
宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第4部
5.焦燥
「先に下りてます」
「一緒に出よう」
花が引き止めた。
「喉渇いて。4階で缶コーヒー買って下ります」
「分かった。俺たちもすぐ行くから」
ちょっと不安は感じたが、会社の中だ。花はジェイに頷いた。
「はい、待ってますね」
今は9時半。もうみんな帰り支度をしていた。駐車場に向かうのは、ジェイと蓮と池沢、花。三途川を池沢が送り、花が千枝を送ることになっている。
先に、といってもせいぜいエレベーターで数台の違い。会社の中だし、すぐみんな来るし。いくらなんでも今日何かあるとは思えない。
あの後、雑務だけを任され、体を使うほうが多かった。4階から階段で駐車場に下りて、今日は疲れたとぼんやり考えながらキーを取り出した。
(みんな、まだか)
「あ!」
取り落としたキーを拾おうとして屈んだ時、車のサイドウィンドウにガンッ!!と何かが叩きつけられた。咄嗟に頭を庇って振り返ると足だけが見える。それでも相手が誰なのか分かった。
「あい……」
「迎えに来たんだ」
愛想のいい声とは対照的な、身を躱したジェイを目がけて車に叩きつけられる暴力の音…… 振り下ろされる物から逃げ損なって背中を叩かれる。つんのめって倒れた腿に激痛が走った。頭を守るのに必死だった。棒が転がる音がする。脇腹を蹴り上げられ声も出ず意識が遠くなる。
(れ……)
足を持ち上げられ引きずられるのを感じたがそこで辺りが暗くなった。
「あれ? ジェロームは?」
「トイレにでも寄ったか?」
ジェイの車はその先に止まったままだ。一瞬で蓮の体に鳥肌が立った。
「ジェ……」
蓮の呟きに花がジェイの車に走り寄った。陰で見えなかったぼこぼこになった車のボディ。ジェイのバッグは近くに飛んでいる。
「ジェロームッ!!」
池沢たちが走った。
「ここ! これ、血の跡よっ!!」
三途川の声に蓮が動いた。
「三途川、警察っ! 花、野瀬に連絡、いなければ澤田! 千枝は待機! 池沢、俺と警備室に来いっ!」
GPSをジェイの靴裏、窪んだ所に付けたが無事についているだろうか。靴が脱げたりしていないだろうか。上手く作動してくれるのか。追えるのは作った野瀬チームだ。
警備室では、防犯カメラで映し出された異変に気付いた警備員の一人が既に警察に通報していた。そこに蓮は池沢と飛び込んだ。
「今、駐車場で部下が消えたんだっ!」
「見ました! もう通報してあります。男が倒れた男性を引きずって車に乗せて走り去りました!」
(やられた……)
「それ、見れますか!?」
「はい!」
再生してもらう。自分を庇うのに必死なジェイ、背中をバットで叩かれて、倒れて這って逃げる足にバットが振り下ろされる。脇腹を蹴られてジェイの動きが止まった。足から引きずられて車に押し込められ、後は走り去る車が映っていた。
「殺されるかもしれない……」
後から追いかけてきた花の言葉が蓮の耳に反響した。
ジェイが気がついたのはずい分時間が経ってからだった。何も見えないのが目隠しのせいだと分かるのに時間がかかった。あちこちの痛みに呻き声が出る。けれど猿ぐつわのせいでただ呻くだけだ。座らされているけれど体が動かせない。
「気がついた? 痛い? ごめんね、そんなつもりは無かったんだけど。最初の一発で気絶してくれたら良かったんだよ。ムキになってごめんね」
ゾッとした、その声には狂気が潜んでいる。
(蓮っ! 蓮、助けて!!)
