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J (ジェイ)の物語」

第二部
11.波紋 -2

「みんな、聞いてくれ。昨日、他の課長たちとも話した。ウチだけじゃない、他でも同じ事例がいくつかあったが、ほとんどの課長たちはこんなことで騒ぎ立てる方がおかしいと言った。しかし俺と同じ意見の課長もいる」

 蓮は一息ついた。

「俺は今回のことに疑問を持っている。だから面談を受けた者たちの状況、考えを知りたい。結果、こちらに落ち度があるのなら先方に謝罪したいと思う。一つ言っておきたい。俺の考えだ。会社が利益優先なのは当然のことだと思っている。非営利団体じゃない限り会社は利益を追う。俺たちは会社に時間と労力を提供し、その対価を得ることで生活をしている。だがそこには、相手も自分も互いに節度ある礼儀が必要なんじゃないだろうか。それを頭に置いていて欲しい。その上で会社側に疑問を感じたら俺は戦う。先々のためにもな」

 誰一人姿勢も崩さず、真剣に蓮の話を聞いた。利益優先。本当なら反発しか感じない言葉を真正面から言われて、それぞれ感じるものがあった。

「面談を始める。問題提起をしたジェローム・シェパード。お前からだ」
「はい」


 別室に入る。いつもと違う二人。ジェイは椅子のそばに立ち、上司が座るのを待った。一瞬、蓮がふっと笑ったように見えた。

「まず状況を知りたい。感情もお前の考えも要らない。事実だけでいい」

 ジェイが話し始めたことをノートパソコンに入力していく。一通りの説明が終わり、蓮がノートパソコンから顔を上げた。

「確認したいことがある。『左遷』という言葉の意味を知っているか?」
「はい。現在の地位から落とされ、遠ざけられることです」
「湯川さんや塩崎さんの言葉を繰り返そう。『チャンス』『勉強』『投資する』これのどこに引っかかって、お前の中で『左遷』という言葉に繋がったんだ?」
「まず、この海外勤務そのものが自分にとって有益だとは思っていません。自分の力を発揮できるのは今の職場だと思っています。ここから遠ざけられることは自分にとって苦痛でしかないです。そこに『君みたいな者は外の風に晒された方がいい』と言われました。さらに『非協力的な人間だから他で苦労して来い』と。だから『左遷』と言いました」

 蓮がじっとノートパソコンを見ている。ジェイは待った。ノートパソコンに指を走らせ始める。途中途中、考え込みながら尚も記入を続けた。

「じゃ、次だ。『ハラスメントはそうと感じた時点でハラスメントになる』そう思っているか?」
「はい。研修でもそう教えられました」

蓮は指を組んだ。

「そうなると言ったもん勝ちになるな。そう思わないか?『今のはハラスメントだ』そう言いさえすればいいと思っているか?」

 今度はジェイが考え考え答えた。

「それは確かに間違っていると思います。それでは世の中は成り立って行かないです。自分は加害者にも被害者にも簡単になれるってことですね?」
「そういうことだ。それを踏まえて、今回の塩崎さんの態度をどう思う?」
「パワーハラスメントだったと思います」
「『思います』?」
「パワーハラスメントでした」

 蓮がようやく笑った。

「それでいい。いいか、こういうことは水掛け論になりがちだ。パワハラだったと思う。そういうつもりじゃなかった。その繰り返しだな。だから言うならはっきり言い切って欲しい。『思う』という言葉は便利だが、こういった話し合いには使わない方がいい」
「はい」
「じゃ、パワハラの対象となった塩崎さんの言葉をメールで送ってくれ。何か他に言いたいことはあるか?」

 言いたかった、ごめんなさいと。悪いとは思っていない、でも謝りたかった。

「怒りを……あの時に感じた怒りをメールに書いてもいいですか?」

 蓮がじっとジェイの目を見つめた。静かな時間が過ぎていく。

「単なる個人的な怒りではなく、今回の話し合いで公開できるものか?」
「はい」
「なら書いていい。今日の午後にはみんなからの報告をまとめる。早めに送ってくれ」
「分かりました」
「じゃ、井上を呼んでくれ」
「はい。失礼します」

 井上のノックがあるまでのしばらくの間、蓮は目を閉じた。
(ジェイはあのメールで俺が言ったことの意味をちゃんと分かってくれた)
それが嬉しかった。

 夕べのことを思い出す。ビジネスホテルでやっと腰を落ち着けた時に携帯が鳴った。ジェイだと思った。

けれど違った。

「河野です。どうなさったんですか? 部長」
『今どこだ?』
「会社の近くですが」
『これから飲みにでも行かないか?』
「いえ、今日は……」

 蓮は、今の段階で部長をこのことに巻き込むことに躊躇した。
『厄介なことになってるようだな』
「もうお耳に入ったんですか?」
『「もう」じゃなくて、やっとだよ。塩崎のバカがやらかしたとな』
「仕方ないです、仕事上のことです」
『向うがそう思ってるかな? 何せ同期の君に対して劣等感を持ってるからな。手駒を崩そうと必死なんだろう』
「彼が開発に戻ることはもう無いんですか?」
『無い。私が戻さん。あれは取引先の紹介で入社したことに胡坐をかいていた。禄に仕事も出来んくせに見栄を張ることだけは一人前だった。そういう人間は好かない』
「部長、変わりませんね」

