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J (ジェイ)の物語」

第二部
7.試練 -2

 少しずつ荒かった息が収まって目を開けた。余韻がまだ体に残っている。蓮を見た。やはり同じように息を整えようとしている。
(でも蓮は俺に入ってない)
蓮に手を伸ばす。そこに到達する前に手首を掴まれた。

「何しようとしている?」
「だって……蓮、イってない……辛いでしょ?」
「しなくていい。お前は何もするな」
「でも」

 蓮が自分の目を見つめてくる。その目が優しい。

「俺、そういうのお前に覚えてほしくないんだ。お前になら俺は何でもしてやる。お前はされるだけでいいんだよ。俺はそれで満足だから。いいからシャワー浴びて来い。悪いな、始末してやれなくて」

 首を横に振った。なんだか涙が溢れる……

「だい……じにしてくれて……ありがとう 俺、嬉しいんだ、蓮、蓮だけだ、俺をこんなに大事にしてくれるの」

 蓮の手が肩を叩く。

「さ、シャワー行って来い」

 頷いてベッドを出た。先にタオルを濡らしてくる。蓮の手を丁寧に拭いた。

「眠れたら寝てて。今日は疲れてるはずだから」

 軽く蓮に口づけてバスルームに向かった。

 見たかった顔を見て、聞きたかった声を聞いた。自分の名前をジェイは呼んだ。幸せを……感じた。目を閉じる。そのまま蓮は眠りについた。

 ジェイが出て来た時にはぐっすりと穏やかな顔で寝ていた。隣に入ってその腕に自分の腕を絡ませる。ジェイもあっという間に眠ってしまった。

 その後は蓮の母と妹が入れ替わり立ち替わりやってきて、ジェイは朝と帰りの送り迎えだけとなった。

「悪いな、ジェイ……」

済まなそうな顔にジェイは笑った。

「いいよ。だって家族が心配してくれてるんだから安心だよ。俺はこうやって他の人よりうんとそばにいれるんだし」

 電車の中、蓮とぴったりくっつきあうひと時。それを日々味わう。蓮も自分より背の低いジェイの香りを楽しんだ。これはこれで幸せな時間だった。

 7月中旬。熱気が外に溢れ出す中で蓮のギプスが外れた。同時に母と妹が来なくなった。母はまだ気がかりのようだったが自信たっぷりの蓮に諦めの溜息をついた。

「言い出したら聞かないんだから。じゃ、帰るわね。お盆休みには帰って来てね」
「休みが取れたらね。ありがとう、助かったよ」
「なに? ずっと邪魔にしてたくせに」

 母がくすりと笑う。
「俺だって……今回はホントに感謝してるからさ」

 ジェイを思った。自分は本当に贅沢だ。やってもらって文句を言える家族がいる。無条件で助けに来る家族がいる。

(お前のおかげだ、母さんに素直に礼を言ったよ)
ジェイがいると自分のあるべき姿がよく分かった。

(さあ! ジェイに帰って来いって言わないと!)
 蓮の心が弾む。

 タクシーを往復させ荷物を運んだ。
「ホントにこれ全部自分で運んだのか?」
「あの時はあまり感じてなかったよ。結構多いね」
 ジェイは自分のことなのに驚いていた。追い詰められたような気持だったから出来たのだろう。

「その枕、俺使っていいのかな?」
「か、返すよ、蓮のだから」
「もう寂しくないか?」
「大丈夫だってば!」

 往復はしたが結局蓮が荷物を持つことは無かった。ジェイが全部持ったからだ。

「無理しないで。しばらく力仕事だめだからね」
「立場逆転か?」
「まぁね」

 笑うジェイに子ども扱いされているようで蓮は複雑な気持ちになっていた。

 


 とうとう危ない時期が到来した。異動、海外出向、国内長期出張。その打診、面談、あるいは査定が始まる。蓮の開発グループももちろん例外ではない。誰よりも内心穏やかではないのは蓮だった。白羽の矢が誰に立つのか。こればかりは人事が絡んでいるから情報が届かない。ただ指示を待つしかない。

「誰がどこに。あぁあ、堪んないな、こういう空気」
「哲平さんはどっか行きたい? 俺はヤだけど」
「俺だって行きたかないけど。でもチャンスだしなぁ。どうせどっか行くならやっぱり海外かな。出来ればアメリカ」
「去年東南アジアにも支店が出来たしね」

 そう言いながらも花は興味が無さそうだ。
「千枝は? もし指名されたら」
「異動はいやだなぁ。ならまだ出張の方がいい」
「ウチのチームとは限らないしな。誰が行ってもおかしくない」

 池沢の言葉にジェイは慄いた。
(新入社員も対象だって言ってた。俺はイヤだ! どこにも行きたくない)
 情報は真っ先に蓮に来るだろう。祈るような気持ちで自分の名前が上がらないことを祈った。

