J (ジェイ)の物語」

​第4部
​6.目覚めから悪夢へ -1

 ぼんやりしていた。夢の中にいるような気がした。

(天井、白いなぁ)

だるくて動きたくない。何度も目を閉じる。その間にまた<うとうと>が生まれる。波に漂うようにその間を行ったり来たり。

「あら、目が覚めてましたか? 血圧測りますね。体温計挟みますよ」

(だれ? この人)

 頭がついていかない。思考がついていかない。

「あの……」

「なんですか?」

「あなた誰ですか? ここは?」

「あ、私は高橋といいます。ここの看護師です。あなたの担当よ。ここは新川第一病院です」

「病院?」

幸いなことに高橋はベテラン看護師だった。

「あ、覚えてないってことね。あなた、ケガしたから運ばれてきたの。心配しなくても大丈夫よ。重症じゃないし。まだ動きにくいと思うから無理はしないでくださいね。それからお薬のせいでぼんやりします。それも大丈夫ですからね。今日は眠い時はどんどん眠っちゃいましょう」

明るい声に何だかほっとした。

(誰だろう、誰かに似てる……井上さん? そうだ、井上さんをおばさんにした感じ)

それだけで安心した。また眠くなる。

「今7時です。8時くらいにお食事持ってきますからね。その時に起こしてあげるので安心して眠ってください」

 それを聞きながら眠った。

  
「お食事でーす。どうかな、食べられそうかな」

 うっすらと目を開けた。そうだ、喉が渇く。

「お水」

「座れそう?」

「はい」

そう言って起き上がろうとした。

「あぅっ」

痛みが全身に走った。

「あ、無理しないで! 吸い飲みがあるから飲ませてあげる」

 感じるまで何もなかった。けれど一度動いたことで体中が痛い。それも不思議な痛さだ。ひどく痛むのは背中。これはもう、動くのが無理なほどだ。脇腹も痛み出した。けれどそれとは全く違う痛み。肌が痛い。一面に痛い。

「俺、火傷?」

「はい、お水。ゆっくり飲んでください」

冷たくて美味しい。なぜか二日酔いのようなもやもやしたものを感じ始めていた。

「俺、酔っ払ってケガしたんですか?」

「ごめんなさい、貴方が来た時には私はいなかったの。先生なら分かると思うけど」

「そうですか……変なんです、覚えてなくて」

「食べられそうかしら」

「もうちょっとしてから……」

「いいわよ。また来ますね」

 廊下に出て高橋はほっとした。

(状態を全く知らないんだわ。でも素直な子……)

 思い出そうとしていた。けれど相田のことが頭に浮かばなかった。どこかでその意識が欠落している。まるで自己防衛のように。そこにウィスキーが絡んでいる。記憶がぼんやりする。

(蓮? どこ? なんでいないの?)

 あの看護婦に携帯のことを聞かないと。そう思った。

「どうですか? お食事できそうかな?」

「はい、食べます」

「良かった! やっぱり動かないほうがいいらしいんです。今、太田さんっていう人が来ます。この病院ではヘルパーさんみたいな人がいるの。いろいろお世話してくれますからね。お食事はその人が手伝ってくれますよ。何かあったらその人に頼んでね」

「あ! 携帯欲しいんですけど」

「ごめんねぇ。病室じゃ携帯は使えないの。ちゃんと預かってますからね。許可が出るまで我慢してね」

(そうか……蓮にどうやって連絡しよう……)

 太田という年配の女性が入ってきて横になったまま食べさせてくれた。誰にも似ていないけど、ちょっと小太りの笑顔のおばちゃん。

(焼き鳥屋のおばちゃんに……やっぱり似てないや)

 今のジェイの心はまだ平和なままだった。高橋が来た。

 

「これから先生の診察があります。そのままでいいですからね」

「はい」

 医師が入ってきた。胸に『山根』とあった。40歳くらいだろうか。中肉中背。平均的な体格だ。目が優しい。体を診始める。ジェイには自分の全身は見えていない。動くことが辛かった。

