J (ジェイ)の物語」

第二部
10.波紋 -1

 井上陽子と入れ違いに入ることになった。すれ違う時に陽子の目が赤いことに気づいた。

「ジェローム・シェパードです」
「湯川です。どうぞ、そこに座ってください」

 湯川と名乗った男性は40ちょっとに見える。課長なのだと聞いた。メガネをかけて丸い顔。ちょっと見には物分かりが良さそうな愛嬌のある顔。
 三途川が言った言葉を思い出す。
『戦っておいで』『相手はやり手だからね』固い顔のまま座った。他にあと二人。資料を繰ってばかりでジェイの顔も見ない。

「君、今年入社なのにずい分頑張っているね。評判もいい。仕事の飲み込みが早いってね」

 何か言葉を待っているようだがジェイは口を開かなかった。余計なお喋りをしに来たわけじゃない。入社の頃のようになる。それは難しいだろうと思っていた。もうあの頃の刺々しさは自分から消えていると。けれど、蓮との生活がかかっている。仲間のいる職場がかかっている。
 まるでスイッチが切り替わったかのように心が研ぎ澄まされた。

 咳払いをして言葉が続いた。

「海外勤務ってもっと実務経験のある者が行くんだよ。でも君の場合は充分やっていけると思ってるんだ。なかなかそんなチャンスは無い。どうかな、メールが行ってから考えてみたでしょう? 会社は経験の少ない君に投資しようと思ってるんだよ」
「経験の多い人を優先すべきだと思うんですが」
「うん、そうだね。普通はそう考えるんだけどね、でもやっぱり吸収力が違う。君は仕事の覚えも早いようだ。2年。勉強だと思って行ってみないか?」

(2年!?)
ゾッとした、今すぐ椅子を蹴って帰りたい。

「僕はまだ今の仕事を勉強したいんです。もっとここで役に立ちたい。目の前の仕事に取り組んでいきたいです」

 別の一人、若くて我の強そうな男が口を挟んできた。

「会社が君に期待してるんだよ。だから君のために金を出すんだ。もう少し嬉しそうな顔をしたらどうなんだ?」

 今の一言でジェイの中に怒りが生まれた。

「お言葉ですが、僕が何を嬉しがろうと僕の勝手じゃないですか。別に僕が頼んでるわけじゃないです」
「口の利き方を知らないのか!」
「まあまあ、そう言わずに」

(三途川さんが言われた言葉だ)

「今のはこっちの言い方が悪かったね、申し訳ない。金云々は置いておいて、君にはいいチャンスだと思うんだよ。君は新しいところに解け込むのに時間かかかるタイプだそうだね。アメリカ人はね、フレンドリーで心が豊かだ。君が構える必要は無いと思うよ」

 冷たい目を湯川に向けた。フレンドリー? 心が豊か? 黙り込んだジェイの顔から、一筋縄ではいかないと思ったのだろう。湯川の表情が引き締まった。

「君は今の部署を大事にしてるということだね。ところで君の部署は今バランスがいい。バランスがいい状態を長いこと保つとね。不思議なことに活性化するんではなくて停滞していくんだよ。そのためにこうやって優秀な人材にチャンスを与えて、その穴に新しい風を吹き込む。それが全体の向上に繋がるんだ。分かるかな?」
「だからって入ったばかりの僕がその穴になる必要は感じません」
「要するに海外勤務を断りたいと言うことかな?」
「はい。お断りするために今日は来ました。だからこれでお話は済んだと思いますが」

 ケンカを売っている。新入社員の取る態度じゃない。けれど止まらないし、止まるつもりもない。

 他の二人が気色ばんでいるが、ジェイは全員の顔を均等に真っ直ぐ見た。一人一人の目と自分の目を合わせる。引くつもりがないことを分からせたい。

「それでも辞令が出たらどうする? 君の理屈に関係無く行かなくちゃならない。でもそんな真似はしたくないんだよ。だからちゃんと納得してほしいんだ」
「出来ません」
「君も頑固だね!」

