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J (ジェイ)の物語」

第一部
5.ジェイと蓮

「どうした?」

 優しい声になった。どうしていつまでも冷たい態度を取れるだろう、こんなに寂しい思いをしてきたジェロームに。
(だからこそお前との距離を縮めたいんだ。ごめんな)
「れ……ん……」
「ん? 聞こえないよ」
「……れん……」
「もう一度」
「れん! これでいいですか!?」

(俺、辛い思いさせてるよな)
きっとジェイの性格なら激しい抵抗があるだろうに。

「いいよ。お前のことは? ずっとジェロームでいいか?」
ジェイは考え込んだ。それでいい そう言おうとした。
「ジェイって呼んでください、母はそう呼んでくれました」

 自分でもそんなことを口走るとは思ってもいなかった。
「いいのか? お母さんが呼んでくれたなら大事な呼び名だろう?」

――優しい人だ……気づいてほしいことを言ってくれた……

「いいんです。課長……蓮にはそう呼んでほしいです」
「そうか……ありがとう、大事な名前を。ジェイ、これは仕事以外の時だけだ。そこはお互いに気をつけよう。いいな?」
 ジェイは頷いた。
「じゃ、これ被っとけ」
 蓮が差し出した野球帽を受け取った。
「お前、きっと騒ぐだろう? だから被っとけ。俺も恥ずかしいから」
「恥ずかしいって……」
「あんまりはしゃぐなよ、ジェイ」

 母に呼ばれた時とはまるで違う、鼓動が走る。
「はい、れ…蓮」


 二人は車から下りた。

「何から始めるか?」
 そう言った時にはジェイが何をしたいのか分かった。
(へ!? まさか、こいつ……いや、嘘だろ! 勘弁!!)
「ジェイ! 待て、ジェイ!!」

 入って来た時からジェイの目はそこに釘付け。他も見ず、一直線に歩いて行く。もはや蓮の声は聞こえていない。
(嘘だろ――、よりによって……)

 ジェイの目をくぎ付けにしているもの。レールが2回ほどくるりと回って疾走していく乗り物。そう、ジェットコースター。
(なんだっけ、トルネードだっけ)
正直名前なんてどうだっていい、乗ることにさえならなければ。やっと後ろからジェイの腕を掴んだ。

「ジェイ、どこに行く気だ?」
「あれ!」
 真っ直ぐ指を差すのはやっぱりジェットコースター。
(マジか)
「あれ、危ないんだぞ。死ぬかもしれない」
「あれに乗って死ぬならそれでもいいです」
(いや! 俺は死にたくないぞ!)
でも足は止まらない。肩をがっくり落として蓮は後ろについて行った。

「いいのか? 後悔するぞ」
 乗ったことがないからだ、こんなに興奮しているのは。そう思う。きっと途中から下りたいと騒ぐだろう。自分がしっかりと肩から脇へと通っている安全バーを握る手が汗で濡れていることには気づいていない。
「ジェイ! 手を放すな、ちゃんとバーを掴め!」
「大丈夫です、だってそのためにバーがあるんじゃないですか!」
 蓮の顔など見ていない。よりによって座っているのは一番前。そこに座りたくて並ぶ順番をずらしたくらいだ。
「いいから掴め! 何かあったらどうするんだ!」
「平気だってば!」
 その言葉が終わらない内にコースターが動き出す。

(大丈夫だ、そんなに何分も乗るわけじゃない)
呪文のように心に唱えられたのもほんの20秒ほどだった。

 この、体の浮くような無重力感が嫌いだった。子どもの頃だ。ブランコに乗って後ろから父にやたら強く押され勢いよく揺れるブランコが楽しくて。しかし父はあまりに頑張り過ぎた。ふわっと足がブランコの板から浮いた。次の瞬間には地面に叩きつけられて蓮は腕を折った。7歳が近い頃だ。小学校の入学式は三角巾で腕を吊って記念写真に写った。それからだめだ、体が浮く感覚が。高い場所が。

「ひっ……!」
 それは声になっていない。掴んでいる安全バーがとても安全を保障してくれているとは思えない。隣を見る余裕もないが、隣から聞こえてくるのは明らかに悲鳴ではなかった。
「蓮! 蓮! すごい、ほら! 手を上げて!!」
 冗談じゃない、手を放したら死んでしまう。そんなことくらい分からないのか? でも声を出す余裕などなかった。

