
宗田花 小説の世界
Fel & Rikcy 第2部
5.前進
「フェル、上がれそう? 俺、終わったんだ、まだならどっかで待ってる」
「悪い、先に帰っててくれよ。もうちょっとかかりそうだから」
「そうか……分かった、夕飯作っとくから。後でな」
いつも一緒に帰るんだけど、フェルの受け持ちん所、よっぽど大変なんだな…… ちょっと心配だったけど、疲れて帰ってくるフェルのために美味しいもん作っとこうと思った。そろそろ建設現場じゃなくって、体に優しいバイトを探した方がいいかもしんない。お互いに必要以上にマッチョになってる気がするし。フェルの筋肉なんか凄いことになってる……あの引き締まった体を思い浮かべると腕と肩がヤバいほど……
感触が手に浮かんで慌てて首を振った。ヤべぇ、涎、垂れそうだ。
芽キャベツとブロッコリーと……あ! このトマト、美味そうだ! この頃新鮮な野菜を見分けんのが得意になって来た。これっていい奥さんの証拠だよな? あんまりそこ言うと、またフェルにぶん殴られるかもしんねぇから心ん中でそっと言う。やっぱ喜ぶ顔、見てぇよ……
『リッキー! すっごく美味い!』
そんな風に言われると気持ちがふわふわ昇ってくんだ、SEXの後みたいに。
そんなに時間もかからずに、野菜たっぷりの新メニューを作った。トマトとチキンが主役だ。味見したら(うん! 絶対フェル、喜ぶ!!)そう思った。
……帰って来ない……
え? まさか現場でケガとか!? 帰り、事故とか!? それでも2分待った。もうダメ。フェルの携帯にかけた。
……留守電……やっぱ何かあったんだ!!
「落ち着きなさい、リッキー! ゆっくり喋んないと分かんない!」
「だから! 帰って来ねぇんだ、フェルが! 携帯も繋がんねぇ」
「泣くんじゃない! まったく……あんた結婚してから益々泣き虫になっちゃったわね。昔のあんたはどこ行ったの? もっと強くなんなさい!」
「わ 分かった。も一回携帯かけてみる」
「現場、電話してみたら? 監督とか聞ける相手いるでしょ?」
「そうする!」
俺は急いで監督のゲイリーにかけてみた。ゲイリーはすごくいい人で、俺たちのことを理解してくれてる。
「あの、ハワードです。リッキーの方」
「ああ、分かるよ、リッキー。どうした?」
「フェル、帰ってこないんですけど今夜は遅くまでかかりそうですか?」
「え? 残業って意味?」
「はい。もう少しかかるって言ってたけどまだ帰って来ないから」
「おかしいな、時間通り帰ったよ、挨拶したし」
「……ホント……ですか?」
「間違いないよ。確かに10分くらいは片付けしてくれたけど残業ってほどじゃない」
「分かりました……あ、きっと友だちんとこに行ったんだと思います」
「そんなとこだろう。リッキー、あんまり束縛するなよ。俺も女房が煩いからつい帰るの遅くなるんだ。いっそ浮気でもしようかって思うくらいさ。ハハハッ!」
――そくばく うわき――
まさか! フェルに限ってそんなこと、ゲイリーと違うんだから。あり得ねぇ。
「タイラー、フェルそっちに行ってる?」
「いや、来てないよ。どうした?」
「あの、仕事からまだ帰って来ねぇから」
「どっか寄ってるんだろう。だめだぞ、あんまり束縛しちゃ。俺もさ、帰るとベスが口煩いんだ。ああしろ、こうしろ、どこ行くんだ、帰って来た時くらいこれやって、あれやって…… 悪い、リッキーにグチこぼしてもしょうがないよな。心配するな、もうすぐ帰ってくるさ」
――そくばく くちうるさい――
……そうなのかな……前にフェルが言った。
『相手を束縛しない 僕らは自由でいなくちゃならない』
俺、フェルの理想を守ってねぇのかな…… 冷えていく夕食見ながらそのまま座ってた。ホントはエディとかレイとかロジャーとか、も一回シェリーとか電話したい。でも……
あ! 携帯震えてる!!
