J (ジェイ)の物語」

​第4部
3.僅かな幸せ

 幸せな正月だった。多分人生で一番。母と二人の正月も幸せだったのだと思う。けれど今思い返して、いつも母が心配だった。苦しい暮らしに引きずり込んだのが自分だと知っていた。笑ってくれる母が悲しかった。いつか、幸せにしなければ。頑張らなければ。そう思う毎日だった。

(母さん、ごめん……俺、今幸せなんだ……ごめん、ごめんなさい……)

 連れて行ってもらってお墓に、そう手を合わせた。出来るならこの正月の中に母の姿があって欲しかった。心からそう思う。

(俺、幸せだから。母さん、言ってくれたよね。いつか愛することが出来て、愛してくれる人が出来るって。出来たよ。俺を大事に思ってくれる人が)

「いいのか?」
「うん。俺、母さんに謝った」
「何を?」
「俺だけ……幸せだから」
「ジェイ」
「ちゃんと謝ったからもう謝らないんだ。これからは元気だって、幸せだっていう報告だけする」
「そうか。きっと喜ぶよ」

 墓参り以外の外出はそれほどせず、とにかくのんびりした。蓮を休ませたかったし、自分ものんびりしたい。

 一度花が遊びに来た。何も無くて慌てたけれど、いろんな物を持ってきてくれた。

「飲み物だけあればいいよ。マリエさ、料理上手いんだ」

嬉しそうな顔に笑った。

「花さん、それ自慢に来たんですか?」
「え、そう見える? 見えるかぁ。いいから食えよ、本当に美味いんだ」

そしてそれは美味しかった。思わず「もう無いんですか?」と聞いたらすごく喜んだ。

「今度は余るくらい持って来てやるよ」

 慣れない格闘ゲームをやらされて、見事に全敗した。

「お前、下手だなぁ」
「じゃ、テトリスやりましょうよ!」

そして全勝した。

「げ! お前に負けた」
「勝った! 花さんに勝った!!」

 嬉しくて転げ回って蹴られた。それでも可笑しくて笑った。正月に誰かとゲームをやる自分がいる。たくさんビデオを見て、たくさんゲームをして、そしてたくさん蓮と愛し合った。

「全員出社か、快挙だな! たいがい二日酔いで正月からサボるヤツがいるのに」

笑い声がオフィスに溢れる。

「いい年にしよう。いろいろあるだろうが、助け合っていこう。何かあれば相談してくれ。やれる限り力になりたい。俺がしんどい時は助けてくれ。頼りにしてる。ここは今年大きく変わる。だが俺たちは揺るがない。R&Dの根っこは自分たちそのものだ、そう誇りを持って先頭に立ってくれ」


 花は気合が入っていて、初っ端から飛ばし過ぎた。あまりにもみんなをしっかり見過ぎて空く手を許さない。とうとう池沢から呼び出しを喰らった。

「お前の仕事の仕方はトラブルを起こすぞ。個人じゃないんだ、チームなんだ」
「それって仕事が回って初めて言えると思うんですけどね。余裕ない時にそれ言ってらんないでしょ」
「お前は俺のチームで何を見てきたんだ? そもそもR&Dはそういう仕事の仕方をしない」
「チーフ! 今回の仕事は中身がえらくキツいです! とろとろやってらんないです!」

池沢はその言葉が許せなかった。

「バカヤローッ!! 何がとろとろだ、みんな頑張ってるのはお前のためじゃない、仕事を完成させたいからだ。そういう意味じゃお互い同じ位置にいるんだよ。自分だけが踏ん張ってどうするんだ、お前がすべきことは見張って息苦しくさせることじゃない、みんなに効率よく動いてもらうことだ。張り過ぎた弓はいつかは切れる!」

「俺、間違ってるかなぁ」

コーヒー片手にジェイに向かって呟く。
「間違ってるっていうより……」
「なんだよ、はっきり言えよ」
「楽しくないです! 今、仕事ただこなしてるだけです。生意気言って済みません、でも、忙しいのに充実感が無いです」
「充実感……」
「頑張っても頑張っても、花さんはずっと厳しい顔してる。どうしていいか分かんないです。どうやったら花さんに笑ってもらえるのか分かんないです」

まだ仕事始めから一週間。それでこの状態。

「課長、相談に乗ってください」

ミーティングルームで二人になった。

「で?」
「俺、多分焦ってるんだと思うんです。スケジュール通り回ってるんです、なのに途中で何かあって遅れたらどうしようって。そう思うと、先手先手と打っておかないと心配で」
「心配なのはなぜだ?」
「なぜって……納期があるじゃないですか。それまでに形にして課長にも納得してもらわないと」
「お前に仕切れとは言ったが、お前一人で抱え込めとは言っていない」

蓮の言葉が素直に頭に入って来ない。

「それって……だって俺がしっかりしないと。ちゃんと細かいところまで把握しておかないと仕切るなんてとても……」
「お前、ちゃんとみんなを見ているか?」
「見てますよ! だから空いているところに仕事を回して」
「それは見ていることにはならない。お前、気づいてないのか? みんなの声が減った。忙しいからだ」
「それって当然でしょ?」
「そうか? 俺は人選を誤ったか? そんなつもりは無いんだが。答えを聞きたいのか、甘ったれんな! みんなを見ろ。それが答えだ」