ここがどこか分からない、自分がどうなっているのかも分からない。足と背中、脇腹が痛い。後ろに捻じられて縛られている手首が痛い。
見えないことが恐怖を生むけれど、見えるのはもっと怖い。
声を出せず耳元で囁くような相田の声をずっと聞かされる。
「どうしてわかんないのかなぁ。僕は君を大切にしたいんだよ? これまでたくさんの男を抱いたけどさ、君ほど手に入れたいって思った相手はいなかった。これって愛だよね? 君と幸せになれるなら何でもするよ。そうだ、二人で遠くに行くっていうのはどう?」
首を振った、何度も何度も。
「気に入らないの? 僕も考えるけどさ、君も少し考えて。一緒にどこかで暮らすっていうこと。しばらくはここにいてもらうよ」
そのままドアが閉まる音がして静かになった。手を必死に動かした。けれど手首でしっかり縛られていて解けそうにない。
(どうしたら……どうしたらいい? どうしたら……れん、れん……)
心臓が勝手にどこかに駆けていくような気がした。
警察はすぐに動いた。防犯ビデオにもしっかりと車のナンバーが映っている。蓮と花の証言で犯人が相田だということも、今日執行猶予で釈放されていることも分かった。後は捕まえるだけだ。
GPSのことも説明し、野瀬が来るのを警察官と待った。その後から刑事が来た。
「遅くなりましたっ!!」
野瀬がオフィスに飛び込んできた。刑事の質問やら何やらもそっちのけで機器を起動する。まだ試作段階だ、少し時間がかかる。ディスプレイの端にあるボタンが点滅を初めて急速に色が変わっていく。今回の開発はロガータイプとリアルタイムタイプのドッキングがメインだから少々勝手が違うのだ。けれど今の段階でも捜査にはきっと役立つことだろう。
「ほら、行け!!」
野瀬の呟きがオフィスに響く。パッと地図が画面に展開した。目的のものを追って赤い点が光っている。地図がズームされていったがピンポイントに特定しているわけでは無い。そこまではまだ開発が進んでいない。これから先、必要に応じて現在地の住所をリアルタイムで追ったり記録したり、その近辺に該当する静止画像を拾ったりと、機能をもっと充実させていくことになる。
光を見ながら刑事がすぐに連絡を取り、場所を告げた。
「はい、これ、横浜方面に向かってますね。手配願います!」
横浜……よくよく縁のある地だ。哲平もいる、蕎麦屋もある。
「今、追跡を始めました。ここにも応援が来ます。ええと、野瀬さんですね? このまま警察に協力していただけますか?」
「もちろんです!」
「どれくらい正確なんですか? このGPSは」
「まだ試作品なんです。これが試験だと思っている段階です」
「見つかるといいんだが……あのビデオの様子だと状況が厳しいですからね」
「俺が……俺が一緒に下りるべきだったんだ……」
花の拳が震えていた。池沢も、上がってきた三途川も千枝も唇を噛んでいる。千枝が泣き出して携帯を取った。
「哲平……哲平、助けて……ジェロームが……」
「まさか会社に入り込むなんて……俺もだ、花……なんで考えなかったんだろう……離れちゃいけなかったのにあいつを一人で行かせてしまった……」
蓮にはまだ現実のこととして受け止められなかった。会社の中にいたのに連れ去られてしまった。居所も分からない。倒れた姿は本当にジェイなのか? 誰か嘘だと言ってくれないか……
動けずにいる蓮を見て、三途川が大滝に連絡を取った。
「部長、すぐ来ます」
「三途……気が付かなかった、ありがとう」
「課長」
三途川は何か言いたかった。けれどその全てが課長の立場を壊すものだと知っている。
「待つしか……出来ないんですかね、俺たち、何も……」
池沢の言葉に蓮の頭が少しずつ動き始める。
「柏木……」
「柏木?」
携帯を取り出した。
「もしもし! 俺だ、河野だ! 相田のことを知りたいんだ、横浜であいつが行きそうなところはどこだ!?」
『何か……ジェロームですか!?』
「連れ去られた、今横浜の方に向かっているのは分かっている」
しばらく無言が続いた。刑事がそばに寄ってきた。
『課長、以前にも同じような事件があったって言いましたよね。その相手の中に俺の同期がいます』
「そいつを教えてくれ!」
刑事が蓮に手を差し出した。
「部下です。犯人の相田と以前同じ職場にいた者です。柏木、今警察の人と変わる。分かる範囲を伝えてくれ」
受話器を刑事に渡した。しばらく話して携帯を返してきた。
「ありがとうございます、おかげで助かります。すぐそっちにも向かってもらいますから」
(お礼を言われるところじゃないんだ……俺は糾弾されるべきなんだ)
手の中の携帯が震えた。柏木だった。
『情報はさっきの人に伝えましたが。あいつ、塚田っていうんですが、協力してくれるかどうか分かんないです。事件の後酷く変わってしまって。今は会社辞めてるんです、分かってるのは携帯番号だけで』
「刑事に名前は伝えたんだろう? なら会社で住所なんかの情報は分かるはずだ」
(くつ……)
疲れ果てたジェイの頭にその言葉が浮かんだ。蓮に呼ばれて行った時に靴を渡せと言われた。
「どうするんですか?」
「花のアイデアだ。このGPSをここに貼る。取り合えず起動しておく。明日動作の確認をするからな」
「どれくらいの優れものか知りたいしね、強度とか。いい試験になるからさ。あまり神経質になるな、あくまでもテストだ」
(ちゃんと付いてる? 作動してる? 蓮……気が付いてくれてるよね?)
