宗田花 小説の世界
Fel & Rikcy 第1部
15.階段
目が覚めて知らない部屋を見回した。重厚感のある天井と壁。大きな黒っぽい木製のドアは頑丈そうで書棚はシンプル。寝かされているのはデカいソファで柔らかい焦げ茶の革張りだ。頭の下には大きなクッションが二つ。そして窓の方にはどっしりした机が一つ。こっちをじっと見ている男性が一人。起き上がろうとして軽いめまいを感じた。
「まだ横になっているといい。手荒な真似をしてすまなかった」
落ち着いた深い声。
男をしっかり見た。がっしりしている年配の男からはまるで軍人のような威圧感を感じる。歳は……70代前半かな? 彼の言葉とこのソファと枕から、僕になにかするつもりが無いのが分かる。とりあえず今のところは。けど安心なんか出来ない、もし僕が思ってる通りなら。
「驚かないんだね、この状況に」
ちゃんと様子が分かるまでは口を開く気なんか無い。
「ということは、私たちの存在を知っているということだ。リカルド様が話したのか」
やっぱり……
「あの方がそこまで話しているとは思わなかった」
何も言わない僕に不思議そうな顔をしてる。
「身の安全が心配じゃないのかね?」
僕は視線を枕に移した。
「なるほど、こんな用意をしたなら大丈夫だと高を括ってる訳か。どうするかは私次第なんだがね」
それでも声を出さない僕にため息をついて机の上にあるらしいブザーを鳴らした。
「私だ。コーヒーを2つ、頼む」
それきり彼も黙った。
少し経つとノックがあった。
「入れ」
スーツ姿の男がカートを押して来た。コーヒーのいい匂いが漂っている。ソファの前のガラスのテーブルにカチャリとカップを置いて男は部屋を出て行った。
リッキーは今頃どうしてるんだろう。あれからどれ位時間が経ったんだろうか。
男はテーブルの前に座った。
「飲むといい。変なものは入っていない。このコーヒーの味は保証する、いい豆を使っているからね」
そう言うと自分から先にコーヒーに口をつけた。安全だと示してるつもりなんだろう。殺すつもりならさっさとやってるはずだ、僕が起きるのを待ったりしないで。
「フェリックス・ハワード。そうだね?」
分かってるくせに。だからここに連れてきたんだろう?
「ここは私の私室の一つだ。だからゆっくり寛いでほしい。君の存在を知ったのは、リカルド様が大学から遠出をされた時だ。あの方が制限された範囲から外に出るのかと思って、ヒヤヒヤしたよ」
僕がリッキーを家に連れて行った時? 外に出たから? あれは僕らが出会って半年くらいしてからだ。じゃ、その間の盗聴は?
「何も話す気は無さそうだね。じゃ、これを聞いてくれないか」
男は立って書棚のそばにある小さな機械を操作した。
『……カヤロー!! 聞こえねぇのかっ、フェルを返せ!! お前たちだろう、連れてったのは!! 警察に駆け込むぞ、俺のことなんか知ったこっちゃねぇ、国のこともな! どうなろうと構わねぇ、フェルを無事に返せっ! 聞いてんのか、このクソッタレ!!!!……』
パチン と音がして声が消えた。
「もう1時間近くもこの状態だよ。声が枯れてるのが分かるだろう? 君から一言伝えてほしい、無事だと。そして静かに待っていてほしいと。もう近くの部屋から苦情が出始めている」
驚いた! 聞くだけじゃなくて、通信手段になっていたのか!
「どうだろう、あのままじゃ本当に私はあの方に何か手を打たなければならなくなる。それは君にとっても好ましくないだろう?」
小さなマイクを差し出して来た。
「分かっているだろうが、こちらの情報めいたことは言わないでほしい。お互いの身のためにならない」
なに、言ってんだか。僕が知ってるのは、ソファと枕とコーヒーくらいのもんだ。そんなことより、ひったくってリッキーに呼びかけたかった。無事だと知らせたかった。
「どうした? 話したくないのか? このままじゃまずいことになるのは分かっているだろう」
必死に堪えた。僕から譲歩するわけにはいかない。またため息が聞こえた。
「仕方ない。分かった、身の安全は保障する。それでどうだ?」
リッキー、マイクを引っ掴みたい…… けど、僕の欲しいのはそんなもんじゃない。もう一押しだ、頑張れ! もうちょっとだ!