「フェル!? どうした! ケガした!? どこ!?」
「おい、怒鳴るなよ。大丈夫だから。連絡遅くなってごめん! あのさ、ちょっと遅くなりそうなんだ。悪いけど先に食べて寝ててくれよ。心配要らないからな」
「あの、フェ」
携帯、切れた……俺、1人じゃ寝れねぇの知ってんのに……
――うわき
――くちうるさいから
俺、奥さん失格? どうしたらいいんだろう、誰に聞いたらいい? 誰なら聞いてくれる? 誰ならアドバイスくれる? 誰なら? 誰なら?
泣きたい……
――『あんた結婚してから益々泣き虫になっちゃったわね』
それがいけないのかもしんない、いつもメソメソしてるから愛想つかされたのかも。
――『昔のあんたはどこ行ったの?』
昔の俺? 悪いとこしか思い出せねぇ。誘われるとすぐ誰のベッドにでも潜り込んでた。あ、少しいいとこあった。フェルに気がついてほしくてバスルーム磨いたり掃除したりしてたこと。フェル、バスルームお気に入りだったから。
そうだ、あれこっそりやってたんだよな。そして何も言わずにただ帰りを待ってた。ドアが開くのを今か今かって、ずっと目開いたまんま待ってた……
あん時はそうやっていられたのに。ただドアが開くだけで幸せになれたのに。欲張っていいんだって言われて、ホントに欲張ってる俺。俺のこういうとこ、鬱陶しいのかも……
ぼたん と涙が落ちた。だめだ そう思って食事あっためて食べて、とにかくベッドに入って。フェルの言う通りに……言う通りに……
なんで、なんで……なんでこんなに寂しいんだろ。フェルがいないだけでこんなにこの部屋ん中が広くなる……寒くなる……
か ちゃっ
すっごく静かにドアが開いた。ベッドに膝抱えて座ってる俺にフェルがすぐに気がついた。
「リッキー! 起きてたのか、ごめん! 遅くなってごめんな。眠れなかったんだな? ちょっと待ってろ、すぐシャワー浴びてくるから」
フェルの通った後に ぷ~ん とタバコの匂いがした。フェルも俺もタバコは吸わない。急いでバスルームから出てきたフェルが俺の隣に潜り込んで来た。
「ホントにごめん。寂しかった? 抱いててやるから寝ろよ」
言ってるフェルの方がすごく疲れてるみたいで俺より先に眠りそう……
「フェル、抱いて」
「ごめん、明日。明日な、りっき……」
寝ちまった。フェル、ベッドに入って10分経ってねぇよ…… 俺……さびしい……肌が寂しい。
――そくばく くちうるさい――
その言葉と戦ってるうちに外は明るくなってった。
「リッキー、今日さ、また遅くなると思う。だから」
「分かった、先に寝るよ。ちゃんと飯も食う。心配すんな」
「悪いな、なるべく早く帰るから」
これで4日だ。どこ行くって言わねぇ。心配要らないって、そう言う。俺に出来ることは、ちゃんと食べてちゃんと寝て心配しないことだけ。そして……セックスを強請らないこと……
――どうしたらいいんだろう
――誰か … … … …
「リッキー、お前痩せたな!」
久し振りだ、フェルに抱きしめられるの。フェルが裸になってくれて、俺を脱がせて、フェルの唇が俺の首を下りてく……もう俺、切羽詰まったような喘ぎが出てる……
「僕のせいだよな、ごめん。もうちょっとだけ待ってて。本当に心配ないから。あとちょっとだけ時間くれよ。頑張るからな」
本当に? 本当に心配ない? 『あとちょっと』って言った。じゃ、浮気じゃねぇんだ。浮気なら『あとちょっと』じゃ済まねぇよな。そんなこと、言わねぇよな。だよな? そうだよな?