「ね! 今年からやり方が変わったって知ってる?」
「やり方?」

 笠井智美、25歳。花と同い年で花に片思いをしている。だから仕入れた情報は優先的に花に流しに来る。ただごり押しが甚だしく強いため、つき合っている相手がいる花としては鬱陶しい限りだ。だからたいがい話を受け流すが今回の情報には耳を傾けた。

「異動関連。決め方が変わったんだって。聞きたい?」

こういうところが花の癇に障る。だが智美は懲りない。じろりと睨む花の腕に手をかけて尚も言う。

「ね、聞きたい?」
「勿体つける話なら聞かない」
「ええ、絶対聞いた方がいいって」
「じゃ話せば?」
「うん、あのね」

 今までは異動は能力の査定。転勤は家族などへの配慮をするため、面談。長期出張は単身赴任が可能かどうかをまず打診される。

 しかし転勤と長期出張の対応が曖昧だということで、今年から内容に関わらず査定と面談で決定することになったのだという。

 そばで聞いていた哲平がすぐ話に参戦してきた。

「つまりさ、査定か面談か打診かで中身が分かってたのがもう分かんないってことだな?」
「そうなのよ、花さん! 面談のスケジュールが来週組まれるんだって。そしてその呼び出しメールが本人と課長宛てに来るの。面談は多分8月下旬ね。そして10月に飛ばされちゃうのよ!」
「10月? 4月じゃないのか? なんでそんなこと知ってんの?」
「あら! 私根拠ないこと言わないわよ」
「智ちゃん、だからどうやって知ったの? 信憑性あるかどうかが問題なんだけど」

 哲平の追及にもめげない。

「だからね、花さん、メール来たら教えて! だって私耐えられないんだもん、花さんがここからいなくなったら」
「じゃ、あんた行けば?」

 聞きたいことは聞いたし、もう花は用も無いし興味も無い。

「また冷たいこと言うんだからぁ。何か分かったらまた教えるね。今度コーヒー一緒に飲みに行こうね!」

「いつものことだけど呆気にとられるな、アイツには。お前の反応見て分かんないのかね」
「いや、分かってますよ。だって俺はっきり言ったもん。あんた嫌いだって」
「え!? それであれなの?」
「そんなことより面談。メール来るかどうかイライラして待てってこと? 仕事どころじゃなくなるじゃん」
「そうだよなぁ。喜ぶヤツばかりとは限んないしな」

 周りもそれとなく聞いていた。何せ智美の声は甲高い。当然ジェイの耳にもしっかり聞こえた。
(メール? 一ヶ月も心配してなきゃなんないの?)
すでに落ち着かなくなっていた今のジェイには一ヶ月が一年にも感じられる。

 実は夕べそれとなく異動や転勤の話を蓮に聞こうとした。

「ジェイ、それを話題にするのはやめよう。心配は分かる。俺も心配だ。けどな、お前に話していいこととダメなことはちゃんと分けなきゃならない。このことは課長として話すことで、恋人同士がする話じゃないんだ。分かるな?」

(きっと蓮だって苦しいんだ。困らせちゃいけない)
 もし分かるものなら早く教えて欲しい。なぜか大滝部長は蓮を特別扱いする傾向がある。ならそんな情報も蓮が聞けば教えてくれるんじゃないか。そんなことをつい考えて聞いてしまった。
(特別扱いしてくれって言ったようなもんだ)

「蓮、ごめん。聞いちゃいけなかったと思う。ごめんなさい」
すぐに引き寄せられ、抱きしめられた。
「悪いな、分かってくれ。越えちゃいけないラインを崩したくない。お前が大事だけど立場から言えば課長は一人だけのためにいちゃいけないんだよ」

 蓮は正しいと思う。思うけれど……もし自分にそのメールが来たら。その先は考えたくない。きっと自分には冷静な反応が出来ないだろう。

 蓮を見つめた。相変わらず忙しそうに次々と書類に目を通しキーボードを叩いている。
(だめだ、俺自分のことしか考えられない……)

蓮は相反する気持ちに揺れていた。

(お前をどこにも行かせたくない、けど俺はここでは上長なんだ)

 ジェイにはこの自分と立場のある自分とを一緒にするなとはっきり言った。だが本心は? 割り切れるわけが無い、そんなこと。
『お前のことが一番だ』
そう自分は言った。『俺を信じろ』幾度もそう言った。絶対に守るとも。

 自問自答が繰り返される。自分は矛盾している。正直裏の手を使えば幾らでも情報は引き出せる。けれどそれをしたくない。一度したら止めども無く自分はやってしまうだろう。そう確信している。そうなれば何が自分の芯なのか完全に見失う。
 蓮には蓮の、仕事上のプライドがある。それが今までの自分を支えてきた。それを崩す気は、無い。なのに……

 心に決着のつかないまま日が過ぎていく。愛し合う回数も減った。けれどジェイは何も聞かない、何も言わない。その心が……辛い。

 8月5日。昼過ぎに蓮に一通のメールが来た。タイトルを見てドキリとする。

[各部署異動等資料提出について]

