Fel & Rikcy  第3部[9日間のニトロ]

1- F

  1日目 

  

「おい! フェル!! 下りて来てくれ!! 急げっ!!!!」

 

 現場監督のゲイリーが下から3階にいる僕に怒鳴った。その切羽詰まった声に、直感的にリッキーに何かが起きたのだと思った。飛ぶように階段を駆け下りる。何人かが囲んでいるその中にリッキーが倒れていた。周りに血が飛び散っている。

「リッキーッ!!」

 僕は手前のダグを突き飛ばすようにその足元に膝を落とした。抱き抱えようとしてそばに座り込んでいるゲイリーに腕を掴まれた。

「様子が分からない、下手に動かすな!」
「どっかから落ちたんですか!?」
「いや……」

リッキーの右腕を指差した。腕の付け根にぎっちりとタオルが食い込んでいる。でもそれは赤いタオルだった。

「縛ったんだけど血が止まらないんだ、時間もだいぶ経ってるみたいで……」
「一体、何があったんですか!!」
「フェル、分からないんだよ、アートが来た時にはもう倒れてたらしいんだ」

リッキーの腕を掴んだ、溢れる血が指の間を伝う…… そばに立っているアートを見上げた。

「フェル、俺にも分からないよ。叫び声が聞こえたような気がしたんだ、『やめろ!!』って。あれはリッキーの声だったと思う。俺、すぐ来れなくて……」
「じゃ、誰かがケガを負わせたってことか!?」

そばにいるブライアンが僅かに目を逸らした。

「ブライアン!!」
「俺、
何も……」

 その間にもリッキーの顔から赤みが消えていく。上着のボタンが千切れていて前がはだけている。何が起きたのかなんて聞く必要もないくらいだ。その時気がついた、リッキーのチェーンが無い。目を走らせて頭の脇に落ちている切れたチェーンを掴んだ。指輪が無い。

「救急車は!?」
「呼んだ、もうすぐ来る!」

「……ふぇる……」
「リッキー! 聞こえるか、ここにいる、分かるか!?」

ゆっくり目が開いて震える様な声でリッキーが囁いた。焦点が合ってない。

「ごめ……おれ、ころんだ……」
「どこが痛い!? 腕だけか!? 誰がやった!?」

自分がほとんど怒鳴ってることが分からなかった。ゲイリーが僕の肩に手を置いた。

「フェル、落ち着け! 良かった、さっきまで何の反応も無かったんだ」
「おれ、ころん……、どじ、ふん……わるいふぇ……」

途中から目が閉じそうになる。今度はそっと聞いた。

「リッキー、どこが痛い?」
「て……せな……」
「手と背中だな? 頭は? 足とか」
「……ゆうめし、つく……」
「そんな心配いらないよ、何も心配するな、リッキー」

目が大きく開いた。

「フェル、気をつけろ、フェル、気をつ」

 それだけをはっきり言って、後は気を失った。リッキーの下にちらっと見えた物を引っ張り出す。大型の万能カッター …… ベニヤ板くらいなら軽く切断するナイフ。濡れているのはリッキーの血のせいだ。

「これ、誰のだよ!!」

「フェル、みんな一つは持ち歩いてる。だがこれで仲間内の誰かが犯人ってことになったな」

 ゲイリーが愕然とした顔で呟いた。でもリッキーは転んだと言い張った。一体何があったんだ……

 やかましいサイレンがすぐそばで止まった。先に来た救護の男が振り返って「ストレッチャー!」と怒鳴った。足場の悪い現場にカタカタとストレチャーが押されてくる。手際よくそれに乗せられてリッキーが救急車に運ばれていく。

「フェル! 連絡くれ! 俺も後で行くから!」

ゲイリーに頷いて、救急車に乗り込んだ。すぐにいろいろ聞かれてテキパキと受入れ先の病院とのやり取りが始まった。

「ウェインライト・メディカル・センター、了解。4分で着く。受入れ準備よろしく。患者はスパニッシュ、20歳、男性。右上腕動脈損傷。腰部裂傷。出血多量、現在輸液を投与中。外傷性ショックを呈していると思われる。意識混濁……」

