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「 J (ジェイ)の物語」

第一部
1.過去にさよならを

 ジェローム・シェパードは5歳の時に事故で父を亡くした。

 社用で母国アメリカに戻った父ハリー・シェパード。仕事を終え、実家で2日過ごし日本に帰国するはずだった。
 前方の車の追突の煽りを受け、横転した大型トラックは周りにいた6台の車に不幸な結果をもたらした。赤々と燃え盛る車の中に閉じ込められたまま亡くなったのは11名の男女たち。

 その中にハリーはいた。

 母、鈴花(すずか)は2人目の子どもを身ごもっていた。悲報を聞き強いショックを受けた鈴花は、妊娠7ヶ月で早産。子どもは助からず、自分は起き上がることも出来ない……葬式どころか渡米さえ出来ない鈴花は、悲しみのあまり長い病床に就いた。

 母と、ハリーとの忘れ形見ジェロームを引き取ったのは実家の宮里家。
 両親の猛反対を押し切りハリーと結婚した鈴花だったが、それでも両親は病身の娘を暖かく迎え入れた。やっと取り戻した一人娘。大事にしないわけがない。

 

 ジェロームは、父ハリーによく似た子どもだった。利発で人見知りをしない彼は鈴花のお気に入り。父は母を『Rin』と呼んでいた。だから幼い彼も母を『りん』と呼んだ。けれど、小さな彼が邪気なく向けた笑顔を祖父母が受け入れることは無かった。
「りん!」
 そう呼んだ後、母のいない所で叩かれた。
「母親を呼び捨てとは何ですか!」

 古い風習が残る田舎の小さな町。それほど外国人との関わりも無い町。ジェロームの前に立ちはだかる世界は、大らかで笑いに溢れた父のいた世界とはあまりにもかけ離れていた。

「ただいま」

 小さな声で玄関をカラカラと開ける。銀色の世界から家に入ればふわっと温もりに包まれるものだ。けれど小学4年生のジェロームを包んだのは容赦無い祖母の声だった。

「遅い! 何をしていましたか?」
「あの、ごめんなさい、お祖母さま。先生に職員室に呼ばれていました」
「『あの』は余計です。またケンカですか」
 ジェロームの目尻から頬にかけてうっすらと赤い傷跡が残っている。
「これは同じクラスの友だちに引っかかれて……」
「まったく、乱暴ばかりしてみっともない。洋服は汚していませんね?」
「気をつけました。でも袖が汚れて」
「では今すぐ自分で洗いなさい。罰です、お湯を使ってはいけません」

 唇を噛むしか無かった。今日も名前のことでケンカになった。実際にはケンカでさえない。一方的に揶揄され、傷を負ったのだから。
「シェパード! シェパード! シェパード! お前は犬だ!!」
 相手にしないようにしている。ケンカになってしまったら帰宅してからまた祖父母に叱責を受ける。
「無視してんじゃねぇよ! 犬のくせに!」
 突き倒されてランドセルは放り投げられ、中身が散乱した。

「何するんだよっ!」
「わっ、犬が吠えた!」

 大袈裟に騒いで怖がる振りをする連中。周りでただ笑ってみている連中。どれもが他人だった。床に広がった本やノートを拾う。落ちているシャーペンや消しゴムを蹴り飛ばして笑う者。「あ、ごめ~ん」と言いながらノートを踏む者。拾う姿に「やっぱり犬だ!」と叫ぶ者。ジェロームが週に2度は聞かされる笑い声。ノートを強く引っ張ると、踏んでいた男子がよろけた。
「やったなっ!」
 次の瞬間には目から頬に痛みが走っていた。

「何をしてるんですか!」

 騒ぎを聞いて担任教師が見たのは、目を抑えて床に座り込んでいるジェロームだった。

「またなの!? あなたたち、職員室に来なさい! ジェローム、保健室に一人で行ける?」
 下を向いて頷いた。
「じゃ行ってらっしゃい。先生が迎えに行くよりも早く手当てが終わったら職員室に来なさいね」
 また頷く。
優しい声をかけるのをやめてほしかった。松岡先生は男子に人気がある。なのに先生はジェロームにいつも優しい。まさか自分の態度がいじめの原因の一つになっているとは知らない。

 ランドセルに中身を戻して廊下に出た。すれ違いざまに小声で言われた。
「贔屓されやがって」
「ゴマすり!」

 保健室の手前で足が止まった。明るい茶色の髪も薄い茶色の瞳も母のお気に入りで、『ダッドにそっくりよ』といつも抱きしめてくれる。けれど外では黒であってほしかった。黒くなりたかった。女の子たちが時折り送る眼差しも事態を悪くすることはあっても、胸をときめかせることは無かった。

