宗田花 小説の世界
「 J (ジェイ)の物語」
第3部
16.変わりたい
「なんだか雰囲気変わったよな」
池沢の言葉に千枝が反応する。
「やっぱり? 私だけそう感じてたのかと思った」
「千枝は哲平だけ見てるわけじゃないんだな」
妙な感心をされて千枝がむくれる。
ジェロームの様子が花の結婚式以来すっかり変わった。元々、仕事には真面目だ。真っ正直から取り組み手を抜かない。それに拍車がかかった。普段から人よりも蓮を見ている。それがいつの間にか自分の基盤になりつつあった。さらに、花、哲平の在り方に憧れていた。その思いが仕事に影響し始めている。
「ジェローム、仕事楽しそうだな」
「はい! とても!」
しばらく事件続きで落ち着かなかったジェイは、自分からそれを吹っ切った。
(解決を待ってるんじゃダメだ、俺が自分を何とかしないと)
頑張っているジェイが花には微笑ましい。『兄を』 あの結婚式でのジェイの言葉は今でも花の中に残っている。
蓮は違う目で見ていた。
(いいんだが……あんまり大人になるなよ、ジェイ)
少し、寂しい。まるで自分から巣立っていくようで。
車も買って、もう蓮の脇に乗せてもらうことも無い。逆に電車通勤が主の蓮を乗せることが増えた。蓮はどうしても付き合いで飲んで帰ることが多い。相手は大滝部長だったり、顧客だったりする。連絡を取り合って、蓮を迎えに行く。今はそれがジェイの楽しみだ。
ブルーバード宅配の仕事は順調だ。花と二人だから仕事が早い。
「花さん、お願いがあるんです」
「なんだ?」
「課長への事前プレゼン、俺にもやらせてもらえませんか?」
「やる気満々だな」
「ええ、事前だから勉強させてほしくて」
「そうか……概要は明日には提出できる。早く出来上がったから……課長にするのは10日だったよな。8日の午後、まず俺に事前の事前やってみろよ。見てやるから」
「ホントですか!? お願いします!」
資料を再度チェックしてパワーポイントを何度も練り直す。ぶつぶつと自分で発表の練習をする。花の手元には完成している資料があるのを知っている。少しでもそれに近づけて見たかった。
「さ、やってもらおうかな。俺は顧客だ。そう思え。何を突っ込むか分かんないからな」
「はい」
ジェイの説明の仕方は分かりやすかった。喋り方も緩急をつけて聞きやすい。
(こいつ、プレゼン向いてるな)
一通り終わって、花が質問を始めた。システムの不具合があった場合のこと。セキュリティについての追加質問。 なるべく答えにくいところを探しては厳しく追及した。
一部たどたどしくなったが、初めてにしては上出来だった。ただ、やはり甘さがある。
「あのな、Better で喋っちゃだめなんだ。言い切るんだ、Best だって。お前、時々遠慮してるよな、なんでだ? データで出ているものは特にしっかりと主張する」
「その、言い切っちゃっていいのかと不安になって」
「客に仕事をさせてもらうんじゃだめなんだよ。仕事はぶんどるんだ。ここが出来なかったらどこかがやる。一つ仕事を取られたらそれだけで信用はがた落ちになる。この仕事な、田中さんが取ってきた仕事だ」
「田中さん?」
「営業で田中さん、頑張ってるよ。それを俺たちのチームが受け取って客を納得させる。そのバトンを引き継いで形にするのが野瀬チーフのとこだ。それを中山さんたちが製品として完成させて最後のチェックをする。間に他の部署を経由するけど、それを田中さんの所に引き渡す。顧客はクレームを必ず付けるもんだ。そのクレームの芽を最初に俺たちが潰しておかなきゃならない」
「はい」
「そのためにプレゼンで方向性を明確にして顧客の合意を受ける。だからそこに不確定要素が入ってちゃいけない。作る側に自信が無いものを買うヤツはいないだろう?」
