J (ジェイ)の物語」

第三部
1.受難 -1

 怒涛のような9月だった。田中はチームのメンバーへの引継ぎに追われた。10月は目の前だ。中山良二に全面的に仕事を任せた。蓮が田中に途中から業務を任せたように中山に後のことを託した。
 中山は温厚だが仕事については譲らない所がある。声を荒げることも無い。けれど蓮の言う『芯』となるものがある。

 哲平は身辺整理に時間がかかった。何せいろんなものをデスクに持ち込んでいる。とうとういくつもに分けた宅急便で自宅に送った。溜息をつくのは千枝。
「どうせ私が片づけることになるんだわ。要らないと思う物は全部捨てちゃうからね!」
 その頃にはもう哲平と千枝のことは部内に知れ渡っていた。仲がいいんだか悪いんだかわからない。口を開くと千枝が哲平を叱り飛ばしている。
「もう哲平の夢見ていた『亭主関白』は遠い夢だな」
 池沢の笑いに哲平は憤慨して言い返した。
「今だけですよ! これからは、ビシッ! とやっていくんですから」
「哲平さん、最初がこれじゃもう無理じゃないの?」
「お前、人のこと言えんのか?」
「俺? 俺に逆らえるもんならそうして欲しいね。手応え無くってちょっと物足りないんだから」
「どうやら花んところは亭主関白みたいだな」
 池沢の顔に不服そうな顔だったが、そこに千枝が来たから哲平は黙ってしまった。

 

 営業一課の坂崎課長がごねすぎたお蔭で話はとんとん拍子に進んだ。澤田の大阪行きは流れた。三途川の人事も流れた。トラブルの元にしかならないだろうという判断だった。
 人事部長は地下の施設管理部長となり、塩崎は辞表を提出。交際費で不始末を犯した面々は給与を半年減額。人事部は3月まで大滝部長預かり。新入社員の採用については大滝が一任された。

 10月からR&Dを抜けるのは田中だけではない。1月から横浜支社での研修だったはずの哲平はやはり10月からの研修となる。理由はただの海外勤務ではない、課長補佐として行くことになったからだ。哲平の向上心が買われた。知識への貪欲さも物を言った。
「俺、夢みたいだ」
「お前ならやれるさ。帰って来たら俺のライバルだな」
 蓮の言葉に武者震いが起こる。
「俺が課長のライバル?」
「ああ、だからうんと頑張って来てくれ。期待してるぞ」
 実は池沢にも課長補佐の話は来ていた。しかし自分にはまだ早いと辞退した。大滝部長は池沢に半年の猶予を与えた。
『その後は四の五の言わせない』
それが大滝の言葉だった。

 田中の後任には横浜支社の開発チームから|相田《あいだ》|圭祐《けいすけ》(31)が来ることになった。これにはチームの柏木壮太が過敏に反応した。柏木は横浜から2年前から異動してきている。
「あの」
「どうした?」
 柏木の言い淀むのに田中が聞き返した。
「相田さんが来るんですよね」
「なんだ、知ってるのか?」
「やり手と言えばやり手なんですが……」
「なんだ、はっきり言え」
「多分ここ、引っかき回されますよ」
 田中が顔をしかめた。
「クセのあるヤツなのか?」
「ええ。少なくとも俺は上手くやっていく自信、ありません」
 驚いた。柏木は人の好き嫌いを言ったことがない。課長の耳に入れておくべきだろうか。しかし先入観を持つことがどんなに危険な事かも、今の田中には分かっている。それに田中には河野課長への絶対的な信頼というものがある。どんな苦境にも立ち向かい、それを糧として吸収していくその姿に。
「お前から見て何か感じた時には課長か野瀬、池沢に相談しろ。いいな、しまい込むな」
 柏木は頷いた。そして柏木は肝心なことを飲み込んだ。
(ここではそんなことが無いかもしれない)
 相田は恋愛沙汰でトラブルを何度も起こしていた。ただの恋愛ではない。それでも職責を危うくするようなものには発展しない。相手が公にすることを拒否するからだ。
(ここにはそういう対象になる相手はいないはずだ)
 そして、それがジェイを苦しめることになっていく。