「何が望みだ? なぜ拒むんだ?」
「聞きたいことがあるから」
「やっと喋ってくれたね! しかし、君には私の話を聞くためだけにここに来てもらったんだ」
あとはまただんまりだ。同じことを何度言われようと黙って通した。リッキー、待ってろ、お前のために踏ん張るから。左手の薬指を拳の中で撫でた。
「見かけによらず強情だな。病院でひいひい泣いてた君とはだいぶ違うようだ」
これは……痛いところを突かれた……
「知りたくないか? セバスチャンという医者がどうなったか。そう、今、どこにいるのか」
………クソ! 反応してたまるか!! 今僕は唾を飲んだか? ピクリとでも動いたか? 息が、汗が、見て分かるようなことをしているだろうか?
「驚いたね! 興味は無いのか! 君をあれほど痛い目に遭わせた人間だ、なぜ消えたのか教えてやってもいいんだよ?」
騒ぐな、心臓! 空気なんか後でたっぷり吸え!
「分かった……質問には答えよう。ただし答えられる範囲だがね」
差し出されたマイクを握った。スイッチが押される。
「……んとか、言えよっ!!!!」
「リッキー」
声が止んだ。
「聞こえるか? 騒ぐなよ、無事だから」
「……ふぇる? フェル! フェル!!!」
「しーっ、静かに。な、大丈夫だ。冷蔵庫に水があったろ? 取って来いよ」
「フェル、フェル……」
「いいから、水取って来い。そして飲むんだ。頼むから僕の言うこと聞いてくれよ」
少しして冷蔵庫の閉まる音がした。キャップが転がる音。ようやく落ち着いた声が聞こえ始めた。
「飲んだぞ。本当に無事か?」
「ああ、無事だ。喉渇いたろ、あんなに叫んでちゃ」
良かった、少し様子が落ち着いてる。
「なんだよ、聞いてたのかよ」
「さっきね。帰るから。だから静かに待っててくれないか?」
「いつ!? すぐ戻れんのか!?」
「分からない。ちゃんと食事して、ちゃんと寝て待っててくれよ。戻った時にお前の目の下に隈なんて見たくないからな」
「そこにいるヤツ!! いつフェルを返すんだよ!!」
「リッキー。お前にかかってるんだ、僕が帰るのは。だから大人しくするんだ。みんなには適当に言ってくれ。一人でちょっと家に戻ったとかさ。いいな?」
「フェル……」
「分かったな? 僕の帰りを待つんだ。不安になったら指輪を見て。愛してる」
「俺も……俺も、愛してる。待ってるから。静かに待ってるから。ずっと一緒にいられるんだよな? そう指輪で約束したよな?」
「ああ、そうだよ。お前との約束だ。破らないよ」
リッキーの口調が変わった。
「そこのクソヤロー。よく聞け、フェルに傷1つ付けずに返せ。分かったな」
男が頷いた。
「分かったらしいよ。じゃな、今度はちゃんと会って話しような」
「フェル……」
パチン
静かだ。目を閉じると呆然と突っ立ってるだろうリッキーの姿が目に浮かぶ。愛してるよ。必ず戻るから。無事に戻るから。そして、二人で結婚式を挙げるんだ。
「落ち着いたね、賢明な判断だったよ。感謝する、君は使うべき言葉を間違わずに言ってくれた。では話をしようか」
冷え切ったコーヒーじゃなくて、熱いコーヒーがまた運ばれてきた。
「傷はどうかな? ソファが固いようなら取り換えさせるが」
「お気遣い無く。だいぶ痛みも減りましたから」
相手の痛いところを突いて会話の主導権を握る。僕らのケンカと似た空気がここに流れている。まぁ規模はデカいけど。不思議なことに僕はアルに感謝していた。あいつとの今までのやり取りが僕を成長させている。生まれて初めてあんたを誉めてるよ、アル。
「さて、何から聞きたい?」
「そちらの話をまず先に」
「ずいぶんビジネスライクなんだね。アメリカ人というのはもっと衝動的に動くものだと思っていたが」
今度は躊躇わずにコーヒーを一口飲んだ。確かに美味い。僕の鼓動もやっと落ち着いてきたような気がする。こっからは本当にケンカだ、拳は使わないけど。ブロンクス流が通じるとは思っちゃいない。でもそう思ってやり取りする方が僕には楽だ。自分の土俵に立っていなきゃ呑まれるだけだ。
