J (ジェイ)の物語」

第三部
6.見失う

 目が覚めた時にジェイが窓際に立って昇る朝日を見ているのが分かった。静かに起き上がる。その肩に手を置いた。小さく震えているのが伝わってきた。

「ジェイ」
「俺……」
「こっち向け」
「俺、蓮以外と……」
「こっちを向くんだ」
「キスなんかして、体預けそうになって……」
「ジェイ、あれは事故だ」
「俺、覚えてる。キスした時に気持ち良かった」

 後ろから抱きしめた。

「お前は酔っていた。相手が誰だか分からなかったんだ」
「分からない相手に俺は許したんだ」
「お前には何の罪も無いよ」
「蓮、聞こえなかった? 気持ち良かったんだよ、相手が誰でも俺はいいんだ」
「そんなやつじゃない、ジェイは」
「でも、でも……俺は自分が蓮だけを愛してるって、だから安心して、だから自分を信じられて……もう自分が分からない」
「ジェイ、事故の反動だよ。お前は勝手に自分が悪かったと思ってるんだ。お前は被害者なんだぞ」
「マンション出る。俺なんか蓮のそばにいちゃいけない。蓮を見るの、辛い……俺をこんなに大事にしてくれるのにそれに甘えるばっかりで。なのに……他の……人と、キ……」

 蓮の強い力にジェイの体が反転した。

「俺を見ろ」

 首を横に振る。俯いたまま雫が落ちるのが見えた。その顎を持ち上げると目が閉じられていた。

「俺を見てくれ。頼む」

 ゆっくりと目が開き、濡れた明るい茶色の目が蓮を見返した。

「変わらない。お前は何も変わってないんだ。俺の知ってるジェイだよ。不安がるな、俺がお前を愛してるんだ。他のヤツなんか関係無い。俺がお前といたいんだ」

 涙が流れ落ちた。

「俺、言われたこと覚えてる……」
「何を? 何を言われたんだ、あいつから」
「俺が……自分から……誘ったって……俺が先に抱きついたって」

 抱き締めた、強く。震える体を自分の胸に。

「そんな言葉、真に受けるな。俺が知ってる、お前がそんなヤツじゃないってこと」
「でもそうなんだよ、きっと。だからあの人、俺がそんなことしたから……仕方なくて俺を」

 口を塞がれる、蓮に。優しい口づけに。長いキスに。拒もうとしたジェイはそれでも蓮に追いかけられてとうとう身を任せた。

「今は混乱してるだけだよ。考えるのを止すんだ。俺とこうやって一緒にいよう。落ち着くまで余計なことを考えるな」
「無理だよ……知らない人の唇を……思い出すよ、あの感覚を」

 震えながら啜り泣くジェイが不憫で、怒りが込みあげてくるのを止められない。

(なんでこいつが苦しまなきゃならないんだ!)
悪意の言葉がジェイに突き刺さっているのが分かる。やはりショックは大きかった。純粋だからこそ柔らかい心は簡単に串刺しになってしまった……
(あの野郎……)

けれど自分の怒りより最優先なのはジェイのことだ。どうしたらこの傷を癒してやれるのか。
  
「少し横になれ」

 青い顔をしたジェイをベッドに寝かせた。脇に椅子を置いて座る。ジェイの手を両手で握った。

「お前はな、きれいな心を持っているんだ。だから俺は惹かれた。お前みたいなヤツに出会ったことは無い。俺はお前がいてくれるだけで幸せになれるんだ。あんなこと言うな。マンションから出るなんて。そばにいてほしい」

 その後はもう返事も無く、ただ静かな時間が流れた。今のジェイを抱くのは傷を深めるだけだと思う。だから必要以上に触れないようにした。体を刺激したくない、この状態のジェイを。

(もう少し落ち着いたら抱きしめたい……お前だけをこんなに愛しているんだと体に伝えたい……)

 妙な気遣いとすれ違いが生まれ始める。ジェイは抱き締めて欲しかった。忘れさせてほしかった。けれど自分から求めるのは怖かった、でも……抱いて……ほしかった……


 互いの心が見えないまま、午前中が消えた。

「ジェイ、腹が減ってないか?」
「……ううん」
「じゃ、スープだけでも飲め。俺も腹が減った」

 食事をフロントに頼んだ。そばに行ってジェイの髪を撫でた。ピクリとする体からそっと手を離していく。
(離れ……ないで……)
けれど声には出ない。食事が届き、僅かなスープを飲んだ。