「はい……」
「既にシステムの中身については野瀬さんと話してる。野瀬さんとこが出来るかどうか、俺たちが心配しちゃだめだ。それを何とかするのがあそこの仕事なんだから。本当に何か不都合があれば俺たちの所に差し戻される。そしたらまた一から練り直して顧客に新しいものを提示する。通らなければ仕事が逃げる。俺たちは最前線で勝負してるんだ」
入社してやって来たことは、新人としての部署内の管理と雑務。チームではデータ作りと補助業務。表に出て仕事をするのは初めてだ。
「よし、手直しして明後日の午後もう一度やってみろ。それで良けりゃお前も課長にプレゼンするんだ」
「はい! もう一度練り直します!」
「ジェイ、まだ寝ないのか?」
「うん、もう少し……」
「仕事は仕事中にやれ。家にまで持ち込むな」
「うん……」
目を上げないジェイに(こいつ、聞いてないな?)と思った。立って行って資料を取り上げた。
「あ! 何すんの、蓮!」
「仕事は、仕事中に。家に仕事持ち込むな!」
「だって!」
「給料の出ない仕事するんじゃない。いいか、俺たちはプロなんだ。安く仕事するな」
(そんなこと言ったって間に合わなかったらどうすんの? 蓮がスケジュール決めたんじゃないか)
明らかに不服そうな顔のジェイに諭すように話した。
「俺は家で仕事の話、しないだろう? 今だけ特別にしてやる。仕事中に緊張するのはいい。だが家ではリフレッシュだ。今仕事がキツいが、だからこそ前倒しで取り組んでいるんだ。俺が言うスケジュールは1週間早めてある。本当は無茶なんだ。だが、単発的にこんなやり方をするのは効果がある。比較的軽い仕事ならな。いい意味で緊張感が出る。けど、お前みたいなやり方は息が続かない。アイデアは柔軟な頭から生まれるんだから」
(言ってること、分かるんだけど……)
ジェイは今、気負っている。仕事の面白さが分かり始めている。ここで躓くのが蓮としては一番怖い。
「とにかく今日はやめ。さ、シャワー行くぞ。今日はお前を抱く。だから仕事のことはもう忘れろ」
「抱くって……もう11時過ぎてるよ」
「お前は爺いか? 悪いが今日は我慢しない。ここんとこ、お前はちっとも俺の相手をしないじゃないか」
ジェイは溜息をついた。
「分かったよ……ごめん、俺、仕事今楽しくって」
もうそれ以上言わせなかった。口を塞ぐ。これが一番効果がある。卑怯でもなんでもいい。昨日も2時まで仕事をしていたのを知っている。蓮はジェイが自分にプレゼンするとは知らない。
(イヤでもその内本格的にやることになる。今はまだ根を詰めるのは早い)
シャワーとその後のベッドでの営みで、呆気なくジェイは陥落してしまった。「いや…… 」 そう言って逃れようとする体を引き戻し、腕の中に抱え込んだ。
(今夜はお前をしっかり寝せるからな)
「ジェローム、今日は落ち着いてるな」
花の言葉に振り返った。
「ここんところ突っ走るように仕事してるからさ、ちょっと心配してた。少しは余裕出来てきたか?」
(花さんにもそういう風に見えてたのかな)
不思議な気がした。
そう言えば一緒に昼飯を食べに行った時に広岡が言っていた。
「初めての仕事もらった時は気追いこんじゃってさ、ドジ踏んだらどうしようとか頑張りが足りないんじゃないかとか。後でハラハラして見てたって野瀬さんに言われたんだ」
広岡はパニック障害を抱えている。両親が教師という教育家庭に育って、親ではなくいつも教師から見られているという切羽詰まった育ち方をしてしまったと聞かされた。
(普段そうは見えないのに)
パニック障害がどういうものかジェイには分からない。
「だからこれは先輩からのアドバイス。一人で仕事してるんじゃないってこと。コケそうになってもカバーしてくれる仲間がいる。初めの頃は頼っていいんだ。しっかり仕事を勉強したら戦力になるんだから」
