宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第4部
7.目覚めから悪夢へ -2
オフィスから出て病室の方へ向かうと叫び声が聞こえてきた。
「蓮! 蓮! 蓮っ!!」
「大丈夫ですよ、すぐに戻ってきますからね」
「そばにいるって言った、今日は帰らないって言った!!」
病室に急いだ。
「ジェイ! 俺はいる。お前に黙って帰らないから」
「嘘つき! 俺のそばにいるって言ったのに! 嘘つきっ!!」
「違う、トイレに行ってたんだ。ジェイ、トイレだよ」
「……トイレ?」
「ああ、そうだ。お前、それまで我慢しろとは言わないよな?」
「……うん……ごめん」
高橋はホッとした顔で蓮に微笑んだ。
「あのね、シェパードさん。私、シフトでこれから別の看護師さんが担当します。ちゃんと引き継いでおくから心配しないで……」
「いやだ! 他の看護師さんなんかいやだ!!」
「ジェイ、看護師さんはハードな仕事だ。お前のことだけじゃないんだ、仕事は。休まないと倒れてしまうぞ。ちゃんと引き継いでくれるんだから安心しろ」
「……太田さんは? やっぱり交代するの?」
「大丈夫よ、彼女は日中だけの仕事だから。必要ならナースコールして太田さんを頼みなさい。いいわね? 私も休み明けには必ず来ますからね」
ようやくジェイは大人しくなった。
「ありがとうございます」
「いいえ。いられる限りお願いしますね」
「はい、今日は最後までいますから」
まるで子どものようになっている。体の傷と、心の傷。どれだけの傷を抱えれば運命も神も満足するのか。
(ジェイ……お前の傷の半分でも俺が肩代わりできるものなら……)
高橋が出て行き、隣に座った蓮にまたジェイはしがみついた。
「無理するんじゃない。今どこが一番痛いんだ?」
「背中」
「じゃ、ちゃんと横にならなくちゃだめだ! 治りが遅くなると帰るのも遅くなるぞ」
その言葉でやっと離れた。動くのも辛そうで、真っ直ぐな姿勢になるまで手伝ってやる。
「何か欲しいものあるか? 今なら売店も開いてるだろう、買ってきてやるぞ」
「いやだ! またどこか行っちゃう!」
「ジェイ……今日はお前と過ごそうと思ってきたんだよ。心配はいらないから」
「蓮と離れるとまた襲われる!!」
言葉が……出ない。ジェイは現実と過去をごっちゃにしている。
(俺がしっかりしなければ)
「あれは終わったんだ、ジェイ。もうお前が襲われるなんてことは無いんだ」
「会社の中は安全なはずだったんだ、あいつは入ってこられないって。なのに来た。ここだっていつ来るか分からないよ!」
「あいつはもう捕まっている」
「でもきっと逃げ出す、ここだってバレてる!」
蓮はジェイを抱きしめた。
「あいつはもうお前のそばに来ないんだよ」
「そして俺のせいになるんだ、俺がちゃんとあいつの顔を見なかったから悪いんだ」
「お前のせい? そんなわけない」
「刑事さんに言われた、顔を見てないのかって。相田だって分かった根拠は無いのかって……」
(そんなバカな……)
「ジェイ、安心しろ。防犯ビデオだって残っている、凶器もきっとアイツの家にある。弁護士の西崎さんが動いてくれている。お前が心配する必要なんか無いよ」
「本当に?」
「ああ。西崎さんに言っておくからお前のところに来てくれるよ。俺がいないときかもしれない。きちんと喋れるな?」
「うん……」
頭を撫で続けると穏やかな顔になり始めた。
「何か食べたり飲んだりしたくないか? 喉、渇いてないか?」
『喉、渇いてる? 飲み物持ってきたよ』
「……渇いてない、何もいらない、飲みたくない! ウィスキーなんていやだ!」
『アルコールをひどく飲まされていましたから』
「酒なんかお前に飲ませない、水とかジュースとか。ほら、カルピスなんか欲しくないか?」
「……カルピス?」
「そうだよ。オレンジジュースでもいい、何が欲しいか? 俺も自分の食べるもの買ってくるから」
「……カルピスがいい。プリン欲しい」
「分かった、買ってくるよ。冷蔵庫あるな、いくつか買っておくから」
椅子を立った。上着の裾を掴まれる。
「すぐ? すぐ戻る? 駐車場にすぐ行くって言ったのに蓮、来なかった」