 後は聞こえちゃいなかった。関係を聞かれて夫婦だと答えた所は辛うじて覚えている。全部が夢の中みたいに、遠い世界のように、ただリッキーの染まったシャツの赤を見つめていた。冷えた手を握りしめながら。

 勝手知ったる病院で良かった。確かにこの辺では救急と言えばこの病院に搬送されるんだけど。廊下ですれ違ったのはリンダ。リズの同僚のナースだ。

「フェル、どうしたの!?」
「リズに知らせてくれ、リッキーが重傷だ!」

それだけ伝えて運ばれていくリッキーのそばを足早に歩いた。最初に入った処置室で素早い指示が出される。

「外科のガーフィールド先生に。手術室、どこが空いてる!? 第4? じゃ、すぐ運んで。向うでレントゲン。輸液はこのまま。輸血パック、用意して」

救急外来のドクターが振り向いた。

「フェル、ついてくだろう?」

ああ、そうだった。僕を知ってる先生もナースも多い。

「危ない……んですか……?」
「僕も助手で入る。全力を尽くすからね。ショック症状が落ち着きさえすればすぐ手術に入れる。きっと大丈夫だ」

   全力を尽くす

 

その言葉の意味は、今は危険だということだ。頭の中に大きな空洞が出来た。そのドクターに頷いて運ばれていく白いリッキーのそばを歩いた。

「リッキー? 聞こえるか? リッキー」


   ウィー―ン

返事が返ることも無く、手術室の中にリッキーは吸い込まれて行った。僕はその前で呆然と突っ立っていた。

「フェル、大丈夫? 聞いたわ、リッキーのこと」

リズだった。声を聞くまで自分が立ったままだったことにも気づかなかった。

「座って。コーヒー持って来たから飲みなさい」

言われるままに飲んだ。思考が、追いつかない。

「手術室に入ってどれくらい経つ?」
「分からない、覚えてないよ、リズ」

「フェル。あなたが入院してたあの大変な時……リッキーはあなたのことを一番に優先して冷静に対処してた。本当に立派だったわ。だからあなたもしっかりして。担当が私になれるように婦長に掛け合ってみる。あなたが関係してるから多分通ると思う。いい? こんなこと私が言うの何なんだけど…… あの時のこと、最大限に活用しなさいね? 病院はきっと言うことを聞くから。ナースはみんなあなたの味方だと思って。連絡すべきところには電話したの? そういうことをなさい。こんな風にじっとしてちゃダメ」

リズに背中を叩かれて大きく息を吸った。

「ありがとう、リズ」

 僕は携帯を手に取った。

分かった! すぐ行く! あんた、大丈夫? こういう時こそあんたの冷静さが物を言うんだからね。頑張んなさい、フェル。他の事は全部任せなさい』

 シェリーの声を聞いて落ち着いた。次はゲイリーだ。僕は必要なことをこなし始めた。

 


 シェリーはもうすぐ来る。ゲイリーは夕方来ると言っていた。そうか、今3時半なんだ。いつもなら『休憩だ!』とリッキーが飛びついてくる時間……

 今は思考を停止しちゃいけない。母さんとビリーは夜に着く。ふと、思う。リッキーにはこんな時に知らせるべき親族さえいないんだ…… あの老人が思い浮かんだ。けれどどこの国かさえ分からない。知らせようが無い。

 

 現場のことにようやく頭が行った。ゲイリーと僕らを除いて、作業員は11人。6人はしょっちゅう冗談を言い合い、飲み物を奢り合う仲だ。でもその中に最近仲良くなったブライアンがいる。彼は何かを知っていた。あの顔はそういう顔だ。仲間内の誰かが言っていた、ブライアンは訳有りなんだと。