「そうか。では私から話そう。今回来てもらったのは、分かり合っておきたいことがあるのと、君にいい条件を提示するためだ。その前にまず聞いておきたい。君は本当にリカルド様と結婚するつもりか? 今までにもずいぶんゲイがあの方に群がってきた。単に体目当てなら他を探してほしい。そういう男はたくさんいるだろう? リカルド様との遊びに命を懸ける覚悟があるのかな?」
つい、笑ってしまった。
「勘違いしてるようですが、僕はノーマルですよ。ゲイじゃない」
「……あの方は男性だ」
「そのくらい分かってます」
「じゃ、なぜ?」
「彼の人間性に惹かれたからです。男とか女とか、別にどうだっていいことです、あなたには理解できないでしょうが。僕も理解してほしいなんて思っちゃいません」
「私から言うのも変だが、あの方の所業は……」
「それもどうだっていいです。今は真面目に僕との結婚を考えてる。それで充分です」
「そうか。ではこれから提示することは君にとって悪い話じゃない、むしろ喜んでもらえると思う」
男は立ち上がるとデスクのそばにあるアタッシュケースを持って来た。開いて僕の方にくるりと回してみせた。ぎっしり詰まった現金……
「リカルドさまはすでに承知されていることだが、これからの生活について話をしたい」
自分の中に沸き上がってくる怒りを…… リッキー、どうか僕を落ち着かせてくれ、今暴れるわけには行かないんだ。指輪を撫でる。リッキーが、ここにいる。
「まず、今後は表立った行動は慎んでほしい。社会的に目立つことも一切控えてくれ。国外への旅行も同様だ。ただ、これまではリカルド様には狭い範囲で行動を我慢していただいたが、アメリカの中での移動なら自由にして構わない。これは大変な譲歩だ」
指輪を撫でる。目の前のコイツは何さまだ? まるで大層な温情でもくれてるつもりでいるのか?
「今回は君の口座が分からないので現金を用意させてもらった。支度金だと思ってもらっていい。結婚式にでも新生活にでも自由に使ってくれ。今後は生活に支障ないほどに送金をしよう。二人で遊んで暮らせる。私は二人の幸せを心から願っているんだ」
――そうか。悪いけど、僕にはこの金がゴミに見えるよ。
「これで生活の心配は無くなる」
――なんて有り難い話だろうね、リッキー。2人で堕落するにはもってこいだ。
「安全で豊かな生活が目の前に広がっている」
――安全で豊かで死んだような生活がね。
リッキー、お前が強いられてきた悪夢のような平穏な日々。まだ続けようってのか。
「これが私からの提案だ。何か不足があるなら言ってくれればいい、新車でも何でも用意 するよ。これから先はもう会うことは無いと思う。約束さえ守ってくれるならなんでも相談に乗ろう。実は私は今回の件は歓迎している。ご結婚を認めるのは難しいことだが、相手が君ならお子様は出来ない。そういう意味ではリカルド様は安全な相手を選ばれたことになるからね」
指輪を買ったのは本当に良かった。お蔭でこいつをぶっ殺さずにいられる。ついでにお前がここにいなくて良かったとも思うよ。安全な相手を選んだってさ。お前が聞いたらこいつはどうなってるだろうな。取りあえず僕には深呼吸が必要みたいだ。
「お聞きしたいんですが」
「今度は君が質問する番というわけか、何が聞きたい? 私の名前か?」
首を振った。バカバカしい、どうせ聞いたって言うのは偽名に決まってる。
「今まで彼の生活に支障が起きないように支えてくださってたんですよね」
「その通りだ。この国ではお好きなように暮らしていただきたかったからね」
「じゃ、彼が性的な暴力を振るわれたのは支障の内に入ってなかったんですね?」
一瞬、男の顔が硬直した。
「僕の知ってる限りで2度。これはたいしたことじゃなかったという判断ですね?」
アルのしたことはそこまでじゃないけど、この際数が多い方がいい。
「あの方は……奔放に振る舞われるから境界線がこちらからは見えなくてね」
ならあんた、どうしてそんなに強く拳を握ってるんだ? あんたは……知らない? 知らなかった?
