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J (ジェイ)の物語」

​第4部
2.蓮の憂鬱

「そのカッコで行くの?」
「いつもそうだよ」

ジェイは目を丸くした。ビシッとしたスーツとネクタイ。

「だって、家に帰るんでしょ?」
「ああ。土産はお節だ。でも何時になるか分からない。いろいろ買ったから大丈夫だよな?」
「平気だけど。なんだか会社に行くみたい」
「……似たようなもんかな。行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」

不思議だ、スーツで行くというのが。自分の家なのに。

 駐車場に車を止めて周りを眺めた。車が何台もあった。
(もうだいぶ集まってるな)
車を下りて玄関へと向かった。重いどっしりした明るい色の木の門が開いている。大きな門松。広がる和風庭園。池があり錦鯉が泳いでいる。その向こうに並ぶのは桜の木と梅の木。

 石畳を歩きながらその庭になんの感銘を受けることなく玄関に入った。

「お帰りなさいませ。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます」

住み込みのお手伝いの利恵さん。長いことここで働いて、もう50歳を超えている。

「明けましておめでとうございます。利恵さん、娘さんはいいの? まだ病院でしょう? ここにいるより」
「いえ、奥さまも大変ですし圭子さんもまだ安心して任せられませんし。娘は大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 利恵の娘は病気がちで入退院を繰り返している。蓮はその動き回る姿を見るといつも哀しい気持ちになった。父にはそんな利恵を思いやる心は無い。退院の日でも変わりなく用を言いつける。

 靴を脱ぐとすぐに利恵が手を伸ばしたから自分でしまった。困った顔をするからにこりと笑うと小さくお辞儀をされた。

 真っ直ぐ台所へと向かった。母はほとんどをそこで過ごす。

「明けましておめでとう。帰ったよ、母さん」

長男の声に振り返った母は深々とお辞儀をした。

「明けましておめでとうございます」

ため息が出る。

「母さん、それ止めようって去年も言っただろう?」
「だって……」
「家のしきたりとか、どうでもいいよ。母さんとは普通に親子なんだから」
「真っ直ぐここに来たのね? 良かった! 着物と袴、用意してあるから。急いで着替えましょ」
「着替えないよ、このままでいい」
「またそんなことを……あまりお父さんを刺激しないで」
「俺にはどうやれば刺激しないでいられるのか分からない。そんなつもりも無いし」
「お正月だから」
「頑張ってはみるけどね」

「兄さん!」
「おう、結。今年もよろしくな。って言ってもお前がよろしくしたいのはプレゼントだけだろうけどな」
「人聞き悪い! 正月早々意地悪なんだから」
「お願い、台所で集まらないで。早く広間に行ってちょうだい、皆さんお待ちかねなんだから」
母を困らせたくないから広間に向かった。一年間で一番憂鬱な日。

 開け放たれた見事な襖の中で賑やかに挨拶が述べられている。24畳の部屋に30人ほど。それぞれの前にあるお膳には贅を尽くした料理が載っている。廊下に手を突いた。

「明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます」

「やっと来たか! 蓮司、座れ」

言われて父の隣に座る。伯父夫妻、叔父夫妻。その成人した子供ら。末席に弟の諒と妹の結。母の席は無い。

「さて、これで揃った。今年も河野家の繁栄を祈念して盃を交わしたい。よろしく頼む」

 蓮はこの芝居がかった父の有り様が嫌いだ。小さい時にブランコを押してくれた優しかった父はここにはいない。いつの間にか名声と過去の栄華に囚われた父に変えたのはこの席にいる親類縁者どもだ。

 父と蓮の前に次々と酌に来るのを蓮は盃を伏せて片っ端から断った。

「不調法で申し訳ありません。車で来ておりますので」
「佐々木に送らせればいい」

佐々木というのは長年働いている父の運転手だ。自分以外の人間の正月はどうでもいい父。

「いえ、この後会社の上司にも挨拶に参りますので」
「そのことだがな。蓮司、いつまで遊んでいるつもりだ。そろそろ家に戻って河野家の長男としての務めを果たしてもらいたいが」
「何度も申し上げたように、私はここに戻る気はありません。諒がいます。私より落ち着いているし人をまとめる力がある。私は今の仕事に生きがいを感じています」
「諒は次男だ」

 諒は唇を噛んだ。一つ違いの兄はただ『長男』だというだけで全てにおいて優遇され、自分は『次男』という名前でしかない。『諒』というのはもしかしたら名前では無いのではないかと思ったことさえあった。