 他の連中を思い浮かべる。嫌悪とまではいかないが僕ら夫婦を快く思っていない5人。ヘンリー、ナット、マーク、ジム、ランディ。

 特にマークは最近急に僕に絡んで来た。彼の場合は嫌悪と言ってもいいのかもしれない。

『ゲイは嫌いだ』

そうアイツは真正面から言った。けど、いちいちそんなのに取り合っていられない。だから全く反応しなかった。

『ここを辞めろよ! 余所で働け!!』

一昨日、作業してる僕に怒鳴ってるのを見かけたリッキーが駆け寄って来てヤツを突き飛ばした。

『リッキー、反応するな。雑音だ、雑音』

手も止めずにのんびりと言う僕に、マークが突っかかって来た。

『気持ち悪いんだよ、お前たち。一緒に働くのは御免だ』

『じゃ、辞めれば?』

リッキーの言葉に振り向いて殴りかかろうとするマークの腕を掴んだ。

『その辺にしとけよ。リッキー、行け。ここは問題無い』

頷いてリッキーは持ち場に戻って行った。

『リッキーに絡むな。その時には容赦しない』

その後はいつも通りに作業に戻った。マークの睨みつける目が脳裏に浮かぶ。

「フェル!」

シェリーの声だ。顔を上げると一団体が見えた。シェリー、タイラー、エディ、ロジャー、ロイ、レイ。

「みんなで来たのか?」
「ロジャーが連絡くれてさ、どうなんだ、リッキーは。重傷だって、どういうことだよ!」

腕を掴むエディの真剣な顔が事の重大さを僕に突きつけた。落ち着こうと何度か呼吸する。

「現場で血だらけで倒れてるのを仲間が見つけた。何も分かっていない。一度目を開けたけどリッキーは転んだって僕に言った。でもそばに大型ナイフが落ちてたんだ。出血多量で意識混濁で、医者は……全力を……尽くすって」

息を呑むみんな。

「心当たりは!? なんかあんだろ、そんなの! 他の連中は何やってたんだよ!」
「分からないよ、ロイ。僕は3階で作業してたんだ」


 まだ泣くような場面じゃない。リッキーは中で戦っている。僕のそばに戻るために戦っているはずだ。手術室を見つめている僕の耳に、さほど間も空けず冷静なエディの声が聞こえた。

「ロジャー、調べよう。第三者なら見えてくるものもある。フェル、今リッキーとフェルが抜けたんだから現場は手が足りないはずだよな? タイラー、時間取れる? 中に潜り込んで欲しいんだけど」

「エディ! そんなこと頼めないよ! 監督のゲイリーが後で来る、事情は彼に聞く」

「フェル、考えろよ。これは事件になる。警察が絡んでくる。みんな口が固くなると思う。だから中に潜り込むのが一番手っ取り早いんだ」

「俺は手を空けられるよ、エディ。俺が行く」
「二人で入ろう、レイ。その方が情報も集めやすい」

「じゃ、タイラーとレイは中に入る。フェル、後で監督が来るんだね? 二人を紹介してくれ。他の作業員には知り合いだということを言わないように忘れずに頼むんだぞ。僕とロジャーとロイは外から調べるよ。何か分かれば全部知らせる。後でいいから現場のメンバーのこと、教えて」


 ——なんてチームなんだ……


「フェル、やってもらいなさい。私も警察が入ったら蚊帳の外に置かれると思う。エディの提案は大胆だけど、みんな手放しで見てるタイプじゃないわ。逆に心配なの、あんた一人で動き出すのが。お願い、みんなに頼んで」

 確かに僕は今動けない。でも何があったのか知りたい。警察は調べたことを教えちゃくれないだろう。現場の連中も口を閉ざすだろう。ゲイリーはきっと作業員のやり取りなんか把握しちゃいない。彼はいい人だけどお人好し過ぎるんだ。僕は頷いた。それで決まった。

   ウィー―ン

 

ドアが開いた。


 点滴を掴んだナースが付き添うストレッチャーが運ばれる中、主治医になるDr.ガーフィールドが説明を始めた。彼とは面識がある。30代後半の安心できるやり手の医師だ。

「危機は脱したよ」

目を閉じる。呼吸が止まっていたのを感じた。

「大きな傷は2ヶ所だった。上腕部と腰部。動脈損傷だったから大量の出血になった。輸血もして今は落ち着いている。上腕部の骨に」

そこまで言って口を閉じた。

「冷静に聞いてくれるね?」

頷いた僕に言葉が続いた。

「骨に折れた大型カッターの刃が突き刺さっていた。よほどの力で刺したんだと思うよ、骨に食い込むほどのね。そばにある腱は傷ついてなかったから治れば後遺症は出ないはずだ。腰部の傷口は小さいがかなり深い。だが真っ直ぐ刃が入ったお蔭だな、際どいところで内臓から外れていた。今の状態は安定している。だが絶対安静が必要だ」