フェルが俺ん中に入ってる実感に俺の体が素直に揺れる。痩せたって気づいてくれた。『僕のせい』って言ってくれた。俺の目の周りを指でなぞって、頬に瞼に唇に胸にキスの雨が降る。何度も『ごめん』って……
優しいセックスだった。そして俺より早く眠ったフェル。いつもは俺を胸に抱いて、俺が眠るのを待ってくれるフェル。
じっとフェルの寝顔を見る。巻き毛がちょっと伸びたみたいで額が見えない。なんかさ、フェルの方が痩せてねぇか? 俺、自分のことばっか気にしてたけど、フェル、なんでこんなに疲れてんだろう。ベッドに入る時にはタバコの匂いは消えてる。俺が好きだっていうシャンプーの匂いになってる。
『頑張るからな』
何だろう、頑張るって。俺、待ってるよ。『もうちょっと』なんだよな? 俺、待ってる。だから無理すんなよ。俺、フェルの方が心配になってきたよ。
「フェル。俺今日は早いんだ、7時半には現場に入らないと。フェルのスケジュール聞いてなかったけど何時ごろ来る?」
早く行かなくちゃならないのについ寝過ごしたから、俺はバタバタ用意しながらフェルに声をかけた。だってまだベッドの中にいるし。
「フェル、起きてる? ゆっくりでいいのか?」
「うん……おきてる……僕はちょっと遅れる ゲイリーに電話するよ……」
「フェル、具合悪いのか!?」
「違う、眠いだけ。心配無いから。大丈夫。気をつけて……」
俺は荷物をほっぽってベッドに行った。フェルのおでこを触る。じっとりと汗が滲んでた。少し熱いような……
「フェル! 熱がある!」
「たいしたことないよ…… 大丈夫だから行っておいで。もし現場休んでも心配しないで。多分風邪だよ」
ゲイリーに当てにされてるから今さら断れない。俺は心配だったけど、無理すんなってフェルに言って寮を飛び出した。
「いいよ、早めに帰って構わない。2時の立ち合い検査に作業が間に合ったからな。フェルにも無理しなくていいって伝えてくれ」
ゲイリーに礼を言って現場を出た。
まだ3時だ。結局フェルは来なかったからきっとベッドで寝てるんだ。起こすかもしんないと思って電話するのはやめた。昨日と一昨日節約したから今日は70ドル使える。たくさんの食材を買って寮に向かった。シェリーに教わったポトフを作るんだ。フェルが好きなメニューだから喜んでくれると思う。
そっと部屋を開けたら空っぽのベッドがあった。空っぽの。ベッドに座ってフェルの枕を抱いた。
――そうだよなぁ やっぱ俺、鬱陶しいよなぁ
デスクの上に目が行った。
背を伸ばす。
枕を置いた。
立った。
ゆっくりデスクの傍に行った。
折ったメモが立ってた。
リッキーへ
そこまで読んで、メモをカサッて閉じた。
も一回メモを開いた。
リッキーへ
『心配させたよな、ごめん。ここに来てくれるかな。6時半に待ってる。都合悪かったら言ってくれ F』
店の名前と住所が入ったカードがテープで付いていた。
もう一回読んだ。
これ……って? でーと? わかればなし? でーと?
――絶対、デートだ!
俺は決めた、デートだ! そう決めたんだ、デートだ!!
食材をちゃんと場所分けして冷蔵庫にしまった。先に買ってあったもんを手前にして、今日買い足した分をその後ろに並べる。フェルはいつもこれを笑う。
「奥さま、そこまで気にしなくても良いかと思いますが?」
そう言って笑うんだ。でも、俺はフェルにいい加減なもんを食わせたくない。
ポトフは明日でも大丈夫だ。チキンを冷凍庫に入れるのは止めた。ちょっと味落ちるし。
次はシャワーだ。フェルが俺のどこ食べてもいいように隅々まで丁寧に洗った。今日はどんだけ抱かれたって文句言わねぇんだ。
新婚旅行から3週間経ったけど、まだそれほど髪が伸びてないのにがっかりする。
クローゼットを覗いて、フェルお気に入りのグリーン・ヘイズのスーツが無いのを確かめた。綺麗な薄いグレーのスーツ。
――やっぱ、デートだ!!!!