夕べ蓮が言っていたこと。
『家に仕事を持ち込むな』
蓮はあれだけの激務をこなしている。けれど家で仕事の話をするのを嫌った。もちろん、仕事はしない。その境界線を決して崩していない。
(俺にはまだそんな風に仕事と生活を両立出来ないよ)
一緒に仕事をしていると、花の仕事のセンスが抜群に見える。確かに大学では自分は優秀だったかもしれない。けれどここではそんなものは通用しない。学生時代は自分の世界が狭かったのだとつくづく思う。
頑張ると決めた。花のように、哲平のように。そして蓮のように。今、追いつかない自分が歯がゆかった、当たり前のことなのに。
次の花へのプレゼンは前回よりも上手く行った。
「うん、ずっと良くなった。絶対してはいけないこと。質問されてどうしても答えられない時に、すぐに分からないとか調べておきますとか言わないこと。話し合うんだ。答えられないのは相手の主張を理解できてないからかもしれない。どこが分からないのかその場で確認する。それでダメなら、時間をもらっていいか聞く。ダメならすぐにチームのメンバーに連絡を取る」
その匙加減が分かるようになるまで、一体どれくらいかかるのだろう。
「花さんはいつ頃一人前になったんですか?」
「一人前? そんなもん、まだなってないよ。ラインなんて無いんだからさ。課長に言われたんだ、満足したら伸びないぞって。その時には意味が分からなかったよ、満足できるように頑張ってたんだから。でも最近分かるようになってきた。結局さ、自分を潰すのは自分なんだってね」
聞いて、少しため息が出た。
(じゃ、ずっと一人前にはなれないってこと? 仕事が出来るっていうのと一人前っていうのは意味が違う? 花さんはこんなに仕事出来るのに)
蓮への事前プレゼンの日になった。
「俺さ、たいがい怖くないんだけど事前プレゼンだけは緊張するんだよね。客にする時は平気なのに」
花の言葉に驚く。資料もあんなにきっちりとまとめている。花が失敗するなんて考えられない。
蓮がスクリーンの前に陣取った。途端にミーティングルームの中にビリっとした緊張が走る。花が深呼吸している。
「では、始めます」
ジェイは花の資料も説明も斬新だと思った。切り込む角度が自分と全く違う。思わず顧客が『ほう!』と頷くような情景が浮かぶ。
(やっぱり凄い!)
「以上です」
予定時間は15分。実際には一方的な説明ではなく、区切りのいいところで質問や意見を聞く。花は13分で説明を終えた。
蓮がじっと考えている。
「花、どうして宅配伝票のデメリットを前面に打ち出した?」
「それは……先方が望んでいるものは伝票に変わるものだからです」
「うん、確かにそうだな。先方はそれを望んでいる。だがこの会社の創立は何年だ?」
「26年経っています」
「その間、ずっと伝票を使ってきた。お前はその26年間を今否定したんだ」
花が黙ってしまった。
「売り込みたい。こっちも商売だからな、そりゃ当然だ。だが先方のホームページにある経営理念や社長のメッセージを読んだか? 誇りを持って仕事をしてきたと、一貫して書いてある。否定せず受け入れて、その上で売り込め」
「……分かりました、練り直します」
ジェイは急に怖くなってきた。花が、やり直しを命じられた。じゃ、自分がこれからするプレゼンはどれほど子ども染みて見えることだろう。
「課長、ジェロームがプレゼンの勉強をしたいと頑張ってきました。どうか聞いてやってください」
逃げ腰になりかけている自分が見える。怖気づいているのが分かる。
(しっかりするんだ! 失敗して当たり前なんだ、花さんでさえやり直すんだから。これは勉強なんだ!)