目を閉じて、開けた。

「ありがとうございます、先生、本当に…… 一つ聞いていいですか?」

うん? と言う風に眉が上がった。

「全く違う場所に傷を負ったんですよね。それが意味しているのは」

「手にいくつも防御創があった。前方からの刃物に対する傷だ。そうだ、君の考えている通り、彼は前と後ろから切りつけられたんだ。犯人は複数だ」

聞いていたみんなからは何も声が出なかった。


「フェル」

シェリーの小さな声が静かな廊下に恐ろしく通る。

「こっちを向いて、フェル」

ゆっくりと僕は後ろを振り向いた。

「あんた、何するつもり? 今はリッキーから離れないわよね? あんた」

腕を掴まれる。僕はどんな顔をしてるんだろう、シェリーの手に力が入った。

「やったヤツに心当たりがあるのね?」

僕はそれに返事をせずにICUに向かった。意識が戻るまでリッキーはそこにいる。

 

 

  日目

 

 


!Aguas! Fel !

 白いリッキーが寝ている。僕はその横の椅子に座っている。包帯が巻かれた手をそっと握って、もう一度目が開くのを待っているんだ。

 静かに上下する胸。もう命に別条は無いと言われた。それでも手術が終わるまでは危なかった。あの後、Dr.ガーフィールドがもう一度経過を説明してくれた。

 手術室に入ってすぐに一度心臓が停止したのだと。外傷性ショックで。

  ――お前のためなら何でもやる

 

口を開かない僕にシェリーは話すのを諦めた。みんなも諦めた。

  ――リッキーが目を覚ますまでは


 ゲイリーの対応はシェリーとエディがした。僕は忙しいんだ、リッキーの手を握ってなきゃならない。目を醒ましたら僕を探すだろう。母さんが、ビリーが来た。でもリッキーが目を開けないから目を逸らすわけにはいかない。

!Aguas! Fel !

 囁くように叫んだ言葉。何を言ったんだ? やっと漏れた、うわ言。

!Aguas! Fel !

 

なぁ またお前の国が絡んでるのか?

 

  ――お前のためなら何でもやる

 目が、開いた。どこにいるのか、自分がどうなっているのか分からないんだろう。そのままじっと天井を見ている。僕は焦らなかった。もう大丈夫。リッキーの目が開いた。

 僕は動ける。

 

 

 

Fel……
「ああ、僕ならここにいるよ」

 

 何度か瞬きをして、僕の顔を見つめるリッキーが子どものように頼りなげに見えた。まだスペイン語を引きずっている。
(帰って来いよ、リッキー)


 しばらく間が空いて、口が開いた。

「フェル、俺……」
「おはよう、寝坊助。もちろん見てたのは僕の夢だよな?」

また、瞬き。

「俺、どうしたんだ?」
「覚えてないか?」

目が僕から離れた。思い出そうと頭の中で記憶を追っているんだろう。

「俺、転んだんだ、現場で」
「そうか。でもリッキー。警察には多分その話は通らないよ」

驚いた顔がこっちを向いた。

「いいよ、僕は聞かない。何か思い出したら言えばいい。警察には正直に覚えてないと言えばいいんだ。事故の直後だから記憶が混乱するのは当たり前だからな。分かるか? お前がうっかり落としたナイフなら僕が持っている。別に構わないよな?」

 

 じっと見つめる目がまるで縋るようだから、何度も頬を撫でた。

「ゆっくり良くなれ。急がなくていい」
「あり……」

瞬きをしない目から涙が落ちた。腰を浮かせてそっと口づけた。

「何も言わなくていい。お前はただ良くなればいいんだ」

 

  日目

 担当だというトム・ウィルス刑事は同僚のピート・アディソン刑事と違ってあまり仕事熱心には見えなかった。

「えぇと、被害者のリチャード・ハワードとは夫婦だって?」
「はい」
「で? 痴情の縺れとか? そんなところかな?」

「ちょっと、ウィルス刑事」
「さっさとはっきりさせた方がいいんだ、ピート。アルバイトの学生夫婦の片割れが刺されたなんてのはよくあることじゃないか。この前もそうだった。ゲイ夫婦はどこに行ってもトラブルの元にしかならん」