あの色に合う服…… ワインカラーのはフェルのお気に入りだけど何回か着ちまった。だから…… スコッチ・パインのスーツと、アイス・ベージュのスーツ。どっちにしよう。スコッチ・パインは俺の線を細く見せてくれるけど、フェルのきれいなグレーの色を消しちまうだろう。そこ行くとアイス・ベージュはきっと俺を優しい感じに見せてくれるはずだ。フェルは俺の服だけはちゃんとした店に連れてってまでして買わせてくれる。だからクローゼットは3分の2は俺の服で占められてる。
タイは何を選んだだろう。きっと俺が『これが合うよ』って言ったアクア・グレイだ。
目を閉じてその姿と俺が並んでるとこ思い浮かべた。俺の髪、あんまり伸びてない。だからYシャツにしたくない。ただの男になっちまう。ダブ・グレイのスタンドカラー。タイは無し。きっとこれならフェルも気に入ってくれる。
時計を見た。5時だ。うんと迷ってタイラーに電話をした。
「リッキー? 用意出来てるぞ」
へ? 俺、まだ何も言ってない。
「フェルから連絡あったんだ。リッキーから頼まれるかもしれないからその時はよろしくってさ。俺をタクシー代わりにするなよー。ま、ランチ奢るって言われたから頼まれてやるよ。支度出来たから電話して来たんだろう? でもちょっと早くないか? 多分30分で着くぞ」
全部……全部お見通し? どうやって行くか迷うこと。タクシー代を俺がケチるだろうってこと。車乗せてって頼むならタイラーだろうってこと。そうだ! ハンカチ持たなきゃ! 俺、絶対泣く。
「俺、一人で待ってらんねぇ。タイラーんとこ行っていい?」
タイラーが笑った。
「俺のとこ着く頃には6時近くになっちゃうだろ、リッキーは歩くんだから。分かった、すぐ出られるからそっちにに行くよ。店までゆっくり走ればいいさ」
「ありがとう、待ってる」
タイラーが来る前にと思って、ハンカチを選んだ。1枚じゃ足んない。2枚だ……もう1枚予備を持って行こう。でもスーツに合ういいのがない。(乗せてもらってる時に買おうか) でも、新しいハンカチは涙を 吸ってくれない。やっぱ一度水を通してなきゃ。も一回ハンカチのケースを見た。ホントは一色で3枚持ちたいんだ。だって『何枚持って来たんだよ』ってきっと笑われる。同じ色なら何枚持って来たか分かんねぇ。今度買う時にはそういうこと考えて買わねぇと。
しょうがないから無地の違う色3枚を俺は持った。なるべく薄い色。濡れた跡が目立たないような色。
5時半にノックがあった。
「リッキー! 随分お洒落したな!」
目を丸くしてるタイラーにほっとした。だんだんスタンドカラーのダブ・グレイが似合わないかと思い始めてたから。色がきついような気がして。でも薄い色だと俺の短い黒い髪が浮いちまう。
「これ……中のシャツ、おかしくないか?」
「どこがだよ! いいよ、充分似合ってるよ。フェルが、リッキーは何を着ても似合うんだって言ってたけどホントだよな。他の男がそういうの着ても絶対似合わないよ。リッキー、コーディネーターになったらどうだ?」
そういう仕事も面白いかもしんない。うん、面白そうだ! フェルのお蔭で、俺、何になってもよくなったんだよな? どんな仕事やってもいいんだ。
タイラーはのんびり走ってくれた。
「フェル、タイラーに説明した? このこと」
「いや、デートするんだってだけ。……俺、バカなことやってるなぁ。なんでお前ら夫婦のデートの運転手してんだよ」
そう言いながらもタイラーは笑ってくれた。俺、ホントにタイラーが好きだ。カラッとしてていいヤツだ。やっぱデートだった。やった! デートだ!!