 電話の向こうから豪快な笑いが聞こえた。

『今回の発端の新人…』
「ジェローム・シェパードですか?」
『そう。彼はなかなか強情なようだな。湯川がボヤいていた、あんな厄介な新人は宗田以来だと。しかも脅しをかけられたとまで言っていた』
「脅しですか。その場にいたわけじゃないですからね、どうしたものか」
『思い出すね、君を』
「私ですか?」
『似てるだろう、私と面談した時と。あの時は苦労させられた』
「でも感謝してます」
『昇進を即答で蹴られるとは思わなかったからな、何て奴だと思ったよ』

 今度は蓮が笑った。懐かしい話だ。てっきり自分の出自を基にその話が出たのだと思い込んでいた。

「あの時部長に鼻っ柱を折られましたからね。『お前程度を持ち上げるほど俺は暇じゃない』あの言葉、有難かったですよ」
『この件、どうするつもりだ? 下手をすると四面楚歌になるぞ』
「部長は見ててくださればいいです。春のこともあります、関わらないでください。いろいろ言いたい人間は多いですから」

 自分に心を砕いてくれる大滝の足を掬うわけには行かない。この部長の強引さに泣かされることも多いが、救われてきたのも事実だ。

『だから一緒に酒を飲めないという訳か?』
「この件の片が付くまではご一緒するわけにはいきません」
『分が悪いと承知してるんだろう?』
「さあ。負ける戦いをする趣味は無いですよ」
『そうか。悪かったな、ずいぶんと喋った。喋る相手が欲しかったんだ。ありがとう』

 蓮こそ礼を言いたかった。ほっと一息つくことが出来た。

 ノックがあって目を開けた。

「井上です」

 入って来た彼女はいつもと変わらず清楚なたたずまいだった。母と2人暮らしだ。

「今回の状況をまず教えてくれ。感情やお前の考えは要らない」

 井上の場合はさらに酷かった。

「先々週母が倒れて入院したんです。しばらくどうなるか分からなくて……軽い脳出血で済んだんですが、でもちょっと麻痺が出ていて」
「どうして俺に言わなかったんだ!」
「課長、すごくお疲れなの分かってました。命に別状は無かったし、落ち着いたらご報告しようと思ってたんです」
「お前が珍しく落ち着かない様子なのに気づいてはいたんだ……でも聞きもしないで後回しにしてしまった。済まない」
「いえ! 課長にはいつも気遣っていただきました。母が階段から落ちてケガした時も私には残業の少ない仕事を回してくださって」

 忍耐強く、目立たない仕事も着実にこなしていく姿勢がいつも蓮の目に留まっていた。

「大阪支社に半年の出張をしてもらうと言われて、今日は面談だから話を聞いてもらえるんですよね? と聞きました。でも必要無いだろう、君について河野課長から何も報告は来ていないと。だから事情を話そうとしたんです、まだ課長に報告していなかったんだと。そしたら……母の診断書を持って来いって……」

 蓮の手が止まった。

「会社にそんな権限は無い」
「でもそう言われたんです。だから出張を断りたいと言ったら……」

 言葉が続かない。

「井上。全部話してくれ。俺は本当のことを知りたいんだ」
「……母親がそんな状態なのに仕事してるのかって……案外薄情なものだ、娘なのに。休職したらどう……だ……」

 泣いたことなど無い。いつも温かい笑顔を浮かべている顔しか浮かばない。その彼女が泣いている。

「井上、悪かったな。今回のことは俺の落ち度でもある。傷を抉るようで申し訳ないが、その様子をメールにして送ってくれないか? 3時頃、他の者の報告と一緒にまとめる。もうすぐ11時だな。野瀬には言っておくからこのまま昼休みを取れ。美味いもん食って戻って来い」

 質が悪い。井上に対する暴言も塩崎だ。湯川はそばで何をしていたのだろう。一体人事はどうなっているんだ? 裕子に聞いてみようか。そうも思った。けれどもう関係が終わっている彼女を巻き込むのか。そんなことが出来るわけが無い。


 澤田潤はシンプルだった。

「君は大阪だから地元に帰れて嬉しいだろうって座った途端に言われましてね。いきなりだったもんで腹が立って。で、行かないって言ったら地下の施設管理はどうだって鼻で笑われましたよ。殴ってやろうかと思った時に課長の顔が浮かびました」
「良かったよ、浮かんでくれて! さすがに暴力を振るわれたんじゃ庇いようがない」
「分かってますよ、前に酔って知らないヤツに絡んだ時に課長にぶっ飛ばされて以来、俺は課長に心酔してるんですから。下手なことはしませんって」
「お前の心酔は有難いんだか迷惑なんだか分からんけどな」
「ひどいなぁ!」
「その後は?」
「出てきました、会議室から」
「出た? それだけか?」
「それだけです。ジェロームじゃないですけどね、これで地下に行かされたら俺一人でも訴えてたかもしれないですよ」