「毎日バタバタしてるよね。蓮、疲れてない?」
「書類仕事ばかりだからなぁ。うんざりする」
 その程度の会社の話ならするが、突っ込んだ話や蓮の立場が絡む話は避けるようになった。ジェイはいろんなことを覚えた。真剣に物事に向かう姿こそ自分を救うのだということも、今回のことで実感した。

 

 嘆願書は特に互いに声掛けしたわけでは無かった。
 あの月曜の朝、田中は野瀬と池沢に昇進を蹴るかもしれないという話をした。河野課長が降格されて自分が課長に昇進するわけにはいかないと。それを聞いて野瀬が言った。
「そんなことさせませんよ。そんなふざけた話、俺たちで潰してやればいいんだ」
「潰す? どうやって?」
「池沢、俺はたいして失うものは無い。まだ扶養家族もいないし、おまけに実家は八百屋だから帰ってそれを継いだって構わない。だから部長宛てに抗議文を書く。課長を引きずり落とそうっていうのなら俺はストライキでも何でも起こしてやる」
 打ち合わせで蓮が離席していたこともあって、その話はあっと言う間にオフィスの中に広がった。誰もが勢いに任せペンを持とうとした時に池沢が待ったをかけた。
「みんなの気持ちは分かる。だがこの中には家族を持つ者、仕事を辞めたり新たな処分の対象になる訳にはいかない者もいるはずだ。これを書いたからと言って事態が好転すると決まってるわけじゃない。それぞれ自分の抱えている事情を優先しろ。これは一種の反乱なんだからな」
 それを聞いてすぐにペンを走らせたのは和田秀雄だった。
「和田、お前んとこ、子どもが出来たばかりだろ! 書かなくていいんだ、家族のことを考えろ」
 和田は照れたように頭を掻いた。
「課長ね、出産祝い真っ先にくれたんですよ。なんだったと思います? 池波正太郎の本、全巻。いつかこれを読んで欲しいって、ウチの息子に。笑っちゃいますよ、それ、今俺が読んでます。課長は期待すんの好きだけど、ウチの赤んぼにまで期待して欲しかないですよ。でもそれ、平気でする課長が俺は好きです」
 迷った者もいた。これを書くことで生活が困るかもしれない。何人かは書かなかった。
「お前たち、引け目に感じるなよ。しょうがないんだ、生活かかってるんだから。書いた者も自己責任だ。覚悟が無かったら出すな」
 野瀬の言葉は書けない者をほっとさせた。ジェイは池沢の言葉を思い出していた。
『戦う課長を独りにしない。俺たちの壁になってくれる課長を後ろからみんなで支えるんだ』

 

「俺も蓮を見習うんだ。なんでも一生懸命にやってれば認めてもらえる。それがよく分かったから」
 蓮の腕枕でそう話すジェイの頬を撫でた。
「でも無理するんじゃないぞ」
「無理する蓮に言われても説得力無いよ」
「この頃のお前、生意気だ」
「蓮に鍛えられてるからね」
 そう言って笑うジェイにドキリとする。性の営みのせいか、香り立つ色気を放ちつつあるジェイは中性的なものを感じさせる。
「なに?」
「いや、あまり人に笑顔向けるなよ」
「なんで?」
「お前……そうだよなぁ、自覚あるわけないしな」
「なんの自覚?」
「いいよ、まだ分かんなくて」
 そのまま抱きしめて口付けた。まだジェイは子どもだ。そう思っている。体は開花し始めていても精神は素直な子どもなのだ。手元にいる限り心配は無い、守っていける。