 そして諒は兄が嫌いだ。こんなところで自分の名前を出せば、やはり『次男』の名前が出て来る。兄にその気があろうと無かろうと、結局は自分を嘲笑しているのだ。

「生きがいなどという言葉を使うようではまだまだだ。もう30だ、身も固めて早く跡取りを作ってほしい」
「そうですよ、蓮司さん。もうお父さんとお母さんを安心させてあげなければ」
「結さんにもご結婚のお話が出ているのだし、蓮司さんも……」

驚いて結の顔を見た。そこには諦めの笑顔がある。

「結は」
「2月に見合いをする。立派な家柄の跡取りだ。11月には式を挙げさせる」

 好きな人が出来たのだと去年聞いていた。大学の時の先輩で、久し振りに会って付き合い始めたのだと嬉しそうに。

「蓮司、お前にも3月にと見合いの話が進んでいる。先方のお嬢さんは大変乗り気だ。お前もきっと気に入る。結婚式は来年になるが春はどうかと話している」

決まったことのように祝い事だとそれを自分に告げる父に、

『俺が愛しているのはジェイという美しい若者だ』

そう言ったらどんな顔をするだろう……そんなことを蓮は考えていた。

「お前の写真を見て気に入られたようでな、会社の取引先の取締役のお嬢さんだ。24歳。いい年頃だろう。その次の正月には孫を抱けるかと先方とも喜んでいるところだ」

 料理を出しに来た母がハラハラしているのが伝わってくるが、蓮はもう充分だと思った。父が相手の女性のことを説明している最中に立ち上がった。

「蓮司?」
「そろそろ失礼します。みなさん、無作法をお許しください。申し訳ありませんが、ここに戻るつもりも会社を継ぐ気も、まして結婚するなどという気もまったくありません。お父さん。見合いの話はお断りします。失礼します」

 わなわなと震えて怒る父の怒鳴り声が響かぬうちに広間を出た。親戚どもがざわめいているが、知ったことか。そう思う。

「蓮司……」
「ごめん、母さん。俺にはやっぱり無理だ。もうここにも来たくない。母さんには連絡をするよ。たまにどこかで会って食事でもしよう。それで許してほしいんだ」
「あなた、絶縁されるかも……」
「構わない。むしろそうして欲しいと思う。財産も要らない。何も要らない。この家から解放されればそれでいいよ」
「お見合いのこと、きっと断らないと思うわ。お相手は外資系の会社の」
「母さん、結婚はしない。誰ともだ。そんな気は無いんだ」
「なぜ? 他の人でもだめなの?」

  ――女性がだめなんだ  俺には今、愛している男性がいるんだ

それは母には言えない。恥ずかしいことだと思っていない。けれど……


 父は恋愛結婚を蔑んでいる。母とは恋愛結婚だったのに。それが今は母を苦しめている。名家の娘と見合いをすべきだったのだと母の前で伯父は父に言った。

 出て行こうとして足を止めた。

「母さん、結は納得してるの? 見合いもこれからだろう? 会ったことも無い相手と結婚するなんて」
「お父さんから言われた時に結は何も言わなかったわ」
「結には好きな人がいるよ。母さんだけでも知っておいて。結も大人だ、俺はあまり口を出したくない。けど聞いてあげてほしいんだ、母さんには」

 

 


 蓮は本気だった。もうここに戻るつもりは無い。そう思っていた。マンションの地下に車を止めてハンドルに頭を付けた。

(疲れた)

なぜ一年の始めを虚しい思いで過ごすんだろう。いつもそう思って来た。


 家族のゴタゴタをジェイには聞かせたくない。ジェイはゴタゴタどころじゃ無かったのだから。それでもあの豪邸がただ虚しい存在にしか感じない。愛着など無い。出来るなら母と妹をあの家から連れ出したいと思う。

 諒は事業を継ぐのに相応しいし、本人がそう強く望んでいることも知っている。しかし次男だからというただそれだけで、北海道支社に配属され、去年の10月、やっと副支社長になった。一度父に嘆願したと聞いた。本社で働かせてほしいと。『若い、実績が足りない』それが父の回答だったという。
 諒が自分を憎んでも仕方ない、そう思う。年が離れているならいい。けれど一つしか違わない。自分を諦めてくれればきっと諒にも陽が当たるようになるだろう。弟と確執を持ってまで揉めたくはなかった。

 


(切り替えなきゃ。ジェイが待ってる)

「ただいまー」

返事が無いけれどテレビからの音が聞こえる。
(トイレか?)

