short stories

​独りじゃない
 病院のベッドから窓の外を見る。
「今日は雨だ……」

 8階の白い壁に囲まれた自分に見えるのは、空。太陽が憎らしいことも青空から目を背けることも、とうに過去になった思い。

『家に帰ってもいいんだよ』
『真っ白な壁じゃ詰まらないでしょう』
『音楽とか、DVDプレーヤーとか……』

 どれにも首を横に振った。
(だから? だからどうなるって言うんだ?)
ただ八つ当たりをしたかった。

 ぶつかって来た小さな女の子。その真横を突っ走った自転車からその子を守ろうとした時、横断歩道に傘が飛んだ。
(傘が……事故になる!)
 ちょうど青信号になった横断歩道を走った。右折してきた車の運転手の目が、広がったまま転がる傘を追いかける。減速はしたけれど走ってきた少年には気がつかなかった。弾き飛ばされた体は、大きく跳んで縁石に首から叩きつけられた。

 全てがあっという間だった。信号が青から赤になるまでの出来事。


  女の子がぶつからなかったら
  自転車があんなスピードで来なかったら
  傘が飛ばなかったら
  車の運転手が前を見ていたら
  雨じゃなかったら
  風が吹かなかったら

④木.jpg

 たくさんの『たら』の中で溺れるように3年をここで過ごし、去年から少しずつ自分が変わって来たのを感じる。

 それは通い続けてくれるもう10歳になったあの女の子のお蔭でもなく、時に何かを持って見舞いに来るあの運転手のお蔭でもなかった。

 

 空が愛しくなった。変わらずに光を届け、雪を届け、様々に変化する雲を見せてくれる。窓を伝うあの日のような雨の雫さえも、今はただ愛しい。


 風が、届く。この窓を開けない8階の部屋に。近くに伸びてきた木の枝が、「風が吹いている」と教えてくれる。この頃はそんな会話ができるようになったのだ。目を開ければその緑が変わらずいてくれた。

 


『要る物は無い?』
『無いよ』
『あんまり来れなくてごめんね』
『いいよ。仕事忙しいんでしょ?』
『父さんも……』
『いいって』

『いいって!』

前はその言葉は荒々しい響きを伴っていたのに、今はそんな気持ちは生まれない。

 4つ下の弟が受験で、今の家の中はそれを中心に周っている。そんなことくらい知っている。 母が「ごめんね」の言葉を残して面会時間いっぱいいなくなったのは弟の世話があるからだ。高校教師の父の週末の面会が減ったのも、弟に勉強を教えているからだ。仲がいい弟は頑張っている。

 

『兄貴の分も頑張るからね』

 

 負けず嫌いだった自分は、もう誰かに代わりに頑張ってもらうしかない。動かせるのは目や口。そんなもんだ。 涙が零れても拭いてもらうしかない。耳のそばが痒くなっても人が来るより痒みが消える方が先だ。

『ねぇ、家に……』
『俺がさ、帰らないって言うのを知ってるでしょ。もう言わなくていいから。帰ったって母さんが大変になるだけだって知ってる』

 生命保険と傷害保険。障害者年金と事故の賠償金。自分がここにいても誰も困らない、いや、いた方が誰にも迷惑をかけないのだ。


 頭もとっくに坊主にしてもらった。手がかからなくていい。誰かの手を煩わせたくない。最初の頃は僻ひがんで、そして次は諦めた。けれど今は心が静かだ。

「今日は風が無いの?」
木に話しかけてみる。するとほんのわずか、そよりと動いた。
「ははっ、それくらいの風はあるんだね! じゃさ、太陽は? 今日のお日様は暑い?」
緑の葉がきらりと輝く。
「良かった! じゃ今日も元気に過ごせるね」

 

 あれは自分だと思う。動くことは叶わず、ただそこにいて全てを受け入れる。諦めるということすら見せず、ただそこにいるのだ。

 カーテンを閉めることだけを嫌がった。それは耐えられない。たまに雷が鳴ると嬉しかった。それは空からの贈り物だ。

「雷、平気? 怖くない? 俺は雷好きなんだ。あんたは?」
天気が悪いから枝が ぶん! と動く。
「そうか。嫌いかぁ。そこは意見が合わないね」

 


 ある日、夢を見た。高いところに自分がいる。

(ここは、どこ?)
「私の上だ。お前は私にどっかり座っている」
「そうなの!? ごめん、どうやって下りたらいいんだろう」
「いい。そこにいていい」
「このまま?」
「そうだ。それより周りを見てごらん」
「無理だよ、動けないんだから」
「いや、できるはずだ」

 恐る恐る首に力を入れる。驚いたことに力など要らなかった。思う通りに体が動く。

「すごい……」
驚きすぎて、呟くことしかできなかった。
「いつも話しかけてくれる。私は風に乗って答えることしかできない。だからこうやって話そう」
やっと気がついた。これは、あの木だ。自分の大事な友だち。
「長いこと独りだった。お前だけが私にちゃんと話しかけてくれた。だからお前に答えたい。そう思った」

 なぜか涙が流れ、それを手で拭っていた。その濡れた手を見る。
「俺の……手だ」
「そうだ、お前の手だよ」

 そこで目が覚めた。何度かそういう会話ができた。

 

 