 結局死ぬことも無く乗降口に降り立って、蓮は足がガクガクしているのを自覚していた。
「蓮! もう一度……」
 振り返った蓮の顔は真っ青で、ジェイは一瞬で頭から全てのことが飛んだ。
「具合悪いんでしょう!? どこかで休まないと!」
「い、いや、大丈夫だ」
「大丈夫なんて言葉にホントのことなんて欠片も無いんだ!」
 青い顔に母が重なった。
「待ってて! 休める所探してくるから!」
 止めるのも聞かずに走っていくジェイの後姿から苦しみが伝わってくる。
「ごめんな、ジェイ……」
 出来ればもう一度乗せてやりたいとは思う。でも、自分は無理だ。

 駆け戻って来たジェイの手には水が握られていた。
「ほら、飲んで。少しは落ち着くから。向うに座れるところがあります。そこまで俺の肩に掴まって下さい」
「ジェイ、俺はもう大丈夫だ。本当だ、誤魔化してない。水が欲しかったから助かったよ」
 確かに喉がカラカラだ。冷たい水は有難かった。
「だからお前、乗って来い。俺はここで見てるから」
「一緒じゃなきゃ嫌です。俺だけ楽しむなんて出来ないです」
「俺さ、ダメなんだよ、これ。乗れないんだ」
「乗れないって……?」
 はっきり言わないと遠慮していると思うだろう。蓮は思い切って言った。
「俺、怖いんだよ、こういう乗り物」
「え? 怖い?」

 一瞬ホケっとした顔をしたジェイの顔が……
(クソっ! なんて顔するんだよ!)
あの唇の感触を思い出してしまう。

「あの、本当に怖いんですか?」
「ああ。だからお前一人で……」
「やめときます! そうかぁ、怖いものがあるんだ」
「なんだよ、それ」
「怖いもん無しかと思ってましたから。課長、いえ、えと、蓮はそんな風に見えないから」

 下を向いて笑いを堪えているのが分かる。
「あのな! これだけだからな、怖いのは! 誰にも言うなよ、示しがつかなくなる」
その言葉に、弾かれたようにジェイは笑い出した。
「笑うな!」
「は、はい…………無理っ!」

 笑いが止まらない。遊園地に来るまでのあれこれがみんな消えてしまった。やっと収まりかけても膨れている蓮を見てまた笑い始めてしまう。
「お前には怖いのものないのか!?」
「ありま……せんよ、蓮みたいな……」
 終いには蓮も笑い始めた。

 落ち着いてきて蓮はジェイの頭をパカンと叩いた。
「ずいぶん気持ち良く笑ってくれたな。覚えてろよ」
「もう! 笑っちゃうからその話やめてください。鬼課長が遊園地の乗り物で具合悪くなるなんて話、三途川さんが知ったら大喜びしますよ」
「あれにだけは言うな、えらい目に遭う」
 その苦り切った顔にクスクス笑う。

(来て良かった)
いつもの表情が、陰が消えている。
(遊園地、有りだな)
 きっと自分以外、誰も連れてきやしない。ジェイを子どもみたいに笑わせることが出来てすごく嬉しい。思いがどんどん募っていく。
(ジェットコースター、克服しないと)
そんなことまで考えていた。どうしてもまた喜ばせたい。

「次はどれがいい? あ、頼むからメリーゴーランドの類いや観覧車はやめてくれよ」
「えぇ、観覧車は乗りたいです」
「だ! め!」
 今度はジェイが膨れた。
「そんな顔しても……だめだ」
 言いにくい、だめだと。きっとこの顔を見続けたら自分は良しと言ってしまうだろう。
「分かりました! 他のもん探します」
 そうニコッと笑うからホッとした。


 ジェイはいくつかのアトラクションを堪能して、今缶コーヒーを飲んでいる。その間も絶え間なく周りを眺めていた。

「連休だな」
 蓮の声に、視線が戻った。休みなくあれこれ回ったせいで少し疲れた顔をしている。

「疲れました?」
「年寄り扱いか?」
「違います! ただ……心配なだけです」
「俺、今まであんまり休暇取ってなかったんだ。今度のゴールデンウィークは休み、取ろうかって考えてる」
「なんで休まなかったんですか?」
「休む目的が無かったからな」
「課長、彼女とか……」
「課長?」
「あ、いえ、蓮」
 そんなに簡単には変われない。つい『課長』と出てしまう。
「別れたよ。どうせ噂になってるからお前の耳にも入るだろう。気にしなくていいからな。とっくに終わった話だ。今は誰もつき合ってない」