 さっきの金云々を言った男だ。

「回りくどいことは止めようじゃないか。会社からの辞令が出ると思ってくれ。ほとんど決定していることだ。穏やかに話すためにこの場を設けたんであって、君の我が儘を聞くためじゃない。君みたいな若いもんは少し外の風に晒された方がいいんだ」
「それって左遷みたいなもんですよね。厄介者をお払い箱にしようみたいな」
「はっきり左遷とは言わんが、会社の意向に非協力的な社員には他で苦労を知ってほしいと言うことだ。世の中は甘くない。自分の我が儘が通るなどと思わないことだ」

 世の中が甘くない? 蓮と出会うまで、世の中が自分に甘かったことなどあるだろうか。苦労を知ってほしい?

「左遷と言うことであれば民事訴訟を起こします。労働基準監督はこういうことに首を突っ込まないでしょう。でも民事であれば可能です。判決には時間がかかるし僕が負けることも充分分かっています。けれど会社としては大打撃になるでしょうね。イメージというものがありますから」
「何を言い出すんだ! ふざけるのもたいがいにしろ、左遷とは言っていない!」

 湯川が割って入った。

「シェパード君。何か勘違いしているよ。我々はチャンスを上げようと言ってるんであって、君に嫌がらせをしようとしてるわけじゃないんだ」
「さっき、『本来必要無く辞令を出せばいいだけのものに、体裁をつけるために面談しているだけだ』と仰った。この面談に何の意味があるんですか? もう決まっていると言ったじゃないですか」
「もういい! 君の海外勤務は取り下げだ。後で後悔するだろうがもうチャンスは無いと思ってくれ。今の部署に留まれるかどうかも保証は出来ない」

 ジェロームは立ち上がった。湯川が慌てた。その姿を無視してさっきから問答無用の物言いをしてくる男に聞いた。

「お名前を伺っていませんでしたが」
「塩崎だ」
「塩崎さん。お話はよく分かりました。組合を通して塩崎さんのパワーハラスメントに対する訴えを起こします。失礼します」
「ま、待ちなさい! 今の面談は君のためのものだ。確かに言葉が過ぎた部分もあるがそれをハラスメントとは…」
「湯川課長。貴重な時間をありがとうございました。6月にハラスメントに関する研修を二日受けました。そこで説明されたのは、ハラスメントと感じたらそれは既にハラスメントなのだということでした。そういう場合はすぐに専門の窓口に相談するようにとも。僕にはまだ会社のことがよく分かっていません。入社してまだ半年なんですから。『苦労知らずの甘ちゃん』とまで罵倒され、『今の部署にもいられないようにしてやる』と言われた」
「そうは言ってない!」
「そう聞こえました。その時点でハラスメントです。このまま組合に行きます。失礼します」

 席を立って外に出た。どうなるのか。きっと全て無かったことになるだろう、海外勤務も含めて。今後の昇進も消えるかもしれない。けれど人事は下手なことを出来なくなったはずだ。


 会議室に背を向けて歩き出した。ドアが開く音と自分を追いかける足音が聞こえた。

「シェパード君! 待ちなさい!」

 立ち止まって振り返った。

「互いに誤解と食い違いがあった。そう思わないか?」

 湯川の言葉に返事をしなかった。

「どうだろう、私は君と二人だけで話しをしたい。どうも塩崎君は業務に熱心のあまり、結論を急ぐところがあってね。今はもう君に済まなかったと言っていた。だが、彼がいたら君も話しにくいだろう。私と落ち着いて話してみないか?」
「はい」
「良かった! じゃ日を改めようか、まだ気持ちが落ち着かないだろうし。私と話をして納得できなかったら、その時に訴えることでも何でも考えればいい。私もその時には立ち会うから」
「分かりました。ご連絡をお待ちしています。さっきは失礼な態度を取り申し訳ありませんでした。僕も業務に熱心なあまり、つい熱くなりました」
「……言うねぇ。じゃ、また」