「気分はどう?」

「朝はぼんやりして……ちょっと気持ち悪かったです。後は体中痛くて」

「気持ち悪いのは今は?」

「治まりました」

「どこが一番痛い?」

「背中です。あと脇腹と足です。それから……俺、火傷してますか? 肌が全体的に痛くて」

 山根が高橋に椅子を指さした。そばに座って話し始めた。

「後で警察の人が来ていろいろ聞かれます。だから今の状況について話しておきます。どんなことがあったか覚えてない? 何故ケガしたとか」

「はい、覚えてないです」

「頭が痛い?」

「特には」

「後で念のため、頭部スキャンするからね」

「一体何があったんですか? どこがどうなってるんですか?」

「じゃ、説明します」

 真面目な顔になった山根にどきりとした。

  

「詳しいことは警察の人が話すと思う。僕が話すのは体のことだけです。まず、背中と脇腹と腿には強い打撲の痕があります。特に背中。硬い棒で叩かれているんだけど、背骨じゃなくて良かった! 後は全身に小さな傷を負っています。これは切り傷です。時間が経てば治るから大丈夫。数が多いから今は痛みを感じます。当分鎮痛剤を点滴に入れますが、あまり辛かったら看護婦に言ってください」

(なんで? 背中を棒で? 警察?)

「俺、誰かに襲われたん…………」

 フラッシュバックが起こる。音がする、車を叩きつける音だ。誰かが追いかけてくる、逃げたけど叩かれる……

「俺……」

 次々と膨れ上がるように吐き気とともに記憶が蘇ってきた。頭の中にいろんな場面が重なるように浮かんでは消える。

「シェパードさん! 大丈夫ですか!? シェパードさん!」

 聞こえない、頭の中でわんわんする、聞こえてくる聞きたくない声……

(いやだ、なに言ってるのか聞きたくない、いやだ!)

 医師の指示で安定剤が打たれた。まるでショック症状のようにパニックと過呼吸を起こしていた。

(息が……)

「大丈夫、すぐに落ち着くからね。大丈夫。ゆっくり息して。警察の人にはもう少し待ってもらうよ。落ち着いてから入ってもらいます。もし眠くなってしまったら寝てください」

 山根は出て行き、高橋が残った。

「大丈夫? 少し落ち着いた?」

「俺……見つけてくれたんですね? 誰が?」

「私には何も分からないの。ごめんなさい。刑事さんが来たら聞いてね」

薬が効いてきたのかぼんやりしてくる。

「眠れそうね。ゆっくり寝て。話なんかいつだっていいんだから」

 

 

 

 始業時間までにあらかたの急ぎの処理はしてしまった。誰もいないところでの本気の蓮の手際はいい。これは天性なのか、物心ついたころからパソコンを与えられその中で育ってきたからなのか。だからここからの業務は今後に向けてのものだ。先手を打っていかなければこれからの業務が成り立たない。

 蓮はビルが開く6時と同時に出勤することに決めた。ノートパソコンを持ち歩き、緊急対応もできるようにした。家でも仕事をすることにした。苦ではない、全てジェイのためだ。この程度、どうということでもない。昔はもっと無茶をやった。

 今日は12時で早退する。チーフたちにはすでにノートでの対応について言ってある。つまり、蓮にとってはある意味勤務外の時間は無くなったのだ。

 まず哲平の配属先になっている横浜支社に連絡を取った。哲平の担当の若井に事情を説明した。

「ま、らしいと言えばそうなんですが。彼を見てますからね、よく分かりますよ」

若井は笑っていた。どうやら哲平はよく馴染んでいるようだ。

(あいつはどこに行っても同じだな)

それが嬉しい。だからこそ、インド行きもすぐに承諾した。

「分かりました、こちらからも警察に働きかけます。本社の西崎さんという弁護士が対応してくれるんですね?」

「はい。もう事情は報告していますので動いていると思います。それで人命救助ということになったら表彰対象にしてやってくれませんか?」

若井は笑い出した。

「考えましたね! 宇野君の売込みですか? ま、警察の対応の仕方にもよりますが、人命救助なら表彰に持ち込みますよ。行けたら社長表彰にも。あのですね、彼を横浜にいただけませんかね。ここだけの話ですが、決断力も行動力も彼は大胆ですごくいい人材ですよ。欲しいです」

