J (ジェイ)の物語」

​第3部
6.想定外-1

(良かった、元気そうだ)
 午前中は花に引っ張り出される様子やバタバタしているのを見ていたから心配だったが、午後は落ち着いた顔で仕事をしていた。池沢が必要以上にジェイを面倒見ているのが若干気になる。あの事件がきっかけで特別視することになるのは困る。
 午後一で池沢と目が合った時にそばに来るように合図を送った。

「どうしました?」
「ジェロームの様子はどうだ?」
「大丈夫ですね。昼もみんなで食べに行ったんですが誰もあの件は口にしなかったんで穏やかなもんでしたよ」
「そうか、ならいい。お前はどうなんだ? 何か気にしていることがあるのか?」
「あの……」
「どうした?」
「課長と一緒にいたんですよね、休んでた間」
「ああ」
「いつです? 自殺図ったの」
「自殺? 誰が!」
「ジェロームですよ! 首、刺したんでしょ?」

(それで過剰反応していたのか)

「違う、あれはあいつがおっちょこちょいでケガしたんだ」
「自殺じゃなくて?」
「そんなことするなら出社させない、病院に連れて行ってる」
「……そうですよねぇ! そうか、違ったんだ! 俺てっきり……いや、安心しました!」
「それで気を遣ってたのか」
「ええ、ちょっと」
「大丈夫だから気合入れてやってくれ。じゃ、頼んだぞ」

他にもそう思った人間がいるんだろうか。
(そうか、だから朝、花が慌てて引っ張ってたんだな)
いちいちケガの説明をして回るわけにはいかないし、ケガの理由だって聞かれたら困る。
(キスマークを削ろうとしたなんて言えるか!)
だから後は放っておくことにした。

 

 

 蓮には目下一つの問題がある。笠井智美の代わりに入って来た砂原美智。彼女は訳有りだ。この件については蓮は大滝部長に抗議した。

「面倒ごとが起きる部下なら困ります!」
「誰だって何かしら問題を抱えている。頼むよ、彼女には実力がある。今までそれを認める場所に出会わなかった。君の所なら大丈夫だと思っている」

 彼女の問題。それは『ラブチャイルド』、つまり不倫して出来た子どもを抱えていることだ。しかも相手は取引先の常務。ちょうど一緒にホテルから出てきたところを同僚に見られて一気に話が広まった。

 その経緯もあってか、彼女は自分からコミュニケーションを取ろうとしない。けれどこの忙しさの中、そこまで彼女の面倒を見るゆとりが蓮には無い。

 

 携帯が震えた。
『今日はみんなと夕飯食べて帰る』
(そうだな、初日だしその方がジェイにもいいだろう)

 その時に砂原のことを思いだした。
「砂原、ちょっと来てくれ」
「はい」
真っ直ぐな姿勢できつい目をして立っている。

「確か子どもがいるんだよな」
「はい。それが何か」
「帰り30分位話が出来るかな、4階でいいから」
「大丈夫です。子どもは母が見てくれているので」
「そうか、じゃ帰りに声をかける」

 メガネと来ているカチっとした服のせいでキツく見えるが、今目の前に立った砂原は思いの外きれいだった。ジェイに似たものを感じた。自分の殻にこもっているような。その後は忙しさでそう思ったことを忘れた。

 わいわいと池沢チームが帰りの支度をしている。
「今日はチーフの驕りでしょう!」
相変わらず元気な三途川の声。
「わ! 嬉しい!!」
千枝もはしゃいでいる。どうやら哲平とは上手くいってるらしい。花はずっとジェイと喋っている。
(良かったな、ジェイ。今日は羽伸ばして来い)

そう思ってふと砂原のことを思いだした。

(忘れるところだった!)
 ちょうど彼女がチラッとこっちを見たから頷いてデスクを片付けた。待つのかと思ったら先にオフィスを出て行ったから急いで後を追った。

 

「帰るのかと思ったよ」
4階に彼女は座っていた。立とうとするから手を振った。
「いいよ、座っててくれ。コーヒー、飲めるか?」
「はい、ブラックなら」
コーヒーを2本掴んで隣に座った。

「一緒に出るところを見られたら課長が困るかと思ったので」
「俺が? 別に困らないが」
「変な噂が立つかもしれません」
「砂原。何があったのか聞こうと思わない。それは俺には関係無いからな。部下の事情を知っておくことは大事なことだと思ってはいる。だがお前に関して知っておきたいことは、4歳の女の子がいるということとお母さんが一緒に住んでいるということ。その2点だ。話したかったのはそれもある。子どもが具合悪いとかお母さんが留守をするとかあれば、遠慮なく相談してくれ。こっちもお前の仕事の割り振りを考えるから」