「もう少しでいいから飲んでくれ」
「お腹がもう……いっぱいで」
「帰ったらお前の好きなおじやを作ってやるからな」

(もうあそこは俺の家じゃない……何も無かったような顔なんて出来ない)
 ジェイの心が閉じ始める。耐えられないから自分を守るための固い殻が必要になる。


 大滝部長は少しの時間で帰った。

「じゃ、訴える気は無いのか?」
「はい」
「具合悪そうだな」
「少し……でも、大丈夫ですから」
「そうか? 何かしてほしいことがあったら言ってくれ。後のことは会社に任せるということでいいのかな?」
「はい、お任せします」
「分かった。じゃ、ゆっくり休んでくれ。ここのチェックアウトはいつでもいい。いたいだけいて構わない。着替えが必要なら買うといい、後で会社が払うから」
「ありがとうございます。ご迷惑おかけします」
「シェパード君。迷惑などかけられていないよ。君が心配だ。元気になったら出社してくれ。待っている」


「良かったのか? あれで」
「人を……訴えるような立場じゃないし。いいんだ、あの人だけが悪いんじゃない」
「言っておくがお前に非は無いからな。誰もお前を責めるヤツはいない。お前だけだよ、お前を許して無いのは」

 答えが返ってこないのが心配だった。思っていた以上にジェイのショックは強かった。
(あいつの言葉がジェイを苦しめている)

どうしたらいいのか……

 マンションに戻った。あれ以上ホテルにいることに意味は無い。蓮はとにかくジェイの心を軽くしたかった。

「何もしなくていいから」

 上着を脱がせてネクタイを解き……そこまでしてジェイの激しい抵抗に驚いた。

「自分でやる!」
「どうしたんだ?」
「………」
「言わなきゃ分からないよ、ジェイ」
「あの人に……脱がされたから……思い出したんだ、それを。ごめん…」

 頭を引き寄せた。

「いいんだよ、お前が悪いわけじゃないんだ。ごめんな、配慮が足りなかった。泣きたかったら泣け。抱え込むな」
「れん……俺、俺ここを出て」
「それは絶対にだめだ! 辛いなら尚更一緒にいなきゃだめだ、独りになんかなるな」

 強い語調を緩めた。

「今日と明日はお前の好きなようにしよう。来週のことは後で考えよう」

 抱き締められたまま頷いた。
(蓮が……好きなのに。なんで、俺が、俺が誘った……誘った……)
 深く潜った棘が抜けない。自分の中に知らない自分がいる。こんな自分がどこにいたのか。幻の自分に苛まされて行く。無い影を自分の中に感じてしまう。

「ジェイ、明日、どこか行こうか」
「……行く?」
「ああ、ドライブしてさ、気晴らしして来よう」
「うん……」

 連れ出そう。外の空気を吸わせたい。風に当たれば気持ちも解れるだろう。その夜はただジェイを抱きしめて眠った。

(何もしてくれない……俺、汚いから……?)
ただ抱きしめるだけの蓮が悲しかった……

「ジェイ! ジェイ、どこだ!」

 広い家じゃない、どこにもいない。目が覚めたら脱いだパジャマがきちんと枕に置かれていた。書置きもない。早い時間に出たのだろう、バスルームは冷えていた。
(なんで気がつかなかったんだ!)
自分が情けない、ジェイの心を見失ってしまった。
(どこに?)
蓮はキーを掴んで車に走った。

 てっきりここに来ていると思った。けれどアパートは静かだった。
(じゃ、どこだ!?)
一つの場所が浮かんだ。きっとジェイはそこだ。蓮は車を飛ばした。小雨が窓に当たっていた。

(母さん……俺、どうしたらいいか分からないんだ……)
 ただ、墓の前に立っていた。明るかったグレイの空がどんどん暗くなっていく。小さな雨粒が頬を、体を濡らし始めた。
(俺ってなんなんだろう……母さんはこんな俺、望んじゃいないよね)
答えがあるはずも無く、水滴が髪から滴り落ちていく。

「ジェイ」

 見上げると少し離れたところに蓮が立っていた。

「迎えに来た。そばに行ってもいいか?」

 涙が溢れた、雨ではなくて。蓮が……来てくれた。ジェイは蓮に飛びついた。

「やっぱり……独りはいやだ、いやだ、蓮、独りになるのは……怖い……」
「お前を独りにするわけ無いだろう? いつだって一緒だ、お前を愛してるんだから」

 ずぶ濡れの体を擦った。

「こんなに冷えて。じゃ、お母さんとはたっぷり話したろう?」
「何も……何も答えてくれなかった……」
「それはお前のこと、安心してるからじゃないか?」
「安心?」
「お母さんには何も変わったようには見えなかったってことさ」