今度は蓮が笑った。

「ご冗談でしょう! インドからの帰る先はここです。私は彼を待ってるんですから」

「やっぱりね。言ってみただけですよ。でもその頃には河野さんの力が衰えてるかもしれない。そしたらいただきますんで」

「じゃ、その頃にまた」

 これで哲平のことも手配がついた。西崎は問題にならないと言ってくれた。救出であり、暴行には当たらないと。

「千枝、ちょっと来い」

一晩哲平と連絡が取れなかった千枝は仕事も上の空で何度も携帯をいじっていた。

「はい」

「哲平のことな、大丈夫だ、心配するな。弁護士さんも動いてくれているし、今横浜支社とも話をしたから」

「ホントですか!? 課長、哲平のこと忘れちゃったんじゃないかって心配だったんです」

「そんなわけ無いだろ!」

思わず声が大きくなる。夕べ花に言われるまで哲平を忘れていたことが後ろめたい。

「だからあまり心配するな。あいつのパワーは半端じゃない、大事にしろ」

「だいじょぶですよー。哲平さん、私の言うことならなんでも聞いてくれるし」

「いや、そういうことじゃなくて、お前が大事にしてやれって言ってるんだ」

「はいっ! 良かった、ありがとうございました!」

「千枝……礼を言いたいのはこっちだ。お前が哲平に言ってくれた。そして哲平が動いてくれた。俺は……俺と花はあの現場で哲平の笑顔に救われたんだ。あいつは最高の男だな。俺から頼む。哲平をよろしく頼む」

立ち上がって課長に頭を下げられ千枝はどうしていいか分からなくなった。

「あの、あの大事にします、一生懸命。哲平さん、好きですから。ホントに大切にします」

 周りの目もあって、とにかく千枝は焦った。最後の方の蓮の声は震えていた。千枝の『大切にする』という言葉に、やっと蓮は頭を上げた。

「ありがとう。千枝」

 

 チーフたちと仕事の打ち合わせをする。

「事前プレゼンはこれまで通りやる。必要に応じて先方への本番に同行するのもこれまで通りだ。自分たちで踏ん張れるところはやってくれ。何かあればじゃんじゃんメールで送ってこい。時間も気にするな」

「課長、潰れちゃいますよ、そんなこと」

「俺たちが頑張ればいいだけだ、中山。な、池」

「はい。俺、なぜか今楽しいですよ。腕を試されてるみたいで」

「みんなありがとう。俺の仕事の仕方が変わるだけだ。しばらくはこれでやらせてくれ」

「ジェロームのこと……花と課長だけで大丈夫ですか?」

「もちろんカウンセラーも入ることになる。あいつがまた一人きりになったと思わせたくないんだ。そのために動く。他の部署でいろいろ言われていること、俺は知っている」

 三人とも顔を合わせた。実はそうだ。河野課長のジェロームに対する態度はおかしいと。三人ともそのたびに『ふざけるな!』と蹴散らしてはいたが、それが蓮の耳に入らないように気を配っていた。

「だからそっちにお前たちは神経を割かなくていい。それは俺の問題だし、俺は気にしてない。そんなことは些末なことだ。相手するだけ面倒だ」

ほっとした。(課長らしいや)そう思えた。

  

「池沢。花はタフだが気負いすぎる傾向がある。仕事とジェロームのことを抱え込もうとするだろうが、その辺気をつけてやってくれ」

「はい。それは任せてください」

「他に何かあるか?」

「田中さんと打ち合わせておいた方がいいんじゃないですか?」

「……そうだな、そうだった。野瀬、その調子で頼む」

嬉しそうに野瀬が頷いた。野瀬の夕べの働きが警察の動きを速めた。

「野瀬、夕べの件。客観的な見方でまとめておいてくれ。先方にいい宣伝になる。精度をもっと上げるんだ。これは別の仕事にも使える。一気に幅が広がる。ここからは部外秘で扱え。独自のスタイルを確立させて特許取ろう」