「ごめんな、迷惑かけて。ホント、ごめん」
「言うなよ……お前らさ、負けるよ、ほんと。フェルが言ってたよ。きっとリッキーはすっごく謝るだろうって。でも聞いてやってくれって。そのまんま言おうか? 『それちゃんと言わないと、きっとリッキーは『ごめん』って言葉の中に溺れちゃうんだ』 おいおい、いい加減にしてくれよ! ってのが、俺の本音」
笑おうとしてタイラーが慌てて言葉を継いだ。
「頼む、泣かないでくれ。あんまりフェルのスケジュール通りになるなよ。たまげるよ、まったく。俺、ハンカチなんか持ってきてないからな」
――フェルのスケジュール通り
我慢しなきゃ、泣かないように。
そこからはタイラーが話を変えて、奥さんと子どものことをいろいろ聞かせてくれた。『二人に今度会ってくれないか?』って言うから『喜んで!』って答えた。『すごく可愛いんだ』ってデレデレの顔。
子ども……って思いかけてシェリーの言葉を思い出した。
『なに、卑下してんの!?』
そうだな……そうだよな、シェリー。何でもマイナス方向に考えちゃいけない。フェルはいつも前向いてる。そういうとこ、見習わなくちゃいけねぇんだ。フェルと一緒になって、俺はフェルの生き方が見事だと思うようになった。俺、フェルを好きになって良かったって、一目惚れしたの、間違いじゃなかったって思った。絶対に俺を掴んで沈ませない。いつだって、前に、上に俺を引っ張ってくれる。だから俺も後ろや下を見ないようにしなくちゃ。
ビュッフェ エレニーズ
「駐車場には入らないからな。それと、迎えは勘弁! お前たちの連絡待つなんて真似、間違ってもしたくない。いいな? 帰りはケチらずにタクシー使ってくれ」
気もそぞろでタイラーにお礼と、『もちろんだよ、分かった』って返事した。
「本当に分かったんだろうな! お前、上の空だろっ!」
どうして誰も彼も俺のこと分かるんだよ。前は『リッキーの考えてること、よく分からねぇ』ずっとそう言われてきたのに。
「あの……」
「どちらさまとお待ち合わせでしょうか?」
優しい笑顔の女性。中はすごく広かった。そんなにうるさいんじゃなくって、スローだけど重くない曲が流れてる。ちょっと地中海風な感じ。
「ハワードです」
そこまで言って、どきどきする。『こちらへどうぞ』って案内される後ろを歩く。いろんな匂いが立ち込めて、でも減っていたはずの俺の腹が、今はいいって言ってる。
見えた! フェルだ!!
俺を見てフェルが立った。あの笑顔が浮かぶ。わ……すてきだ…… どうしよう、すてき過ぎる…… ビシッと立ったフェルをそばの女が思わず見上げて同じテーブルの女たちに何か囁いた。みんながフェルを見上げる。
(俺のもんだ! 見るな!!)
そう言えば、今朝フェルは熱出してたんだっけ。なんでそんな大事なこと忘れてたんだ? ああ、体温計持ってくれば良かった。
案内の人が立ち去って、フェルが椅子を引こうと後ろに来ようとするから手を上げて止めた。さすがにそれは恥ずかしいよ、フェル。
「良かった! 都合悪かったらどうしようって思ってたんだ。きれいだ、リッキー……」
俺の姿をじっと見てフェルが微笑んだ。
「俺、あのメモ見て、嬉しくって、支度して、タイラーに電話して」
「分かった、分かった、ゆっくり喋れよ。僕はもう忙しくなくなったから。心配かけて悪かったな。リッキーが辛そうなの、見てて分かってたよ。我慢してるのも。だけど言えなかったんだ」
ラッピングした細いケースがワインの横に置かれた。
「遅くなってごめん。誕生日プレゼントだ。胃潰瘍であまり食べられないリッキーを食事に連れ出せなかったし。それに金も貯まってなかったからすっかり遅くなっちゃった。リッキー、今日だけ11月2日にしてくれる?」
ハンカチ3枚は失敗だったかも……今、2枚使っちまいそうだ……
「OKってことだね? 開けてみてくれるかな、それ」
俺はぽたぽた落ちる涙放っといてラッピングを外した。気持ちを落ち着けてケースの蓋を開ける。