「どうだった!?」

 蓮がいない。

「あの、課長は? 報告した方がいいんですよね?」
「今打ち合わせに行ってるよ。それよりどうだったんだよ」

 花が真剣な顔で聞いてくる。みんなもそばに来た。

「戦ってきました」
「で?」
「日を改めて湯川課長と二人だけで話すことになりました」
「どうして?」
「あの、ハラスメントで訴えるって言ったので」
「は?」「え?」「なんだ、そりゃ!」「あんた!」「ウソでしょ?」

 全員が同時に声を上げた。

「民事で訴訟起こすって言ったらごちゃごちゃ言ってきたんで、ならハラスメントの方が手っ取り早いと思って」
「マジー!?」
「俺よりすごい。そんな断り方してきたのか」
「あんた、よく考えたの? それじゃここにいられなくなるかもしれないわよ」
「そう言われたから、ハラスメントだって言ったんです」

 そこに慌てた様子で蓮が入って来た。

「ジェローム! お前、何やったんだ!?」
「あの、面談……」
「湯川さんから打ち合わせ中に呼び出されてな、当分お前をどこにも動かす気は無いと言ってきたぞ」

 よほど慌てたのだろう、みんなの前でそんな話をする蓮じゃない。

「ジェロームはパワハラで訴えるって言ってきたんですよ、人事の連中を」
「なんだって?」
「すみません。湯川課長と改めて二人で面談することになりました」

蓮はまじまじとジェイの顔を見た。その顔に迷いも焦りも見えない。

「分かった。連絡が来るのか?」
「はい」
「じゃ、連絡が来たら俺に教えてくれ。同席する」
「でも」
「部下のことだからな。俺のいない所で勝手に人事に突き回されたくない。お前が悪かったなら、それはそれで俺の責任だ。二人だけの面談は応じられないと言っておく」

 チーフたちが寄ってきた。

「マズいんじゃないですか? 課長が間に入るなんて」
「事が大きくなると課長だって……」

 蓮はみんなを見回した。

「この中に今回の面談で何か強要されたものはいるか?」

 しばらく反応が無かったが井上陽子がおずおずと手を上げた。澤田潤も手を上げた。

「なら、私もだわ。歳のこと言われたのはハラスメントだと思う」

 吹き出しそうになった哲平はじろりと見られて黙った。

「今回は面談だけで、査定の段階に入って結論を出すはずだった。だが実質はそうじゃなかったってことだな。俺は抗議するつもりだ。今日は時間が取れないが、明日一人ずつ状況を聞かせてくれ。もし他にもいたら俺にメールでいいから言ってくれ。いいな? 俺は今から他の部署の様子を聞いてくる。田中、後を頼む」

「課長! 俺、謝ります。ジェロームを焚きつけたのは俺です」

 花の言葉に哲平が前に出た。

「俺です! 調子に乗ってジェロームを煽りました」
「私もよ。戦って来いなんて言ったわ」
「いえ、俺は自分の責任だと思ってますから。そうすることを選んだのは自分です」

 蓮は小さく頷きながら固い表情を崩さなかった。

「お前たち、ずい分と甘ったれたことを言ってるな。チームとして互いを思いやるのはいい。だが自己責任というものがある。ジェロームの言う通りだ。選択するのは自分だ。一人の大人としての責任が取れないんじゃ話にならない。俺たちは馴れ合って仕事をしているわけじゃないんだから」

 それだけ言うとオフィスを出て行った。田中はチーフを集めて打ち合わせを始めた。

「課長、厳しいな…」
「こういうこと、初めてだからな」
「俺……課長に迷惑……」

 三途川がコンっとジェイの頭を叩いた。

「あんたのせいじゃないわ。課長が何を言おうと、何も知らないあんたを焚きつけた責任は私たちにある。私もずい分余計なこと言ったし。それにこれ、表面化して良かったかもしれない」
「あの……」