蓮はミーティングルームを出て行ってしまった。


(何が違う? 課長だって前倒ししたりするじゃないか、チーフだってゴリ押しの残業させる時がある……)

『充実感が無いです』

『どうやったら笑ってもらえるか……』

 

  ――みんなを見ろ。それが答えだ。


 花はオフィスに戻った。こっちを見た橋田が慌てて顔を伏せた。野瀬が自分を見たのは一瞬だった。野瀬チームが静かなのは、やたら喋る浜田が難しい顔で仕事をしているからだ。スケジュール通りに進んでいるのに、チームの抱えている仕事と花の仕切る仕事の間には違う緊迫感が漂っている。
それは……
(自分のチームの仕事には充実感があるから?)

 中山が声をかけている。
「よし! あとこれ一つ分析したら今日のノルマは達成だ」

池沢が三途に話している。
「これ、明日に回すか? 今日は花のもう一つの案を考えてみないか?」

 花の仕事の強みはスピードだ。仕事が早い。自分の目に狂いは無いと知っていて、それは事実だった。
(俺、チーフに投げられた仕事をこなすにはいいスタッフなんだ。けど投げる側に立つっていうのは……)

蓮のよく使う、『根っこ』という言葉。
(俺の根っこは? 俺のスタンスは?)
初めて仕事に迷いを持った。
(これじゃだめだ、これじゃ……)

 

「みんな、すみません、手を止めてください!」
「なんだよ、また文句か?」

澤田の言葉に殴られたような気がした。

「出退勤管理システムの件、2日間空けます。その間、いつも通りチーム優先にしてください。再開したらまたお世話になります。よろしくお願いします!」

 少し野瀬の顔が和らいだ。あちこちからホッとした顔つきが返ってきた。
(これが答えか……)
少なくとも自分の在り方は間違っていたということだ。


「花、よくストップしたな」
「チーフ……俺、どっかで間違ったみたいです」
「そうだな。悩んどけ、俺もずいぶん悩んでそれでも間違って、課長に叩きのめされたよ。悩むのは時間の無駄じゃないんだ」

「……時間の無駄……」

「おい、お前のことを言ったんじゃ」
「それ! 多分そこです、俺が間違ったの。自分の仕事やってる時、俺は無駄するのが嫌いなんです。さっさと結論出して、次の仕事に取り組んで。同じところでもたもたすると腹立つし。自分の中にタイムリミットつけるとすごく安心で。だからスピード上がって。仕事に一番大事なのは効率だって」
「確かに効率は大事だよ」
「でも、自分が与えられたノルマを果たす時の効率と、みんなに仕事してもらう時の効率とじゃ、多分意味が違うんだ」

 何かを掴みかけている花を見て池沢はホッとした。あのままじゃ花そのものが潰れていたかもしれない。

「花、あんた、いいとこに気づいたわね。私も勉強になるわ」
「三途さん、俺のことどう見てたんですか?」
「テンパってるなぁって」
「テンパって……そうですか、そう見えてたんですね、みんなにも」
「だから文句言わなかったんじゃないの? あんたが必死なのは見えてたから」

(仕切ってるつもりだった。仕切らせてもらってたのに)

「スケジュール、見直します。課長が俺だけじゃなくてジェロームも一緒に仕事のこと話したのには訳があったんですね。あいつの言うこと、的を射てる。ジェロームと一緒に考え直します」
「分かった。おい、ジェロームをしっかり育てろよ。お前の最初の部下だ。あいつの芯を引きずり出すんだ。立派なお前の補佐にしろ」

 

(俺……今、部下を預かったんだ…)

 花は長い夢から覚めたような気がした。入社して以来、好き勝手にやらせてもらった。心地よかった、哲平とくんずほぐれつ、好きなことを言って。だが立場が一転したのだと自覚した。

『自分のチームを持つという意識で取り組め』

(俺のチームが出来る……少し分かったような気がします、課長)

「ジェローム、お前とスケジュールを組み直したい。気がついたところがあったら言ってくれないか?」
「俺も一緒に考えるんですか?」
「チームだからな」
「花さんと、チーム」
「そうだよ。俺、お前の意見を聞かせてほしいんだ」

 ジェイには不思議な感覚だ、ついて行くのではなくて一緒に考える……

「わ、ホントですか!? じゃ、一つ先に言っていいですか?」
「なんだ?」
「井上さんのお母さん、ちょっといいらしいんです、麻痺した方の足。だからリハビリの時間、増やせるように出来ませんか? きっと大事な時だと思うんです。歩けるようになったらきっとお母さんも井上さんも喜びます」

(こいつ……)
ジェイも気づいていない、それが蓮の部下に対するスタンスと同じだということに。

「ジェローム、俺、お前を尊敬するよ。一緒に仕事頑張ろうな!」

 

 何がなんだか分からないけれど、花に褒められたのは確かだ。それがジェイは凄く嬉しかった。本当に何より嬉しかった、花に認められたことが。

(お前を離さないからな。誰にもやらない、お前は俺の補佐だ)

 花は親友というだけではない。仕事の相棒を得た。大きな転機だった。

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