祈るような気持だった。
ドアが開く音がした。
「喉、渇いてない? 飲み物持ってきたよ」
水でいい、欲しかった。喉はカラカラだった。何度も頷いた。濡れた猿ぐつわが気持ち悪い。
「分かったって。君を大事にしたいんだ、姫。今飲ませてあげる」
口が楽になった。声を出すよりも息をするのに必死だった。目隠しも外され、目の前に立っているのが相田だと絶望的な思いで確認した。ギラギラした目が笑っている。
顎を掴まれて口づけられた。閉じようとする口を、頬に力が加わってこじ開けられる。ぬるい液体が入ってきた。むせるように飲み込んで、それがアルコールだと分かった。吐き出そうとするのに出てはくれない。ウィスキーの味が喉を焼く。
「ほら、気持ち楽になるでしょ? あの時みたいだね」
ぞっとする、酔わされてしまう…… また掴まれて無理やり飲まされる。何度もそれを繰り返された。座っていても、水で割ってもいないウィスキーはジェイの頭をゆらゆらさせ始める。さらに飲まされてロープが解かれた。
「どう? ワインの方が好きだったっけ?」
遠くから聞こえるような声。体を動かされる。横たえられた。上着を脱がされた。ネクタイとベルトを外される。
「あ、忘れ物! 待ってて、すぐ戻るから!」
(このまま わからなくなれば きっとらくだ)
そう思った。冷静ではいられない、きっと狂ってしまう…… 酒は今やジェイの麻酔になりつつあった。
柏木もオフィスに来た。心配でいてもたってもいられなかった。事件に遭ったと思われる者は、みな精神を病んで仕事を辞めてしまった。
「悪いな、柏木」
蓮の真っ青な顔に驚きつつも柏木は首を振った。
「待ってなんかいられません。俺、なんで相田が来た時にもっとちゃんと伝えなかったんだろう……後悔しても後悔してもしたりなくて……ジェロームがどんな目に遭ってるか」
その時柏木の携帯の着信音が鳴った。名前を見て柏木は慌てて出た。
「塚田!?」
『久しぶりだ……お前、あのこと刑事に話したのか? なんで? 俺は何も答えられなかった。もう終わったことなんだ、今さらほじくり返されたくないんだよ……』
「聞いてくれ、塚田。俺の今の同僚があいつに連れ去られたんだ。そいつはここで何度も襲われて相田は一度捕まった。そして今日釈放された途端にそいつを連れ去ってしまったんだ」
蓮は握りこぶしを固めて話の成り行きを待った。刑事は野瀬と話している。
「聞いてるか? 俺、助けたいんだ。まだ22なんだ、そいつ。親も誰もいない、たった独りぼっちで生きてきたヤツなんだ。もう幸せになってほしいって思ってるヤツなんだ」
『……22』
「そうだ、22だ。こんな目に遭っていいわけ無いんだ、分かるだろ? お前も辛かったと思う。けどそいつもお前と同じになってしまう。頼む、助けてくれ、頼む」
話しながら柏木の頬が濡れていった。
『俺……あの時酔った帰りに誘われたんだ、もう少し飲もうって。連れてかれたのはボロい古家だった。祖父さんの家だって言ってた、今は誰も住んでないって。もし同じところに連れ込んでいるなら……』
「場所は!?」
場所を繰り返す声を聞き取って蓮は外に飛び出した。気づいた花が追いかけた。携帯を持ったまま柏木が叫ぶ。
「課長っ!! 刑事さん! 多分ここじゃないかって塚田が教えてくれました、今課長と同僚が飛び出して行って……」
「どこですか!?」
廊下で出くわした部長にはオフィスを指さした。
「みんなに聞いてください!!」
それだけ伝えて階段を駆け下りていく。エレベーターを待つより早い。アクセルを踏む前に助手席に花が滑り込んだ。