「今日は気分がいいみたい?」
「はい、すごく」
「そう! 良かったわ。じゃ、体を拭くわね」
「お願いします」

 もう恥ずかしくもない、毎日のことだから。第一脱がされているのも感じないし拭かれているのも感じない。

「今日からお薬が変わるの。眠くなる時間が増えると思う」
「そうですか」

 それは嬉しい。話す時間が増える。そして、少しずつ眠る時間が増えていった。

 


 目を開けると母がいるようになった。週末にはちゃんと父が来る。たまに弟も。けれど木と過ごす時間の方が多くなっていく。そして、目を開けると誰かがいた。

「起きた? 今日はみんなで来たのよ。ほら、あなたの好きなチョコレートケーキ。誕生日、おめでとう」
「あれ? そうだっけ?」
少し声が掠れている。
「兄貴、20歳おめでとう! もう酒飲めるよね。点滴に少し入れてもらう?」
弟らしい冗談だ。けれどいつもより声がとても優しい。
「そうか、成人したのか。だからみんな来てるの?」
「……そうよ、お誕生日だから」
「一口、食べたい」

 スプーンが慎重に口に入ってくる。好きな味のはずなのに少し苦い。
「味、変わった?」
「え、そう?」
「ちょっと苦くなった」
「ごめんなさい、それお薬のせいなの。それで苦く感じるのよ」
看護婦の言葉に納得する。
「もう一口食べてみない?」
「ううん、もうお腹いっぱい。ごめんね、眠いんだ」
「……ええ。そばにいるから。だからゆっくり寝て。でも…お願い、目を覚ましてね」

(変なこと、言うなぁ)

 

「こんばんは」
「こんばんはって、さっきは明るかったよ」
「もう夜なんだ、覚えてないか?」
「そうだった?」
「ここに……もうずっと居ていいんだ」
「居る? だめだよ、帰らないと。母さんが言ってたんだ、目を覚ましてって」
「そうか。私はね、お前に感謝してるんだよ。独りの私に寄り添ってくれた」
「俺も独りだから」
「お前は独りじゃない。気がついたんだろう? 憎まなくても当たらなくても誰かが来てくれるんだと。独りでいたくないと思えるようになったんだ。だから私にずっと話しかけた」

 そうだったんだろうか……自分は寂しかったんだろうか。
「だから私も寂しいという意味が分かるようになった。お前が望めばいつまでも一緒にいる」

 


 目が……覚める……

「起きたのね? ああ、神さま! ありがとうございます!!」
「どうしたの? 母さん。あれ? まだみんないる」
さっきより声が掠れ、喋りづらいのがもどかしい。
「いるよ、ばあちゃんも来たよ」
「父さん、誕生日、だからって、大袈裟だよ」
息が切れる。
「そんなことあるか! お前の…お前の誕生日にみんなで一緒にいるんだから」
「ばあちゃ、そこ?」
「ああ、ああ、ここにいるよ。手を握ってるんだけどね……」
「ごめ……ね、分から、ないんだ…おかしいな、喋って疲れた……眠い……」

 


 また目が閉じる。そこには木が待っていてくれた。

「来たか」
「ここから街を眺めるのが好きだよ。……ちゃんと声が出る。さっきまで掠れてたのに」
「夢だから。どうだ? また帰るのか? 私はお前を独りにはしない。安心していいからな」
「ありがとう。でも独りにはならないから。今日はばあちゃんも来てるんだ」
「……良かった。じゃもう一度起きなくちゃならないな」
「また来るよ、寝てる間なら」


「ばあちゃん! 目が開いたよ! 父さん! 母さん!」
「どう……したって、いうの、」

 声が思うように出なかった。

「ごめ、……こえ、が……」
「いいんだよ、無理するな。ここにいるから」
「父さ……なんで、まだ……」
「悪かったな、悪かった……もっと来れば良かったのに。悪かった……」
「泣い……、てるの」

(どうしたの? 何か悲しいの?)
 もう、声が出ない。口は開いているはずなのに。声を出さないと心配する。そう思いながら、ふわりと眠くなる。

「母さ……」
声は聞こえたんだろうか。なぜか母の耳に届いていてほしい、そう思った。

 

 

 


「……ここの風は気持ちいいね」
「そうだよ。お前の好きな空も良く見える。風も雨も太陽も。全部お前と一緒に味わおう。ずっと話をしてくれるのだから」

 木がちょっと傾いた。その先に自分が寝ていたベッドが見える。

「俺の部屋?」
「お前の部屋だ」
「母さん……泣いてる、父さんも。どうしてみんな泣いてるんだろう」
「お前のことが愛しいからだ。これからは私がお前を包んでいくよ。私ができるのはそれだけだが」

 


なんとなく分かったような気がした。けれど心は穏やかだった。

「でも……そんなに辛くなかった。こういうもんなの?」
「お前の辛さは私が全部吸い取ったから」
「どうしてそこまでしてくれるの?」
「独りは……寂しいんだとお前が教えてくれた。だから」
「それを知って悲しかっただろう……ごめん」
「これからは私は独りじゃない。ありがとう」

 星がきれいだと思う。もう一度病室を見た。母は崩れるように泣いていた。それを唇を噛んで抱き締めているのは弟だ。
(良かった、お前がいて。頼むな、俺の分まで)

 

 


「これからはずっと一緒にいるよ」
「ありがとう。共に生きて行こう」
「それっておかしいよ」
「そうか? 私の中にお前はいる。だから共に生きるんだ、これからも」

  ―― 完 ――

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