J (ジェイ)の物語」

第二部
6.試練 -1

 今日は退院の日。医者がいいと判断したから退院なんだろうけれど、ジェイは行動派の蓮に心配が増すばかりだった。

(きっと今日はメール来ない)
 一人で身の回りが出来ないだろうからきっと家族が泊まるだろうと思う。少なくとも食事の世話がある。
(しばらくはダメかもしれない……)
けれどそれは仕方の無いことだ。寂しいけれどそのことには納得をしていた。

 簡単なメールが来た。
『悪いな、あまりやり取りが出来ない。次の月曜から出社する。会社で会おう』

(どうやって出勤するつもりなんだろう? バッグだってあるのに)

 あれこれ考えてジェイは思い立った。

 


 月曜日。ジェイはアパートを6時には出た。きっと蓮はいつもよりうんと早めに家を出るだろう。けれど結構この時間帯でも電車は混んでいる。
(松葉杖じゃきっとキツい)
せめて免許でも持っていれば蓮を送り迎えできるのに。
(絶対に免許取ろう。そして蓮に少しでも楽してもらうんだ)

きっと自分なりの蓮への尽くし方があるはずだ。

 マンションには7時ちょっとに着いた。
(もう行っちゃったかな……)
 もっと早く出れば良かったかもしれない。10分ほど待って早くも諦めムードになっていた時にエレベーターの方から言い合うような会話が聞こえてきた。
(蓮だ!)

「……ら、一人で行けるって!」
「無理よ、だいたい仕事に行くのだって早過ぎるって言うのに」
「今は仕事が大変な時期なんだ、休んでる場合じゃないんだよ。俺、課長だよ?」
「でも車の送り迎えくらい……」
「母さん、会社には松葉杖で通勤してるヤツなんていくらでもいる。俺だけPTA付きなんてみっともないこと出来るわけないだろ。もうここでいいから」

 蓮の声に苛立たしさを感じてつい物陰に隠れてしまった。
「じゃ、せめて駅まででも」
 その時、ちょっと身を乗り出したジェイと蓮の目がばっちり合ってしまった。蓮が一瞬ふっと笑った。

「ジェローム!」

 はっきり呼ばれてしまってあたふたしながらそばに行く。

「母さん、ウチの新入社員のジェロームだ」
「あの、ジェローム・シェパードです。課長にはいつもよくしていただいて……」

(目と口元が似てる……蓮の目より優しそう)

初めて見る蓮のお母さんの顔。心配しているその顔に蓮のきつい目が振り返った。

「彼と行くから。ジェローム、心配して来てくれたのか?」
「はい」
「悪いな、荷物頼んでもいいか?」

 蓮のビジネスバッグをお母さんから受け取った。

「これで安心だろ? 行ってくる。夜もこいつに送ってもらうから帰ってていいよ」

 それだけ言ってさっさと歩き出した。慌ててその後についていきながら後ろを振り返った。お母さんがジェイに丁寧に頭を下げている。ジェイも立ち止まって頭を下げた。

「蓮、あんな風に言ったらお母さん、可哀想だよ」

 何か言おうとしてジェイの顔を見て口を閉じた。

「……そうだな、悪かった。仕事のことも考えてたから朝からべったりでイライラしてたんだよ。気をつける」
「うん。お母さんは大切にしないと」
「分かった。そうするよ。贅沢な話だよな、やってくれるってのを怒るなんて」

駅が近づいてくる。

「杖、大丈夫?」
「入院中ずっと特訓させられたからな、これでもちょっとはマシになったんだ。それより」

 蓮が立ち止った。

「ちゃんと顔見せろ。お前少し痩せたな」
「え、そう? 食べてるよ」
「そうか? ここじゃなきゃな、抱きしめてやるのに触ることも出来やしない」

 周りは駅に向かう人でいっぱいだ。

「な、なに言ってるの。それより駅に行こうよ。後ちょっとだから」
「キスも出来ない」
「蓮、なんか我が儘になってる!」
「ははっ、お前に怒られるなんてな」

 やっと蓮が歩き出した。

「事故の時……覚えてる?」
「ああ、引っ繰り返って最初に思ったのは『やっちまった!』だったかな。で、体中に激痛が走って気を失う前にお前の顔が浮かんだ。死ぬんだと思ったよ、確か」
「俺の……顔?」
「お前の顔。イく時の」
「え!?」
「ウソだ、普通にお前の笑顔」
「バカっ!」