「分かったんですか!?」
蓮は頷いた。
「そこにいてほしい。予感がするんだ、そこだって」
「分かりました、俺も行きます!」
蓮は車を飛ばした。通報されたり捕まったりしては堪らない、スピードをオーバーし過ぎないようにアクセルを何度も踏み直した。
柏木の携帯にまた塚田がかけてきた。
「どうした? さっきはありがとう、助かったよ!」
『俺が……なぜ言えなかったか…… あいつ、本気で犯すんだ。けど、その前にされることがある』
「なんだよ、それ。何されるっていうんだ?」
『傷を……たくさんつけられるんだ、浅く絶え間なく全身に。痕が残るほどじゃない、現に俺にももう痕はないよ。けどそれが……カッターが体を通っていくその感触がずっと消えない、今でも。ひどく痛いわけじゃないけど気を失えないほどには痛い。それが延々続くんだ……今だに夢に見る、カッターが刻み続ける感触を。だから少しでも早く見つかってほしい、少しでも』
肌がざわざわとしてくる、体を這いまわるカッター…… 柏木はすぐに蓮の番号を押した。
携帯が鳴る。チラッと見た。
「花、柏木だ、出てくれ」
花がスピーカーにした。
「どうした?」
『あいつのやることが分かりました』
「相田の?」
『あいつ、捕まえた相手の体をずっとカッターで刻むんです』
「な……刻むって、どういう意味だよっ!」
『あいつが相手を……犯す前にやる儀式みたいなもんらしい。塚田が言ってた、いまだにその感触が夢に出るって』
「切るって、どれくらいだ?」
『全身を無数にって。延々続くって……』
電話を切って沈黙が訪れた。それが続いている限りジェイは犯されない。けれど終わりが見えないほどそれが続いたら……
「あいつの神経じゃもたない……あいつは」
「俺は信じるよ。あいつは確かに弱い。けどその芯は強いはずだ。だからうちの会社に入るまであれだけのことに耐えてきた」
「あれだけのこと?」
「ああ……そうだな、お前は知らないからな。……お前には話しておくよ。あいつはお前が大事だと言っていた。大事な初めての友人だと。だから知ってやってほしい」
蓮は前を見据えたまま話し始めた、ジェイの生い立ちを。何もかもを諦めて育ってきたこと。心を開き、甘える相手など一人もいなかったこと。
「そんな……それ、人として扱われなかったってことじゃないですか! まともな学生時代さえ送ってない……去年、やっと父親の写真を見た? 自分の子どもの頃も、あいつ……だから何も知らないのか……」
「本当に知らないんだよ。前にデザートを食ったことないって言ったろ? 本当なんだ。初給料が入るまで昼飯は食わないつもりだった。給料をもらったらプリンとゼリーを買おうと思っていたそうだ。そういうヤツなんだよ」
携帯が鳴った。花がオンにする。
『課長! 俺です、哲平! 千枝から全部聞きました、今俺も向かってます、近いんです! だから俺の方が早く着く。誰も間に合わなかったら俺が飛び込みますから!』
「哲平さん!」
『花か?』
「お願い、ジェロームを助けて! 間に合って、頼むから……」
『……花……任せろ! 俺が一番手なら殴り込んでやる!』
起き上がれない、拘束されていないのに。
(だめだ もうなにがなんだか わからない)
体が熱い、目が回る、息が上がる……
(れん れん れん……)
唱えていれば来てくれるような……声が届いてくれるような……
「待たせてごめん、今からきれいにしてあげるからね」
まるで夢を見ているようだ。着ているものが切り開かれていくのを感じた。脱がされるのじゃない、切られていく。
(いたっ!)
