宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第3部
11.迷い
「ジェローム、今日のお昼は私に付き合いなさい」
三途川の言葉に「はい」と答えた。
あれから昼は誰かが必ず一緒だ。過保護とか構い過ぎとか、何も知らない他のチームから囃し立てられるが、一連の事件があってからチームの誰もがジェイを一人にしたくない。
ホテルで倒れていたジェイ。アパートで襲われて呆然としていたジェイ。あの姿を見た者は忘れることなど出来ない。相田が二度と現れない確証も無い。
朝と帰りは蓮が一緒。昼は誰かが。だからジェイは安心しきっている。哲平も助けてくれたのだから。けれどみんな『ストーカー』がどういうものか知っている。
「ごめんな、合気道教えるって俺から言ったのに結婚式終わるまで落ち着きそうも無いんだ」
「謝らないでください! 大丈夫です、俺、待ちます」
ジェイ以外は不安を抱えたままだ。
そして今日は三途川が一緒。
「何食べに行く?」
「何でもいいです! 奢ってくれるんですか?」
「甘い! あんたが私に奢るの」
「えぇ!? なんで?」
最近はこんな会話が自然に出来るようになっていた。
「いいこと教えてあげるから。あんたみたいな鈍感な子が思いつきそうも無いこと」
「鈍感って……」
入ったのは甘味も置いてある蕎麦屋。
「私、鍋焼きうどんとあんみつ」
「え、高い……」
「あんたね! そういうこと奢る相手に言わないの、特に女性には!」
「だって……」
(鍋焼きうどん……)
心惹かれる。結局自分もそれを頼んだ。その代わりあんみつは我慢した。
「いいことって何ですか?」
「11月19日」
「来週の?」
「そ! 何の日か知ってる?」
祝日じゃない。花の結婚式は21日の日曜日だ。
「やっぱりねぇ。知らないと思ったわ。誕生日よ、課長の」
「誕生日!?」
「ちなみに私は28日」
そこはもう聞いていない。
三途川は気になっていた。あれから砂原に目立って変化は無かった。
(ああいうタイプはそう簡単にあきらめないと思うんだけど)
仕事をしているところを見るとちゃんとした女性だ。けれど一昨日、廊下での立ち話を聞いてしまった。
「私ね、河野課長の大ファンなの! だからたいがいのこと知ってるのよ」
「そうなんですか?」
「もうすぐお誕生日でしょ? だから私たちみんなで何かプレゼントしようって話してるのよ。砂原さんも一緒にする?」
他の課の女性だ。それを聞いてそろそろそんな時期かと思った。
「私は…… それってもうすぐなんですか?」
「来週の19日。蠍座のB型! 意志が強くて情熱的。実行力があって頭がいいの。オマケに恋愛には一途。そのままだと思わない?」
相手は受付のお喋り娘。彼女らはきゃぁきゃぁ言ってるだけだから気にもならない。けれど砂原は多分何か考えるだろう。
「みんな毎年ね、手編みのマフラーだとか手袋だとかプレゼントするの。それを見てから誕生日を知るなんてイヤでしょ?」
「手編みなんて……」
けれどきっと用意をするはずだ。
「きっと女性たちが押しかけて来ると思うわ。うろたえるんじゃないわよ」
考え込んでしまったジェイに三途川の声が優しくなった。
「誰もそんなの、あんたが出来るとは思ってないから。特に課長はね。せめて出勤前に『おめでとう』くらい言いなさいね? きっとそれだけで喜んでくれるわよ」
何かしたい。でも何が出来るだろう。
(それに……20代終わるからイヤだって言ってた。誕生日教えたくないって)
そう言われたのに祝っていいんだろうか? あの時、ちょっと悲しそうな顔だったと思う。
(なのに『おめでとう』って言うの?)
19日は来週の金曜日。本当に祝っていいのか、それさえも分からない。
「花さん……」
午後の休憩で花と4階に行った。
「どうした?」
「誕生日って、イヤなのにお祝いされたらどう思いますか?」
「イヤってのが前提か?」
「はい」
「ならイヤだろう! それ知ってて『おめでとう』っていうヤツ、最低だよ」
「最低……」
「なんだよ、何の話?」
「いえ、たいしたことじゃ……家、片付いたんですか?」
「お前! 変な処世術覚えんな! 今さりげなく話変えようとしたろ? そんな器用なことすんな、似合わないから」
「でもそれが大人になることだって」
「誰が?」
「……浜田さん」
「あの人の言うこと、本気にすんじゃない。口が軽いのが取り得って自分でも言ってんだから」
「……はい」
(イヤなの知ってるのに『おめでとう』なんて言ったら最低……)
この心の呟きを三途川が聞いたら怒鳴り散らしたかもしれない。
どうしていいか分からないまま日が過ぎていく。
(やっぱり何か買いたい! おめでとうって言わなくてもいいから何か渡したい)
自分ならどうだろうと考えた。今まで母以外から誕生日を祝ってもらったことは無いけれど、もし蓮が祝ってくれたらどんなに嬉しいだろう!
