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J (ジェイ)の物語」

第一部
9.かけがえのないもの -1

 途中、コンビニでいろいろ買って後は真っ直ぐマンションに向かった。

「こんなことで休んでいいのかな」

 確かに[こんなこと]だ。しかし、まだ顔が赤い。心なしか、呼吸も早いように見える。

「その状態で会社に戻ってもみんなが心配するだけだ。まぁ、今は仕事も大したことないないから休養しとけ。毎年新入社員はこの時期になるとへばるんだ。お前が休んだって誰も何も思わないさ」

 ジェイはホッとした。まさか、蓮とのセックスが原因で具合悪いとは言えない。それも、体が火照るからなんて。

「キスしたいとこだけどまた変な妄想しちゃ困るからな。このまま行くよ。ちゃんと食えよ」

 真っ赤なジェイににやっと笑うと蓮は出て行った。

 不思議だ。一人になった気がしない。周りを見れば蓮の物がほとんどで、部屋には蓮の匂いがする。安心したせいかどっと疲れが出てきた。蓮の言った通り、入社した気疲れが出てきたのかもしれない。
 ジェイは(ほんのちょっと)と思いながら、ベッドに横になった。ベッドには蓮の匂いが色濃く残っている。蓮の枕を抱きしめているうちにすっかり眠ってしまった……


 ふと目が覚めると窓の外は少し薄暗くなっていた。帰ってきたのは2時近かったと思う。汗をかいていた。ちょっと部屋は冷やっとして、汗の後がザワッとする。起き上がるとまた体が熱いような気がして、どうかしてる と思いながらバスルームに向かった。セックスの後ってこんなにいつまでもだるいものなのかと思う。

 シャワーを浴びてもすっきりしない。
(喉渇いた)
 冷蔵庫を覗くとさっき買ったいろんな飲み物が入っている。スポーツドリンクを手に取って、ドアを閉めようとした時にそれが目に入った。ビール。蓮の言っていたことを思い出す。

『その内それが美味くなるんだ。スキっとするようになる』

 さっきからなぜか気分が悪い。もやっとする違和感を感じている。スポーツドリンクをしまって、ビール缶を取り出した。
(苦かったけど)
 手の中の缶はひどく冷たくて心地良かった。思い切って開けてみた。ビール特有の匂いが、冷えているせいで抑えられている。何となく美味しそうな気がした。このもやもやする胸をスッキリさせてくれるかもしれない。少し考えて、ごくごくごくっと3分の1ほど一気に飲んだ。ちょっとずつ含むよりもその方がいいような気がして。

(苦っ!!)

やっぱり苦いのは変わらない。
(ホントにスッキリするの?)
残りをどうしようか考えて、結局流すことにした。冷蔵庫に入れておくわけにもいかない。


 さっきより喉から胸にかけてもやもやが増えている。ちょっと座ってみた。
(目が回る…)
いくら酒に弱いとはいえ、たったあれだけのビールでもう酔ったとは思えない。酒を飲むあの感じは好きだった。ふわふわとして気分が楽になる。けれど、さっきのビールはあまり心地良さをくれない。

 徐々に気分の悪さが増してきた。ベッドに横になってみる。その頃には悪寒がし始めていた。慌てて立った。トイレに飛び込んで吐き出した。ビールのせいもあったが、その前から気分は悪かった。ビールはその止めを刺したと言っていい。
 寒い。震えが起きる。けれど気持ちが悪くてまだ吐きそうだ。
(れ……ん……)
 そのままジェイはトイレのドアの脇の壁にもたれこんだ。

「いや、今日はちょっと……」
「珍しく連休は全部休むんだろう? いいじゃないか、一杯つき合え」

 大滝部長は押しが強い。だからこそ今の地位にいるのだが。近々常務になるらしいと噂も飛んでいて、それがほぼ確定なのを蓮は知っていた。
(参ったな、よりによってこの人に掴まるなんて)
もう7時半だ。

「今夜はちょっと用があって」
「分かった、じゃ30分くらいでいい。明日から休暇でカナダなんだよ。次のプロジェクトの話をちょっと聞きたいだけだ」

 正直、連休の前にするような話じゃない。しかし仕事絡みとなれば無下に断るわけには行かない。少なくとも大滝部長は自分を買ってくれているし、いい上司だ。この上司の元でずっとやってきた。

「じゃ、少しだけ。申し訳ないです、本当に今忙しくて」
「分かってる、そんなに時間を取らない様にするよ」

 そこから2時間だった。大滝の話の主軸はプロジェクトではなく、新人が入ってからの部署の動向や新年度の事業計画などだった。
『これからの経営戦略に対する意見をざっくばらんに言ってみてくれ』
そんなこと、この時間からざっくばらんに言えるわけがない。普段ならいくらでも大滝と話し込む蓮だが、今日は何とか上手くあしらって席を立とうと必死だった。車で帰るからと酒だけは断った。

(ジェイが待ってる。心配しているかもしれない)