「じゃ、把握はされてたんですね? 僕は恋人が心配だから聞いてるんです。これからは僕が守らなくちゃならない、暴力から」
「……配慮、しよう。今後は………」
後の言葉は聞こえちゃいない。リッキー、この意味、分かるか? お前は盗聴なんかされてなかったんだ!
「彼の周りで何人かいなくなった人間がいますが、何かご存知ですか?」
男が何か喋ってたけど割り込んで聞いた。
「いなくなった?」
お前のせいで消えたんじゃない!! 理由は分からないけど、お前のせいで消えたんじゃないことは確かだぞ!
「彼がアメリカに来て間もない頃、刺されたのを手当てしてくれましたよね」
「私が手配したよ。あれは危なかった……あの時のことか? 金を渡して片をつけてある。もうずいぶん前のことだ。心配ないと思うが」
「その後は?」
「その後……どれのことを言っているのか知らないが……私の部下が対応したのかもしれん」
「リッキーは自分のせいで消えたんだと思ってます。だからセックスだけの生活に溺れたんだ」
「それなら……結果としては良かったと言える。私は静かな生活をしていただきたかったから……」
「セックスしかない生活があなたの言う静かな生活なんですか? 彼はボロボロだった……だったらアメリカに来た時にピストルでも渡せば良かったんだ! 少なくとも死ぬ自由は得られたはずだ!」
だめだ、これじゃだめだ。自分を抑えなくちゃ。僕が欲しいのは僕らの自由だ。リッキーの自由だ。そのためなら何だってやるつもりだったろ!?
「ピストル? 君はリカルド様を愛してると言わなかったか!? 私は心から敬愛している、あの方を。私の娘はあの方の乳母だった。私は自分の孫のように……分不相応な言い方だが、孫のようにあの方を見守ってきた。父上はアメリカに送ることさえ考えてはいなかったが、私が説き伏せたんだよ、命を懸けて責任を持つと。だから陰ながら支えてきたつもりだ。君は結婚するといいながら死なせてやれば良かったというのか! それが君の言う愛か!!」
「そうです。それが僕の愛だ。今、彼が僕の前で死んでも構わない。僕はその手が冷えないうちに死ぬだけだ。僕が死んだらリッキーもそうすると知っている。だから僕にも彼にも、もう怖い物なんか無い。僕たちには命さえ要らない、自由か、死か。それでいい」
リッキー。お前は僕に命を預けてくれるだろう?
僕に迷いは無いよ。
生きるなら自由に暮らそう。
死んだら、それもある意味、自由を掴むことになる。
死ぬって美しくなんかない。
醜悪でみっともなくて、
ただ世界が消えて終わるだけだよな。
けどさ、生きてて死んでるよりマシだろ?
静かな時間が過ぎて男が立ち上がった。アタッシュケースをしまった。
「お互いに少し頭を冷やそうか。君ももう一度提示した条件を考え直してほしい。若い時はそうやって綺麗事にしたがるものだ。私にも覚えがある。愛する者と幸せに暮らせる。そのことをもっと真剣に考えてくれ。隣の部屋は寝室になっている。好きに使って構わない。必要なものがあればこのデスクのブザーを鳴らしてくれれば用意させよう。食事は後で運ばせる。では、また明日」
湯気の立つ夕食は豪華で、冷たかった。お前がここにいたら美味いんだろうけどな。まともに食べてるんだろうか。元々寝るのが苦手なのに、ちゃんと眠ってるか? 指輪、触れよ。僕も今、触ってるよ。
リッキー。バカみたいだけどさ、今お前の言葉で耳に浮かんでくるのは 『んふ 夜、待ち遠しい』 あれなんだ。僕も相当色ボケだよな。浮かんでくる姿は、僕の上で髪が揺れてたお前の姿だし。スケベは禿げるって? 僕のことロマンチストじゃないって言ってたけどお前も相当なもんだよ。
そう言えば、初めてだな、こんなに離れて寝るのは。リッキー。今、何を考えてる?