 そばにいたシェリーが食ってかかろうとするのを感じたから先に口を開いた。

「刑事さん! 犯人を捕まえてください! きっとあの連中の中にいるんだ!」

 シェリーが驚いた顔で振り返ったけど視線はトムからずらさなかった。ピートっていう若い刑事は厄介そうだ。でも主導権はどう見てもこっちのトムが握っている。僕としちゃその方が有難い。


「お願いだ、彼の仇を打ちたいんだ!」
「はいはい、血迷うんじゃないよ、学生さん。こんな事件はすぐ片がつくから。聞くこともあまり無いし、あんたはその妻だか夫だかのそばにいてやれ。俺を煩わせるな」
「でも!」
「うるさい、分かったから。行こう、ピート。まったくこんな事件ばかりじゃ腐るよ」

 

 

 

「あんた、追っ払ったわね?」

「面倒だからね」

そばにある自販機でコーヒーを買ってシェリーに渡した。

「シェリー、アクアってスペイン語ではどういう意味?」

「アクア? 英語とあまり変わらないわよ、水」

リッキーがうわ言で 水 なんてスペイン語で言うわけがない。あれにはきっと別の意味合いがある。 確かに " Fel " と言った。

「他に意味無いのかな。スペイン語独特の意味とか」

シェリーが探るような目つきになる。

「リッキーが言ったのね?  国とは切れたんじゃなかったの?」

「さあね。ゲイリーはなんて?」

「早く良くなるといいって。警察と話さなきゃならないからってすぐ現場に戻ったわよ。タイラーとレイのことは単純に喜んでたわ、助かるって。あれじゃ大した話は聞けないわね」

シェリーの言葉は相変わらず辛辣だ。

「悪い人じゃないんだ。じゃ、二人はもう働けるのか?」

「早速ゲイリーが連れてったわよ。この事件のことであれこれ他の人に聞かれるのはイヤなんだってタイラーが言ったら、あんた達の友人とは言わないって。ま、こっちは助かるけど、ああいう人で」

 

 コーヒーを啜っている僕をシェリーが見上げた。

「何考えてんの?」

「別に。リッキーのことだけ。母さんとビリーは?」

「取り敢えず荷物を置きにホテルに行ったわ。あんた、何も喋らないから」

「もう僕は落ち着いたよ。リッキーも今は眠ってるし。もうしばらくはそばについてる気だから」

「その後は?」

「後? 特に何も。みんなからの情報を待つよ。今は何も出来ないだろ?」

「ふ~ん。現場から凶器のナイフが消えたらしいわよ、ゲイリーが言ってた。なぜ消えたのかしらね?」

「犯人が隠したんじゃないのか?」

「フェル」

僕の空っぽの紙コップを掴んだ。

「そうだといいわね」

 

 


「刑事は?」

「帰ったよ。心配しなくていい、僕らはただのゲイ夫婦に見られてる。単なる痴情の縺れだろうってさ。お前の身元を調べることは無いと思うよ。一応保険かけてエウシュロフネ・トゥキディデス教授に電話してある」

「エシュー?」

「ああ。笑っちまうな、フルネームで刷り込みされてるんだから」

笑顔が浮かんだ。そうだ、お前はのんびりと笑ってればいいんだ。何も心配するな。

「聞かれたら教授の身内だと言えばいい。贔屓されてるって見られたくないから今まで黙ってたってね。後は教授が引き受けてくれる」

「みんなは? エディとかタイラーとか」

「落ち着くまで来ないでくれって言ってある。お前も困るだろ? あれこれ聞きたがるだろうから」

安心したように目を閉じてほぉっと息を吐いた。

「疲れたろ? 寝ていいんだぞ、僕ならここにいるから。何かあったら何でも言えよ、奥さま」

口元に笑みが浮かんだ。

「水、欲しい」

「分かったよ、奥さま」

「口移しがいい」

閉じた瞼にキスを添える。

「これは前菜だから」

 冷たい水を口に含んだ。触れた途端に熱を持った唇が開く。飲み終わる頃に手が首にかかるからそっと離れた。外した熱い手を持ち上げて包帯の無い場所に口づける。

「奥さま、これで我慢して」

 開いた目が笑った。僕らはこれだけで満たされるんだ。