「マジですか!」

「ああ。だから頑張れ」

「はいっ!」

「ただな、あのグラフィック、何とかしろよ。見た目ってもんがある。画面の展開も遅い。その辺はクオリティ高く頼む」

「グラフィック、結構いいと思うんですけどねぇ」

「いや、お前のレベルで考えるな」

「それ、ひどいですよー」

 事件があったにも関わらずみんなは前向きでいてくれた。ジェイのことは別として、チームワークで一つのトラブルを解決に導けたという達成感が自信に繋がる。今のR&Dは勢いに乗っている。

(ジェイ。お前を今、ここに連れてきてやりたい……)

「どうします? 今日午後課長が行くんでしょう? 俺だって行きたいんですけど」

不貞腐れた顔で花が言ってきた。

「お前は今日は仕事だ。仕方ないだろう? お前の案件、今乗り始めてるんだから。あの時点のGPSの仕上がりが思いの外良かったからな、あれは組み込む方向で行く」

「けど! あのグラフィック、どうにかなりませんか? あれ、俺のプライドが許さない!」

 蓮は吹き出した。(やっぱりそこに引っかかったか)

「それはもう野瀬に言った。お前も試作の時は立ち会わせてもらえ。おい、野瀬とケンカするなよ。もう大人になれ」

「向こうがガキなんですよ。声が嫌いだって言ったくらいで」

「お前もガキだよ、レベルは変わらん」

 それでも仲が悪いわけではないのだから不思議だ。花が野瀬に言いたい放題になるのは、逆に甘えているのかもしれない。本人は気が付いていないだろうけれど。

「じゃ、頼む。明日以降の見通しは、なるべく今日つけてきたいと思っている。だがどうなるかは分からない」

「了解です。こっちは取り合えず今日は忘れてください」

「助かる」

 駐車場に降りた。目を閉じるとあのビデオの映像が浮かぶ。ここでジェイは捕まった。

「相田が今ここにいたら殺すな」

そう冷静に呟いて車に乗った。

 

 

 

 

「10分間だけ許可します。患者は大変不安定になっています。記憶もあいまいで、思い出すことが引き金で精神に傷を負うかもしれません。質問は慎重にお願いします」

 10分では何も聞けない。山根はそういう刑事の声を抗議を無視した。

(いつも被害者は最後に警察にボロボロにされるんだ)

 過去にそういう患者を持ったことが記憶に焼き付いている。患者は16歳。きれいに笑う女の子だった。思い出すことを強要され、犯人の顔を思い出してその夜病院から抜け出て車の前に飛び出した。

 

 あの青年の体の傷は普通じゃない。犯人は狂っている。着衣は無かった、彼は裸でここに運ばれてきた。

 最初に体を診た時には、赤いペンで模様をつけられたのかと思った。きれいな曲線がいくつも描かれていた。決して初めてではない、刻み慣れた流れるような模様。それが胸、胸、脇、腹、足。性器の周りにまで描かれていた。無いのは背中だけ。

 縫うような傷じゃない、消毒して傷薬を塗るだけ。2、3日で痛みも消える。1週間もすれば傷跡も不鮮明になっていくだろう。けれど、それを軽傷というのか? 全身に描かれたこの血の絵を軽傷と呼んでいいのか? 顔には三本だけだった。これも治るだろう。一生残るような傷じゃない。

 暴行されているかどうか。それが心配だったが、幸いことに至る前に捕まったらしい。山根はほっとした。

 必要だからと警察はあらゆる角度から写真を撮った。本人が目にしないことを祈るしかなかった。血中アルコール度は異常に高かった。酩酊状態だ。だから出血はこの傷からすれば、多いと言えないこともない。けれど、ただそれだけ。『被害者』という状況でなければ帰宅しても構わないほどの傷だ。

 点滴でアルコール濃度を薄めていく。青年がずっと目を覚まさないのが救いだった。打撲の痕はかなり酷い。骨には異常はないがすでに内出血で変色していた。外にはすることもなく、病室へと移した。

 