どうやら幾らかは寝たらしい。それがリッキーに背信行為をしたように思えてすごく後ろめたい。きっとお前は眠れなかっただろうに。
シャワーは心地よかったし、用意された着替えは昨日脱いだ着古したジーンズじゃなくてスッキリしたクリーム色のスーツだった。鏡の前に立ってみる。悪くない。結婚式で僕がスーツなんて、せいぜいホテルマンくらいにしか見えないだろうと思ってたけどこれも有りだな。
「気に入ってくれたようだね」
振り向くとドアの外に男が立っていた。
「君は見栄えがいい。メイドが言うには、『美しい人』だそうだよ。これから先もそういう姿でリカルド様とどこかのホテルでワインでも飲んだらどうだね?」
「ありがとう。でも彼は僕の外っ側に惚れたんじゃないと思うんですけどね」
リッキー、ごめんな、僕だけ寝ちゃって。でも、お蔭で快調に飛ばせそうだよ。
「では、始めましょうか」
僕は笑うことさえ出来た。
「君の意志はどうやら昨日と変わっていないようだが」
「ええ、あなたと同じように」
「君の言った『愛』というものについて考えてみたよ。立場も考え方も違ってはいるが、心からあの方を大事に思っていることでは私と違わないようだ。表現はずいぶん荒っぽかったが」
「へえ! 驚いちゃいましたよ、そんな風に思ってくれるなんて」
本当に驚きだ! あの会話を反芻したってことだけでビックリだ。
目の前に並べられてる朝食はなかなかたいしたもんだ。足りないのはリッキーだけ。この話の後、どんな扱いを受けるか分からない。生きてここを出られなかったりして? そう思うから、片っ端から食べた。そうだ、どうせなら夕べ寝る前にストレッチでもしとくんだった。暴れるくらい出来たかもしれないのに。
「呆れるね、どうなるか分からないのによく食べるもんだ」
「おいひいでふからね」
怪訝な顔をしてるから、飲み込んでからもう一度言った。
「美味しいですからね。貧乏人としちゃ、みっともなくったって食える時に食っとかなくちゃ」
「その貧乏暮らしを続けたいのかね?」
「貧乏には貧乏の良さがあります」
「どんな良さだ。あの方は暮らしに不自由したことは無い。皿洗いやウェイターみたいな、人に頭を下げる仕事をさせるつもりか?」
「それって、愛のスパイスみたいなもんですよ。ブランケットが1枚しか無けりゃ、別々のベッドに寝ない立派な言い訳になるし」
今日は昨日と違ってやたらハイテンションで喋ってるから、目の前の男は少々呆気に取られている。
「あ、僕のテンションについちゃ気にしないでください。今日の準備運動してるだけなんで」
やべぇ……すっかりハイの方の地が出始めてる…… 封じてたからリッキーにさえ見せてなかったのに。
『話は食後の方がいい』 そう言われて僕は食べる方に専念した。多分、あれ以上口いっぱいに頬張った男と会話したくなかったんだろう。
「いいかね、話を……」
「すみません、食べたら出す これ、自然の摂理ですよね。悪いけど出すもん出してからってことで」
すっかり黙ってしまったから、にこっと笑ってトイレに向かった。
これもそうだ。入れる内に洒落たトイレに入っておきたい。もうまともなトイレに入れないかも。たっぷり時間をかけてトイレから出た。無理したくないし。僕には僕の事情がある。男を尻目に、鏡の前に立って入念に前も後ろもチェック。死に装束になるかもしれない。
そう思って、さっきから死ぬことばっかり考えてる自分がおかしくなった。だって、それにしちゃ悲壮感が無さすぎる!