衣服を切る時に肌を引っかけていくのか、小刻みに痛くなる。けれど酔いが回るからあまり分からない。その内その薄い痛みが長くなっていく。
「きれいな模様になってるんだよ。本当にきれいだ……見せてやりたい……そうだ、ちょっと待って!」
カシャッ カシャッ カシャッ
「ほら、分かる? きれいだろ?」
何せかなり酔っている、何を見せられているのかよく分からない……
「分かんないの? 足んないか」
またさっきの薄い痛みが始まっていく。ひどく痛いわけじゃない、けれど脇を、首を、腹を、胸を何かが走っていく。そしてそれが顔に迫った。
(え、これ……?)
どう見てもカッター。頬を幾筋か痛みが走った。今度はチクチクと体のあちこちを突つかれる。ジェイのためにも酔っていて良かったのかもしれない、正常な頭ならきっと耐えられなかったに違いない。
「もういいと思うんだけど。顔はやめた、もったいないからね」
カシャッ カシャッ カシャッ
「今までの子にはね、もっとたくさん模様を付けたんだよ。けど君はこれくらいがいいと思う。アルコールのおかげでほどほどに赤くて。綺麗だよ、姫……」
口づけが始まる、長い口づけが。いつまでも続く、体を手が這う……
既に警察には住所が割れている。数台のパトカーが急行していた。近くまで行って音が止む。新たな証言で犯人が刃物を被害者に向けている可能性が高いと連絡が来ていた。サイレンを聞いて逆上したら刺し殺してしまうかもしれない。
突入前の捜査員たちに聞こえたのは怒声だった。何を叫んでいるのか分からない。だがそれを聞いて一斉に踏み込んだ。中で憤怒の形相をした男に殴り倒された男性が倒れていた。
蓮たちが着いた頃にはもうパトカーが何台も止まっていた。きらめくたくさんの赤い光。
「現行犯逮捕です!」
「被害者、意識があります!」
そんな声が聞こえていた。ざわついている古い家の周り。入り乱れる警官たち。そばにいる救急車から担架が運ばれていく。
車のドアも開けたまま、蓮も花も走り出した。体がシーツにくるまれた誰かが担架で運び出されていく。あれはジェイだ。そのそばに行こうとして止められた。
「会社の者です!」
「同僚です!」
「これ以上立ち入らないでください」
「生きてるんですね? 無事なんですね?」
「今は何もお答え出来ません」
「どこの病院に運びますか!?」
「それもお答え出来ません」
「私は被害者の緊急連絡先になっています、教えてください!」
「でしたら改めてご連絡が行くと思います。それをお待ちください」
会うことも状況を聞くことも、頑として拒まれた。向こう側に見覚えのある姿がパトカーに乗せられている。
「哲平さん!!!!」
振り向いた哲平はにやっと笑うと親指を立てた。蓮も花もいっぺんに力が抜けた。少なくとも哲平は笑っていた。
引きずりだされてきた相田がちらりと見えたが、あっという間にパトカーに乗せられ連行されて行った。
「花、救急車の後を追おう」
「はいっ!」
だが向こうは信号もノンストップだから早い。とうとう見失った。
「ナビでこの辺りのデカい病院を探せ」
いくつか候補がある。救急車の向かって行った方向にあるのは2か所。花は野瀬の携帯に電話した。
「花です、今相田が捕まりました!」
『聞いた、今刑事さんが教えてくれた』
「聞いてもらえませんか? ジェロームが運ばれた病院」
向こうで何かやり取りをしている。
『本当はだめらしいが、逮捕にも協力したから分かったら教えると言ってもらえた。ちょっと待ってろ、連絡する』
蓮は車を止めた。無駄に走っても意味が無い。無言で携帯が鳴るのを待った。
20分ほどしてやっと連絡が来た。
『スピーカーにしています。新川第一病院だそうです。でも行ったからって会えないだろうと』