「加川署の平田といいます」

「小野です」

病室に入って来た二人の刑事にジェイは怯えた顔をした。

「時間も無いので早速ですが、何があったか覚えていますか?」

「どんなことを……話せば……」

「覚えてることでいいですよ」

「会社の駐車場で……体を殴られて……」

「誰だか分かりましたか?」

「相田っていう前の上司にあたる人で」

「顔、見ました?」

「いえ……」

「じゃどうして相田だと分かりましたか?」

「どうして……?」

「根拠です」

「その前にも刺してきたし……」

「でも、顔はみていない」

ジェイはどうしていいか分からなかった。あれは、相田だ。間違えようが無い。

「だって! 捕まってないんですか!? 犯人!」

「君にケガをさせた男なら捕まっています。でも今聞いているのは駐車場で君を襲った男の話です」

「……分かりません……そんな風に聞かれたら分かりません!」

「確認しているだけだから。被害者にもこうやって状況を聞いてるんです。じゃ、駐車場ではそれだけ?」

「気を失ったので……」

「次に覚えているのは?」

「どこか……知らない場所です」

「その時にはその相田っていう人でしたか? 気が付いた時に見た相手は」

「目隠しされていて……でも声は相田でした!」

「顔は見ていない……」

「目隠しを外された時は相田がいました!」

「はい、分かりました」

声に冷たさを感じた。何を知りたいのだろう? 何を確認したいのだろう?

「じゃ、次に何をされました?」

「酒を……飲まされました」

「自分から飲みませんでしたか?」

「いえ。手は縛られてました」

「じゃ、どうやって飲んだんですか?」

(……口移しだった……そうだ、あれは直接………)

「どうして俺が責められてるんですか!」

「向こうは合意だったと言ってるんですよ、納得ずくのプレイだったと」

「そんなわけ、ない…… なんで俺を疑って……気分が……」

 それを言うのが精いっぱいだった。胃の中のものを吐いてしまう……頭が混乱して考えられなかった。

刑事はすぐにナースコールを押した。

「どうしましたっ!?」

 高橋が飛び込んできた。時間だと告げに来たところだった。様子を見てすぐにジェイのそばにトレイを置き、背中を擦った。

「出してしまいましょう。大丈夫。気にしなくていいからね。全部出しちゃいましょうね」

 ようやく落ち着いたのを見てテキパキと水を含ませトレイに出させた。何度かそれをやり、顔を拭いてやった。

「ベッドはすぐにきれいにしますからね、ちょっと待っててくださいね」

 刑事に向き直った。

「出てください」

「いや、もうちょっとだけ」

「出てってください、早く!」

コールがあったから山根もすぐに来た。高橋から様子を聞く。

「念を押しましたよね、慎重にと」

「慎重でしたよ」

「彼は被害者でしょう? なんで追い詰めるんですか!」

「しかし事実を確認しないと……」

「とにかく今日はここまでです。これ以上は無理です」

 食い下がろうとする刑事をそのままに、ばたばたしている高橋と太田ヘルパーに声をかけた。

「落ち着いたら呼んで。彼と話したいから」

「分かりました」

 盛んに話し合っている二人の男とすれ違うように蓮は病院に入った。

(もう事情聴取は終わったんだろうか)

 病院の中は暖かくて、雪が降り始めた外から隔絶された世界のようだ。病室の前に行った。看護婦が忙しく出入りしている。

(何かあったのか!?)

「ジェローム・シェパードの会社の者です、何かあったんですか!?」

「会社の方? ちょっと待っていてください、今具合が悪いので」

 少しして医師が入っていった。

(ジェイ、俺はここにいるからな)

何も出来ないことが歯がゆくてならない…… 出てきた看護婦にまた伝えた。

「河野と申します。彼に会いに来ました。どうか伝えていただけませんか?」

「先生の許可が出ないと……」

「来ているということだけでも伝えてください、お願いします!」

 

 シーツ交換はあっという間に終わった。シーツの下にはシートが敷いてあるから吐いたものは染みついていない。枕も新しくなった。

 山根が入ってきた。

「少し落ち着いたかな?」

「はい…」

「辛い思いをしたね、今日はもう来ないから。君の様子を見ながらということにしたからね」

「はい……」

 あまり話をしたくなかった。もう眠らせてほしい。

(なんで相田だって認めてくれないんだよ……)

思い出したくないことばかりが押し寄せてくる。酷く頭が混乱し始めていた。ぐるぐるといろんな情景が渦を巻く。頭の中に広がっていく……

「先生、今会社の方が見えていて」

(会社の?)