「君は変わった男だね」
「そうですか?」
やっとソファに収まった僕に安心したらしい。
「普通はどうなるかと心配するだろう? 少なくともあんな風に食事を取ることは出来ないはずだ」
「多分、あなたの思ってる通りですよ。ネジが1本足りないんだ」
「命知らずというか……そんなことが通用すると思うのは若さからくる向こう見ずというしか無い。真面目に昨日の話を考えてないのか?」
「考えましたよ、居心地のいい棺桶に入っとけって話でしょ?」
「私は……」
「確かに魅力的ですよね、そういう暮らしって。自分で稼いだ金でそうなれたらもっといい。働いたこと、ありますか? 僕の言う『働く』ってのは、汗水垂らしてってことだけど。そうやって踏ん反り返ってるんじゃなくって」
「君には分からん! たくさんの責任を負って、人の命さえ私の肩にかかっているんだ、何が分かると言うんだ、お前程度の若僧に!!」
ちょっと笑える。こいつ、すっかり取り乱してる。だんだん大きくなる僕の笑い声が聞こえて、途中で言葉が止まった。
「何が……何が可笑しいんだ!」
「いや、すみません、『人の命が肩にかかって』 ……いや、あんたってまるで神さまみたいだ」
その後が続かなかった、おっかしくって。
「ああ、ホントすみません。疲れませんか? そんな風に生きるのって。僕らに何の不自由も無い生活を提供するあなたがそんなに苦痛に満ちた生活を送るなんて、痛々しくて見てられませんよ。本当、気の毒です」
「私は真面目に話しているんだ!」
「僕も真面目ですよ、あなたにどう見えようが。金貰って静かに隠居生活するってのと、金蹴って命消えるかもしれないこの瞬間と。ね? こんな天秤に乗っかってるんだから真面目になるに決まってるでしょ?」
僕にはリッキーの命がかかっている。僕が死ねばお前も死ぬ。
どこかでこの階段に出会ってたんだ。出来れば結婚する前に現れて欲しいと思っていた。大丈夫、想定内のはずだろ? 分かっていたことだ。そうだろ? 僕は自分に言い聞かす。
これは僕の責任だ、リッキーのために果たすと誓っていた。だから僕は登るよ、このバカでかい階段を。
「失礼しました。きちんと話しましょう」
「君は……よく分からん男だな」
「世間知らずのただの甘ちゃんの若僧ですよ。兄からよくそう言われてきました。多分それは正しいんでしょう」
「昨日の会話を思い出して、君がいくつか誤解していると感じたよ。昨日はいい加減な返事をしてしまったからその誤解を解いておきたい。私はなるべくリカルド様の生活に介入しないようにしてきた。あの方の周りで次々と人が消えれば、疑われるのはあの方だ。だからそんなことはしていない。ただ、ほんの幾つかの件では少し手を加えた。ほんの少しだ。それ以上は手を出していない」
「僕の受けた行為に絡んではいないんですか?」
自分でしておいてキツイ質問だと思う。知って苦しむのは自分なのに。殺しまわってる訳じゃないなら、残念ながらセバスチャンは生きてるってことだ。
「あの件は……心から気の毒だったと思っている、本当に。私は昨日話したあの旅行の一件以来、リカルド様の身辺には注意を払っていた。君は知らないだろうが、あの後リカルド様は偶然病院内で見つけたあの男を殺すところだった。すんでのところで私の部下がそばを通りかかった振りをして止めたんだよ。その後、彼に関してはこちらで少し関与させてもらった。放っておいたらリカルド様が何をなさるか分からんからな」
それは知らなかった……
「他の件は知らない。それははっきりさせておく。何かあるとしたらそれは偶然だ。国を出る前に父上がリカルド様に釘を刺された。何かあれば近しいものに災難が降りかかるだろう と。多分その言葉がリカルド様の中に強く残っているのだろう。大きなトラブルにしか手を出さないようにしてきたつもりだ」
「彼がどれほど傷ついたか分かりますか? 常に見張られていると思い込んだ毎日がどんなに苦しいか」
「しかし、何かあるよりは……」
「リッキーは人間なんだ、1人の。なんで誰も彼もそんなことを考えてやらないんだ…… あなたも彼をセックスの対象にした連中も襲ったやつも、中身は変わらない。リッキーの人権を剥ぎ取って思い通りにすることしか考えてない」
「お気の毒な身の上だと思っている……だからこそ国を出ていただくことにしたんだ、あれ以上いたら……」
「でもこれじゃその国にいるのと変わらないじゃないですか。盗聴されるは、行先を制限されるは、挙句の果てに自分のせいで人が死んでいると思わされて」
「盗聴……まだそう思ってらっしゃるのだね」
「現に昨日もあの部屋と回線が繋がってたじゃないですか!」
「信じなくてもいい。あれを作動させたのは半年ぶりだ。その時もほとんど聞いてはいない。ただ取り付けをしただけだ」
「ずいぶん手の込んだ悪戯ですね。悪趣味だ、盗み聞きしていると思わせて。僕たちの動向だってずっと追ってるんでしょう?」
「年中探ってる訳じゃない、だからそんなに神経質にならなくていい。リカルド様の旅行の件も偶然分知ったんだ、盗聴して知った訳じゃない。あれを取り付けたことにしても万一の場合のことを考えて……」
「いい加減リッキーから離れちゃどうです? 昨日から聞いてるとあなたが個人的にリッキーを見張ってるように聞こえる。だいたい一つの国が追放した人間にそこまで手間、かけるんですか? しかも死んだことになってるんでしょう? 何を怖がってるんですか? 一国を揺るがすような秘密を彼が握ってるんですか?」
一気にまくし立てた。思い浮かぶ言葉を息つく暇も無く全部ぶつけた。
「あの方は……死んだことになっている……」
「知ってますよ、自動車事故で死んだことになっていると……」
「違う! 私が殺したんだ!!」
言って、思わず自分の失態に気づいたようで……?