 井上陽子と澤田潤がジェイの後ろに立っていた。

「ありがとう、ジェローム。私一人で悩むところだった」
「俺もだ。えらくごり押しされてムカついてた」
「なんかさ、どうなってんの? おかしいんじゃないか? 俺は悩む必要あんまり無かったからすんなり受けたけどさ、考えてみたら面談で決まるわけ無いんだよな」

 滑り込むように笠井智美が花の真横に来ていた。

「ねえねえ、それの噂なんだけど」
「そう言えば智ちゃん、どっからネタ拾ってんのさ」
「俺、聞く気無いから。あんた10月に飛ばされるって言ってたろ? いい加減な情報でみんなを振り回すなよ」
「私、そんなつもりで……花さん、ひどい……」

 いつものように泣きながら飛び出して行った智美に、何人かからため息が出た。

「そう言えば他の面談を受けたメンバーはどうだったの?」

 三途川の問いに浜田弘が口を開いた。

「たいした話は無かったですよ。いろいろ勤務状況とか何か問題が無いかとか、今後も面談対象になる可能性があるからその時には前向きに考えて欲しいとか」

 他のメンバーも頷いた。

「ってことは、初めからピンポイントに人選してたってわけね。私たちのチームから3人。あと陽子ちゃんと潤。哲平は気持ち固まってるから問題ないのよね?」
「ええ、俺はいいっす。チャンスだと思ってたから」

 打ち合わせの終わった田中たちが戻ってきた。

「お前たち、仕事しろ! 課長はお前たちのために駆け回ってるんだぞ。その間仕事が止まってたら本当に課長の立場が悪くなる!」

 そこからは打って変わったように皆真剣に仕事に取り組んだ。

『今日は近くのビジネスホテルに泊まることにしたから気にせず帰ってくれ』

蓮からのメール。思わず返した。

『俺のせい?』
『その話をするのは止めよう。明日、会社で会おう。これは俺、蓮の方からだ。遊園地で俺が言った言葉を思い出せ。いいな?』

それきりメールは来なかった。


 遊園地での蓮の言葉…… あの時、なんと言われただろう?

――俺は今までと同じでなくちゃならない
――辛いぞ、これから
――俺を信じることがお前を守る

帰宅の電車の中でずっとその言葉を反芻した。
(俺、蓮を困らせたんだろうか?)
(蓮の立場を悪くしたんだろうか?)

 家に着いてシャワーを浴びて。食事の用意をするのを諦めた。とても食べる気分じゃない。

 自分が面談で言われたこと。自分が言ったこと。自分の態度。何度も何度も思い返す。行き過ぎだったのか? だからと言って、今さら頭を下げて済むことなのか? 眠れるわけが無かった、考えがまとまらない。夜中、2:17。とうとう起き上がって寝室を出た。

(蓮の枕)、そう思って止めた。逃げているようでそれは卑怯だと思う。電気をつけてソファに座った。薄寒くて毛布を取りに行く。蓮がいない部屋には冷気が漂う。

 蓮は今、何を考えているだろう? 寝ているだろうか?

 この数日を考える。蓮は上司の立場でもあるから、このことに関する話を避けてきた。ちゃんと『ジェイ』と『ジェローム』を分け、『蓮』と『河野課長』を分けた。こんな関係じゃなくて、普通の上司と部下だったら?

 突然、分かったような気がした、自分が一番甘ったれた感覚でいたことを。みんなと同じように接しなければならない。蓮の言っていたその意味を。

(俺は部下なんだ。みんなと変わらない。蓮は『選り分けてお前に接することは出来ない』って言った。俺は今、間違えちゃいけないんだ)

 そのために今、蓮は自分と離れて線引きをしている。自分も向き合わなきゃならない、上司と部下の関係に。

 朝はしっかり食べた。眠ったのは3時間。けれど頭はシャキッとしていた。蓮は今夜も帰らないかもしれない。着替えを袋に詰めた。ドアを開けて振り返る。

「蓮、行って来ます」

着替えは降りた駅のコインロッカーに預けた。