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J (ジェイ)の物語」

​第3部
13.プライドと連帯感

(辞める?)
 蓮はそれには返事をしなかった。立ち止まったままのジェイの背中を押して歩き出す。会社まで5分の距離を10分かけて歩いた。
(キー……上だ)
正直鞄などどうでもいい。けれど車のキーをオフィスに置きっ放しだ。ジェイを連れてオフィスに上がった。電気だけがついている人気のないオフィス。入ったところで蓮が止まった。
「ジェイ、見回してみろ」
言われて中をゆっくりと見回した。
「お前、たった7ヶ月の間にここの仕事を覚えたんだよな。まだ一人前じゃないが、立派な戦力になっている。みんなお前を疎んじちゃいないだろ? お前のことだから迷惑だとかなんだとか考えているんだろうが、仲間とは言ってもみんな自分の生活もかかっているんだ。本当に仕事で支障きたすなら誰も相手にしないよ」
蓮はジェイの席に座らせた。
「この席、お前の席だ。ここ全体はR&Dのオフィスだが、この席の上はお前だけのオフィスなんだ。お前はこの小さなオフィスを任されている。そして立派にその責任者をこなしてきた。免許を取る間だって人一倍早く来て自分の業務を人に回さなかった」


 ジェイのデスクの上は常にきちんと片づけられている。書類作業とパソコン業務を並行して処理していくためだ。新人だから雑多な仕事も言いつけられる。企画を作成している最中、大量に届いたコピー用紙の箱を奥のコピー室に運んだり、誰かがコーヒーでも零せば人より早く動いてモップ掛けをする。オフィス内のポスターを張り替えたり、古い電池を回収して所定の廃棄場所に入れたり。フロア内のたくさんの雑務を、ジェイは一手に引き受けて愚痴一つ零さずにこなしていた。


「ここにはお前の7ヶ月分の歴史がある。人生にとっちゃ、たった7ヶ月だ。けどな、お前の中でこの7ヶ月はデカかったはずだ。そうだろう?」
 自分のこれまでの生き方を大きく変えてくれた職場、仲間。大事な仲間は今や家族も同然で、ジェイの生活の中心になっている。ここで自分の上げた笑い声は、これまでの一生分より多かった。
「心を殺してまでここで仕事をしろとは俺は言えない。お前の決めることだ。ただ、お前は捨てられるのか? ここで作った財産を。何も無かったように生きて行けるのか?」
「俺……みんなの足を引っ張るような存在になりたくないんだ……蓮の足を」
バンッ!! と蓮がデスクを叩いてジェイは飛びあがった。
「舐めるな! 俺はそんな柔な生き方をしてきちゃいない! お前がどう足を引っ張ろうとも、それでピクリとでも動くような俺じゃないんだ! 俺はそんな仕事の仕方をしていない!」

 

 大きく深呼吸を繰り返す。蓮は仕事に対するプライドというものをジェイに教えたかった。
「お前が有休を取った時に仕事は止まらない。分かるな? 休んだ人間のせいで止まるようじゃ会社はやっていけない」
穏やかな声だ、諭すような。
「それと変わらないんだ。俺が事故で長期休んだ時でさえ、ここの仕事は止まらなかった。みんなプライドがあるんだ。そんなことで業務を止めてたまるかっていうプライドが」
 今日、花が怒鳴っていたのをぼんやりと聞いていた。その声が蘇る。
『これでここの評価下がるの、堪んないんだけど! 俺、プライドあるからさ、こんなんでケチつけられたくないんだよ!』
「ここが、お前程度のトラブルも背負っていけないような部署なら俺のいる意味は無いんだ。俺に能力が無いってことだからな」
ジェイの目に考える力が戻ってきたように感じた。
「今日はもう帰ろう。明日からしばらくみんなの仕事を見るんだ。どう取り組んでいるか。そしてもう一つ。お前のことをどう見ているのか、思っているのか。それがきっと分かるはずだ」

 

 


 マンションに着くまでは穏やかな話をした。学生の頃やっていた陸上部の話。それをのんびり話した。聞いてなくてもいい、頭に入らなくても。ただ一人ではないということを知っていてほしかった。