 途中でトイレと断って席を立った時に電話をかけてみたが繋がらない。仕方なくメールを出した。

『ごめん、大滝部長につき合わされてる。もう少しかかるからちゃんと飯食っててくれ』

 メールには返事が来なかった。相変わらずの大滝部長の豪快な笑いを聞き、相槌を打ちはしても話はさっぱり耳に入ってこなかった。やっと時計を気にした部長にタクシーを呼んだ。そのタクシーが見えなくなるまで見送った。

 時計を見る。もう10時に近い。止まってくれないタクシーに手を上げながら何度も電話した。一度車を取りに会社に戻らなくてはならない。連休に入るから車が必要だ。
(寝ちゃったのか? 少し具合悪そうだったし)
なら一刻も早く帰ってやりたい。やっと捕まえたタクシーに行き先を告げ、もう一度電話をかけた。


 下から見上げた自分の部屋には明かりが点いていなかった。どうしたんだろう、本当に具合悪くてあれきり寝てしまったのか。ジリジリとエレベーターを待ち、いいや! と6階まで駆け上がった。ドアを開け、声をかける。

「ジェイ、帰ったぞ。ジェイ」

 電気をつけ、ジェイの姿がどこにも無いことに慌てた。いや、鍵はまだ渡していない。ロックされていたんだから中にいるはずだ。ベッドには確かに使った跡がある。

「ジェイ?」

 後はトイレだけ。そして、そこにジェイはいた。もたれていた壁からはとっくにずり下がり、床の上に伏せるように倒れていた。

「ジェイッ!  おい、ジェイッ!!」

 抱え上げると火がついたように体が熱い。

「かあ……ぐあい……」
「ジェイッ、俺だ! 分かるか!」

 胸に抱く体が燃え上がるようだ。うっすらと目が開く。

「……れん?」
「ああ、悪かったな、すっかり遅くなって。どうしたんだ、あのままここにいたのか?」

 なるべく何でもないことかのように言いながら体に腕を回して何とか立たせた。

「ベッドに連れてってやる。俺にもたれてりゃいいから」

 たいした距離じゃない。そうは思ってもジェイはしっかりした体をしている。運びながら(鍛え直さないと)と心底思った。恋人を守れないような自分ではいたくない。

 そっとベッドに下ろしてバタバタと用意した。氷枕を出す。着替えを置いた。水に解熱剤。体温計。まずは着替えだ。

「ジェイ、聞こえるか? 着替えよう、このままじゃだめだ」

 聞こえたのか聞こえないのか、それでも手がゆっくり上がってきた。

「よし、ちゃんと面倒見てやるからな。お前は何もしなくていいから」

 一緒に暮らすことにして良かった。もし一人でこんなことになっていたら…… 手早く脱がせて体を拭きながらそう思った。きっとこういうことが何度もあっただろうに。自分のパジャマを着せながら思わず抱きしめた。

「これからは俺が一緒だ」

 熱を測って、尚焦った。40.2℃。なぜ気がついてやれなかったんだろう。あれは夕べのことを思い出したからじゃない、本当に具合が悪かったのだ。解熱剤は飲ませず迷わず7119に電話した。

「すみません、今診てもらえる病院を探しています。出来れば内科で。熱が40.2℃あります。車があるので多少離れても大丈夫です」

 こんな時には7119が頼りになる。迅速に対応出来る病院を調べてくれる。幸い車で20分ほどのところに救急病院があることが分かった。

「待ってろ、支度するから」

 聞こえていないかもしれないが、声をかけずにいられなかった。手早く私服に着替え、タオルを持った。

「ちょっと待っててくれ」

 鍵もかけずに階段を駆け下り、車を真下に回した。今度は駆け上がっていよいよジェイだ。自分にもたれさせて大きめのジャンパーを着せる。

「さ、行くぞ」

 それはどっちに言っているのか分からない。気合いを入れないと車まで運べない。

「れ……ん?」
「分かるか? 良かった、今病院に行くぞ。頑張って歩いてくれるか?」
「うん……ごめ……」
「謝ることじゃないんだ。気にするな」
「バイト……行かない……と」
「バイト?」
「ご……かあさ、ごめ……」

 その頃のジェイの生活が見えてきた。病死だと聞いていた。だから入院した母を世話しながらバイトへ、大学へとジェイの世界はたったそれだけの空間しかなかったのだ。

「病院に行こうな。ゆっくり休もう。お前、疲れたんだよ」

 自由にしてやりたい、身も心も。たくさんの幸せに溺れさせてやりたい、我が儘を言わせてやりたい。

 夜中なのに救急外来はずいぶんと混んでいた。急に具合悪くなった子どもたち。ケガをして駆け込んできた若者たち。交通事故らしいストレッチャーに乗った患者の脇には警官が立っている。

(これじゃずいぶん待たされそうだ)