「どういう意味ですか? 殺したって?」
「今日はここまでに…… 午後は用がある。ここには誰も近づかない。必要があればあのブザーで。済まない、今日もここに滞在してくれ」
「またここに泊まれと?」
「君は承諾していない、私の提案に」
「じゃ、一生ここにいなくちゃなりませんね」
「そんなに難しいことか? 生活に困らずに生きていくことは」
「それはもはや生活じゃないでしょう? そんなのリッキーも僕も望んじゃいない。僕らが大成して有名になることを心配してるなら、ずいぶん信頼してもらってるんだなって思いますよ」
「……もう一日やろう。じっくり考えてみてくれ、その結論によって出る影響も」
あれ以上、なんの秘密があるんだろう。今日思いつくまま喋っていて自分の頭の中が整理できた。そうだ、おかしいんだ、いつまでリッキーの生活を監視下に置くつもりなんだ? そんなこと、本当に必要なんだろうか。リッキーにいったい何が出来るって言うんだ?
どうしてもそれを突き止めたい。そうじゃなきゃこの膠着状態は永遠に続いてしまう。
ふっと部屋の片隅、書棚に目が行った。
『誰もこの部屋に近づかない』
思いだしたのは、あの一方通行じゃない盗聴器。いや、でもまさか使えないだろう、幾らなんでも。……ダメ元。失うものなんか今の僕には無いんだから。いや、命があるかな? ならお前の声が聞きたい。
パチン
音が静かな部屋の中に響く。
「リッキー? 僕の声が聞こえるか?」
間がある。そうだよな、使えるわけが無い。そこまでボンクラじゃ……
「フェル! フェルか!? これで喋るってことはまだそこにいるんだな!?」
耳を澄ましてるのが分かる。
「……何、笑ってんだよ! こっちは心配してるってのに!」
「ごめん、違うんだ、ボンクラって本当にいるんだなって……」
「何の話だよ!」
「フェル!? あんたね! こっちは死ぬ思いしてんのよ!」
「シェ シェリー? なんで?」
「俺……シェリーを騙しそこなった……」
「バッカじゃないの? 一人で家に戻ったって? 言う相手を間違えてんじゃないの?」
僕は自分の顔を手で覆った。リッキー……お前、バカだなぁ……
「悪い、どれくらい話せるか分からないんだ。今隙を見て喋ってるから、いきなり切れても心配するなよ」
「分かったわ」
「これ、伝えとく。リッキー、お前盗聴されてなかった。これあるけど使われちゃいなかったんだ、僕の家に行くまで」
「え?」
「それからお前の周りで消えた連中、あれはお前のせいじゃない。確かめたから疑うな。いいな?」
「他には? あるなら早く言って」
シェリーがいてくれて良かったかもしれない。きっとリッキーは話に追いついてない。
「まだ時間かかると思う。ここがどこか全く分からない。多分逃げ出すのも無理だ。そこまで甘くないよ、きっと。頑張って帰るから。だから待っててくれ」
「そうね。あんたはたいした "弟" みたいだし。知ってたなら言いなさいよね。バカみたいじゃない、私だけ」
おい…それもばらしたのか……
「リッキー、お前……」
「彼のせいじゃないわ、私に隠しておけると思ったあんたがマヌケなの。リッキーのことは任せて。あんたは頑張んなさい。そして帰っておいで。私にまだポトフの容器返してないこと忘れないで」
思わず吹き出しそうだ。サンキュー、シェリー。
「シェリーが姉貴で良かった。もう話せないかもしれない。愛してる、リッキー。シェリー、彼を頼む。リッキー、食えよ」
「フェル……待ってる、待ってるからな!」