「今日は引き取ってもらったほうがいい」

「誰ですか!? 誰が来てるんですか!?」

「河野さんって言ってましたよ」

とたんに涙が溢れてきた。唇がわなわな震える……

「いいよ、帰ってもらうから」

「ちがう……会いたい、先生、お願い、会いたい! 蓮! 蓮っ!!」

 

 叫び声を聞いた。自分の名前を。許可などどうでも良かった、部屋に飛び込んだ。

「ジェイ!!」

「れん、れん、れん……」

医師も看護師も押しのけるようにベッドの脇に立った。ジェイが痛むのも構わず蓮にしがみつく。

「会社の……方なんですよね?」

山根はまるで家族のような二人に違和感を抱いた。

「申し訳ありません、しばらく二人にしていただけないでしょうか」

ジェイの頭を撫でながら言う蓮の目に、必死に訴えるものを感じる。

「河野さん……と言いましたね? 後でお話しできますか?」

「はい」

「では、後で」

高橋を促して山根は出て行った。

「れん……」

「ほら、そばにいるから。もう泣くな、体に障る」

「俺、帰りたい」

「ジェイ……」

「蓮のところに帰りたい……」 

抱きしめる手に力が入りそうになり、急いで手を緩めた。

「横になれ、体が痛いだろう?」

ガーゼで覆われていた姿を見ている。今日は体のほとんどが包帯で隠れている。

「夕べは眠れたのか?」

「覚えてないくらい……」

「そうか、良かった。今日は面会時間が終わるまでここにいるから」

「本当!?」

「ああ、その代わり次いつ来れるか分からないんだ」

「……うん」

「早く退院できるといいな。そしたら俺が面倒見てやる」

「相田、捕まったんだよね?」

「捕まったよ。もう出て来れない。だから安心していい」

涙がつーっと流れて包帯の手で拭いた。

「一応着替えとか持ってきたんだ。下着やタオルも。要らなかったかな、タオル」

「蓮の持ってきたタオル使いたい」

「じゃ、ここに置くよ」

タオルを出して置こうとするとジェイがそれを掴んで両手で握った。

「俺の枕は持ってこれないからな、先に言っとく」

ふっとジェイが笑った。その拍子にまた流れた涙をタオルで拭う。

「いいよ、このタオルで」

「欲しいものがあったら言え。持ってきてやる」

「そんなに長くここにいたくない」

「後で先生と話をするから聞いてみるよ、どれくらいで退院出来るか」

「うん」

「携帯、だめか?」

「だめだって」

「そうか……花も来るって言ってたぞ。俺と花でお前を追っかけたんだ。みんなも助けてくれた」

「みんなも? 花さん、ここに来てくれるの!?」

「もちろんさ。心配していた。今日来れなくて不貞腐れてた」

 笑ったジェイの顔が寂しい顔に変わっていく。

「俺……会えない……」

「どうして?」

「相田に……されたこと……」

「今日はそんな話しなくていい」

「でも!」

「お前は被害者なんだ。誰も何とも思ってないよ」

「まだ……全部思い出してないんだ、怖くて……」

「そうか。でもお前には悪いところなんて何も無いんだからな。済まなかった、俺がそばにいなかったばかりに……守るって言ったのに」

「俺……怖い」

ジェイのそばに座って頭を撫でた。

「もう怖いものなんて無いんだ、ジェイ。アイツも捕まった」

また蓮にすがりつく。

「怖い怖い怖い」

「ジェイ」

「思い出すの怖い、聞かれるの怖い……」

「何を聞かれたんだ?」

「アイツを本当に見たのかって……合意がどうとか……吐き、たい」

 言ったとたんにえずきが始まった。そばにトレイがあるのを見て引っ掴んだ。背中を擦る。

「出していい、ジェイ、出してしまえ」

けれど出るのは胃液だけだった。さっきあらかた出してしまっていた。治まるのを待って何枚か持ってきたタオルの一枚を濡らして顔を拭いてやる。

(合意? なんの話だ?)