蓮が意外だという顔をしていた。
「お前、プレゼンの用意をしていたのか」
「は、はい、俺も練習をしておきたくて……」
「よし、10分でタイムアウトだ。俺も会議があるからな。やれるだけやってみろ」
「はい」
練習では何度も何も見ずに出来たのに最初に言葉がつかえた。蓮の厳しい目に言葉が消えていく。目を閉じて頭の中にあるはずの言葉を辿った。そのままゆっくりと話し始めた。その後はすんなり言葉が流れ出てくる。
「よし、そこまで。初めてにしちゃ頑張った。質問だ。なぜ手元にメモを持たなかった?」
「それは……その方がいいと思って。花さんだってメモなんか見ていないし」
「だからいい加減な出だしになるんだ。今は場慣れするための勉強の段階だろ? 気取るな。お前はしっかり自信を持って喋ることから始めるんだ。中身はいい。こうだ、と言い切っている。だがその口調と不安が見えちゃ、客は引く。次もまた頑張れ」
「はい」
「ケチョンケチョンだったな!」
花が笑った。
(恥ずかしい……もうちょっと出来ると思ってた)
スクリーンを一緒に片付けながら返事も出来ない。
「おい、落ち込むなよ。俺なんか何度もやってるのにあのザマだ。ホームページか……基本を忘れてたよ。お前にあれこれ注意しておきながら、俺にゆとりが無かった」
「え、でも花さん、資料きっちり作ってたのに」
「そうだけど課長でさえ納得させられなかったんだから。結果がモノ言うからな、俺たちの仕事は。今まで使っていたものを頭から否定しない……そうかぁ……まだまだだな、俺も」
仕事というものの奥の深さを垣間見たような気がした。
仕事が立て込む中、同時進行で警察の事情聴取があった。弁護士とも何度も話をした。そして話はとうとう核心に迫った。
「レイプされかけたことは訴えないということ?」
「……はい」
「それは相手が男性だから?」
「………」
「今、同性同士のこういう事件は増えているの。異性のトラブルは意外と表面化する傾向が出ているのね、女性が主張するような社会になってきたから。でも同性のトラブルは表面化しない」
弁護士の求めているのは、ジェイの相手への糾弾だ。こういうケースで訴える者が多くなればなるほど、今後の似たような事例が社会に受け入れられて行くだろう。
けれどジェイはそのスケープゴートになりたくはない。他の誰でもない、自分の身に起きたことを公にしたくない。法廷で聞かれることに細かに答えるなど出来るわけがない。
「勇気を出してほしいの。これからこんな事件に巻き込まれる人の助けにもなるのよ」
「でも俺の助けになるわけじゃない」
思わず言い返した。そこから止まらない。
「男が男に襲われる……酔っ払った挙句トイレなんかで。上着も脱がされてズボンも下ろされかけて。俺に何を求めているんですか? 聞きました、単純な質問じゃないって。詳しい説明を求められるって」
「それは必要な事なの。こういった事件では状況証拠しか無いから証言が重要になる」
思い出したくもないことをここでまた抉られる……ただ傷害事件だけにしてもらえればそれでいいのに。
「なぜ傷害事件を起こしたのか。結局ね、あなたのその話が要なのよ。証言しないわけには行かないの」
「じゃ、傷害も訴えなくていいです!」
「シェパードさん。そうは行かないのよ。分かるでしょう? 白昼堂々とたくさんの目撃者の中で起きたんだから。現行犯なのよ?」
逃げ場がどんどん無くなっていく。
「被害を受けた方が……追い詰められるんですか? 俺、あなたに味方になってもらえるもんだと思ってました。分かってもらえるって。でも俺はこの中で独りなんですか?」
観点が違う。歯がゆかった。これから先の人に役立つから。そう言われて人に話せるものじゃない。
「教えてください、具体的にどんなことを聞かれます? 争点になるのはどんなことなんですか?」
西崎は苦しい顔をした。
「傷害の争点は殺意になるわね。軽犯罪として扱われれば執行猶予で終わるかもしれない。そうなればすぐに釈放になります。またあなたの前に出て来るかもしれない」
呆然とする。
(あれがまた始まる……?)