「今日の夕飯は鍋焼きうどんだ。買っといたんだよ、あっためればいいってヤツ」
 部屋を暖めながら冷蔵庫の鍋焼きうどんを2つコンロに乗せた。出来上がるまで約5分だ。まず自分が着替えてソファに座り込んだジェイを着替えさせる。落ち着く頃にはうどんが出来上がった。黙々と食べるジェイを見ながら、それでも食べてくれたのだからマシだと思う。
 シャワーにはゆっくり浸った。いつものように体を洗ってやり、自分の背中を任せた。その途中で急に抱きついてきたジェイの手を握った。
「あの人……俺を殺そうとしたんだよね……殺すつもりだったんだよね」
背中で震えるジェイに応える言葉が見つからなかった。向き直って抱きしめた。
「あいつはもうおかしくなってたんだ。それはきっとお前と出会う前からだ。横浜にいた時にな、被害者がいたらしいよ。お前だけがそういう対象じゃなかったんだ」
「俺、殺したいほど憎まれてるなんて思わなかったんだ……あの時の道路の色が……」
「道路の色?」
「花さんの……血で赤かった。あれは本当は俺の血の色のはずだったんだ……」
「ストーカーみたいな連中は普通の人と思考回路が違うんだよ。自分の物にしたいっていう心の中に相手の幸せを思う気持ちが入っていない。お前のような目に遭う人はたくさんいるんだ。だからって許せることじゃない。現にこうやって苦しんでいるんだから」
頬に口付けた。
「相田のこと、怖いか?」
首が縦に揺れた。
「そうだよな。でも今は警察に掴まっている。もうお前の前には現れないから」

 

 ベッドでは蓮の胸に潜り込んできたから、眠りにつくまでそっと頭を撫でた。ぎゅっと胸を掴んでいた手が徐々に弛緩していく。

(やっぱり明日は会社に連れて行こう)
 さっきまで休ませようかとも思っていた。けれどきっとそれはいい結果を生まない。自分の目の届く範囲に。ジェイの目に自分が映る範囲に。それが最良なのだと。

 朝には思ったより落ち着いていた。会社に行こう、そう言った蓮に頷いて支度を始めた。途中で昼飯を二人で買った。
「これも食え」
取るものが少ないジェイにサラダやゼリー状の補助食品を買う。食欲が出なかったらそういうものがいいかもしれない。

 会社には花も来ていた。
「ジェローム! よく来たな!」
自分のことのように喜ぶ花に涙が溢れてきた。

「花さん……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ……」

途中で声が続かなくなる。
「バカ、謝るなよ。俺さ、夕べ彼女に自慢してやったよ、後輩を助けたんだって。目を丸くしてさ、何て言ったと思う? 『花、強かったんだ!』 ひどくないか、それ。だから言ったんだ、お前のことだって守れるからって」
「おい、花! 何かと思えばノロケか?」
「チーフ、違うんですよ、その後言われたのがもっと酷かったんです。『私が花を守るから安心しなさい』って」
「なんだ、彼女強いのか?」
「俺、彼女に合気道教わったから」
「え? あんたより強いってこと?」
「三途さん、今バカにしたでしょ! あいつは13の時からやってるんだ、15年も」
「……ちょっと待って、あんた今25よね?」
「それがなんですか?」
「12の時から15年って……年上?」
「言いませんでしたっけ?」

千枝も予想外という顔をしている。
「そうだったんだ……ちょっとビックリ! ね、三途さん」

 そんなお喋りが心地よかった。あんなに大きな事件があったのに誰もジェイを特別視しない。その話が出ない。


 仕事が始まって蓮の言ったことを思いだした。周りを見る。

 野瀬がペースが遅い! と怒鳴りながらも尾高の肩に手を置いてディスプレイを指しながらアドバイスを出している。尾高の顔にパッと笑顔が浮かび、野瀬に大きく頷いた。その後で池沢に野瀬が怒鳴った。
「手は足りてるか?」
「足りてはいるんですが後で課長が入ってくるんで」
「じゃ今の内に企画書もらっておく。次の坂井病院の自動カルテの件に取り組んでくれ」
「了解」

 脇で広岡が橋田菜美とシステムに取り込むソフトウェアについて話していた。広岡はパニック障害を抱えている。だからみんな広岡にはゆっくりと話しかける。

 高野麻衣がミスをしたらしく泣き顔になっているのを、中山が落ち着いた声で修正カ所をチェックし直している。そこに柏木が頭を掻きながら自分もミスをしたと中山に申告した。脇から和田が入って高野のミスを引き受けた。

 