 行き交う人に赤い顔を見られたくないのに。でも自分の顔を思い出したと言われたのは嬉しかった。

 電車ではドアの真横の、よくベストポイントと呼ばれる場所に陣取った。壁に蓮をもたれさせてその前で押してくる人を背中で押し返した。

「蓮、やっぱり電車は無理だよ」
「大丈夫さ。それよりお前、平気か? それじゃ疲れちゃうぞ」
「平気!」

 何としても蓮が人に押されるのを防ぎたい。今自分が出来ること。夕べ一生懸命に考えたことだった。


 会社には定時より1時間も早く着いた。
「コーヒー飲んでくか」
 蓮に誘われてカフェに入った。久し振りの二人のゆっくりした時間。
(本当に久しぶりだ……このまま一緒にいたい)

 それは蓮にも通じたようだ。
「早く二人になりたいな」
 頷くジェイから色香が漂ってくる。
(お前、色気あり過ぎだぞ)
 蓮が丹精込めてジェイを育ているから、一際その雰囲気が色濃くなっていた。ちょっとした仕草が艶めかしい。

「蓮、行かないと。今度は遅刻になっちゃう」
「さて、仕事か」

 立ち上がる自分を支えたジェイからほのかなシャンプーの香りが漂った。
(気をつけないと。その気のある男から見たらお前は格好の餌食だ)
仕事よりも蓮はそんなことの方が気になっていた。

「課長! 本当に来たんですか!?」
「みんな、心配かけたな。田中、野瀬、池沢。お前たちに感謝する。俺の不注意で迷惑かけた。済まなかった」

 深々と頭を下げる課長にみんな しん となった。

「無事で良かったですよ。やっぱり課長がいないとだめです、ここは」
 声を発したのは田中だった。
「ありがとう、ここを任せて正解だな。進捗に遅れは無いと部長から聞いてたよ。よくやってくれた」

 田中に礼を言ってみんなに向き直った。

「ちょっと聞いてくれ。俺は今日から出社するが何せこの通りだ。だから引き続き田中に課長代理を務めてもらう。俺は身動きが自由になるまで田中の補佐だ。だから業務の指示は田中から受けてくれ。いいな?」

 皆がざわついた。一番驚いているのは田中だ。
「いえ、課長が戻ったんだからこの後は……」
「苦労かけるが頼む。部長にも話は通してある。当てにしてるぞ。じゃ、業務についてくれ」

 みんながそれぞれの持ち場に散った後、田中が蓮に近づいた。

「課長、どういうことですか? 戻ったんだから引き継がないと」
「これは言ってみれば予習だよ。実は次の人事異動でお前の昇格が決まる。10月から営業2課の課長だ。そこで一年ほど経験を積んで開発に戻ることになると思う。ここも大所帯になりつつあるからな。多分お前と二分することになるだろう」
「え?」

「俺は野瀬、池沢チームを引き受ける。お前は今のを中心にやっていくんだ。そのために今はいろいろ覚えて欲しい。一旦営業に行くのもそのためなんだ。ここに戻るまで辛抱してもらうことになるが、あそこは勉強になるからな」

 言葉が出て来ない……河野を蹴落としたくてやってきた。やっとその形に近づいたというのに。

「課長、俺、あんたに詫びなきゃならない」
「なんで? 俺にはいい刺激になってたよ。お前は脅威だったからな、だから俺も頑張って来れた。いいライバルだと思ってる。だから今度は助け合おう。頼むな」

 思わずホロっとしそうになるのを課長にピシャリと釘を刺された。

「田中。仕事が待ってる。早く取り掛かれ」
「はい!」


「ジェローム、課長と一緒に来たんだね。迎えに行ったの?」
「あの、俺、心配で……」

 消え入りそうな声で花に答えた後ろから蓮が大声で名前を呼んだ。

「ジェローム!」
「は はい」
「お前には悪いが、朝は今日みたいに来てもらっていいか? 大変だろうが」
「え? はい、分かりました!」

 みんなの前ではっきり指名されて鼓動が早くなる。
(蓮……いいの? ホントに?)
三途川と目が合った。必要以上にニヤニヤ笑われて焦ってしまう。

「ジェロームにそんなこと頼むなんてどうかしてるよ、課長」
 花の言葉に慌てて言った。
「違うんです、俺が朝そうさせてくださいって頼んだんです」
「だからって」
「いいんじゃないの? やっと課長が戻って来たんだから独占したいのよね? これであんたの不貞腐れた顔を見ないで済むならこっちは助かるわ」
「不貞腐れてなんか」
「いや、不貞腐れてたよ」
「哲平さん!」
「なんだか今日のジェロームは生き生きとしてるしね」

 千枝の言葉にびくんとする。
(そんなに俺って分かりやすいのかな)