途端に砂原の顔色が変わった。

「それって私の仕事を他の人に渡すっていうことですか? 仕事はきちんとやります。やることが無くなるのは困ります!」
「勘違いするな、休む日のことを言っている。それはお前だけじゃない、誰についても同じだ。俺は仕事が滞らないように対処しなくちゃならない。君はR&Dのやり方に馴染みがないだろう? だからそれを伝えたかった」

 砂原はほっとした。今までいた部署では、そうやって自分の居場所を取り上げられてきた。取引先の常務の愛人と見られ、そのお蔭で安泰なんだと陰口を叩かれ、ほとんど誰とも口を利かない毎日を過ごしてきた。

「チームとは上手く行きそうか? 中山が心配していた、居心地が悪いんじゃないかと」
「チーフが?」
「正式にはチーフ代理だがな。あいつは粘り強く仕事をするタイプだ。仕事のことは何でもあいつに聞けばいい。困ったことは俺に言ってくれても構わない」

ぽとん と涙が落ちるのを見て慌てた。
「何か悪いことを言ったか?」
「いえ……こんな風に言ってもらえたことが無かったので……」
「砂原。みんなにもうちょっと心開いてもいいと思うぞ。俺はチームワークを大切にしている。そしてみんなそれを知っている。正直、私生活はどうでもいいことだ、仕事をきちんとこなしてくれれば。仕事人間になれとは言わない。だから出来ない時には正直に周りに頼れ」

 蓮が心配していたのはそのことだった。一人だけ輪に加わらずに孤立した人間がいるとチームワークは成り立たない。頑なに心を開かないなら助けようが無い。

「ありがとうございます。私、ここでは安心して仕事が出来るような気がします。あの……必要無いとは仰いましたが河野課長にはお伝えしておきます。私、別れているんです、先方と」

ちょっと返事に困った。どう反応していいのか分からない。

「子どもが生まれた時に縁を切られました。だからとっくに終わってるんです。その話をしてホテルを出た時に見られました。けれどどんどん噂が進行してしまって……」

「分かった、もういい。お前も心を開けばきっと分かる。ここではそういうことは問題にならない。する者もいない。みんな開発が好きな連中ばかりだからな。中山がチームの中の歓迎会をやりたいと言っていた。お前、出られるか? 多分6時半くらいから始まる。無理ならランチ会にでもするように言っておくが」
「行きます。ほんとに……いられるんですね、ここに」
「もちろんだ、出られるんなら中山に伝えておく。日程はチームで話し合ってくれ」

 話が終わって蓮は立とうとした。その手を掴まれた。
「課長……ありがとうございます。私……初めてこの会社で安心しました」
泣くからまた座り直した。
「砂原、誰にだって何かしらある。俺にだってある。みんな変わらない。それを忘れないでくれ」
「はい……」

 砂原には天国のような職場。自分の私生活が問題にならに場所。課長はなんと頼りになる人なんだろう。それが始まりになった。

(これで大丈夫だ)
 蓮は安心した。不倫だ何だとそういう話を持ち込んでほしくなかった。けれど砂原はしっかりした女性だった。まして終わった話なら何の問題があるだろう。自分のオフィスに噂話の花が咲くのだけは御免だった。

 


(夕飯は要らないんだな)
蓮は駅そばのイタリアンに入って夕食を済ませた。電話があったのは8時半。

『これから電車に乗る。9時半くらいにそっちに着くよ』
「じゃ、迎えに行く、駅まで」
『ホント!? じゃ駅出たとこ……』
「ビデオ屋にいるよ。何か借りたいだろ?」
『うん!』
「じゃ、後でな」

 電話の様子ではあまり酔ってない。本人が気をつけたのか、周りが気遣ったのか。多分両方だろう。

 

 時間を見計らって家を出た。入って5分ほどしてジェイが来た。
「蓮!」
「おい、声がデカい」
多少は酔っていそうだ。でもこれならどうということは無い。
「何借りるの?」
「俺は2本借りる。お前は適当に借りて来い」

持って来たのは5本。
「今回はえらく少ないな」
「だって……」
「ん?」
「あんまり借りたらその……」
「なんだ、はっきり言え」
小さな声で言った。
「抱いてもらう時間が減る」
「ばっ ばか! こんなとこでそんな話するな!」
「蓮が言えって言ったんだ」

(今日は月曜だぞ! 俺は抱かないからな!)