怯えた目に後悔が襲う、ジェイの中に巣食った恐怖が見える。抱いてキスをした、額、髪、ガーゼに覆われていない頬。
「急ぐ。買い物して必ず戻る。待っていられそうか?」
「……帰ってきてくれるなら」
「帰るよ。必ずここに帰る。お前に食べさせてやるから、プリンを」
「うん……分かった、待ってる」
出ようとして呼び止められた。またジェイの目に恐怖が溢れている。戻ってベッドの横に座った。
(根気よく接しなきゃだめだ。今は恐怖を取り除いてやらないと。ジェイは俺のことさえ……信じてない)
「なんだ? 寂しくてしょうがないんだな。それともプリン以外に何か欲しいか?」
「蓮……上着置いてって。そしたら帰ってくるでしょ?」
涙が落ちそうだ……躊躇わず脱いだ。ジェイの上にかけてやる。
「どうだ? これで安心か?」
「うん。蓮の匂いがする……」
「やっぱり枕が必要だったか?」
からかうように言うと、やっとジェイの口元に笑みがこぼれた。
「じゃ、買ってくるからな。俺も腹が減ってるんだ」
廊下に出て一瞬歩けなかった。ジェイの心の傷は相田だけじゃない、自分も作ってしまった……
(起きてしまったことは消えない……消えないんだ)
急いで歩き始めた、ジェイが待っている。
「美味しいか?」
こぼれそうなプリンを心もとないスプーンで口に運んでやる。それだけで幸せそうな顔をしていた。
「ヘルパーさんが来るって言ったな、冷蔵庫にプリンとゼリーと飲み物を多めに入れてある。水とお茶もあるからな」
買い物のついでにジェイの携帯のことを聞いてみた。普通なら構わないが、被害者であること、精神が不安定であることから渡すことは出来ないと言われた。今はまだ捜査の段階だから、入院中に外に情報が漏れることを防ぐためだと言う。
テレビをつけた。これにはジェイも喜んだ。リモコンをそばに置いてやる。あれこれ番組を拾って眺めているのを見てほっとした。
途中で点滴を替えに来た看護師は、高橋より若い女性だった。笑顔がいいが少しお喋りのようだ。テレビを見るジェイに何かと話しかけるからとうとうジェイは嫌な顔をし始めた。
「こら、あんな顔するんじゃない」
「あんな顔って?」
「うるさそうな顔してたぞ。世話してもらってるんだ、あまり露骨に嫌な目を向けるな」
「だってうるさいし」
「看護師さんなんてちょっとの間しか病室にいないだろ? それくらい我慢しないと」
「分かった……退院、いつ?」
「さっきも言ったろ? 1週間もすれば家に帰れる」
「1週間だね?」
「冷蔵庫にもどっさり買ってあるよ、デザート」
「シュークリーム、いい?」
「買ってくる」
どうやらデザートの話をしている時が一番楽しいらしい。努めて事件の話をしないように気をつける。何が引金でまたパニックを起こすか分からない。夕飯は蓮が食べさせた。
面会時間は8時まで。さっき看護師がそっと教えてくれた。
「まだ不安定なので夜は安定剤が処方されます。眠れないときは軽い睡眠導入剤も出しますから。安心なさってくださいね」
それなら自分が帰ったとしても安心だ。念のために看護師に頼んだ。
「すみません、眠るまでテレビをつけておいてもらえませんか? きっと安心すると思いますから」
「まるでお兄さんみたいですね」
看護師がクスっと笑った。
「まだ落ち着かないみたいだから心配で」
「いいですよ、眠った頃に消しておきますから」
これで少しはいいだろう。問題はこれからだ。もう7時を過ぎている。果たして大人しく帰らせてくれるだろうか。部屋には時計が無い。だから時計を見せるのがちょっと不安だ。それでも7時半になるともう分からせないといけないと思う。
「ジェイ、今7時半なんだ」
時計を見せた。
「だから?」
「夕方、言ったろ? 面会時間は8時までだ。そろそろ支度しないといけないんだ」
「じゃ、俺も帰る」
起き上がろうとするのを慌てて止めた。
「お前は入院してるんだぞ? まだ帰れないんだよ」
「蓮が帰るのに?」
まずい展開になりつつある。
「仕事が落ち着いたらまた来るから。なるべく来るから」
「……帰るの? 一緒に寝てくれないの?」
「ジェイ……ここは病院なんだ。分かってるだろう?」
「だから蓮と一緒に帰るってば」