『今のままじゃ自分から全部バラしちゃうわよ』

三途川の言葉が頭に響いてくる。

「さ、そのくらいにして仕事やっていただけませんかね」

 池沢の言葉でようやく仕事が始まった。
今はまだ大丈夫だ。けれどいつかきっとバレてしまう。

(ポーカーフェイス……何とか頑張んないと)
 蓮の話題になるたびにどぎまぎするのを何とか抑えなくちゃならない。今のままじゃダメだということが良く分かる。けれどジェイには自信が無かった。

 さすがに3時を過ぎるあたりから蓮の顔に疲れが見え始めた。

「課長、休憩室のベッドで横になった方がいいんじゃないですか?」

 心配した田中チームの高野麻衣が声をかけた。麻衣の席は課長席のすぐそばだ。聞こえたジェイはすぐに振り返った。確かに青い顔をしている。でも余計なことを言わない様に気をつけた。周りの目。自分が気にして行かないとならない。

「大丈夫だ、ありがとう」
「いや、休んで来て下さい。だいたい無茶ですよ、事故から間もないんだから」
「もう3週間になるよ、野瀬」
「まだ3週間です。休んで来て下さい、気になってしょうがない」

 野瀬はこういう言い方をする。蓮はそれが彼なりの気遣いなのだと知っている。最初の頃はこの天邪鬼がやりにくくてしょうがなかったが。

「分かった。ちょっと休憩してくるよ。田中、後を頼む」
「はい、なんならこのまま早退したって構わないんですよ」
「後で上がってくるよ」

(やっぱり頑固だ。お母さん心配するの無理ないよ、蓮)
 ついて行きたい。途中で転んだら大変なことになる。けれど頑張って耐えた。表情も崩さずに仕事を続けた。打ち込んでいれば他の事を考えずに済む。

 蓮の出勤初日はそうやって過ぎて行った。

「タクシー、呼ぶから」
「いいよ、電車で」
「生活費ほとんど蓮が出してるから俺、金あるし使い途無いし。だからタクシー呼ぶ」

強い口調のジェイに、蓮も黙った。これ以上の心配をかけたくない。

 呼ぶ必要も無く、会社の前の通りですぐにタクシーを捉まえられた。逆らうことなくジェイの後から蓮は乗った。行き先を告げて改めて蓮を見るともう目を閉じている。口も開かず静かだ。

「大丈夫?」
「ああ」

 目を開けない蓮の手がジェイの手を掴んだ。運転手からは見えないところ。二人の愛は世の中に逆らうように密やかに育っていく。決して認められない愛。日の当たらない愛。それでもこうやってそっと寄り添う時間に浸っていることが切ないほど幸せをもたらした。

 マンションについた。

「じゃ、俺電車で帰る。明日早く来るから」
「今日はここで寝ろ。食べて帰ると言ったから今日は誰もいない」
「え、でもお母さん……」
「さっき電話で話した。明日の夕方来るってさ。外食だけじゃダメだって明日は作りに来るそうだ。ついでに掃除洗濯するつもりなんだろう。でも今夜は俺一人だ」

 蓮のことだ、来るなと頑固に言ったのだろう。

 ほんの少しの間だが、離れて夜を過ごしたことで互いに相手を欲していた。ジェイはもちろん、蓮も。エレベーターに乗り込む。
(たった2週間なのにすごく懐かしい……)
中に入る。ジェイは深呼吸をした。
(蓮の匂い)

 蓮はまっすぐソファに向かった。よほど疲れたのだろう、着ている物を脱ぐことすら出来ずにいる。ジェイは黙って蓮からスーツを脱がし始めた。されるままに蓮は大人しく動いた。スラックスもどうにか抜いて、ハンガーに吊るしてからタオルを手にした。熱いタオルを首元に。ほぉっと蓮が大きく息をつく。

「気持ちいい?」
 微かに頷いた。
「疲れたでしょ、久し振りの仕事だから。明日も行くの? 休んだらいいのに」
「心配するな。体も徐々に慣れていく」

 タオルを当てている手を掴まれた。ソファの背中越しに引き寄せられ、蓮も斜めに顔を向けた。ジェイの唇を甘く食むように蓮の唇がゆっくり動く。久し振りの感触にジェイの頭は蕩けそうだ。

「ま 待って、待って、蓮」
「ずっとこうしたかったんだ」

 また口づけが交わされる。蓮の欲情が伝わってくる。自分も芯が熱くなってくる。

「だ……めだって……まだ無理しちゃ……」
「分かってる。けど抱きたいんだ」
「体にさわるよ」
「キスして抱きしめるだけでもいいんだ」

(違う。蓮、俺の方が我慢できなくなっちゃうよ)