 そこに記されていたのは『上長としての配下に対する評価一覧を8月7日までに報告せよ』との内容だった。リスト形式で、入社日・経験業務内容・家族に介護の必要な者がいるか・女性の場合18歳未満の子どもがいるか・上長としての意見などを書くようになっている。提出期限まで日が無い。蓮の配下は19名だ。

 蓮は報告書を期限ぎりぎりに出したことは無かった。それは自分自身の評価に繋がる。この歳で今の立場に立ったことにあれこれ言われていることを知っている。だからこそ業務でいつも全力を尽くしてきた。
 蓮は報告書に取り掛かった。18名はあっという間に進んだ。部下のことなら日頃から把握している。その為に日誌も付けている。それが活きる。

尾高功には自閉症の子どもがいる。

高野麻衣は婚約している。
池沢隆生には足の不自由な父がいて世話をしている。
広岡真伸はパニック障害がある。
宗田花は我が強く、自分の心をなかなか開かないため人と接する点でマイナスとなる部分が多い。

 そういったことを事細かに記入していく。そして、一番知っているジェイ。最後までそこはブランクだ。深呼吸をしてやっと記入を始めた。

『業務経験が浅いためじっくり指導していく必要を感じる。現在は支障なく業務に取り組んでいるが、親族の縁が薄いため孤独感から自分を追い詰める傾向がある。チームメンバーに依存している様子が窺える。単身にての異動転勤出張には不向きと考える』

 書いて何度も読んだ。私情が入っているだろうか。不自然ではないだろうか。上長として正直に書いているだろうか。手直しの必要を感じなかった。そのまま添付送信をした。

 それから1週間後には蓮の手元に面談スケジュールが届いた。面談は8月下旬。対象は10名。

三途川ありさ 宇野哲平 井上陽子 橋田菜美 浜田弘 澤田潤 和田秀雄 中山良二 柏木壮太
 そして、ジェローム・シェパード。 ジェイについては但し書きがあった。

[業務歴は浅いが能力には群を抜いたものを感じる。精神的側面については面談にて判断したい]

 


「何かあったの? この頃蓮、ピリピリしてる」

 いつもの待ち合わせのカフェ。まだ片方の松葉杖が取れていない蓮を待っていた。蓮の方が退社時間が遅い。みんなにあれこれ言われるのがいやでいつもここで待つ。この頃の蓮は前にも増して疲れて見える。

「いや、何でもないよ。打ち合わせが多すぎるからイライラしてるだけだ。開発そのものの仕事に手をつけられないからムカつくんだよ」

 それは本当だ、最近は会議が多すぎる。ちゃんとプロジェクトそのものに向き合えない。報告を聞くばかりで、今まではどのチームにも均等に業務に加わって来たのにそれが出来ない。

「こういう状態ってどうやら俺にはストレスになるらしい」

 苦笑いを浮かべる蓮の頬は痩せ始めていた。

 それにどうやって関わっていけばいいんだろう。何か自分に出来ることはないだろうか。業務上のことじゃない、もちろんストレスのことだ。

「夏季休暇は取れるの? 俺たちは取らなきゃいけないことになってるでしょう? でも蓮はどうなの?」

「分からないなぁ。中間管理職ってある意味割に合わない立場なんだよ。なんだ、どこかに行きたいか? あ、そうか、墓参りがあるよな。なら金曜の夜に発って土曜日にお参りするって言うのはどうだ?」

 それは確かに嬉しい。お盆だからそんなことも考えてはいた。でもそれは自分一人でも行ける。せっかくの蓮の休みをそういうことで潰したくない、ゆっくりしてほしい。

「お墓参りは俺一人で行けるよ。それはいいんだ。じゃなくってどこにも行かなくてもいいから蓮が休めないかなって思って」
「どこにも行かずに?」
「うん。マッサージとかしてあげたいし」
「どこの?」

 その質問の意味が咄嗟に分からずに蓮を見るとにやにや笑っている。

「ばかっ! そういうマッサージじゃないよ!」
「そういうって?」
「意地悪だ、蓮は」
「忙しくてこの頃あまり出来ずにいるからな、休みを取ってまでしたいって言ってるのかと思ってな」
「ばかっ!」

 実は蓮はジェイの『ばかっ!』という言葉が好きだ、たいがいそれを言う時のジェイは赤くなっている。そして俯く。人に赤い顔を見られたくないから。その俯く顔に愛おしさと抱きたいという思いが高まっていく。

「帰ろう。今夜は抱きたい」

 ストレートな蓮の言葉にますます俯いていくジェイにくすりと笑う。
(こんなに抱き合っているのにお前はいつも新鮮だな)

 もう面談も査定も自分の手から離れていく。考えても仕方の無いことだ。ジェイに言う気は無かった。うろたえるばかりで何も手につかなくなるだろう。
(今日は全部忘れて抱きたい)
そう思った。

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