「それでもいい、行ってみる。みんな、本当にありがとう! 遅い時間まで助けてくれた。おかげでジェロームは命に別状は無さそうだ。詳しいことは分からないが今日はもう引き上げてくれ。野瀬、池沢、後を頼む」
『大滝だ。こっちは任せておけ。何かあったら直接私に連絡しろ』
「部長……」
『ご苦労だったな』
『課長! 良かったです、本当に……本当に良かった……」
「池沢……みんな、ありがとう………」
病院の中は時々ざわつくが、比較的静かだ。蓮と花はある一室の近くでずっと立っている。二人が着いた時には、ジェイはすでに応急手当てが施されて病室に運ばれていた。今、薬で眠らされているのだと聞いた。
(眠っている……良かった、眠っているだけなんだ……)
早く手を握りたい。確かめたい、体温を、鼓動を。けれど、今は眠っている。さっきまでの焦燥感と比べれば、こんなに幸せなことはない。
「体……酷いんでしょうか」
「分からない。でも、花。ジェロームは生きてるんだ」
その意味が深く伝わる。花は頷いた。
(そうだ。生きてる。ジェローム、お前生きてるんだよ)
蓮の携帯が震えた。
『大滝だ。様子はどうだ?』
「今、眠っています」
『会えたのか?』
「いえ。こちらの身元を今確認してもらっています。それに会う前に本人からの話を聞くらしくて」
『そうか……でも良かった! まさか今日こんなことになるなんてなぁ…… 西崎さんには連絡をした。驚いていたよ、彼女も。今度は相田も出てこれなくなる。それが幸いだ』
「はい。ありがとうございます」
電話の間が空いた。大滝の声の調子が変わる。
『河野、この後どうするつもりだ?』
「部長……分かりません……初めて……どうしていいか分かりません。けれど顔を見たい。生きているとこの目で見て安心したいんです」
『君は課長職なんだ。分かっているか? みんなに説明してそれでも仕事を止めない責任がある』
「分かっている、と思います、頭では。でも……分からないんです、優先順位が。俺はここにいたいです」
『……考えろ。電話を待っている』
いったん会社に行って、またここに来る。そんなことが今の自分にできるとは思えなかった。距離も遠い。横浜と会社と。面会時間に合わせる行動が出来ない。
いきなりぽつりとその言葉が浮かんだ。
「やめるか」
隣に立っていた花は訝しげに蓮を見上げた。
「なにをですか?」
「仕事……」
「え、仕事を辞めるって言ってるんですか!? なんで!」
「花……俺は疲れた。仕事は楽しかった。やりがいもあっていい部下に恵まれて。みんなに助けられてここまでやってこられた。けどな……」
その後が言えない、言葉に出来ない。愛する者を守れなかった。そばから離れなければならない。こんな目に遭った大事な者を置いてでも優先しなければならないことがある。その全てが蓮を苛む。
「俺は普段偉そうなことを言っておいてたった一人さえ救えない。守れなかった。何もかも予想できる範囲だったんだ。後悔じゃ済まない、起きたことは消えない」
(こんな課長、初めてだ……)
どんな時でも諦めるということを知らない、先頭で岩を切り崩して進む男。それが『河野蓮司』という男のスタイルだ。それ以外の姿が浮かんだことがない。
知らないうちに、花は蓮に感化され、蓮を目標にしていた。憧れているのかもしれない。自分が今、蓮の言葉を聞いて初めてそれが分かった。
「課長……誰にもどうにも出来なかったです……そう思います。仕方なかった……」
「お前、本当にそう思ってるか? 思ってないだろう。お前も自分を責めてる。俺が『お前じゃない、俺が悪いんだ』って言ったとしてもその気持ちは消えないだろう?」
その通りだ。仕方ないなんて欠片も思っていない。何もかも、一緒にいなかった自分が悪い。
(同じだ、課長と。防げると思ってた。だから合気道も教えて……俺のやってたことは俺の自己満足だった? 何もかも、茶番じゃないか!!)