 素直で純粋。今までそこにつけ込んで来た者はいなかった。蓮はジェイの足元に大きな黒い穴が広がり始めていることをまだ知らない。

 初めて相田に会ったのは転任の挨拶に来た時だった。遠目で見ていた。
「あの人は?」
「10月から田中チーフの後任で来る相田さんだ。やり手だって聞いてるよ」
 池沢の説明にみんなも課長と話をしている相田の方へと目が向いた。ちょうどこっちを向いた相田とジェイの視線が合った。
(印象的な目の人だ)
そう思った。じっとジェイの目を見たその顔がにこりと笑った。思わず釣り込まれて笑って返す。その『にこり』が蓮の方に向き直る瞬間違う笑いになったのを見た者は誰もいない。

「せっかく来たので皆さんに挨拶して行きたいんですが」
「ああ、構わない。君のチームは5人だ。みんな気のいい連中で仕事熱心だ。よろしく頼む」
「はい、分かりました」

 しばらく田中チームと話をする相田の様子につい目が行った。視線を感じたのか、またこっちを向いた相田と目が合う。チームの様子はわいわいと明るい。
(楽しそうな人で良かった)
 その相田が真っ直ぐこっちに向かって歩いてきた。
「相田と言います。今度田中さんの後任でお世話になります」
「池沢です。ここは居心地がいいと思いますよ。上司がしっかりしてますからね、仕事がしやすいんです」
「そうですか。ずい分気難しそうな人に見えますがね」
「すぐに分かりますよ」

 池沢と挨拶をしていると思ってパソコンにデータを打ち込んでいたところを、肩に手を置かれた。いきなりでびくりとした。

「あ、ごめん、邪魔しちゃったかな」
「いえ、大丈夫です」
「えと、君は……」
「ジェローム・シェパードと言います。ここでは一番新米なんです」
「そうか。ハーフ……なのかな?」
「え、ええ……」
「見事な髪だね。天然?」
「はい……」

 なんだか違和感を感じた。どうして自分にこんなに関心を持っているんだろう。それより早く手をどかして欲しい……
「俺、宗田花と言います。よろしく」
 花が手を差し出したからジェロームの肩から手が下りた。ホッとした。肩に置いたというより、ちょっと掴まれたような気がする。でも気を回し過ぎかもしれない。何しろ初対面だ。そのままキーボードに手をやる。
「じゃ、また改めて」
 軽くだがまた肩に手を置かれた。またピクリと反応したジェイに相田は優しく微笑んで蓮の元に戻って行った。

「ジェローム」
「はい?」
「俺、あいつ何だか気に食わない」
 花がはっきり物を言うのはいつものことだが、自分もちょっと肌がざわつく感じがしていた。でも会って間もない相手を好きだ嫌いだと決めつけるのは良くないとも思う。
「まだ良く知らないし。明るくていい人そうだけど」
「ああいうのでいい人そうに見えるヤツって碌なのがいないんだよ」
 花は花で過去を思い出していた。自分に絡んできた、下卑た笑いを浮かべた連中に似たものを相田に感じる。ジェイの肩に置いた手つきが性的なものに見えた。

「ジェローム、今度時間作れよ。俺が合気道教えてやる」
「合気道? 俺に出来ますか?」
「子どもだって女性だって出来るんだ。お前ならすぐに上達するよ」
「しばらくは忙しいんです。免許も年内に取るつもりだし」
「そうか。手が空いた時にでも教えてやるよ。必ず役に立つから」

 チームの末っ子。花もそう思っている。ジェイに気を配ってやれるのは、哲平がいない以上自分か三途川しかいないとも。
 外見のせいでいろんな目に遭ってきた。おぞましい目にも。だからこそ自分は合気道に打ち込んだ。明るくて素直な目をしているジェイを守ってやりたい。それは蓮とはまた違う思いからだ。
 初めて見た時のジェイは昔の自分を思い出させた。殻の中に閉じこもっていれば安全なのだと信じていたころの自分。その殻を哲平の率直さが、いとも簡単に壊してくれた。直情的で笑えるほど単細胞の哲平。いつの間にか自分には欠くことの出来ない存在になっている。哲平のように自分の後輩を支えてやりたい。そんな気持ちが花の中に育っていた。