 自分の容姿がいやだった。名前がいやだった。自分の存在がいやだった。愛おしんでくれるのは病気がちの母だけだった。

「ジェイ、帰ってたの?」

 父も母もジェロームの頭文字を取ってジェイと呼んだ。

「ママ!」
 思わず母の細い体にしがみついた。
(泣かない。絶対に泣かないんだ、ママの前では)
心配させたくない、母はジェロームの笑顔が好きなのだから。

「手を見せて」
 慌てて手を背中に引っ込めた。冷たい水で真っ赤になっている。
「ほら、見せて、ジェイ」
 母の声は魔法の声だ。逆らうことなんか出来ない。鈴の音のように細く歌うように美しい声。父が大好きだった母の声。そっと前に手を差し出す。
「まあ、こんなに冷たくて……」
 細い小さな手がジェロームの手を包み込む。
「水を使ったの? お湯になさい、外はこんなに雪が降っているのに」
「違うんだ、水の方が汚れが落ちるんだよ」
「ジェイ、汚れって温かいお湯の方が落ちるのよ。どれ? ママが洗ってあげる」

 何も知らない母。虐待は肉体的なものとは限らない。小さく柔らかい心は傷つきやすい、純粋であればあるほど。
 祖父母のしていることも学校でのことも、ジェロームは一切母の耳に入れていない。母にはいつも笑顔でいてほしかった。父が亡くなって長いこと、その綺麗な笑顔を見ることが出来なかったから。
 父は母を泣かせ、笑顔を持って逝ってしまった。もう母に笑顔は戻らないかもしれない……そんな恐怖をもう味わいたくない。だから何も心配して欲しくなかった。

「ママ、テスト100点2枚あるし、作文も良く書けてるって!」
「本当? ジェイはダッドに似たのね。この頃どんどん似てきて、ママ、とっても嬉しいの。ジェイを見てるだけで幸せよ」

 悲しい言葉だった。だからいじめの対象になっているのに、そう言われるのを母の前で喜ばなくてはならない。

「そんなにダッドそっくり? ママがこんなに喜ぶんだからもっともっとそっくりになるよ!」

 時を経て高校2年。夜半、言い争う声で鈴花は目が覚めた。ジェロームの声だ。そっと襖を開ける。

「お願いです! どうしても東京の大学に行きたいんです。そのために頑張って勉強して来たんです。受験だけでもさせてください。それで駄目ならここの大学に入ります。けど、どうか受験だけでも……」
「あなたの面倒を散々見させられて、これ以上あなたに割くお金はありません」
「なぜ東京に行かにゃならんのだ。お前が行けば鈴花もここを離れるかもしれん。絶対に許さん!」
「僕だけ行きます。お金もいいです。奨学金とバイトでやっていきます。ご迷惑はおかけしません。どうか許可をください。お願いです」

 襖を開けて目に入ったのは愛する息子が畳に額を擦りつけている姿だった。
「ジェイ…… 父さん、母さん、どういうことなの?」
 初めて見る両親がジェロームに向ける冷たい目……
「母親を置いて出て行くと言っているのよ。なんて子なの? 育てられた恩も忘れて」
「東京には行かせん。安心しなさい、鈴花。だから横になっていなさい、体に堪える。この子には儂たちからきつく言っておくから」

 思い当る節はあったのだ。時折り見せる寂しい顔。辛そうな瞳が一転して明るい笑顔を見せる。いつも自分の前にいるのは、ハリーそっくりの快活で美しい息子だった。母の声に振り仰いだ顔には涙が流れていた。そんな顔を見たことが無かった……

「父さん、母さん。この子は東京に行かせます。私も一緒に行きます。ちゃんと大学を卒業させて自由な道を歩かせたい。ハリーも夢をいっぱい抱えた人だった。同じように育てたいの」
「禄でもない男の息子はやっぱり禄でもない。母親を振り回してなんて親不孝な子なの!」
「僕だけ行きます!」
「いいえ、行かせません、一人では!! あなたを一人になんかするもんですか!」

 そばに膝をついて母が肩を抱いてくれた。涙を引っ込めることが出来ない。体の震えが止まらない。
「僕は……ママを困らせたいわけじゃないんだ……でも東京に行きたい、向うの大学に行きたいんだ」
「いいの。ごめんね、何も知らなくて。ごめんね、ごめんね……」

 次の春、母子は古びた家を後にした。たくさんの言い合いと、「縁を切る!!」という言葉と。この地での最後の思い出はそれだった。

 出て行きたかった、この土地を。ここに過去を棄てて行く。やっと自分を殺さずに済む。怒鳴られても罵られても、心に訪れたのは平穏だった。

 ただ一つ。高校の担任教師が背中を叩いてくれた。
「君なら大丈夫。僕は何も心配してないよ。一発で合格する、間違いない。知らせを待ってるよ」

 憧れた教師。背が高く、凛とした顔をしてそして暖かな目をしていた。彼の笑う目だけが自分の中の宝物になっていた。

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