』のタイミングが掴めない。
「おい、放せって」
「今、放すから!」
思い切って放した。スピードは無いけれどそのまま滑っていく。
「上手いぞ! その調子だ!」
聞いていたよりも自然と足と手が動いていく。
(楽しい!!)
「調子に乗るなよ、今日は慣れるだけだ、スピードをそれ以上上げるな」
何度も思うことだが、ジェイは素直な生徒だ。きっとこうやって教師の話を真面目に聞き、真面目に勉強してきたのだろう。それがよく分かる。
スケート靴を脱ぎながら、蓮がブスッとした顔なのに気づいた。
「どうしたの?」
「お前、嫌味なヤツだな」
「え」
「とうとう一回も転ばなかった。俺に対して失礼だ」
キョトンとした顔に、思わず口づけたくなる。そのキョトンは、吹き出す顔に変わった。
(キス、しないからな!)
着替えを持って風呂に向かった。
「あの……」
「ん? どうした?」
「ここに入るの?」
「体も冷えてるし汗かいてるし、入らないと風邪を引く」
「そうじゃなくて……人がいっぱいいる」
「お前……銭湯とか経験無いんだな?」
ニヤッと笑って「先に行くぞ」と素っ裸の蓮が入っていってしまった。
(どうしよう…… でもみんな裸だし)
他人の一物を見るのは初めてだ、自分も見せたことなど無い。もじもじしているところを子どもに変な顔で見上げられた。
(いいや! 蓮だって入ったんだし!)
やっと開き直って中に入った。
広くて圧倒される。同じように椅子を持って蓮のそばに行った。
「ここじゃ洗ってやらないからな。自分でやれ」
もちろんだ! 蓮に洗ってもらうところなど(アソコまで……)人に見せられるわけが無い。とにかく早く終わらせて出たい。そう思った。
けれど湯舟は気持ち良かった。目を閉じて浸かる。
「いいだろ? たまにはこういうのも」
幸せそうな顔で頷く顔が、上気していて美しい。むくりとしそうな下半身に心の中で(だめだ!)と全力で怒鳴った。
「れん……おれ、おかし……」
湯舟の中でもたれてきたから慌てた。
「おい! おい!」
そう言えばジェイは自分より先に湯舟に入っていた。
(こいつ、逆上せたな)
えらいことだ、出さなきゃならない。けれど脱力した成人男性をどうすれば出せるのか。
「立つんだ! ジェイ、立て!」
「おい、兄さん。この若いの、湯あたりか?」
「ええ。おい、立てって!」
「手伝ってやるよ、出さなきゃどうしようもない。おい、お前ら手伝え!」
どうみてもガラの悪そうな連中。ドレッドヘア、茶髪、タトゥー。その3人が手伝って引き上げてくれた。
「助かったよ! こいつこういう風呂入ったこと無くて」
「よくいるよ。今は家に風呂あるからな、でかい風呂での加減が分かんねぇんだろ。これで助けたのは2度目だ」
「表彰してほしいよな」
「人命救助ってヤツだ」
床に寝転がせて腰にタオルをかける。茶髪の方が冷たいタオルを持ってきてジェイの目から額を覆ってくれた。
「じゃ、俺ら出るから」
「ありがとう、俺一人じゃどうにもならなかった」
(お前といるとドキドキするな)
もう一度冷たい水でタオルを絞った。それで前を覆ってやる。顔のタオルを取り冷やして、首筋に当てた、
「れん……?」
「ああ、ここにいるぞ」
「おれ、どうしたの?」
「逆上せたんだよ、湯舟の中で。ホントに子どもみたいに手がかかる」
まだ顔も体も真っ赤だ。
「蓮が引き上げてくれたの?」
「他に3人、手伝ってくれたよ。俺一人でお前を湯から出すなんて無理だ」
「え!」
急いで座ろうとしてまたクラッとした。
「ゆっくり起きろ。まったく……」
周りをゆっくり見回す。こっちを見ている子どもとバッチリ目が合って笑われた。
「その人たちは?」
「もう出てったよ」
ホッとするような、悪いような。その時ジェイの目が大きくなった。
「どうした?」
「今入って来た人たち……」
振り向くと最後の一人が入り口を締めるところだった。
「変な所は無いぞ?」
「前をタオルで隠してた」
「それがどうした?」
「蓮も……?」
「そりゃ、前をタオルで覆うさ。いくら俺でも剥き出しでは……お前、そのまま入って来たのか?」
「だって!」
後ろから見たから蓮の手の動きなど見えなかった。
「お前……ははは! そんな入り方をするのは子どもだけだ」
逆上せて赤いのか恥ずかしくて赤いのか見た目には分からない。
「堂々としてていいさ。しかし堂々としすぎだけどな」
(前は出しっ放しだし、湯舟では気を失うし)
改めてそばにいて一から教えなくてはならないのだと思う。
(こんなに手間のかかるヤツは初めてだ)
それが楽しいのだから不思議だ。
「いいなら出るぞ。床に寝転がってたんだからもう一度体流して来い」
俯いて頷くジェイが益々子どもに見える。
ジェイが早く帰りたいと言うからそのまま家に向かった。
「腹は?」
「……空いてない」
「じゃ、何か買って帰るか」
「うん」
すっかり大人しくなってしまったから頭を撫でた。
「いいさ、こうやっていろんなことを覚えていくんだ。知らないより知ってた方がいいんだからな」
「でも……恥ずかしいのは消えないよ…」
「今度他の人が同じ目にあってたら助けてやればいい。その人たちも助けたのはお前で2人目だって言ってたよ」
「俺だけじゃない?」