「必ず来るから。約束する」
「……蓮が帰ったら……あいつが来るよ……蓮、助けて、助けて、助けて……」
大粒の涙が零れ始める。
(捕まってる間……お前はそう言い続けてたんだな……)
そっと抱きしめた。キスをしようとした。
「いやだっ!」
「どうした? ただのキスだ、ジェイ」
「ウィスキー飲まされるっ!」
「俺がか? 俺がそんなことすると思ってるのか?」
「……ううん、蓮はしない」
「しないよ」
そっと唇を合わせた。始めは動かなかったジェイの唇がようやく応え始めた。されたことと現実の区別がつかなくなっているのだと、それが悲しい。
「ちょっとトイレ行ってくる。待てるか? ほら、荷物も椅子に置いていくから」
「うん。待ってる」
廊下に出てさっきの看護師を探した。
「ジェロームなんですが」
「はい」
「もう私も帰らなくてはなりません。安定剤、早めに飲ませることは出来ますか?」
「寝る前じゃなくてですか?」
「ひどく怯えているんです。また襲われると言い出して」
「分かりました、すぐ先生に聞いてきますからね、お待ちください」
山根はもう帰っているが、当直の医師にしっかりと引き継いでいたらしい。
「お薬、出ます。もう後10分で面会が終わりますね。今のうちに飲んでもらいましょう」
「お願いします」
蓮が喋っている間に渡された薬をなんとなく飲んだ。
(これで寝てくれるといいんだが)
「ジェイ、時間だ。ちゃんとまた来るよ。ほら、もう一つタオルをそばに置いておく。大丈夫だな?」
心細そうな顔に後ろ髪を引かれる思いだ。
「本当に来るよね?」
「約束だ」
手を握ってやった。頭を撫でる。頬にキスをした。何度でも繰り返すスキンシップ。
「ゆっくり寝るんだぞ。いいな?」
ドアを閉めるまで縋り付くような目だった。少しドアの外に立つ。また叫び出すかもしれない。けれど静かなままだった。帰らなくてはならないことを理解してくれたのだろう。
(こんなことすら不安なんだ)
早く家に連れて帰りたい そう心から思った。
5時50分には駐車場に車を入れた。昨日たった一日だったのに、蓮も精神的な打撃を受けていた。
(ジェイの信頼を得なければ……)
一昨日までは自分に対する全面的な信頼があった。
『蓮は自分を見捨てない、守ってくれる、安心させてくれる』
今はどれもがジェイの中で揺らいでいるのが分かった。
――そばにいるって言った、今日は帰らないって言った!!
――戻ってくるよね?
――上着置いてって。そしたら帰ってくるでしょ?
(あんな悲しい言葉を言わせたのは俺だ)
向き合っていくしかない、もう一度ジェイの中で揺るぎない存在にならなければ。時間に気づいて車を出た。
「課長!」
「花?」
「俺も今日は6時出勤にしました。午後早退します」
「お前、今日病院に行く気か?」
「はい」
有難い、ジェイを一人にしたくなかった。けれど会議、打ち合わせ、今日はそんなものに忙殺される。
「仕事は?」
「昨日急ぐものは片づけたし、野瀬さんたちとも充分打ち合わせました。これから昼までにスケジュールの見直しをして、先方と直に話ができるように田中さんと段取りをつけます。何せ優秀な補佐がいないんできついです」
笑っている。この笑顔が今のジェイには必要だと思う。
「花、上に行ったら少し話そう」
蓮の表情が硬い。花はジェイの容体が思わしくないのだと思った。
オフィスはひんやりとしている。空調をつけて花の隣に座って話し出した。
「ジェロームは重症だ」
「そんなに傷を負ってるんですか!?」
「いや、精神的にということだ。体は……軽傷だ、あれをそう呼ぶのなら」
「どういう意味……」
「体の一面にカッターで模様が描かれていた。あいつは……裸だった。至るところに薄い傷跡が走っている。医者は一週間もすれば気にならなくなる程度まで治ると言った。処置はただ傷薬を塗るだけだ、転んだ後のように」
花にはまだ想像がつかない。ピンと来ない。
「あいつはその傷を知らない。相田にしこたまウィスキーを飲まされていたからな。暴行はされていなかった。哲平の踏み込んだのが早かったから。防犯ビデオで見た通り、打撲はひどい。まだ座るのは無理だろうが、一週間ほどで退院出来る。その頃にはだいぶ動けるようになっているはずだ」