「だからそこにもっと材料が欲しいの。他の人のためだけじゃない、あなたのためにも必要なのよ」
「さっきの質問に答えてください。具体的に何を聞かれるんですか?」
弁護士としては言いにくい。ここで必ず被害者は気持ちを押し殺す。だからと言って答えないわけにはいかない。
「まず、本当に襲われたのかということ。事実としてきちんと拒んだのか。つまり、合意ではなかったのかを聞かれます。そして……感じたのか、感じなかったのか。きっかけとなる誘うような行動を取らなかったか」
酔っていた。全てに自信が無い、どう答えていいのか分からない。
「はっきり言えることだと思うの。だって相手は男性なんだから」
「でも、俺酔ってました。それもかなり。よく覚えてないです」
「なら、思い出しましょう。順を追って起こったことを少しでも書き出して。全く覚えて無いということは無いでしょう? 記憶を辿って行くと、意外と思い出すものよ」
覚えている部分と言ったら、話したくないことばかりだ。
「宗田さんはあなたが必要なら何でも証言すると言っていました。未遂のレイプの時も、包丁で襲われた時もあなたのすぐそばにいたから彼の証言はとても強いわ」
ジェイの目がさまよった。何度もこんな事件を扱ってきた西崎の頭にあることがよぎる。
「あなた……もしかしたら同性愛者?」
思考が止まる、表情が固まる。
「そうなのね? だから拒めたかどうか自信が無い?」
どう答えろと言うのか。今、それを答えなければならないのか……
「大丈夫、それでも宗田さんの証言がある。だから」
「花さんにそのことを知られるんですか!?」
「彼は現場に真っ先に飛び込んだのでしょう? あなたの表情も状態も見ている。酔って記憶が無くてもその証言は出来るわ」
「そういう事じゃ無いです! 知られるかどうか」
「時間をずらして別々に証言してもらうことは出来ます。でもあなたたちの話が食い違っては真実味が欠けてしまう」
花に……知られてしまう、何もかも。恐怖が生まれた。
「訴えません。俺、そんなこと話したくない」
「そうすると彼が殺意を認めない限り刑が軽くなってしまうわ」
「……訴えません……」
西崎は、今は何を話しても仕方ないだろうと思った。
(少し時間を空けよう。いつだってここで躓くんだから。でも頑張ってもらわないと)
「今日はここまでにしましょう。すぐに裁判になるわけでもないし。ゆっくり話し合いましょう」
もし蓮が聞いたらどう言うのだろう……そんなことを聞きたくなかった。
(何も無かったことにしたい……)
無理だと思う、自分があんなことを証言できるわけがない。
『僕の手の中で大きくなった』
思い出したくないのに蘇ってくる言葉。そんなことを裁判で相田に言われたら? アイツもゲイだ、そう言われたら? 喜んでた、そう言われたら? 釈放となれば相田はきっとまた自分の前に現れるだろう。
(今度こそ殺されるかもしれない……)
立ち直ったはずだった。明るい未来に目を向けて行こう、仕事で頑張ろう、そう決めていた。
(蓮には話せない……話したくない)
変わりたいのに。変われるはずだったのに。
「どうだった? 弁護士は何て言ってた? アイツがお前をストーカーしてたのなんかチーフも三途さんも哲平さんも証言できるからな。お前が誘ったとかどうせまた言うんだろうけど、そんなもん気にするな」
(俺が普通じゃないって……みんなに知られる)
「あれ、訴えないです」
「なんで!」
「あれこれ話さなくちゃならなくて……起きたことを細かく」
「……ああ、そうだった。ごめん、俺が一番分かってるはずなのに」
ホッとした、花は分かってくれている。
「でも、そうするとどうなる? なんでアイツがお前を街中で襲ったのか、理由はどうするんだ?」
「分からないって……そう言うつもりです」
「理由、言わなかった場合はどうなるって?」
「殺意が認められなければ執行猶予になるだろうって」
「そんなバカな!」
今度相田が解き放たれたらどうなるのかは目に見えている。ストーカー相手に理屈など通らない。しかも逆恨みまでしている。きっと隙を突いてジェイを襲うだろう。自分はよく知っている。
「なぁ、俺だってすごく抵抗あるけど訴えてみないか? 俺たち力になるよ」
「でも」
「イヤな思いするの、分かってる。けど、また襲われるよりいい。俺はお前が拒んでるのをこの目で見てるんだから、ちゃんと証言できるよ」
「少し……考えます。今は仕事してたいです」
花はそれ以上話すのをやめた。
(結局コイツが一番苦しむんだ)
「課長、時間取れる時ありますか?」
「なんだ、花。すぐにって言うんなら4階でも行くか?」
「そう言うんじゃなくて」
「深刻な話ってことか? まさか真理恵さんとケンカでもしたんじゃないだろうな」
「マリエとは普通ですよ、小さい時から一緒だからケンカになってもなんなくても変わんないんです」
「そうか、羨ましい話だな。で?」
「ちょっと相談があって」
「お前が相談って珍しいな」
「ジェロームのことです」
「ジェローム?」
蓮の鼓動が跳ねた。花が相談するほどのこと。花とジェイとの今の状況を考えると相田のことか?