ゴールドのチェーン
「前に現場で指輪のことすごく気にしてたろ? だからチェーンがあったらいいかなっておもったんだよ。シルバーにしようかとも思ったけど、肌に優しいのはゴールドだって言われてさ」
俺は急いで指輪を外した。2個ともチェーンに通して首にかける。どう? ってフェルを見た。スタンドカラー、着てきて良かった。
「うん! 良かった、それにして。身に付けるのはお洒落な男性なんだって言ったら21インチくらいがいいって。素肌でもシャツにでも合うからって……泣くなよぉ、ハンカチ持って来たか? 何枚持って来た? 一応、僕も2枚持ってきたから足りなかったら言えよ」
何から何まで分かってんだ、フェルは。俺のこと、何もかも。指輪気にしてんの、気づいてるなんて思わなかった。外すと失くしそうだし、どうしていいか分かんなかった。寮に置いていくのはもっとイヤだった。
――傷、つけたくない
どうしていいか分かんなかった……
「喜んでくれて嬉しいよ! じゃ、今日は楽しもう。もっとちゃんとしたレストランにしようかって迷ったんだけど僕たちみたいな男には量の方が大事だと思ってさ。それでビュッフェにしたんだよ。たくさん食って、帰ってからたくさん体操しよう!」
『体操』、グランマがそう言った。
「俺、『たくさん』は困る。フェルの『たくさん』は怖い」
「やっと笑ったね」
にっこりと笑うフェルがすごくきれいだ。
「行こう、美味いもん、うんと食べよう! たまにはリッキーも家事から解放されなくちゃな」
でも、明日はポトフ作るからな。お前に美味しいもん食べてもらいたいんだ、俺は。
ビュッフェに並んで、俺はフェルの世話を焼いた。
「フェル、野菜も取れよ。肉ばっかじゃだめだ。海藻も食えって。体にいいんだぞ。同じ色で取っちゃだめだ、いろんな色食べる方が体にいいんだ」
とうとうフェルが笑い始めた。
「奥さま、頼むよぉ。羽目外して食べたいよ」
「だめだ、体第一だ。お前疲れて見える。今朝熱もあったろ? だからビタミン多く摂らねぇと」
俺がいなくっちゃ栄養バランスなんかフェルは考えないんだから。それは俺の役目なんだ。二人分の健康を考える。それは妻の仕事だ。
食べられないかもって思ったけど、食べ始めたらしっかりした量が食えた。俺は海のものが中心。フェルは肉が中心だ。ワインをお代わりして、お喋り楽しんで、俺はいつの間にか首にかかってるチェーンを指でいじって。
「気に入ってくれたの、すごく嬉しいよ!」
「帰り遅かったのって……」
「マスターに頼んでさ、カフェでバイトさせてもらってたんだ。まさかお前、変なこと心配したんじゃないだろうな?」
「へ、変なことって?」
「浮気してんじゃないかとか、帰って来たくないんじゃないかとか。そういうのを "変なこと" って言うんだよ」
「考えてない! 捨てられるとか、考えてない!」
「お前さぁ……」
手を握られた。熱い親指が俺の手を撫でる。
「これっぽっちもそんなこと、考えないよ。だって僕はお前にベタ惚れなんだからな。どんな美女だってお前の前じゃ霞む。僕にはお前しか見えないんだ」
放した手がフォークとナイフを掴んだ。
「目いっぱい食っとこうぜ、何せ今夜はスタミナ使うからな」
「俺、そんなこと言うフェルについてけねぇよ。もうちょっとロマンチックに言えよ」
フォークで肉を口に突っ込みながら上目遣いで俺を見た。わ! まるでライオンが餌を前に舌なめずりしてるみたいだ、今夜食い殺されるかも。
「奥さま、今夜は何回抱いていい? ご希望は?」
「どうせ、すぐに数えなくなるくせに」
「一応聞いとこうと思って。じゃ、任せる?」
「でも『ヤだ』って言ったら終わりにしろよ。俺、死ぬ」
「じゃ、死なないくらいにしような」
店を出て、腰に手を添えられながら歩いた。
「酔い覚ましに少し歩こうか」
頷いて一緒に歩いた。腰に当てられた手が熱い。
「フェル、キスして」