(誕生日知ってるって言わないで渡そう)
今日は水曜日。明後日じゃ遅い。今日か明日には何か買わないと。
「ジェローム、今日はちょっと残業になるんだ。4階で時間潰しててくれないか? そんなに遅くはならないから」
ちょっと考えた。みんな蓮が送るから大丈夫だと思って帰った。
「すみません、言うの忘れてました。下で花さんが待っててくれてるんです。今日は送ってもらうので」
「そうなのか? じゃ先に帰っていい。お疲れ!」
「お先に失礼します」
(なんで課長が一々送り迎えするの!?)
砂原の中でどんどんジェイの存在が疎ましくなっていく。
(久し振りだ、一人で帰るの)
ちょっとあれこれ見て帰ろうと思ってる。プレゼントを買いたい。デパートの中をあちこち見て回りながら迷っていた。デパートに一人で入ったのは初めてだ。何度か蓮について入ったが、なんとなく蓮の買い物を見ていただけ。
(何がいいだろう。なんなら喜ぶかな)
こうやって考えると蓮のことを全く知らないような気がしてくる。
(色とか……興味あるのとか、俺何も知らない)
自分が何かしてもらってるだけ。いつも受け身だ。
(今日は無理かなぁ)
どれもいいような気がするし、ダメなような気もする。紳士服売り場に行ってみた。
(ネクタイ?)
そう言えば蓮は黒っぽいものを好んでいるような……そう思って見ていると店員がすぐ寄ってきた。
「お客様がお使いですか?」
「いえ、あのプレゼントにどうかなって見ていて」
「お相手はどんな方ですか? お父様? ご兄弟ですか?」
「いえ、お世話になっている方で」
「お幾つくらいの方ですか?」
その辺りで早くも逃げ出したくなっていた。どうせならじっくり見たいのに考える間もなく矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。
「あの、また来ます!」
振り切るように売り場を離れた。
(なんであんなに聞くんだろう。あれじゃ選べない)
そのうち少し離れたところで財布売り場を見つけた。
(お財布、新しいの持ってるし)
隣を見ると定期券入れが並んでいる。
(あ! これがいい!)
『擦り切れちゃったなぁ。ま、いいか、買いに行く暇も無いし』
そう言ってたのは一昨日だった。後は色を決めるだけ。
(今使ってるのに似てるのにしよう)
やっぱり黒を使っていた。だから間違いなく好みの色だ。
(意外と安い……こんなんでいいのかな)
あれこれ眺めるが2,500円とか2,700円とか。
(これじゃ何か他に買わないと)
隣に隣にと移動している内にワゴンではなくショーケースに陳列してある財布の間に定期入れが見えた。
(高っ!)
6,500円。しかも色はブラウン。他にないかと見ていると端の方に黒いものを見つけた。
(これ、似てる。3,800円。これならいいかな)
「お決まりですか?」
タイミングが良かった。思わず「はい」と答えた。
「お包みしますね。ご自宅用ですか?」
自分が使うわけじゃない。蓮の家は自宅じゃない。
「違います」
「プレゼントですか?」
「はい」
「おリボンはどうなさいますか?」
(リボン!?)
「いえ、要らないです!」
「では少々お待ちください」
(デパートの買い物ってドキドキする!)
箱に入って、テキパキと包まれて行く定期券。
「スタンプカードはお持ちですか?」
「いえ!」
「お作りしますか?」
「いえ!」
「ではお会計を」
(やっと解放された!)
自分の定期券入れは文房具店で入社前に買った。1,200円だった。でも蓮にはちゃんとしたものを買いたかったから文房具店には入らなかった。
初めての蓮への贈り物。その小さな包みがジェイの心を幸せにしていた。バッグにしまって駅へと近道を歩き始めた。
「帰るの?」
足が止まる。聞きたくない声。もう聞かずに済むと思っていた声。
「あのさ、せめて友だちになれないかな。それならアイツも怒らないでしょ? メール交換したり電話で喋ったり。しばらくはそれでいいよ。なんかさ、君が忘れられなくて。でもそういう関係になるのはアイツがいる限り難しそうだし。どうかな?」
『ストーカー』
みんなの言っていた言葉。哲平が来て終わっただろうと思っていた。けれど誰もジェイを一人にしようとしなかった。
(こういうこと……だったの?)