「分かった。今日空いてるがどうする?」
「早い方がいいんです、お願いします」
「じゃ、少しだけ残れ。残業は無いし打ち合わせも無い。その後場所を移そう」
蓮はジェイの様子をいつもよりよく見た。今はもう4時近い。この頃のジェイは仕事に夢中で生き生きとしていた。時折りなぜか砂原を気にしていたし、砂原もジェイを避けているように見える。だが深刻そうには感じなかった。もう一度目をやると、ぼんやりしているように感じた。徐々にジェイの目がディスプレイから落ちていく。はっと気づいて顔が戻りまたぼんやりする。
(何があった?)
弁護士と会うことになっていたのを思い出した。
(やっぱり相田のことか?)
だが逮捕されているのに、なぜそこまで不安な顔をするのか。
蓮からのメール。
『今日は先に帰っていてくれ。ちょっと飲みに行かなくちゃならなくなった』
『分かった。終わる頃に電話して。迎えに行くよ』
『悪いな』
みんな今日は早く上がった。最後に残ったジェイがオフィスの電気を消すことになる。食べて帰るのは億劫だ。頭が疲れてぼんやりする。早く横になりたかった。
(何かコンビニで買おうかな)
「あなた、この後時間空いてる?」
後ろから声をかけられた。振り向くと砂原が無表情で立っていた。
どこでもいい。花がそう言うから駅向こうの居酒屋に入った。ブースがあって、そこはあまり声が外に漏れない。簡単なものを注文して花に目を上げた。
「今日弁護士との面談があったんですが」
「知っている。例の件に詳しい弁護士がついたんだろう?」
「困ったことになっていて……ジェロームは相田に性的に襲われたことを言いたくないんです。俺、その気持ちはすごくよく分かるからそれでもいいとも思って」
確かにそれを表に出したくないのは当然だ。
「第一、それを訴えたらいろんなことを証言しなくちゃならなくなる。弁護士との打ち合わせで聞かれそうなことを予備練習させられたんです。感じたか、感じたならその時点で合意になるだろうとか」
「そんなことまで聞かれるのか!」
「はい。酷かったですよ。俺、こんな風だから自分から誘ったんじゃないかとか、これまで男とセックスしたことは無いのかとか。だから俺、訴えるのをやめました。俺が訴えたかったわけじゃなかったし」
そんな質問にジェイが耐えられるわけが無い。
「で? 多分ジェロームはその件は訴えないと言ったんだろう?」
「そうです。だから傷害罪だけになる。けど弁護士の話じゃ、それだけなら本人が殺意を認めなければ執行猶予がついて釈放だろうって言われたみたいです。相田が殺意を認めるとは思えません」
愕然とする。暴行の訴えをすれば容赦ない追及をされる。しなければ相田が釈放される……
「なら、これからもジェロームは怯えて生活するってことか?」
「ええ。あんな逆恨みして街中で襲ってきたくらいだからこの先どうなるか……俺、思い切ってレイプされかけたこと、訴えてみないかって言ったんですけど。あの様子じゃしないだろうって」
するわけが無い。ジェイは嘘がつけない、きっと追及されれば表情にも動きにも心の揺れが表れるだろう。
「結論は出ていないんだな?」
「無理ですよ、今日話を聞かされたんだから」
自分がこれほどのショックを受けているならジェイは……
「俺、何でも証言してやるって言ったんです。哲平さんだって三途さんだってチーフだって状況を見たし経過を知ってるし。でもいろいろ聞かれるのが怖いんだと思うんです。なんとかしてやりたい。こんなにいろんな目に遭って、あいつ、このままじゃ潰れます」
(もう潰れかけている。これ以上何かあれば立ち直れないかもしれない……)
「時間……ですか?」
「そう。話したいの、あなたと。この前も中途半端に終わったし」
「でも」
「大事な話なのよ? 分からない?」
「俺、今日は疲れてて……」
「課長を疲れさせるのは平気でも自分が可愛いのね」
「そんなんじゃ……」
「私、きっちり話をつけたいの。課長が楽になれるように役に立ちたい、あなたには分からないことだろうけど」
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