「また……軽傷扱いってことですか?」
「そうだ」
あれだけの目に遭って……
「警察の態度が気に入らない。ジェイに本当に相田だったのかと何度も確認している。西崎さんにそっちは頼むつもりだ」
「バカな……だって物的証拠がある!!」
「多分……合意の部分があったのではないかと疑われている」
バカバカしくて話にならない。
「行ってやってくれ。けれど覚悟してほしい。あいつは錯乱している。終わったことと現実との区別がついてなかった。俺が売店に行くのでさえ、本当に帰ってきてくれるのかと何度も念を押された。花、根気よく接してほしいんだ。あいつにこれ以上不安を与えるわけにはいかない。もし部屋を出る時には荷物を全部置いていけ。俺は上着も脱いだよ、信じてくれないから」
『本当に帰ってきてくれるのか』
それは自分たちのせいだ。助けるのが遅かったせいだ。
「覚悟します。分かってもらえるように努力します」
「簡単には行かない、そう思っていてくれ。じゃ、仕事に取り掛かろう」
二人、喋ることもなく他のメンバーが揃うまで自分の仕事をした。
「花、早いな」
「病院に行くんで」
「そうか……課長はなんて言ってた?」
花は池沢の顔を見て首を横に振った。
「ケガか?」
「錯乱してるって」
それ以上、池沢は聞かなかった。
「こっちに回せるものは全部回せ。お前のいない時に打ち合わせが必要になったら全部録音しておく」
「はい」
時間になってコートを腕にかけた花に蓮が声をかけた。
「俺は今日はいけない。納得させてやってくれないか?」
「了解」
「花……あいつは子ども返りしているところもある。何も言わず受け入れてやってくれ」
花は深く考えるのをやめた。とにかくジェロームに会おう。それだけが今日の目的だ。
入り口で面会の受付表に書き込む。ジェイのいるのは6階の3号室だと聞いていた。真っ直ぐその部屋に向かう花の耳にジェイの叫び声が聞こえた。走り出す花と急ぎ足で前を行く看護師。
ドアを開けた時にジェイが突き付けられているのは写真だった。
「これは君だろう?」
「確認だけだ、答えてくれ」
花にはその写真が見えた……素裸に血の模様が描かれている写真……ゾッとした、下半身の赤い模様……
「違う! 俺じゃない、俺じゃない、俺じゃない……俺じゃ、ない……」
「何やってるんですか! 許可は出てないはずです! 出て行って!!」
「俺じゃない……違う、俺じゃない……」
刑事を追い出した看護師に安定剤を飲まされたジェイが落ち着くまで廊下で待った。看護師に何度も頭を下げて、医師にも許可を願った。
「彼の神経は限界です」
「俺は親友です。あいつがどうなろうとも付き合いをやめる気は無いんです」
「ジェローム、花だよ、ジェローム」
虚ろな目が花を見上げた。少しずつ焦点が合ってくるような……花の目とジェイの目がしっかり合った。
「花さん! わ、来てくれたの!?」
そこにはさっきのジェイがいなかった。
「昨日花さんが来るって聞いてた、ホントに来てくれたんだ!」
どう切り返せばいいのか分からない。さっきまで錯乱していたジェイはどこに行ったのか。頷いた花が部屋の隅にある椅子を持ってこようと振り向いた時。ジェイの様子が一変した。
「どこ行くの!? 花さん、どこ行くの!? いやだ、どこにも行っちゃいやだ!」
「ジェローム、その椅子を取ってくるだけだよ」
「また俺を置いてくの? もう帰ってこない? 誰も来てくれなかった、誰も助けてくれなかった!」
花の頬に涙が伝う。
「ジェローム、俺は……」
「そばにいるって言ったのに……みんな嘘つきだっ!!」
冷静になろうと深呼吸をする。
「ジェローム。お前は俺の相棒だ。いいか、俺を助けてくれるのはお前だけなんだ。だから俺はお前を離さない。ここに荷物を置く、上着も脱ぐ。椅子を持ってくる間だけ待ってくれよ」
「帰って……来る……」
「そうだ、当たり前だろ?」
椅子を正面に置いて他愛ない話を始めた。取り留めもなく軽い話。今年の3月の頭にイチゴ狩りに行こうとか、テトリスだけじゃなくて他のゲームもしようとか。
ふっとジェイの焦点がズレて急に口調が変わった。