「でも、俺たち、進まなきゃ……」
花は突き動かされるように蓮を掴んだ。体を揺さぶった。
「課長! これ以上あいつに精神的にも負担を負わせたくない! 課長が辞めたらあいつ、自分を責める。絶対責める、そういうヤツだって課長だって知ってるじゃないですか!」
花は泣いていた。涙が止まらない、体が震える。ただ蓮を揺さぶり続けた。
「だめ、なんです、俺たちが折れちゃ……あいつを……あいつをあのオフィスで待っててやらなくちゃ。あそこでジェロームの帰る場所を守ってなくちゃ。あいつ、帰るところがなくなっちまう……」
「花……帰ってきてくれるだろうか……」
このままでは二人とも失うかもしれない……花の中に恐怖が生まれた。
「じゃ、どこに帰るって言うんですか! あいつに帰るとこなんて無いんだ……迎えてやるヤツだっていない。俺たちが家族だ、課長! 課長はずっと必死に守ってきたじゃないですか! 最初っからだ、課長は最初っから守ってきた。あの歓迎会の時も。入社の時だってそうだったんでしょ? 最初にあいつを見つけたのは、人として認識してやったのは課長なんだ! 課長には守り続ける責任があるじゃないですか!!」
蓮も泣いていた。花を抱きしめた。
「あいつを……見捨てないで……課長がいなかったらあいつ、きっと帰ってこない。俺、ジェロームに帰ってきてほしいんだ……」
どうして見捨てるなんて出来るだろう。どうして居場所を取り上げるなんて出来るだろう。帰ってくるかどうか。問題はそこじゃない。引き戻すことだ、何が何でも。
「これからが……きっと大変だ」
「分かってます」
「今度こそ俺たちは失敗出来ない」
「はい」
花の体を離した。目を見つめる。
「覚悟しなきゃならない。あいつが俺たちを拒むかもしれない。頑張れるか?」
「課長は?」
「俺はあいつの最後の砦になる」
「俺、あいつを離す気ありません。あいつは俺の初めての部下です。そして親友です」
蓮は大滝に電話した。
「部長、河野です。明日、午前出勤します。午後は休みを取ります」
『そうか。分かった。それでいい。朝、私のところへ寄ってくれ』
「分かりました」
「花、ありがとう。お前のおかげだ、俺は間違うところだった」
「俺もです……課長にああ言ったから俺の中で気持ちの整理がついた。そうじゃなかったら……俺も間違ったままだった」
若い刑事が来た。
「お二人のことは確認取れています。ただ、先にある程度の事情聴取が入ります。もう夜中ですから多分それは明日の昼頃になるかと。診察と治療が優先されますからね。その後でないと会うことは出来ません」
「分かりました。こんな時間にご連絡をありがとうございます。……一つだけ。お願いがあります」
「なんですか?」
「一目でいい。寝ている姿でいいんです。見せていただけませんか?」
深々と頭を下げた。花も下げた。
「お願いです、一目見たいんです。お願いします!」
二人がずっとここに立ち続けていることを刑事は知っている。少し間があって返事が返った。
「内緒にしてくれますか? 俺、失点になるの嫌なんです、まだ新米なんで」
頭を上げると彼は笑っていた。蓮は手を握った。
「ありがとうございます! 誰にも言いません」
中に入った。点滴がぶら下がっている。呼吸は穏やかだった。だが見えている範囲、所狭しとガーゼで覆われていた。顔にさえ何か所も。蓮はそっと手を触った。温かい……
「花。温かい。生きてるよ。生きてるんだ」
花も触った。
「ほんとだ、あったかい」
促されて二人は外に出た。
「ありがとうございました。明日また、改めて来ます。よろしくお願いします」
二人で頭を下げて病院から出た。
「お前、会社に車置きっぱなしだな」
「あ、そうだった」
「送るから。道案内頼むよ」
「はい」
「腹は? 俺は急に腹が減ってきた」
花が笑った。
「俺もです! 何でも食えそうです、今なら」
「じゃ、最初に目に入ったところで食うか」
「そうしましょう!」
目についたのはラーメン屋だった。
「げ! 立ち食いだ」
「なんでもいいよ、食えれば」
「ずっと立ちっ放しだったんで座りたいんです」
「ならお前はいろ。俺は食ってくる」
「あ、行きますってば!」
物も言わず最後の汁を啜ると、やっと人心地がついた。
「美味かったぁ!! 課長、そう言えば哲平さんってどうなるんでしょうね?」