 そう思ったのだが。酒の少し入ったジェイの粘りに負けた蓮だった。

 10月は仕事に埋没する毎日だった。哲平がいない。田中チームには補助が要る。
(まともに機能するにはまだ人数が足りない)
一度上申したが大滝が止めた。

『田中が戻るまで踏ん張れ。そうなればもう1チーム増やす。4月には新入社員が何人か入る。年度内の異動はもう無理だ』

 人事部長としては全体のバランスを考えなければならない。これ以上R&Dに人数を増やすなら業務自体も増やす必要が出てくる。今なまじ中途半端に人間を増やすと手が空くチームが出るかもしれない。それは避けなければならない。

 会社として考えれば当然のことなのだと蓮も分かってはいる。あまり負担が偏らないよう業務を回し、自分の業務には手を抜かず、手の足りないところには自分が入る。これを田中が戻るまで続けるしかない。
 新入社員の投入は苦労が増えることであり、助力にはならない。ジェイはすぐに仕事が出来た。育つのが早かった。しかしそんな新人は普通はなかなかいない。


「蓮、後はやるから寝て」
食べ終わらない内に眠りそうな蓮。ジェイは心配で仕方ない。[あの6月]より酷い。
「あ、俺寝てたか……悪いな、頼む」

 ジェイに出来ることは家事を引き受けることだけ。とにかく蓮に休んでほしい。ビタミン剤と 青汁を買った。最初蓮は「青汁!?」と嫌がったが牛乳に入れて飲むと意外とイケる。
「なんだ、抹茶オレみたいな味だな」
それから飲んでくれるようになった。

「あの……」
書類に早く目を通して池沢チームのヘルプをしようとしていた蓮の前に砂原が立った。
「ん? どうした?」
「課長、昨日お昼を食べそこなったと言ってらしたのでこれを……」
見るとハンカチで包んだ弁当箱。
「お好みを知らないので野菜多めで作ってみました。もしご迷惑だったらごめんなさい」

 蓮は驚いた。裕子でさえこれはしなかった。それなら一緒に外に出ていたし。
「いや、有難くもらうよ。しかしあまり気にするな。俺は人より給料もらってるんだからな」
「課長! 嫌味ですよ、それ。ありがとうだけでいいじゃないですか、素直に」

野瀬チームの浜田が大声で喚く。だいたいこの男は哲平より軽い。というより、一言いつも多い。笠井智美の次に問題児かもしれない。ただ、邪気は無い。だから余計始末が悪いのだが。

 仕事に押されていたから気づかなかったが、砂原の様子が変わっていた。縛っていた髪が解かれている。服も穏やかなものを着ていた。
「砂原、お前メガネどうしたんだ?」
「課長、砂原さん一昨日からコンタクトに変えたんですよ! ちょっとは女性に目を配ってください!」
これは和田の声。池波正太郎の本はもう4冊目を読んでいる。

「そうか、悪かったな、気がつかなくて。ここのところみんなの顔見る暇も無くて……」
蓮にしても女性がヘアスタイルやメガネが変わったことを気づいてほしいものだということは知っている。
「いえ、大丈夫ですから」
「しかし、変わったな! 別人に見えるよ」
蓮の顔に笑みが広がったから砂原の顔に赤みが差した。

(え、冗談じゃないわ。課長、何も気づいてないの?)
三途川の頭の中に警報が鳴った。チラッとジェイを見ると仕事に集中していて様子に気づいていないらしい。
(これ、えらいことになるかも……)
今回ばかりは笑って見ていられる状況では無い気がする。
(ジェローム、あんた頑張んないと)
どうしたものかと砂原を見て腕組みをした。

 


 次の日の昼休み。砂原がまた弁当箱を手にしたのを見て三途川が声を張り上げた。
「課長! お昼一緒って約束しましたよね!」
砂原の弁当箱がデスクの下に引っ込んだ。
「お昼? お前と?」
「ええ。忘れちゃったんですか? 酷いっ、楽しみにしてたのに、奢ってくれるって言ってたから」
泣き真似が始まる。周りはあまり気にしない。どうせ新手の悪戯を始めたのだろうくらいに思っている。
「なんでお前が泣くんだ」
「だって課長、意地悪だから」
「はぁ?」

砂原は黙ってオフィスを出て行った。誰もそれに気づいていない。三途川以外は。
「いいです、特別に許してあげます! ランチ行ってきまーす。ジェローム、行くわよ」
「はい? 俺?」
「ほら、ボケっとしてんじゃないの! 課長、何か買ってきますね。休憩はしといた方がいいですよ、もうすぐ大台なんだから」