「さっきの写真、俺じゃなかったよね?」
なんと答えればいいのか……
「ごめん、俺よく見えなかったんだ。お前が違うって言うんなら違うんじゃないか?」
「そうだよね、あの写真の人、何も着てなかったよ。あんなカッコで写真撮られるなんて可哀そうだ」
「そうだな……」
酷い姿だった……目に焼き付いた、あんなことをされたのだと。しかもそれをジェイに見せるなんて。
また口調が変わった。
「俺、カルピス飲みたい!」
「冷蔵庫か?」
「うん!」
(課長……ここには子どもがいるだけだ……子どもが……)
冷蔵庫を開けるとカルピスが無かった。
「ジェローム、オレンジジュースならあるよ。カルピスが無い。買ってこようか?」
「また……またいなくなっちゃうの?」
見開いた目が 行かないで と叫んでいる。
「お前、カルピス好きなんだろ? 無くならないようにたくさん買ってきてやるよ。ほら、荷物も上着もさっきみたいに置いてくんだからさ」
「でも花さんはどこかに行っちゃう」
「買い物だけさ。他に何が欲しい?」
「ネクタイ外して」
「ネクタイ?」
「うん。花さんお洒落だからネクタイ外したら外に行かないよね」
花は笑ってネクタイをジェイに預けた。
「これでいいか?」
「ゼリーが欲しい!」
「適当にいろいろ買ってきてやるよ。お前デザート好きだもんな」
頷くジェイの顔いっぱいに笑顔が浮かんでいた。
(壊れてるじゃないか……こいつ、壊れてるじゃないか!!!!)
怒りをどこにぶつけていいか分からない……本当にジェロームは帰ってくるだろうか……狂ってるなんて認めたくない、自分のことも課長のことも認識している。だから狂ってなんかいない!
袋いっぱいに飲み物とデザートを買った。せめてこんなものくらいちゃんとそばに置いてやりたい。部屋に向かう途中で看護師に会った。
「面会の方が増えるのはあまりお勧めできませんよ」
「俺と課長……昨日来た男性だけです。他は誰も来ません」
「分かりました。ごめんなさい、とても心配で」
「ありがとうございます、俺たちも気をつけます」
部屋に戻るとにっこりジェイが笑った。
「戻ってきた、花さんが来てくれた」
「ほら! こんなにいっぱい買ったから。今、カルピスでいいのか?」
「うん、いい」
「じゃ、これな」
「ジェローム、俺、寂しいよ。お前がいなくってさ」
「俺も寂しいんだ、ここには知らない人ばっかり。早く帰りたい」
「良くなれば帰れるよ。早く良くなろうな」
「うん! ……花さん……」
「なんだ?」
「俺、少し眠い……」
「いいよ、眠っても」
「目、覚めたらもういない?」
ジェイの手を掴んだ。
「ほら、いるよ、こうやって。俺たちは親友だからな、目を覚ましてもここにちゃんといる。だから眠っても平気だよ」
頷いたジェイはしっかり花の手を握ってすんなり眠った。改めて思う。離したくない、俺たちは折れちゃいけない。必ずジェロームを取り返してやる。
面会時間の終わりが近くなる。帰ると言い出せない花。けれど容赦なく面会修了の院内放送が流れた。花は縋り付くようにジェイに泣かれた。
「帰っちゃいやだ! ここにいて!」
泣き続けるジェイを抱きしめて、何度も『また来るから』を繰り返した。
「本当に? いつ? 俺を迎えに来る? 俺を助けてくれる?」
(連れて帰りたい……)
出来るならこのまま車の助手席に乗せて行きたかった。真理恵の料理を食べたらきっと元気になるだろう。フェアリーのパフェならきっと元に戻る。一緒にオフィスに行けば、また自分の見落としているところを指摘してくれるに違いない。
<花さん、ここ抜けてますよー>
<これ、さっきのメールから転記しておきました>
泣いているジェイを胸に抱いて、花は自分が泣いていた。
「俺たち、一緒にやってくんだからな。俺はお前を待ってるんだからな」
なるべく早く来るからと、身を切られるような思いで部屋を出た。看護師の『安定剤を出しますから落ち着きますよ。大丈夫ですよ』という言葉に頷きはしたが、その声は遠いところから聞こえているような気がした。
エレベーターの前で立ち止まって部屋を振り返る。
「花さん!! いやだ!!!!」
車に乗ってもエンジンをかけられなかった。