すぐ立ち止まってキスをくれるフェル。俺は唇を離した。
「何だよ、いくらもキスしてないぞ」
その抗議に耳を貸さずに通りに手を上げた。すぐにタクシーが止まった。フェルの体を押しこめる。行き先を言って飛ばしてもらった。
「どうしたんだ? まさか」
そこで俺の耳元で小さく囁いた。
「待てない? すぐベッド?」
呆れ果ててフェルの足を蹴った。
部屋に入ってすぐフェルのスーツをひん剥いた。
「ずいぶん今日は激しいな!」
驚いてるフェルをベッドに突っ込む。ついでに取って来た体温計をフェルの口に突っ込んだ。
「はひ ふるんふぁ」
「『なにするんだ』って言ったのか? 分かんねぇか? 熱測ってんだ」
冷蔵庫からゲータレード出して半分に薄める。取られる前に体温計を引ったくった。
「102度(38.9℃)。バカッ! SEXなんかしねぇからなっ!! これ、飲め!」
ゲータレードをカップになみなみと注いで渡した。残さねぇように見張る。バスルームに行ってバスタブに腰くらいまで水を張った。
戻ってフェルを見たら目を閉じて肩で息してる。
「俺、嬉しかった。フェルが俺のことすごく考えてくれてんのが。でも、体壊してまで無理してほしくない。そんなのイヤだ。フェル、いつも強気で無茶すんだろ? それが怖いよ。ジーナ母さんにも言われた、無茶な子だから頼むって。だから俺、こういうこと加減しねぇからな」
フェルは大人しく頷いた。
「104(40℃)度越えたらバスルームに連れてく。今、暑いか? 寒いか?」
「暑い」
ブランケットを全部剥がす。靴下を持ったらフェルが文句を言った。
「リッキー、濡れた靴下はいやだ、嫌いなんだ」
「黙れ、熱下げんのに何でもやるからな」
フェルの足元にビニールを広げて濡れた靴下を履かせる。後、やることは? そうだ、チキンを買ってあった! ポトフ用だったチキンを取り出す。小さく刻んだ玉ねぎを入れてスープを作りながらフェルを見たらすうすう眠ってる。やっぱり靴下、効果あるじゃねぇか。
風邪なんだろうか、疲れとか……なんか重い病気だったらどうしよう…… 朝が来て熱が下がんなかったら絶対病院に連れて行こう。
夜中、息苦しそうだからまた口に体温計突っ込んだ。106度(41℃)…… どうしよう!!!! 温度見て、パニックになった。
「シェリー! 熱が下がんねぇんだ!」
「りっきー? あんた、何時だと思ってんの? 3時じゃない!」
「それどころじゃねぇんだ、フェル、106度あるんだ!」
「ああ……また無理して黙ってたんでしょ。小さい時から熱があっても上がりきっちゃうまで我慢する子だったの。氷じゃ間に合わないわね。バスルームに水」
「張ってある!」
「じゃ、放り込みなさい! それでだめなら病院。分かった? 熱下がんなかったらまた電話しておいで。フェルに何か聞いてもどうせ『大丈夫』しか言わないから、最初っから聞かないこと。騙されないようにね」
フェルを担いだ。これが逆ならフェルは俺を抱き上げるんだ。けど、デカいフェルを抱き上げるなんて俺には出来ねぇ。
「りっきー? いいよ、あるく」
「黙れ、騙されねぇ」
歩けるわけねぇんだ。裸にひん剥いてバスタブに入るのを手伝った。しばらく放置! 出たとこを手早くタオルで拭いてシーツでくるんだ。
「少しは楽になったか?」
「ああ、らくだ」
歯がガチガチ言ってる。冷やし過ぎた? またゲータレードを飲ませてベッドに押し込めてブランケットかけた。
「炭酸の方がいいか?」
「ほしくない」
もう目を閉じてる。俺はコーヒー作って椅子に座った。熱が上がり過ぎると吐くこともあるって何かに書いてあった。目、離すわけにはいかねぇ。
ふわっ と 体が浮いた気がした
やわらかい とこに ねころがったみたい
あとは おぼえて ねぇ………
ハッと飛び起きた。朝だ! フェルは!? 俺のいたのはベッドの上だった。隣にフェルがうつ伏せに寝ていた。ブランケットが落ちかけている。起き上がった俺に気づかずに、すぅすぅ と寝息が聞こえた。顔を触る。あんまり熱くない。そっと下りてブランケットをちゃんとかけ直した。