 ついでに哲平を呼んだ。

「ついで? 俺、ついでですか?」
「まあな、お前は行くつもりなんだろ?」
「ええ、行きたいです。ここに未練はたっぷりありますけどね、インドなら魅力的ですよ、アメリカより」
「技術の宝庫だからな。ところで、会議室に行ってどんな状況だったんだ?」
「状況って、『インド、行ってみたいか?』って聞かれたから、『はい』って。それだけです」
「えらく簡単だったんだな」
「ええ、呆気なく決まったんで拍子抜けしたくらいです」
「分かった。以上だ」
「以上? 終わり? 三途さん、呼べばいいですか?」

 一瞬、蓮は顔をしかめた。

「今の顔、三途さんに報告していいすか?」
「お前の送別会、この会議室でもいいか?」
「……分かりましたよ、黙って呼びます」

「課長! 厄介なの、最後に回したんでしょう!」
「叫ぶな! よく分かってるじゃないか」
「そのノートパソコンに大文字で記入しといてください、『歳だから人事に来い』って言われたって」
「でもなぁ、お前、人事やって行けそうな気がするがな。あの腐った体質をお前なら変えられるだろう?」
「私は掃除屋じゃありません。ここが好きです、この歳になっても」
「分かったよ、もう歳ネタ引っ張るな。……それだけか? お前が言われたのは」
「それだけでいいです」
「何言われたんだ?」
「何も」
「三途」

 腕組みをした蓮に大きく溜息をついた。

「これね、課長が腹が立つだろうと思って言いたくなかったんですけど」
「だから、何だ? お前の顔に書いてあるぞ、俺に言う気満々だったって」
「湯川さんがちょっと席を立った時に塩崎に言われました。『河野のそばを離れられないのか?』って」
「な……!?」

「でしょ? 腹立ったでしょ? 私ね、あいつ一人だったから頬っぺた引っ叩いてきました。謝る気、ありませんからね。説教は御免です」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。塩崎は性格破綻者になったのだろうか? もう、他の課長のことはどうでも良くなった。見過ごすわけには行かない、ここまで来れば。


 昼休みが終わり、井上が元気な様子なのを見てホッとした。みんなすぐにメールをくれていた。ジェイのメールは最後に読んだ。

――――――――――
若いというだけで苦労を知らないという言葉に怒りを感じました。
人を頭から見下す態度には、反感しか持てません。
もし自分に何も支えが無かったら、きっと立ち直れなかっただろうと思う程に罵倒されました。
上役だから何を言ってもいい、何をしてもいい。
そう思うことがまかり通る会社だとは思いたくありません。
この会社を信頼して安心して働きたい。
それが自分の願いです。
――――――――――

 届いたメールをまとめているところに電話が鳴った。

「R&D(Research and Development:研究開発)河野です」
『湯川です』
「お疲れさまです」
『ちょっとお時間いただけませんか?』
「どんなご用件でしょうか?」
『分かってるでしょうに』
「ウチの連中がお世話になった件ですか?」
『まあ、そうです』
「いつですか?」
『君の方が良ければすぐにでも』
「分かりました」
『じゃ、私のオフィスで』

 電話は切れた。


(おいでなすったな。敵陣に一人で来いってか)

「田中!」
「はい」
「度々済まない、ちょっと席を空ける。時間がかかるかもしれない。何かあれば携帯に連絡くれ」
「分かりました」

 出て行きかけて振り返った。

「ジェローム、ちょっと来てくれ」
「はい」

 廊下に出た。

「時間が無い、用件だけ言う。お前の使った『左遷』と言う言葉。あれはやはり謝罪するべきだ。何度も考えたが塩崎さんの言った『外の世界を知るべきだ』、そう言われた後に『左遷』と言う言葉を使ったな」

 ジェイの記憶力はいい。メールには言葉の出た順番まできちんと書かれていた。

「お前がどう感じたかは別として塩崎さんのその言葉は世間一般、会社でよく使われる言葉だ。お前……わざと煽っただろう。違うか?」

 ジェイは黙った。蓮はあの時の自分の心の動きを見通している。

「ケンカを売ったな? そこに『苦労を知れ』と言われて見境がつかなくなった」
「はい、そうです。いけませんか? 世間一般がそうだから言われてもいいんだとは思いません」

 あの時の気持ちをどう伝えればいいんだろう……怒りで頭がくらくらしていた。

「冷静になれ。他の事はいい。パワハラの件はな。それは一人の人間としての尊厳に繋がることだと俺は思っている。しかし『左遷』という言葉は違う。よく考えて見てくれ。納得がいかないなら後で話し合おう。お前の書いた『怒り』。あれはその通りだ。だからそのまま出す。じゃ、打ち合わせがあるから行く」

 エレベーターに向かう背中を見ていた。
(左遷……蓮の……違う、河野課長の言いたいことってなに?)

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