「課長……今病院を出たところです……」
「辛い思いを……しただろう」
「俺はいいです。俺は……退院してからどうするつもりですか?」
「俺が引き取るよ、面倒を見る」
「治る見込みなんか……」
「諦めない、お前が教えてくれたことだ。カウンセリングに連れて行く。会社にも少しずつ連れて行くよ。社会復帰させるんだ、古巣の中で」
「上手くいくと……課長! 上手く行きっこないよ! あいつ、まるで子どもだ。どうしていいか分からない……」
初めて味わった敗北感……どうにか出来ると思っていた……
「それでも俺たちは進むんだろう? 俺は進むよ、花。もう立ち止まらない。あいつの人生を終わらせる気は無いんだ」
「人生……」
「あいつに生きてて良かったと思わせたい。それくらい味わったって罰は当たらないだろう? そう思わないか?」
「俺……春に苺狩りに行こうって……一緒に行こうって約束しました……連れてってやりたい、美味しい苺、食わせてやりたい、腹いっぱい」
「じゃ、みんなで行こう。ジェロームを連れて行こう」
「はい……はい」
電話が切れてからもハンドルにつっぷしていた。大人になって、こんなに泣いたことはない。
携帯が着信音を狭い車内に響かせた。名前を見た。出るなり叫んだ。
「哲平さん!」
『ああ、びっくりした! なんだよ、いきなり叫んで。昨日家に戻ってたんだ。けどバタバタしちゃってさ、連絡が遅れた。課長には連絡したんだけど聞いてなかったか?』
課長はそれどころじゃなかったのだろうと思う。自分もそうだった。言葉が出なかった。ただ哲平の声が嬉しかった。
『どうした、花?』
「今……ジェロームの病院の駐車場です」
『そうか……ってことは横浜だろ? 会わないか?』
「哲平さん、勉強は?」
『俺がそんなにトンマに見えんのか?』
泣きながら笑った。
「だって、哲平さんだもん」
『なんだ、それ。じゃ、待ち合わせよう。お前車だから酒は無しな』
甘えたい、唐突にそう思った。入社したころのように哲平に構ってほしかった。
穏やかなジャズが流れるカフェに入った。
「逞しくなりましたね」
「大人になったと言ってくれ」
「いや、それは無いけど」
「こいつ! ……ジェローム、どうなんだ?」
深呼吸でもしなければ話が出来ない。
「見てらんない……あいつ、子どもになっちゃって……帰らないでって泣くんです」
「そうか……」
「哲平さん、あそこに踏み込んだでしょ? どんなだったんですか?」
「お前、聞きたいのか?」
「写真見ました、あいつの体の。模様が……性器んとこまで…」
「これ」
哲平がテーブルに滑らせた。携帯。
「俺、それ引っ掴んできちまったんだ、ヤバいかもしれないけど。写真、見てみろ」
「これ……」
「相田のだ」
息を呑む。最初の写真は椅子に座らされているジェロームだった。目隠し、猿ぐつわ。そのそばでにっこり笑う相田。自撮りだ。次はキス。ジェロームの苦しそうな顔と、カメラ目線の目が笑っている相田の顔。これも自撮り。そして、体に赤い線が入っているジェロームの体……何枚もある。その線がいきなり増えた。
最後の一枚は……その線だらけの膝が立たされていた、足を開かれたまま。根元まである赤い線。それを正面から撮ってある。吐き気が……
「哲平、さん……これ、どうする気?」
証拠隠匿罪。
「警察……ジェロームのこと、合意じゃないかって疑ってるって課長が言ってました。これがあれば合意なんかじゃないって証拠になる」
「合意だ? 笑わせる、俺が入ったときあの野郎は笑ったよ。綺麗だろう? ってさ。芸術なんだってほざいてた。その時にそれ持ってたんだよ。後先考えずに掴んじまったがな」
後先考えないのは哲平らしいけれど、花は不安に包まれた。
「見つからなかったの?」
「靴下の中に入れた」
「でも哲平さん、マズいことになる……」
「そうだな」
落ち着いている。コーヒーを一口飲んだ。
「どうすんだよっ! こんなこと、無事に済むわけ無いだろっ!!」
「息巻くな、花。これは心配すんな。警察に届けるよ。そしたらジェロームが少しでも助かるんだろ? なら迷うことなんかない」
「哲平さん……クビになる……」
「おい! 物騒なこと言うな。そんなヘマ、誰がするか」