 速い流れとゆっくりした流れが一つになって大きな川になっていく。こんな風に全体を見るのは初めてだ。その頂点にいるのが蓮だった。
 キーボードの指は止まらず、常にフロアを見渡している。時々鋭い声が飛ぶ。前に聞いた、蓮はこの中で一番キーボードを打つ速度が速いのだと。自分の仕事が終わらないとみんなのヘルプは出来ない。だから蓮の処理速度は速い。

 蓮が池沢チームに入って来た。ジェイ以外のメンバーに緊張が走る。

「坂井病院、現在のシステムの調査はどこまで進んだ?」
「不具合と要望は確認しています」
「それから?」
「カルテ整理に割いている稼働のデータは取りました」
「ウチで提案するシステムの売りはどこに重点を置いている?」
「作業工程の効率化と処理速度のUPです」
「処理速度の基準は?」
「現在の稼働しているシステムです」
「それじゃリサーチの意味が無い。同じ規模の病院を5件調べろ。カルテ業務に割いている人数の比較、患者数と処理数の比率、システムの違い、全部グラフ化してプレゼンしてくれ。本番は再来週木曜だから来週の金曜の10時半には俺に突つかれない内容にしておけ。11時に俺に事前プレゼンすること」
「……了解」

「宅配でセキュリティガード便のバーコード化があったな」
「ブルーバード宅配ですね。先方のプレゼン希望は来年1月中旬となっています」
「期日未定か……じゃ、12月2日に俺にプレゼンの概要を提出。すぐにチェックするから10日午前中には事前プレゼン」
「それはちょっと無茶かと……」
「出来ます! チーフ、やれますよ」
「花……」
「じゃ、頼む」

「はぁ…… 相変わらず弾丸だよな。花、安請け合いしてどうするんだよ。俺たちの首が締まるだろ?」
「課長は出来ないことは言わないですよ」
「分かってるよ。けどしんどいことになるぞ。ジェローム、お前当てにしてるからな」

池沢はジェイを忙しくさせておきたかった。あんなことがあって、出勤してきたことが奇跡だと思う。
(課長が連れてきたのは仕事で忘れさせるためなんだろうな)
ならヒマを与えちゃいけない。考える間もなく仕事をさせないと。

 

「坂井病院は俺と三途と千枝で引き受ける。花、ジェロームとブルーバードを進めてくれ」
「確か営業から昨日追加資料が来てましたよね」
「ジェロームに教えてやってくれ。お前、月曜は休むだろ?」
「さすがに結婚式の翌日くらいは休みほしいです」
「新婚旅行は正月に行くんだよな」
「お互いに身内に挨拶しに行くのは正月から気が滅入るんで。取り敢えず国内で旅行します」
「じゃ、年内は遠慮せずにこき使うぞ。月曜のジェロームのスケジュールを埋めといてくれよ」
「了解」

花はジェイの肩を叩いた。

「おい、頼むぞ。この仕事、俺たち二人でこなすからな」

 二人で。今までのジェイの立ち位置は補助だった。だからジェイにとってはこれがリサーチと企画の初仕事になる。
(俺……辞めるつもりだったのに)
けれど池沢に『当てにしている』と言われた。花に『頼むぞ』と言われた。
(戦力になれる? 俺が初めて手掛ける仕事……)

 通りかかった澤田が肩を組んできた。
「なに、初仕事?」
「はい……あの、仕事もらいました」
「早いな! 俺仕事任されたの、2年目だった。お前覚え早いからなぁ。ウチのチームに欲しかったよ」
「ダメですよ、ジェロームは俺の相棒になるんだから」
澤田の声が小さくなった。
「花、ジェロームと浜田、トレードしないか?」
「冗談!」

(欲しいって……蓮、仕事で俺を欲しいって言われた。花さんが俺のこと、相棒だって……)
花の言葉が嬉しい。『相棒』という言葉に重みを感じる。
(相応しくなりたい、花さんの相手として)
花に恩返しが出来るとしたら、これがそうなのかもしれないと思った。