「……忘れてた」
「あ! それ、可哀そうですよ! 言ってやろ!」
「バカ、言うな! そうだった、あいつどうなるんだ? まさか傷害にならないよな?」
「そんな! だって正当防衛……」
「いや、違うだろう。多分あいつは飛び掛かっていったはずだ。なら正当防衛とは違う」
「俺、何も考えずに頼んじゃった……」
「そうなるとお前は教唆か?」
「勘弁!! それ、シャレにならないですよ! マリエに殺される」
「ちゃんと頭下げるよ、真理恵さんに」
「だからって事態変わんないじゃないですか!」
「そうだな」
「……え、それで終わり?」
明日が怖い。前にホテルでジェイが襲われた翌朝もそうだった。ジェイの反応が怖かった。今回はそれ以上だ。怯えにも似ていた。でも最初に会うのは自分でいたかった。
朝は6時には出社した。仕事を溜めたくない。驚いたことにメールを開くと大滝から新着が入っていた。
『待っている』
時間は5時47分。蓮は上着を掴んですぐに向かった。ノックをする。
「入ります!」
すぐにドアを開ける。
「待っていた」
「いったい何時にいらしてたんですか?」
「夕べはここに泊まった。久しぶりだよ、こんなのは」
「すみません、私は帰ってしまいました」
「いや、疲れただろう。しばらく大変だな。頑張れとしか言えない。ちょっと待ってろ」
少しして大滝がコーヒーを持ってきたから慌てた。
「言ってくだされば……」
「いいんだ。私は……いや、普通に話そう。俺は悔やんだよ。ここで目の前であれだけ見て話したのに思慮が足りなかった。そう思って一晩眠れなかった」
「けれど部長はいろいろやってくださいました。住まいも、免許も」
「一人の社員に入れ込むことは私の立場では許されない。これ以上表向きに具体的な支援は出来ないんだ」
「承知しています。むしろ過ぎるほどにしていただいた」
「だが何かあれば言え。彼には不思議な魅力があるなぁ。よく分らんがお前が一生懸命になる気持ちはよく分かるよ。だから黙って俺を頼れ。いいな?」
「はい。感謝します」
「その代わり責務は果たせ。ここは譲らん」
「業務の手抜きはしません」
「ならいい。以上だ」
「はい。ありがとうございます」
「おはよう! みんな揃ってるか?」
それぞれのチーフが池沢を除いて手を挙げた。花はちゃんと来ている。
「業務の前に報告する。最後まで聞いてくれ。昨日ジェロームが駐車場で相田に襲われた。釈放されたその日の犯行ということだ。連れ去られたがいろんな協力を得て夕べ見つかった。この中にも助けてくれた者が何人もいる。感謝している」
頭を下げた。本当に感謝だ。何をおいても駆けつけてくれた。
「かなり負傷しているのでしばらく入院となる。相田は逮捕された。頼みがある。ジェロームがここに帰ってこれるように、あいつの居場所を守りたい。いつ帰ってくると言えない。精神的なダメージが大きすぎる。だがみんなも知ってるよな? あいつにはここしか無い。どこにも帰る場所は無いんだ。俺は待っていてやりたい」
「俺も待ちますよ」
間を置かず広岡が答えた。
「不思議なんですけどね、ジェロームが来てからパニック起こすのが減ったんです。なんでですかね、あいつ必ず俺に笑いかけてくれて。男に癒されるって、自分でも変なんですが、あいつがいると気持ちが楽になるんですよ。こんなの初めてだ」
言葉にしなくてもみんなが同じ気持ちでいてくれているのが伝わってくる。
「あの!」
砂原だ。
「あの、私彼にずっとひどい態度取ってしまって……今さらなんですけど……元気に帰ってきてほしいと思います」
「ありがとう、砂原。聞いたらきっと喜ぶ。今日は午後、病院に行ってくる。出来れば俺は何度か病院に行きたい。業務に支障は来たさないつもりだ。ただ各チーフに迷惑をかけるだろう」
「大丈夫ですよ」
「ばっちりです!」
「俺たちの代わりに行ってやってください、課長は親代わりなんですから」
一瞬言葉が詰まった。
「ありがとう、池沢、野瀬。中山、そうだな、俺は親代わりだ」
涙を堪えて深呼吸した。
「申し訳ない、みんなの見舞いはしばらく控えてくれ。今は俺と花に任せてほしい。落ち着いてきたら報告する。そしたらうるさいほど行ってやってくれ」
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