(変わって……ない?)
 小さい子どもじゃない、だから死んだ母が答えてくれると本気で思っているわけじゃない。けれど母ならこう言ったかもしれないという言葉が欲しかった。

「蓮……本当にそう思う? 俺、変わってない?」
「変わったとは思えないけどな。お前だからあんなことで罪を感じるんだ。お前だから自分を許せないんだ。だから何も変わってないよ」
「俺のこと……汚いって思わないの?」
「おい、怒るぞ! 最初に言っただろう? 困るなら困る、イヤならイヤだと言うって。そんな風に思うならここまで追いかけて来ない」
「うん……うん、俺、嫌われると……嫌われてると思ったんだ」
「なんで! 俺、そんな素振り見せたか?」
「だって……抱いてくれなかった」

 ジェイを思うから抱かなかった、傷を抉るかもしれないと。それがジェイを不安にさせた。

「いいのか? 抱いてもいいのか? 俺はお前に拒まれるかと思ってたんだ」
「俺が?」
「イヤな思いしたんだ、だから辛いかと」

 ぎゅっと掴んだ蓮の体を。

「違う、抱いてほしかった……でも言えなくて」
「……悪かった。気を回し過ぎたんだな、俺は。お母さんにまた来るからって挨拶してこい。帰るぞ」
「マンションに?」
「ばか、ベッドにだ」

 途端にジェイの顔が赤らんだ。

「なんだ、他のどこに帰るっていうんだ? 車ではイヤだぞ、窮屈だ」
「ばかっ、そんなこと言ってない……」

 小さな声で言い返してくるジェイを抱きたくて堪らなくなる。

「ほら。待ってるから、挨拶」

 ジェイが墓前に祈る姿が湿った空気の中にくっきりと浮き上がった。巻き毛が濡れているせいで長髪に見える。

(始めの頃より大人っぽくなってきたな)

 あの突っ張っていたジェイはどちらかというと子どもっぽかったように感じる。精一杯突っ張っていた子ども。そして牛乳割りを飲んだ時の子ども。でも今は自分を惹きつけてやまない若者だ。
 

 車の中で濡れた服を脱がせた。自分の上着を渡す。ヒーターをつけた。

「途中で着る物買ってやる。風邪引かれたら困るからな」

 車の中でジェイの言葉は少なかった。

「どうした? まだ寒いか?」

 買った服に着替えさせ、寒さは治まったはずだが熱が出ているかもしれない。あの春のジェイを思い出し蓮の手が伸びた。額を触ってホッとする。その触る手にほんの僅か、ジェイの頭が自分の方へ傾いだような気がした。
(まだ気持ちが不安定なのか)
そう思う。さっきは母の前だから素直に気持ちを言えたのかもしれない。
(家に着くまでそっとしといてやろう)
ただ時折りジェイの頭に手を置いたり、手を握ったり。そんなスキンシップを続けた。もう不安を感じさせたくない。

 マンションに着いて、ジェイは車から降りようとしなかった。躊躇っているのが伝わってくる。蓮はただ待った。追い詰めたくなかったし自分から下りて欲しい。そのまま5分ほどが過ぎた。ジェイがドアを開けたのを見て蓮も下りた。

 エレベーターで上がる。キーを回してドアを開けた。またそこでジェイは止まった。少しして辛そうな顔を横に振った。

「お前の家だ。お前がどう思おうとも、お前の家はここなんだ」

 その言葉がジェイの背中を押した。一歩踏み込んだ。後から入った蓮が後ろから抱きしめる。ピクリと体が逃げそうになるのを抑えて、ただ抱いた。
 少しずつジェイの体が落ち着いてくる。ゆっくり蓮は自分の方へとジェイを向かせた。ジェイの手が背中に縋りつく。その頭を何度も撫でた。

「俺はお前にそばにいてほしい、何があっても。汚いとかきれいとか、そんなことはどうでもいいんだ。お前をこうやって抱きしめてそう思う。お前だから俺はいいんだ」

 見上げた濡れた瞳に蓮は微笑んだ。こんなにも愛しい。相田への憎しみはある。けれどそれを持ち続けることはジェイを責めることに繋がるかもしれない…… 自分が忘れなければ。