「ああ、泣かずに待ってろ。じゃ切るぞ」
喋れる限りのことを喋った。さあ、いつドアが開くんだろう。本当にボンクラだとは思えない。
僕は覚悟してソファに座っていた。誰も現れない。どういうことなんだろう。リッキーは独裁国家だと言っていた。つまり、軍事政権ってことだろう? 僕が知ってる軍事政権ってのはこんな甘ったるいもんじゃない。リッキーがどう騒ごうがいつ僕が事故死したっておかしくないんだ、こんな面倒なことしなくったって。
誰も来ないならそれはそれなりに退屈だ。書棚に目をやる。もうアレを使う気はない。シェリーが絡むならもう危険は侵したくない。
リッキー、シェリーにそんな嘘つくなんて。お前置いて家に帰るなんてあり得ないって勘ぐるのは当たり前だ。それに様子がおかしいのにも気づいただろうな。シェリーの集中砲火に屈したお前が見えるようだよ……
考えながら本を無作為に手に取っていた。固い本ばっかり。海洋学の本でも置いときゃいいのに。おまけにほとんどがスペイン語。これはもうどうにもならない。端から順に開けていった、どれもこれも。
それは、一番下の一番左。窓側にあった。映画なんかでよくあるお定まりのパターン。ひっそりとした革張りの本。
開くとそこには十数枚の写真が入っていた。思わず見入る。
「これ、リッキーのお母さん?」
ふっくらとした笑顔の眩しい人。父親がどんな顔をしてるか知らないけど、間違いなくリッキーは母親似だ。その手に抱いているのは、可愛い手を伸ばしている小さなリッキー。多分カメラマンに手を伸ばしてるんだ。
溢れる笑顔がそこにある。幼いリッキー。頬が丸い。4、5歳なんだろうか…… なんだか……涙が落ちる…… こんな時期もあったんだ、明日や明後日のことを考えたくないんじゃなくて、考えずにすんだ頃が。
声が漏れていたのに気づかなかった。声を出して泣いたことなんて僕は覚えてない。泣くほどの余裕なんか無かった、あの街では。隙を見せちゃならなかったから。家の中でも。
「君は……」
ドアが開いたのにさえ気づかなかった。写真を握った手が震えていた。頬が濡れてぼたぼた涙が落ちていた。喉が詰まるほどに痛かった。声を抑えられない………
「君はそんなに……」
立つのに手を貸してくれた。僕はこの写真をリッキーに渡したいと思った。
『隠してた母さんの写真も取り上げられた』
笑って言ってたよな。お前、笑って……… 崩れるようにまた座り込んだ。立つことなんて出来やしない……
泣く事さえ忘れたリッキー。身投げした母さんを追い求めて僕の胸で眠ったリッキー…… あの温度が手の中に今、確かにある。
温かいコーヒーを渡された。やっと落ち着いて座った僕に、彼はひどく優しかった。握って離さない写真を目にして、返せとは言わなかった。
お互いにただコーヒーを飲んだ。時計の音がする。遠くで鳥が鳴いている。
「君は私が思っていたような人間ではない。それが分かったよ。申し訳無かった、最初から金など見せるべきではなかった」
「僕も今の言葉を聞いて、あなたを誤解していたかもしれないと思い始めてます」
もう一度写真を見た。あどけない笑顔。辛い、この顔が辛くて……
「この写真、もらっちゃいけないですか? これ、リッキーのお母さんでしょう?」
「いや、私の娘だ。乳母だったと言っただろう?」
いきなりパズルが嵌った。寸分たがわぬピースが今手に入った。
リッキー……僕はお前にどう伝えればいいんだ?
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