「だって……」
哲平が笑った。あんまりあ開けっぴろげに笑うから何も心配要らないような気がしてくる。
「任せろって。それよりジェロームのこと、聞かせろ。ホントは俺も行きたいんだけど」
「今は面会人は俺と課長だけです。あんまり不安定だから見舞い増やすわけいかないんです」
「事件のこと、思い出してるのか?」
「いえ、記憶は曖昧みたいで。ひどく酔わされてたみたいです」
「あいつ……まるでうわ言みたいに呟いてたよ、ずっと。誰か助けてって。俺があいつぶん殴ってた間も警察が入ってきた時もずっとだ。助けてくれって」
花の涙が止まらない。
「おい、俺が泣かしてるみたいだろ? 周りが落ち着かなけりゃジェロームが置いてけぼりになる。花、笑うんだ。笑ってそばにいてやれ」
「俺……哲平さんじゃない……」
「あいつ、お前に懐いてるじゃないか。お前と話してるの楽しそうだったぞ。お前は笑ってなきゃだめだ。笑える相手をあいつに残してやりたいんだよ、俺は」
そうだった。自分にとって哲平は笑える相手だった。いつでもツンケンしている自分をからかって、ジョークの的にした。だから花も哲平に自分を曝け出すようになった。
「今度は俺が哲平さんになるの?」
「お前はお前だ。俺のような上等なジョークだって言えないしな」
思わず笑う。
「親父ギャグばっかりだってのに」
「お前はお前に出来る形で笑わせてやれ。きっとお前はあいつを救える。課長とお前のタッグなら出来ないことなんか無いさ」
あの時崩れかけた課長を見た。けれど今日はもう本来の姿に戻っていた。それは花にとっても救いだ、二人で支える事が出来る。
「課長と頑張る」
「頑張れ。俺の分も頑張れ。さすがにさぼり過ぎたからな。当分忙しい。手が空き次第そっちにも顔出すから」
「携帯……」
「大丈夫だから。余計なこと考えるな。今はお前は仕事とジェロームのことだけに専念しろ……あ、真理恵さん、忘れんなよ」
哲平と話せて良かったと思う。
(俺ももう一度頑張るよ。諦めません、課長!)
蓮は薬品メーカーの出退勤管理システムの次の案件に着手していた。それぞれのチームが今は目の前のことに追われている。だから一人でリサーチをしつつ、クライアントにも明日のアポを取った。大滝にはその足で病院に向かうと連絡した。
『いくら君でも無茶し過ぎだ。誰か今回のプロジェクトに人員を加えろ』
「いえ、まだ自分でやっていけます。ある程度の目途が立ったらチームに渡そうと思っています」
『4月は遠いな。後2ヶ月か、苦しい戦いになる。今年は仕事は追い風だがそれに乗る船の漕ぎ手が少なすぎる』
大滝は蓮の手元の人数が圧倒的に足りないことがよく分かっている。
「4月に期待しますよ。いい人材をください。タフなのを」
『最近の若いのは打たれ弱いんだよ。彼は……シェパード君は大丈夫か?』
「まだ何とも言えません。現場復帰はしばらく控えさせたいです。慣らしでリハビリ程度の仕事から始めさせようと思っています」
『彼のような人材がほしいな。動き惜しみをしない』
「基準をあいつにすると、見つかりませんよ」
ジェイが大滝の中で高い評価を得ているのが嬉しい。
病院の駐車場は混んでいた。やっと空いたスペースに車を止めた。受付を通って3号室に向かっている途中で高橋看護師に出会った。
「良かった! 河野さんでしたよね? すぐに病室に来ていただけますか? 先生は今外来が多くてシェパードさんに対応できないんです!」
「何があったんですか!?」
「それが……」
説明の無いままドアを開けた。
「シェパードさん、河野さんが見えましたよ」
「蓮! 蓮、待ってたよ!!」
高橋の顔を見た。
「朝からずっとあなたを待ってたんです。食事も取らないで」
今は2時だ。
「すみません、お手数をおかけしました。ちゃんと食事取らせますから」
「ごめんなさい、私もあちこち呼ばれてまして。今日はここにあまり人が入らなかったんですよ。だから寂しくなっちゃったのかもしれませんね」
高橋がいる間も、ジェイの手が蓮の腕にまとわりつく。
「じゃ、お願いします」
髙橋が出ていくと同時にジェイが蓮を引っ張った。
「蓮、蓮、俺の体、見る? きれいなんだ、とっても」
(え?)