リビングに行ってじっとソファを見つめた。クスクスと笑う。声を出さずに笑うのに苦労する。さっきまでの苦悩が遠い世界になっていく。

 ジェイはソファでだらしなく眠っていた。エアコンで暖かいせいか、体にかかっていたらしい毛布は床に滑り落ちていた。テーブルの上には、大皿にポップコーンとポテトチップとカリントウが山盛りに載っていて、中央からその山が削れている。

(お前、山の真ん中から食べてるのか)
多分、大皿からはみ出たのだろう、周りにいくつも零れていた。

 ワインクーラーに浸かっているのは、カルピスとサイダー。氷はかなり解けている。そばには空っぽのオレンジジュースの小さいペットボトルがある。なぜかしっかり手に握られているテレビのリモコン。極めつけは、頭を載せている蓮の枕。


 取り敢えず、着替えた。戻ってもまだ眠っている。
(そうだ、前の写真は消えちゃったんだよな)
スマホを出してジェイに向けた。

  カシャッ! カシャッ!

3枚ほど撮ったところに寝言が聞こえた。

「うーーん、れん、ねむいよーー」

もう笑わずにはいられない。
(こいつ……眠ってるのに、眠いって夢見てる……)
寝室に駆け込んでベッドで笑い転げた、涙が流れるほど。

(ジェイ、お前のお蔭でいい正月だ)

 

 さて、どうやって起こそう。そばに膝まづいた。優しいキスをする。唇を舐める。
(甘い……最後に口に入れたのはカリントウか)
その味を堪能した。小さく唇を甘噛みしていると口が開き始めた。中に潜り込んで何度も上顎を擦り続けると胸が上下し始め、呼吸が小刻みになる。口を離すと目が開いて、れん と一言呟いた。そのままジェイの手からリモコンが落ち、蓮の首を抱いた。引き寄せられ、今度はジェイの舌が蓮の口に入り込む。口付けだけを楽しんだ。互いに舌を擦り合い、絡ませ、唇を食む。甘い甘い口づけ。

 そっと唇を離すと、明るい茶色の瞳が見つめ返してきた。

「お帰りなさい。いつ帰ってきたの?」
「お前がカリントウ食った後」

 ジェイはソファに座り込んだ。テーブルの上の惨状を見る。大皿の脇にいくつもスナックが散らばっている。自覚がある、ちょっと動き惜しんで怠けた。座って食べればいいものを、寝転がったまま手を伸ばして食べていた。
(蓮が帰ってくるまでに片付ければいいや)
そう思っているうちに眠ってしまった。

「ごめんなさい、すぐ片づけるっ!」

立とうとした肩を抑えた。

「いい。一緒に食べてテレビを見よう。ビデオがいいか?」
「俺、ビデオセットする」
「じゃ、ビール取って来る。枝豆食べようかな」

 やっぱりコメディ。しかも、これは2回見た。同じところで笑うジェイに釣り込まれるように笑う。その内、蓮の頭がジェイの肩にもたれてきた。笑いながら横を見ると蓮が眠っていた。

(どうしたんだろう、疲れたのかな)

 傾きかけたコップをそっと抜いてテーブルに置いた。こんなことは初めてだ。自分がしても蓮はしない。蓮の長めの黒い髪がジェイの頬にかかる。すぅすぅという寝息に、蓮を愛おしく思う。だんだん体が寄りかかってくるから自分の膝に横にした。蓮の手がジェイの膝に載って、ふぅっと息をつくと静かになった。

 なぜか分からない、けれど今日は蓮が自分に甘えているように感じた。頭を撫でる、肩に手を置いた。
(寒くないよね?)
エアコンを少し強くする。テレビの音を小さくした。それでも笑ってしまうからビデオを止めた。

 

 ずっと働き詰めだった。自分の何もかもを変えてくれて、いろんなことを教えてくれた。みんなに気を配って、事故に遭って、それでもトラブルに正面からぶつかっていく姿がいつも眩しくて。

(その蓮が自分を曝け出してくれるのは俺だけになんだ)

愛してる。それしか言葉が無い。
(愛してるよ、蓮。誰よりも大切で、誰よりも愛してる)

音も無く、画面が暗くてもジェイは幸せだった。自分の膝で蓮がくつろいでいる、ただそれだけで。

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