 この流れなら自然に聞ける。
「お前はどうなんだ? 彼女とかいないのか?」
 焼き鳥屋じゃそう大声で叫んだがどうせ覚えちゃいないだろう。
「いないです」
「今はってことか? 俺と同じで」

 口を開けたり閉じたり。言い淀む様子に可哀想になる。

「いいんだ、プライベートなことだった」
「俺、どっか変なんです」
「変?」
「女の子に……」

(俺、なに言う気なんだ?)
 じっと自分を見る視線に慌てて目を逸らす。夢の中の声が……

「女の子とつき合う暇無かったから、どうしていいか分かんなくって」
 危ういところで軌道修正をした。
「そうか……その内いい子が見つかるさ。焦るな、焦るな」
 蓮は深く問うのをやめた。そんなことをして何の意味があるだろう。


「さ、次はどうする? あとやってないのは……」
 たいがい乗ったし、キッズ向けのものばかり残っている。もう夕方だ。これから帰れば途中食事してのんびりしても9時前にはアパートに送れるだろう。
 時計を見るのを悲しそうに見るジェイに気がついた。だからと言っていつまでもここにいる訳には行かない。ふっとプールがあったことを思い出したが時間が時間だ。泊まりでもしなきゃとても無理だ。
「かち……蓮、もう全部回ったんですよね」
「そんな顔するな、また連れてきてやる……最後にジェットコースター、乗っとくか? 構わないんだぞ」
 首を振るジェイが堪らなく愛おしくなった。
「今度来たらプールで泳ぐか」
「俺……あの、泳げないです」
「え?」
「泳いだこと、なくて……」
 消え入りそうな声。
「俺、何も知らない……」

 抱きしめたかった。知らないなら教えてやる、寂しいならそばにいてやる。けれど蓮はそれを口にしなかった。二人の時間を過ごし、ジェイのいろんな顔を見て、蓮の中では思いが膨らんでいく。

「また来よう。入ってりゃすぐ泳げるようになるさ。じゃ、帰るか」
 素直に頷いたジェイの肩に手を乗せた。軽くトントンと叩く。
「入社してずっとよくやった。疲れが出てくる頃だ、ゴールデンウィークはゆっくり休め」
 きっと独りきりであのアパートで過ごすだろう。そうは思ってもこれ以上そばにいるのはどう考えても不自然だ。

 その時、ジェイが立ち止まった。
「どうした?」
「あれ、入ってない」
 指差したのはおばけ屋敷。
「あれは子どもかカップルが入るもんだ。大人の男2人で入るようなもんじゃないよ」
「でも、入ってみたい。みんなおばけ屋敷の話、よくしてたんです。面白いって」

 周りはもう薄暗くなり始めている。きっと入るところは目立たないだろう。グズグズしてると閉館になるかもしれない。
「しょうがないなぁ。じゃ、あれが最後だ。大したことないから、きっと拍子抜けするぞ」

 
 入ってすぐにジェイの様子が少しおかしいのに気がついた。一歩入れば、やっと足元が見えるような暗がり。どこからともなく風が吹いてきて囁くような啜り泣きが聞こえてくる。ジェイの手が蓮のジャケットを強く掴む。
「暗いから歩きにくいか?」
 返事は無い。突然金切り声が響いた。
「風と叫び声だけじゃ怖くもなんとも無いな。子ども騙しだ」
 そこに赤ん坊の泣き声……
「か、かち……」
 また違う声がして何かがそばを走り抜けていった。
「か……!」
 言い終わらない内に畳み掛けるように「ぎゃあああっ!!!!」と男の悲鳴。
「か! かちょ!」

(こいつ、怖いのか? え? これが?) 

いつのまにかジャケットではなく、腕にしがみついていた。

 

 いきなり通路のガラスの向こうに明かりがついてゾンビ仕様の男がバン、バン!! とガラスを叩いてくる。
「か、か、か……」
 両側の明かりが点滅し始め、その中でかなりのゾンビがジェイを見て騒ぐ。おばけ屋敷では怖がる子どもや女性を標的に定めて脅かすものだ。どうやらジェイは、その標的に認定されたらしい。

「か!」

「ジェイ、俺は誰だ?」

 点滅する明かりの中で涙目のジェイが震えている。
「ちゃんと言えば助けてやる。俺は?」
 どうやら怖さのあまり、ジェイの頭の中は混乱し切っているらしい。
「か、かちょ、あいつら、出てくる」
 ジェイのすぐそばのガラス越しにゾンビが集まり始めていた。
「ジェイ、俺を見ろ、助けてやる。俺は誰だ?」
「か……?」