 待合室の壁側の席に、自分にもたれさせてジェイを座らせていた。手摺りが邪魔で寝かせられない。肩越しにも熱と苦しそうな息が伝わってくる。汗を拭いてやりながら、冷たい水でも買って来るんだったと後悔する。
 ジェイの体がともすれば崩れていきそうで手で支えてやるが、そろそろ座らせているのも限界かと思う。

「すみません!」

 ちょうどそばを足早に通り過ぎようとした看護師に声をかけた。

「はい?」
「もう1時間近くも待ってるんです。熱が高いんですが何とかなりませんか?」
「ごめんなさいね、ちょうど近くで事故があったものだから」

 中堅どころのハキハキした看護師だ。パッとジェイの顔を見て眉を寄せた。すぐそばに来た。その顔に蓮はドキッとした。

「あの、良くないんでしょうか?」
「ちょっと感心しないわね。待っててください、空きのベッドを確認してきますから」

 その後ろ姿を見ながら愛しい者の肩をぎゅっと掴んだ。額に垂れている汗に濡れている巻き毛をかき上げてやる。

「苦しかっただろうに。いや、今も苦しいんだろうな……早く帰ってやれなくて悪かったな……」

 ひっそりと暗くなっていくあの部屋で壁にもたれて自分を待っていた……そう思うと自分が苦しくなってくる。そして、昨日見たあのアパート。つけてもぼんやりした蛍光灯だった。掃除は行き届いていてきちんと片付いていた。曇りガラスの窓。古びた畳。剥げかかっていた壁紙。染みの付いた天井。
――あそこで独り、2年を過ごした
 面接で見せたあの鋭い口調の元はきっと怒りだ。抗うことの出来ない、自分を取り巻くものに対する怒り。


 さっきの看護師が車椅子を押しながらやってきた。

「向うにベッドが空いていたのでそっちに移しましょう。横になればちょっとは楽になりますよ。もう少しだけ待っていただくけど順番を早めておきましたからね」
「ありがとうございます! 助かります」
「弟さん?」
「はい」

 咄嗟にそう答えた。他人となれば診察室に一緒に入れないかもしれない。

「今日はラッキーよ。とてもいい先生なの、こんなこと言っちゃいけないんだけど。だからこっちに来てくれると思うわ。私からも伝えておくのでここで待っていてくださいね」

 氷枕まで用意してくれた。ジェイの顔を見るとさっきよりも苦しくはなさそうだ。

 さらに15分ほどしてカーテンが開いた。

「ずいぶん待たせたね。どれ、診てみようか」

 年配の医師だった。見栄えはパッとしないがジェイを触る手つきは優しく、まるで子どもを診察しているみたいだ。

「お兄さん?」
「はい」
「これは風邪だね」

 それを聞いてほっとした。なんだ、風邪か。

「ま、訳の分からん症状を総じて『風邪』という言葉で医者は片づけるんだがね」
「え、じゃ何か重い病気なんですか?」
「そうじゃない、ただそう聞いたからと言って油断して欲しくないだけだよ。みんな風邪と聞くと気が緩むからね。熱が高過ぎるから点滴を受けてから帰りなさい。かなり楽になると思うよ」

 夜中に目が覚めた。息が熱くて苦しい。
――みず、のみたい
頭が持ち上げられて冷たいものが口に付けられた。開くと冷たい水が少しずつ入って来る。

――ああ おいしい
「そうか? 良かった、少しでも飲まないとな」
――れんのこえがする
「ここにいるよ」
――どうして? どうしてれんがいるの?
「俺の家だからな、いて当り前だろ?」

――おかしい、さっきから思うことに返事がある。

「お前、ちゃんと喋ってるよ。俺、お前の隣にいるんだぞ」

 横を向くと蓮がいた。グラスを持ったまま座っている。
「れん?」
「少しは楽になったか? 病院に行く前より熱は下がってるな。それでもまだ39℃近くある」

 頭を撫でてくれた手が頬に留まった。目を閉じる。

「気持ちいい 俺、どうしてここに」
「昨日から一緒に暮らしてるだろ? 忘れたか?」

 そうだった、大事な事なのに忘れている。

「うん。俺、れんと暮らしてる」
「欲しいもの、あるか?」
「ない」
「そうか……水、もう少し飲むか?」
「うん」

 2口ほど飲んで満足した。喉に通っていくのが分かるほど冷えていた。本当のことだと確認したくてそばにある足に抱きついてほっとする。

「おい、そんなもんで満足するな」

 蓮がジェイのそばに潜り込んで体を抱き寄せた。

「こうしてるからもう少し寝てろ。朝になったら起こしてやる。薬飲むのに何か食べないといけないしな」
「かんびょう?」
「ああ、そうだよ。お前のナースだ。特別だぞ」

思わずジェイに笑いが浮かんだ。

「保健室の先生みたい」

 返事が出来なかった。看病で思い浮かぶのが保健室の先生…… それきり静かになったから眠ったのだと分かった。蓮はそのまま朝まで眠れなかった。

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