自分の身にこんなことが起きるとは思ってもいなかった。
「ね、返事くらいしようよ。僕は歳上なんだからさ、少しは敬意を持つべきだと思う。親しき中にも礼儀有りってね」
「なんで……なんで俺をつけ回すの? もう分かったでしょ、俺が嫌がってるって」
「僕はさ、君の彼に会って分かったよ。アイツ、自分の思い通りにならないと気に食わないんだろ? だから君を抑えつけてるんだ。君はアイツが怖いから逆らえない。それでだらだらと関係が続いてしまっている。そういうことなんだよね。可哀想だと思う。僕は君の理解者だから安心していいんだ」
(この人、狂ってる……)
ジェイは走り出した。駅まではすぐだ。人通りが多い所に出さえすればいい。足音が追ってきたが振り向かず明るい通りに飛び出した。荒い息のまま振り返ると相田の姿は消えていた。
電車から降りた時に電話がかかってきた。
(蓮だ!)
「もしもしっ!」
『どうした? お前、どこだ? 俺より先に帰ったはずだろ?』
「俺……」
言いたくない そう思った。ただでさえみんなに心配も迷惑をかけている。これ以上の心配をかけたくない。特に蓮には。
「俺、ビデオ借りようと思って」
『なんだ、寄り道か? ずい分長いこといるんだな』
「時間……気がつかなかったんだ。すぐに帰るよ」
『迎えに行ってやる。待ってろ、そこで』
急にホッとした。蓮が来てくれる……
「うん……蓮、早く来て」
『何かあったのか?』
「何も。ちょっと寂しくて」
『すぐ行く』
気が緩んで涙が出そうになる。その辺に相田はいないだろうか。どこかで自分を見ていないだろうか。不安でいっぱいになる……
蓮はすぐに来た。それまでにビデオを3本借りておいた。
「何かあったんだろう」
「ううん、何も」
「飯、食ったのか?」
「食べてない」
「俺も帰ってきたばかりなんだ。どこか寄るか?」
「うん」
ジェイを見れば分かる、何かあったに違いない。
「あったかいもん食おう。ラーメン屋にするか?」
「うん。それでいい」
ラーメン屋に入ってもジェイは静かだった。
(花と何かあったとは思えない。こいつは人とケンカなんか出来ない)
我を通せないというのも一つの欠点かもしれないと蓮は思う。ジェイは人と争うことが嫌いだ。
体はほっこりと暖かくなり、マンションに帰った。
「蓮……今日、泊ってもいい?」
「もちろんいいさ! 着替えなら乾いてるぞ」
「じゃこのまま行く」
無理に聞くのは止めようと思った。誰だって言いたくないことがあったりする。今日のジェイは話したくなさそうだ。
「シャワー浴びよう」
バスルームに入るとすぐにジェイが抱きついてきた。
「ジェイ?」
「少し……こうしてていい?」
「いいよ」
抱き締めてただシャワーを浴びた。ようやく手を離したジェイの体を洗う。ほうっとため息が漏れた。
「何か相談したいことがあったらいつでも言え。ちゃんと聞いてやるから」
「うん……大丈夫だから。何でもないんだ、ちょっと寂しかっただけ」
「ならいいけど」
パジャマを着てソファに落ち着いた。セックスをしたいようには見えない。蓮の肩に頭を預けてついたテレビをぼんやりと眺めている。その肩を蓮はずっと抱いていた。
「おい、花」
次の朝だ。来たばかりの花を呼んだ。
「何ですか?」
「ちょっといいか?」
ミーティングルームに花を呼び入れた。
「夕べ、ジェロームと何かあったか?」
「夕べって?」
「ジェロームと一緒に帰ったろう?」
「いえ。昨日は会社で別れてそれきりです」
「下であいつを待ってたんじゃなくて?」
「何かあったんですね?」
「お前が待ってるから先に帰ると言っていた。けれどえらく元気無いからお前と何かあったのかと思って聞いたんだ。分かった、呼び出して悪かったな」
花は送っていなかった。なぜジェイは嘘をついたのだろう?
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