 どこかにドアがあるのだろう、ゾンビが通路に出てきた。ゆっくりした足取りで近づいてくる。客を転ばせるわけには行かないから追いかけ回すようなことはしない。必ず一定の間隔を空けている。けれど怯えきったジェイにはそんなことは分からない。
「や、かちょ、にげないと」
 両肩を掴んだ。
「これじゃお前を助けられない。俺の名前を呼べ!」
 やっと目が合った。縋りつくような、頼りなげな目。片方の目からはすでに一筋、涙が溢れている。

 

「れん、れん、たすけて、れん」

 震える唇が囁くように呟いた。

 

「来い!」
 ジェイの手を掴んで走り出す。途中でつまずきそうになるジェイを抱えるように走った。壁に窪みがあるのを見つけてそこに押し込み包み込む。しがみつくジェイを抱きしめた。後ろをゾンビたちが歩いていく。その足音で背中に回ったジェイの手に力が入った。

 とっくに蓮の意識は引き返しようのないところまで追い詰められていた。腕の中のジェイに心が熱くなっていく。欲求に呑まれそうになるのを必死に堪える。

 抱きしめられてしがみついて。ジェイはただ蓮に縋った。ふと気づいた。夢の中で抱きしめられた腕と同じ。自分より背の高い蓮の息が耳にかかる。

――ぁ

意識し始めるとあっという間だった。抑えられない、自分を主張してくる部分の反乱を。

――どうしよう!

気づかれてしまう、こんなにくっついていては……でもどうしていいか分からない……

「ジェイ……お前………」
 分からないわけがない、確かにジェイの体は自分と密着しているせいで大きく反応し始めている。身を縮こませるジェイの顎を押し上げた。
「ご ごめんなさい、俺、おかし」
 口を塞がれて、自分に何が起きているのか分からなくなった。ただ、頭の芯が痺れたように息を継ぐのも忘れていた。

 そっと唇が離れた。
「息、しろ。死んじまうぞ」 
 耳元で囁く声は確かに蓮の声だ。震えるように喘ぎ、息を吸う。
「れん、おれ」
 どうしたらいいんだ、下半身が熱を持って訴えてくる、解放されたいと。その昂りを蓮の手が包んだ。
「いいのか? 俺、本気にするぞ」
 何を言われているのか分からない。
――本気? 本気って?

 また唇を奪われた。さっきのようなただの口づけじゃない、それは激しくて熱いキス。蓮の舌がジェイの口の中で暴れ回る。されたことのない愛撫にただなすがまま、翻弄され続けた。髪の間に指が入り、頭をしっかりと押さえられ、腰に回った手がガッチリと自分を引き寄せている。

―― あ、だめ、あ

蓮は唇を離した。肩を抱き寄せて囁いた。
「ジェイ  今日はここに泊まる。いいな?」
 首を振る自分を遠くに感じた。

 

 奇跡的にロッジが空いていた。無言のジェイを後ろに、テキパキと宿泊の手続きをしていく。ジェイの頭の中はまだ真っ白だった。

「ジェイ? 大丈夫か?」
 見開いた目を蓮に向ける。
「そうか、分かんないんだろ、どうしていいか」
 その言葉は頭に浸透した。ただ首を振るだけのジェイの体に手を回した。
「こっちだ。部屋は端っこだ」

 カチャッ

 その響きでジェイは急に現実に帰った。このドアを開けたら。ノブに手をかけて蓮が振り向いた。

「ドアを開けたら引き返せない。帰るなら今だ。俺は引き返さないぞ。お前は帰ってもいいんだ」

 

 これは最後の賭けだった。潔く諦める。その代わり、後は上司として支えていこう。少し頭の冷えたジェイが残るとは思えなかった。

 口を開かないジェイが首を横に振った。

――そうか  そうだよな

「いいんだ、気にするな。悪かったな、元の関係に戻ろう。仕事は仕事だ。俺ももうそういう気持ちは捨てる。だからしんぱ」
「ちがう  れん、ちがう」

 下を向いたジェイが両の拳を握りしめている。
「おれ、変です、知ってます。女性には興味湧かないし。でもそんなに気にしてなかった、蓮のマンションに泊まるまで。あの時……泊まって……自分が変だってこと、気づいた……おれ……」

 

 見上げるジェイの顔に決意したような目があった。

「おれ、蓮が好きです」  .

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