 我慢していた反動が大きい。自分の体はいつでも蓮を受け入れてしまいそうだ。でも今の蓮にいいわけがない。

「夕飯の支度、するから……ぁ」

 蓮の手が首を撫でただけ。ただそれだけなのに。

「蓮、蓮、お願い、薬飲まないと」

 やっと蓮が手を離した。

「ごめん、俺ずっと我が儘言ってるな」
「ホントだよ。ちゃんと食べて薬飲まないと良くならないよ」

 僅かに息が上がる。それを蓮に知られたくない。


「でも、お前の手作りか? 腹壊さないかな」

 蓮を睨みつける。当たらずとも遠からず。そんなことはジェイにだって分かっているがとにかく悔しい。黙って冷凍庫を開けた。

「あ、冷凍食品ね。それはいい選択だ」
「作ったっていいんだよ」
「それ、脅し文句か?」

 確かにおかしい。二人で笑い出した。冷凍品を手にした。

「どっちがいい? チャーハンとスパゲティ」
「俺はスパゲティだな」
「茄子とトマト? クリームパスタ?」
「トマトの方」

 食事が終わって片づけて。蓮の世話を焼いてやっとベッドに横にした。

「俺……ホントに泊っていいの?」
「ここはお前の家でもあるんだぞ。下着全部持ってったのか?」
「うん」
「じゃ俺の新品を使え。それならここから行けるだろう?」

 久し振りに同じベッド。ドキドキする胸を押さえたい、蓮に伝わるかもしれない。

「あ! 枕!」
「お前俺の枕持ってったんだな」

 そうだ、そのままアパートに置いてある。

「ごめん、蓮。俺……寂しくて」

(寂しくて俺の枕?)
 蓮の心がカッと熱くなった。抱きたい。けれど無理なのは分かっている。

 

 

 

「来いよ。寝よう」

 ちょっと躊躇って蓮の隣に潜り込んだ。しばらく互いに動かなかった。

(なんだか緊張する)

 蓮は蓮でどうしたものかと悶々と考えていた。確かにぐったりするほど疲れている。けれど妙に冴えて眠りにつけそうにない。ふとジェイの顔を見た。天井を見ていた。

(お前の声を聞きたい)

 悩ましいあの声を聞きたい。口を開いて喘ぎながら自分の名前を呼ぶのを聞きたい。乱れる姿を……見たい。

 体の向きを斜めにしてジェイの体に手をかけた。びくり とジェイが震えたのが伝わってくる。まるで初めてジェイを抱いた時のような反応。それだけで蓮は興奮した。手をジェイの体に沿って撫で下ろす。「ひゅっ」とジェイが息を呑んで小さく震えた。そのまま急ぐことも無く体を撫で回す。ぴくぴくと敏感なジェイの体は蓮の手に感じていることを伝えてくる。久しぶりのジェイの肌に、苛立たしいほどゆっくり過ぎていた時があっという間に過去のものになる。

「ジェイ、お前の声を聞きたいんだ」

 それだけを言った。そこからの蓮の手の動きが早くなった。髪に指を埋め頬を撫で耳の周りを指が往復する。首筋を下りて上がり、それが繰り返される。

 は ぁ ぁぁ……

小さく切なくジェイが喘ぎ始める。パジャマの裾から手を入れて直に滑らかな素肌を撫で上げた。

 あ

蓮の手が自分の肌を触れていく。そう思うだけで息をするのが難しくなっていく。まるで拘束でもされているかのようにジェイの体はただ蓮の手に逆らうことも無くされるがままに感じていく。

(イかせたい)

 それを見たい、聞きたい。蓮は欲深くなっていった。美しく体が開発されていくジェイは自分のものだ。それを確かめたい、ジェイは自分を求めているのだと。

 手が一気に下りていく。ズボンの上から手で包むとすでにそこは勃ち上がっていた。柔らかく握る。大きくジェイが仰け反った。出来るならその首に口づけたい。けれど動けない。焦れる心が自分を煽る。ズボンに手を入れて直に掴んだ。

 ぁああ はっ っあっあっ……

 握られ軽く上下し濡れている先を撫でられる。首が横に振れ始めたジェイの手がぎゅっとシーツを掴む……
 必死に波に呑まれまいと抗うジェイの顔を横からじっと見つめる。

(ああ ジェイ…… お前はきれいだ)

 自分にだけ見せるこの顔がたまらなく好きだ。やがて動きの早くなった蓮の手の中で膨れ上がっていった。大きくうねるように蓮の手に呼応してジェイの体が動き始めた。

 い きた ……あぁぁ れん いき…たい

れん、れん、とジェイが呼び続け哀願する声に耳を犯される。
「ああ、いいよ。イかせてやる」

 蓮の強い刺激を受けてジェイは れん! と一声放って精を吐き出した。大きく仰け反った体は弛緩してベッドに落ちた。