「結構あるんだって言ってたよ」
無かったことにはならないけれど、ちょっとホッとした。
「蓮、元日は何時ごろ出かけるの?」
「実家にか? 朝11時頃出るよ。何時に帰るって言えないが大丈夫か?」
「それは大丈夫。いろいろあるし。明日ビデオも借りるし。……母さんの写真みんな出していい?」
「お前の家にだろ? 好きにしていいんだ」
「うん……そうだよね! 好きにしていいんだ」
蓮は少しスピードを上げた。
「どうしたの?」
「早く帰ってお前を抱きたい」
「え、あ、抱くって……」
「今日は散々我慢した。だから早く帰ろう」
こういうことに蓮は躊躇いが無い。抱かれる側はドキドキしてくる。情景が頭に浮かんで腰がずくりとしてくる。
買い物は手早かった。急かされて車に戻った。駐車場に車を滑り込ませ、エレベーターを上がる。
「俺、一旦荷物置いて……」
蓮の手がジェイの手を掴んで引きずり込まれた。
「んっ……!」
ドアが閉まった途端に唇が塞がれた。蓮の手は荷物をそこに落とし、ジェイの荷物も取り上げて下に落とした。
深く何度も角度を変えて貪欲にジェイの舌を、口を貪っていく。やっと離れた口が首に下がっていく……
「っは ぁ! れ……ん、ベッド……」
「待てない」
まるでそのまま玄関で押し倒すかのような蓮の激しさにジェイも煽られて行く。蓮の手が大きくなり始めたジェイを撫で上げた。
「おね、が……ベッ……」
やっと寝室に連れていかれ、ジェイはベッドに押し倒された。蓮の手が当たりを探ってエアコンのリモコンを押した。その間もキスが止まらない。
シャツを捲り上げ、胸を吸う。嘗め上げて小さく歯を立てる。いつも蓮が責めるからそこはすっかり感じやすくなっている。そのまま快感が下へ繋がって流れ込んでいく。
蓮の手がジッパーを外し、ジェイは腰を浮かせてジーンズを下ろすのを手伝った。そのまま潜り込んだ手が性急に動いた。
「今日は待てないんだ……お前が欲しくて堪らない……」
鼓動が跳ねる、自分も蓮に入ってほしい…… 素早く裸になった蓮がジェイの下半身を空気に晒した。
「や……上も脱……」
「お前が風邪を引く」
シャツの中に潜り込んだ手がジェイの胸を弄る。息が荒くなり始めたジェイの腰が悩ましく動き始め、そこを熱い口が覆った。
っあ!っあっあぁ……
吸われて先に尖った舌を当てられて、上下に蓮が動く。苦しいほど気持ちがいい……膝を立てられていつの間に手に取ったのか、ジェルが後ろに塗りこめられていく。指が出入りするのと、口が動くのと。もうそれでイってしまいそうで…… そこで蓮の口が離れた。
ぃや……だ、も……っと……
言葉になるような、ならないような…… 解された孔に蓮が押し入り始める。出たり入ったり。浅く、深く。ジェイの弱い場所が何度も突き上げられて頭の中が飛びそうだ。
…ぃ……く…
蓮の動きが速くなってジェイも扱かれ同時に吐き出した。胸と胸が重なる。ジェイを抱き締めた蓮の息が荒い。
「我慢、してたんだ……お前を抱きたくて」
もう一度口づけられて余韻の残る体が震える。とろとろと気持ちがいい。疲れた体に心地いい眠りが訪れ始める。自分たちの体を分厚い毛布で覆って、蓮もジェイを抱きしめたまま目を閉じた。
ふと、夜中に目が覚めた。隣にいるはずの蓮がいない。自分はちゃんとパジャマを着て、毛布も布団もかかっていた。
「れん?」
少ししてドアが開き、シルエットが見えた。
「ごめん、起こしたか?」
「ううん、何となく目が覚めた。パジャマ、ありがとう」
「寒くないか?」
「大丈夫だよ。なに? まだ寝ないの?」
「ちょっと考え事してたんだ、もう寝るよ」
脇に入って来た蓮の体は冷えていた。ジェイは抱きついて蓮を温めた。
「何を考えてたの?」
「実家のこと。本当は行きたくないんだ」
「でもお母さん、待ってるでしょ?」
「まぁな。だから行くんだけどさ」
蓮の手が柔らかな巻き毛を撫でる。
「ずっとこうやっていたい……」
そのまま蓮が眠ってしまったからジェイはそっと口付けた。
「おやすみなさい、蓮」
大晦日はほのぼのと何となく過ごした。日頃から二人とも片付けも掃除もしているからたいしてやることは無い。
お節は蓮が実家からもらって来るという。だからあまり買い物もしていない。散歩がてらビデオを限度数まで借りて、ちょうど焼き芋を売るトラックが止まっていたから2つ買った。帰って焼き芋を頬張りながらビデオを見てのんびり過ごす。夜はセックスもせず、ただ互いを抱きしめ合って寝た。
いつも変わりない一夜を過ごして、そして年が明けた。
蓮がベッドから出るのを感じて目を開けた。
「おはよう」
「ん、おはよう」
「まだ眠そうだな」
「んんー、まだ眠れそう」
「そうか。今年もよろしくな」
それを聞いたとたん目がパチリと開いた。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
寝室を出ようとしていた蓮が振り返る。ベッドの上に正座して新年の挨拶をするジェイに微笑んだ。傍に行って抱きしめて答えた。
「明けましておめでとう。今年、いい年にしたいな」
「うん」
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