「ほら!」
ジェイはあっという間に包帯をくるくると巻き取ってしまった。一面の傷は今は赤い筋となっている。まるで川の流れを描いたような桜色の浮かび上がった傷痕……
「ね! 綺麗でしょ! ここにまで模様があるんだよ」
下着を下ろして蓮に見せる。生々しいあの写真のグロテスクな血の色はもう無い。下着を上げてやる。包帯をまるで毛糸を巻くように一つの塊にしていく。ジェイはそれを熱心に見ていた。
花は、写真を見せられたジェイは酷くショックを受けていたと言っていたが……まるで初めて見たような反応に戸惑う。
「手を出せ」
「はい」
大人しく包帯を巻いてもらう。嬉しそうな顔に(構ってほしかったのか)と思う。
「ジェイ、あのな。今日は俺と一緒に違う先生に会うぞ。一緒だからいいだろう?」
「蓮と一緒? ならいいよ」
既に電話で山根医師と話していた。カウンセリングを受けさせようと。西崎弁護士が動いたおかげでジェイに直接刑事が来ることはもう無い。今朝も西崎から電話もあった。警察の捜査不足で、現場から相田の携帯が見つかったと。だからもうジェイが煩わされることもないだろうと。なら安心してジェイの治癒に時間が割ける。
昼食は温かいものが運ばれてきた。
「お前の好きな和食ばかりじゃないか。食わなきゃだめだ、俺を待たずに」
「蓮と食べたかったの」
最初に会った時よりも子どもになっている。確かこういうのを『退行』と言うのでは無かったか?
「美味いか?」
「うん!」
「ジェイ……お前、会社に行きたくないか? 花が一人で大変な思いしてるよ、相棒がいないからってさ」
「行く! 花さんと仕事する!」
「出来そうか?」
「出来るよ、仕事くらい」
呆気なく仕事の話を受け入れたことに驚く。
「それからな、蓮って呼ぶのは二人きりの時だって約束したろ?」
「……そうだった。ごめんなさい、俺、忘れてた」
「いいんだよ、今度から気をつけような」
食後のゼリーを食べながらにこっと笑った。
ノックがあって高橋が入ってきた。
「カウンセリングの先生のところにご案内しますね。車椅子、乗る?」
「蓮……課長と歩く」
「じゃ、ご一緒にどうぞ」
その部屋は6階だった。エレベーターを降りたところから穏やかな曲が流れている。柔らかなソファに座って呼ばれるのを二人で待った。時々包帯を外そうとするジェイをたしなめる。
「ジェローム・シェパードさん」
「はい!」
元気な挨拶。これを具合がいいといっていいのかが分からない。
「どうぞ、座ってください」
優し気な女性だ。40代前半だろうか。長いふわふわした髪を後ろで束ねていた。にこやかで不思議な魅力を持っている。
「先生、お名前は?」
「あら、ごめんなさい。私は友中康子っていいます。『ともなか やすこ』 あなたのお名前は?」
「ジェロ―ム………言いたくない」
「あら、知っているのね? 誰にも言わないから教えてちょうだいな」
「……シェパ―ド。それ言うと犬になるからあんまり言いたくない……」
友中が蓮を見上げたから、小さく頷いた。子どもの頃のトラウマだ。
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