「これ、資料。よく読んで。単なるバーコード化なら仕事っていう程の物じゃない。これはセキュリティ用なんだ。だから行き先も荷の中身も暗号化したデータにして従来のものとは違うバーコードに組み入れる。宅配用の伝票を通さないってこと。俺たちのやる仕事は、先方に提示して決定したシステムの方向性を野瀬さんの開発チームに引き渡すことだ」
「花さん、資料は?」
「昨日夕方目を通した。これから追加を見るから。分かんなかったら聞いて。来週水曜に先方に行って具体的な話を聞く。月曜にポイントを絞っておいてくれ。火曜にそれを俺と一緒に手直ししよう。12月2日に課長にプレゼンの概要を提出しなくちゃなんない。ここ、納期の予定も立ってないんだ。ある程度のスケジュール、立てておいて」

「あの子、ふてぶてしいのね」

 砂原が給湯室で一緒になった井上に話しかけた。この頃たまに二人でお昼を食べる。井上はハキハキしているから一緒にいて居心地がいい。彼女なら自分の心配を理解してくれると思う。母親が倒れて介護もしていると聞いた。苦労している人なら課長の苦しさも分かるはずだ。

「あの子って?」
「ハーフの子」
「ジェロームですか?」
「そ! あんなにトラブルばかり起こしてみんなにも課長にも迷惑かけて。課長が気の毒で見ていられないの……昨日思い切って言ったのよ、他の会社に行けば? って」
「どうして? そんなこと言うなんて酷いですよ! ジェロームは一生懸命にやってます」
「みんなにチヤホヤされていい気になってるの、見れば分かるじゃない?」
「誤解してます、そんな子じゃないです」
「誤解って……」
「素直だしいつも一生懸命だし」
「みんな素直だって言うのね」
「ホントのことですから。三途さんがよく言ってます。『純粋培養されてきた』って」
「よっぽど親御さん、甘やかして育てたのね。だから課長に甘ったれてるんだわ」
「どうかしたんですか? おかしいですよ、そんなに目の敵にするなんて。それにジェロームは親に甘やかされてなんかいないです。ご両親とも亡くなってるんですから。それと砂原さん、まだ課長が分かってないです」

 先に行ってしまった井上の後ろ姿に溜息をついた。自分にしか課長の苦しさは見えていない……
(親がいないって……可哀想な子かもしれないけど、だからって課長の足を引っ張っていいってことにはならないわよ)

 引き出しには誕生日のプレゼントを入れてある。お昼を食べる時のランチョンマット。寂しくお昼を食べる課長のデスクを少しでも彩りたくてを何枚も作ってきた。

 隣の席から小さな声で花が喋りかけてきた。

「部長からメール来てる」
「メール?」
「お前にも来てるよ。1時半に弁護士に紹介するから部長室に来いって」

急に事件が現実のものとなってきた。

「俺、どうするか決められなくて」
「何を?」
「どこまで……言うか。ホテルのこととか……」
「守秘義務があるんだからさ、言えるだけ言えば? 全部を曝け出すわけじゃないんだから。お前の意向、通るよ。俺もそうだったから」
「花さんも?」
「俺の親が騒いだんだよ、訴えるって。けどそうなったら全部証言しなきゃなんない。その時どう思ったのか、どう感じたのか。本当に合意じゃなかったのか。冗談じゃないっつーの」
「そんなこと聞かれるんですか!」
「裁判になればね。その時の弁護士が言ってくれたんだ。どうするかは自分で決めていいって。だから俺は自分の事実だけ言うよ。お前に切りかかってきた相田をぶっ飛ばしたって。後はお前が決めろ。歓迎会のことから問題にするのかとかな。俺はお前のしたいことに合わせる」

 メールを読んだ。CCに蓮の名前が入っている。

(ついて来てくれるのかな……)
 花がそばにいてくれることで夕べの追われるような何もかもが消えていくような、そんな虚しい思いが少し軽減されていた。それでも少しでも思い出すと身震いがしてくる、息が詰まってくる。だから必死にそれから目を逸らしていた。

(蓮……そばにいてほしい……)
いてくれるだけでも良かった、ただ目が合うだけでも。

「いいのか? みんなで食べに行ったっていいんだ」
ジェイが昼飯はオフィスで食べると言ったから池沢が気遣った。
「今日は朝、買ってきたし。ここで食べたいんです」
「そうか。じゃ、行ってくるからな。外に出てもいいような気になったら言えよ」
「はい。ありがとうございます」

 ジェイはオフィスに残った。買って来たものを出す。けれど食べる気になれない。目を閉じると相田の笑い顔が浮かんで、慌てて目を開けた。
 蓮は11時から会議に行っている。だからオフィスに残っているのはジェイと橋田菜美と澤田潤、和田秀雄。