 ポカンとした蓮をそのままに、三途川はさっさとジェイを連れ出した。

「三途川さん、どうしたんですか?」

 ジェイは三途川に関しては安心している。何せ自分と蓮との間を知っている。だから三途川が蓮に何を言っても気にならない。

「あんたね、少しは周りに目を配んなさいね」

「周り?」

「ああ、もう! あんたも課長もどっこいどっこいね、鈍いんだから!」

周りって何の周りなのだろう? 元々女性に興味が無いからそういうことがさっぱり分からない。

「砂原さん、急にきれいになったでしょう?」

「そうなんですか?」

「ほら、髪型とか着てる物とか」

「はぁ」

「はぁじゃないの! 気にならない? 課長にお弁当作って来てたわよ?」

「え、弁当?」

「そうよ、やっとまともな反応してきたわね」

もう焦れったくて仕方がない。

「あのね、急に服装が変わったりお化粧が変わったりお弁当を作ったり。彼女、メガネもコンタクトに変わってたわ。そういうのって恋愛の証拠なの」

「砂原さん、誰か好きな人が出来たってことですか?」

頭を抱えてしまう、このやり取りが虚しくなる。

「一から教えなくちゃなんないの? 砂原さんが好きなのは課長よ」
「まさか!」
「その、まさかなの」
「え、困る」
「そうね、困るわね」
「どうしよう……三途川さん、どうしたらいいですか!」
「どうするもこうするも……しっかり課長を繋ぎ止めておかないと。大丈夫だとは思うけど、男の人って女性に泣かれたりすると弱いし、立場的に無下にできない時だってあるから」
「そんな……」
「やれる範囲は崩してあげるけど、あんたも頑張んなさい。たまには課長をお昼に連れ出すとか。課長にその気が無くたって、お弁当なんか作られちゃったら断れないからね。女性ってね、お弁当を受け取ってもらうと恋愛が進展したと思いかねないの」


 オフィスに戻ってから砂原の方にチラチラと目が行く。確かに初めの頃と印象がまるで違う。ついこの前花たちが『怖い』と言っていた女性とは思えないほど笑顔が絶えない。時々蓮を見つめているし、何かと言っては「課長」「課長」とそばに行っている。
(蓮は大丈夫だよね? だって帰ったら一緒に寝るんだし)
そうは思ってももう砂原ばかり気にかかる。

「どうした? お前今日変だぞ」

データの入力ミスを見つけた花が声をかけてきた。

「こんな間違い、初めてだろ。疲れたのか?」

先日のことがあるから花はそういう意味でジェイに気をつけている。精神的ダメージが残っているはずだと。

「少し休んで来いよ」
「大丈夫です、昼休んだばかりだし」
「いいから行って来い」
「大丈夫ですよ」

押し問答になったところを後ろから声をかけられた。

「どうした? 何かあったか?」
「ジェロームが落ち着かないみたいで、課長からも少し休んで来いって言ってください。こいつ遠慮しちゃって」
「そうか。今コーヒー買いに行くんだ。ジェローム、付き合え」

 エレベーターに向いながら蓮はジェイの顔を見た。
(ずいぶん経ったはずなのにまだ心に傷が残っているのか)

確かに大変なことだった。普通の人間ならさっさと忘れて終わりにするが、ジェイはそういうタイプじゃない。
(俺に言えないでいるのか? まだ苦しいのか?)
三途川の言う通り、この二人は似た者同士なのかもしれない。

 エレベーターの中は二人きりだった。

「どうした? 仕事がきついか?」
「え? 大丈夫だよ」
「でも沈んでるな」
「蓮……俺のこと、好き?」
「は?」

そこでエレベーターが開いた。今日の4階は人が多い。とてもそんな話が出来る雰囲気じゃない。
(何があったんだ? また不安になっているのか)
気が気じゃないが聞くに聞けない。
(外に連れ出すか。これだって部下のケアだ)
妙な理屈を自分の中に作ったがそうは行かなかった。

「河野!」

(よりによってこいつに捉まるなんて)
その『こいつ』は、営業一課の坂崎だ。声がデカい、周りを気にしない。仕方ないからジェイだけを返すことにした。

「ジェローム、先にオフィスに戻れ」
「はい……」

(やっぱり元気が無い)
坂崎はお構いなしだ。

「いや、お前んとこから来た田中な、あいつ仕事出来るなぁ! 決断早いし周りにもよく目が届いていてこっちが面食らってるくらいだよ」
「そうか、それを聞いて安心したよ」
「たった一年じゃ勿体ないよな、こっちにこのままくれよ」
「そうはいかない、勉強に行かせただけだ」
「助かるんだよ、ああいうやつ。俺、かなり仕事が楽になった」
「こっちはキツクなってる。穴埋めるのが大変だからな」
「そうだな、ああいうヤツがいなくなると厳しいよな。俺、来年厳しくなるのイヤなんだよ」

 田中が頑張っているのを聞けて喜んだ。ここまで他に認められているのが自分のことの様に嬉しい。
(帰ってくるときに利子が要る。お前はたっぷりくれそうだな)
そして哲平も頑張っているだろう。

「俺、オフィスに戻るから」
「今夜飲みに行かないか?」
「無理だ、今残業ばっかりで早く帰って寝たい」
「なんだよ、年取ったな、お前も」
「ほざけ」

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