時間を見ると7時過ぎだ。俺はゲイリーに電話をかけた。
「ハワードです」
「やあ、おはよう、リッキー」
「今日俺たち休み貰いたいんです」
「補習か?」
「フェルが熱出したんです。俺、夕べから面倒見てて」
「やっぱりな! 様子おかしかったからな、動きが鈍かったよ」
「ホント……ですか?」
「こっちは心配するな。なんとかする。ちゃんと治ってからまた頑張ってくれ。来れるようになったらまた連絡しろ。いいな?」
「分かりました。お願いします」
昨日はフェルは現場に行ってない。ってことは、ゲイリーがフェルの様子に気がついたのは一昨日ってことになる。ゲイリーにはちゃんと具合悪いのが分かってたんだ。
俺はちょっとショックだった。奥さんなのに…… 自分のことばっか考えてたせいだ。
9時ごろシェリーが来てくれて、シェリーお手製の焼きたてのパンと買って来たミルクやフルーツをくれた。
「どう? 熱は下がった?」
「うん、下がった。今はずっと寝てる」
「あんたが参っちゃだめだからね。ちゃんと食べなさいね。どうしたの? 浮かない顔して」
「俺……熱に気づくの、遅かったんだ。現場の監督は気づいてたって言ってた」
「リッキー、また落ち込んでるのね? フェルはね、特に身内にはそういうの隠すの。人の心配は異常にするくせに自分のことは『熱なんて病気のうちに入らない』ってね。すぐ我慢するっていうのを覚えといてあげてね。あんたも苦労するわねぇ……」
シェリーがしみじみ言うから俺は頑張って笑った。
「大丈夫。今度からちゃんと俺が見るから。他人に負けてらんねぇ。差し入れ、ありがとう。俺もちゃんと食うし、フェルにも食わすよ」
「お願いね。じゃまた何かあったら連絡ちょうだい。夕べみたいに怒んないからね」
フェルの目が覚めたのは10時過ぎだった。
「あれ? リッキー?」
「俺、ここ!」
水、張りっぱなしだったバスタブを洗ってた。もう終わるところだったから急いでフェルのとこに行った。
「熱、下がったみたいだけど、気分どうだ?」
「もう大丈夫だよ。ありがとな、心配かけちゃった」
「お前、一昨日から具合悪かったろ」
「え? そうでもなかったけどな」
「ゲイリーはそう言ってた、しんどそうだったって」
「そうか? 気がつかなかったよ」
「俺の食事食べなくなってすぐ熱出したな。もう一人でどっかで食べるなんて許さねぇ。外食ん時は俺がこれっていうもんは絶対に食べろ。食事管理は奥さんの仕事だからな。抗議は聞かねぇ!」
「……はい」
「よろしい」
チキンスープを温めにキッチンに行こうとして、後ろからフェルの笑い声が聞こえ始めた。
「なんだよ!」
「母さんみたいだ!」
「ジーナ?」
「うん、そう! 母さんもそうやって有無を言わさない時があったよ。リッキーは奥さんで母さんなんだね!」
俺は嬉しいのかなんなのかよく分かんなかったけど……いや、やっぱ嬉しかった。フェルにとって俺は本当に特別なんだ。
食事の前に熱測ったら99度(37.2℃)。
「悪かったな、今夜しよう」
「だめだ。熱が98度(36.6℃)になるまでセックスはお預けだ」
「えぇ……きっと下がるよ、大丈夫だよ」
「フェルの大丈夫は聞かないことにしたんだ。騙されねぇからな」
「騙すってなんだよ」
「聞かねぇ」
ブスッとした顔でパン食ってるのを見て、俺は思った。
―ガキみてぇ―
それが可笑しくて、笑い出しちまった。フェルが『なんだよ』って顔したのがまた可笑しかった。
俺、ホントに母さんになったのかもしんない。フェルは俺が見ててやんなきゃいけねぇんだ。一生俺がそばにいて見てやるんだ。
やっと自信がついてきた。俺がいないとフェルはだめなんだ。
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