「なんだ、今日はここで食べるのか?」
「あんまり食欲無くて……」

和田が自分の弁当を持って近くの椅子を引っ張ってきた。

「俺、選択権ないんだよ。たまには外に出て食べたいんだけどウチの奥さん、早起きして弁当作るんだ」
「いいですね、そういうの」
「お前、知らないから。弁当ってたいがい夕飯の残り。後、冷凍食品」
「そうなんですか」
「自由に食いたい! ちょっと無理してマンション買ったからキツいんだよな、ローンが。住むとこのために食べるのを我慢するって、今さらだけどバカバカしい気がしてる」
「なんだ、愚痴か?」

澤田までそばにきた。
「俺、去年彼女と別れたんだけど今考えると良かったって思ってるんだ」
「あれ? 熱愛だったってヤケ酒飲んでただろ」
「あの時はね。あいつ見栄っ張りだったから、結婚してたらきっと大変だったって思うんだよ。自由は無くなるわ、ローンには追われるわ、ブランド物買いまくるわでさ。当分誰とも付き合いたくないね」


 そう言いながら澤田はおにぎりをジェイに押しつけてきた。
「俺、食欲が……」
「食え。そんなしみったれた顔すんな。お前が人事に食ってかかってた時はいい顔してたぞ。相田がお前に何をしたのかあんまり知らないけどさ、あいつが頭おかしかったのはみんな知ってるんだから。そんなんで食べらんないなんて言うな」
「そうだよ、若いんだから」

まるで年寄りが嘆いているように和田が羨ましがる。
「いいよなぁ、22って。俺、24にでもいいから戻りたい」

25の澤田の言葉に和田が吹き出した。
「それじゃ1年じゃないか」
「いいんだよ、1年でも若い時に戻りたい」

 渡されたコンビニのおにぎりの外側を剥いた。思い切って一口食べる。今朝もほとんど食べられなかったけれど、ちょっと食べる気になってきた。食べ終わると冷蔵庫に立ち、蓮が買ってくれたサラダを出した。

「お! 食う気になったか!」
和田が嬉しそうな声を上げて、サラダの蓋に卵焼きを乗せてくれた。

「和田、池波正太郎、どこまで読んだ?」
「あ、まだ6冊目」
「課長もよくやるよな、赤んぼに池波正太郎? いつだよ、それ読むの」
「さぁな、読まないかもしれないし。でも、らしくってさ」
「確かに」

 二人のお喋りを聞いている内にジェイは全部食べ終わっていた。

「よしよし。よく食った! お前、ホントにウチのチームに来ないか?」
「えぇ! それならウチが欲しい! 中山さんも絶対喜ぶ」

「和田さん、澤田さん……俺、みんなに迷惑かけてばかりで……それでもいていいのかって悩んでて」
「バカか、お前。じゃ、俺がなんかやらかしたらお前、迷惑だって思うか?」
「澤田さんがそんなことすると思えないし」

「俺さ、打ち上げの帰りに酔っ払ってぶつかったヤツにケンカ売ったんだ。ま、よくあるパターン。で、止めに入った課長を勢いでぶん殴った」
「え!」
「そ、こいつ、気持ちよく殴って。あれ、凄い音したな」
「その後がひどかった! 返り討ちだよ。気がついたら空見てた」
「俺はコピー用紙間違って発注してさ」
「ああ! 魔の『和田コピー用紙事件』!」
「新人の時お前みたいに雑務やらされてさ、仕事させてもらえなくて不貞腐れながらやってたら発注書にコピー用紙100箱って書いてたんだよ」
「100ですか!?」
「10箱だったんだよなぁ。おまけにボールペン100箱だろ? 後、なんだっけ?」
「ホチキス30にハサミ60」
「そうそう。つまりさ、全部一桁間違えて発注したの。コピー用紙は総務に持って行って、ハサミは他のフロアに配って回った。総務ですっごい目で見られた」
「みんな何かしらやらかしてるよ」

「でも俺のは……」
「そんなに可愛いもんじゃないってんだろ?」
「お前、被害者だってこと忘れてる」
「あの人が会社クビになってホッとしてるよ。あんなのが俺のチーフだったかもしれないなんてゾッとする」
「お前がなんで恨まれたのか知らないけど、早く立ち直れ」

『お前のことをどう見ているのか、思っているのか。それがきっと分かる』
(他のチームなのに……)

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