「落ち着いたか? 水、要るだろう?」

力無く頷くから周りを見渡した。吸い飲みを見つけて口に含ませた。トレイを脇に置く。

「出していいぞ」

何度かゆすいだ後、ベッドに頭が落ちた。

「いてやるから少し眠れ。手を握っててやるから」

「れん、怖い…」

「ここにいる」

「怖い…」

「ここにいるよ、ジェイ。俺はここにいる」

「れん怖い怖い……」

声がだんだん小さくなる。掴んだ手から力が抜けていく。しっかり眠ったのを見て、病室を出た。

 通りすがりの看護師を捉まえた。

「先生に会いたいんですが」

「どの先生ですか?」

うっかりした、医師の名前を確認していなかった。

「ジェローム・シェパードの主治医の先生です」

「調べてきます、ちょっとお待ちください」

少ししてさっき部屋にいた看護婦が来た。

「私、シェパードさんの担当の高橋です。こちらへどうぞ」

「はい」

すぐ近くのそんなに広くはないオフィスに通された。

「先生、先ほどの方です。私、交代の時間なので有坂さんに引き継ぎます」

「しっかり引き継いでくれ、まだ不安定だから」

 椅子に促されて蓮は座った。

「単刀直入にお聞きします。彼とはどういうご関係ですか?」

「私は彼の直属の上司で……」

「いえ、そういったことではなくて。プライベートです」

息が止まりそうになる。

「彼は……彼の保護者だと思っていただければ」

「そうかもしれませんが。河野さん。医者には守秘義務があります。全部話してください」

ごまかしは利かないのだと知った。もう追い詰められている。

「私と……彼は……」

「肉体関係がある。そうですね? 診察したときに違和感がありました。今回の件で彼は暴行を受けていません。でも明らかに彼の肉体は他の男性と違っていた」

 暴行を受けていない。蓮は目を閉じた。一番心配していたことだった。

「そうですか……良かった……」

 山根は待った。蓮が目を開いた。

「はい。私は彼とそういう関係にあります」

「そうですか。さっきの様子を見て分かりましたよ」

「先生、それは今後の彼の治療に影響を与えますか? 先生の……彼への扱いは変わってしまうんでしょうか」

山根は驚いた顔をした。

「違います、すみません、変な不安を抱かせてしまいましたね。今後の対応を考えていただけです。たくさんの患者を診ています。あなたに確認したのは単なる事実です」

力が抜けた。今のジェイを偏見の目で見てほしく無かった。

「それならお伝えしましょう。まずこれを見てください」

 山根の出した写真に息を呑んだ。全身余すことなく撮られた写真……

ジェイの……性器周りにまでついているカッターの痕……

「これは……」

「運び込まれた時の写真です。部外秘ですからね、見たことは当然胸にしまっておいてください。あなたには知っていてほしいだけです。彼はこれを思い出していない。思い出すこともないかもしれない。アルコールをひどく飲まされていましたから」

「じゃ、自分の受けたことを知らずに済むんですね?」

「そうは行かないと思います。警察がこれを見せるんじゃないかと思っています」

『怖い怖い』

あの言葉が蘇る。

「なぜですか! なぜ見せる必要があるんですか!」

「警察というものは事実確認を優先します。そのために必要とあればいろんな手段を使う」

「他に……何かされてますか?」

「肉体的にという意味なら他にはありません。診察の上では。この傷は消えます。後に残るような傷じゃない。意図的なのか加害者なりの芸術のつもりなのか分かりませんが傷は浅いです。顔の傷も残りません。しかし精神的なダメージは相当のものになると覚悟していただきたい。一緒に住んでいますか?」

「はい」

「なら目を光らせていてください。同じようなケースで……前に担当した患者は車に飛び込みました」

意味が浸透するまで時間がかかった。

「先生、退院はいつになりますか?」

「伸ばして一週間でしょうね。体の打撲は酷いですが、それは通院すればいいレベルに落ち着くと思います。住所を見るとお近くに総合病院がありますね。紹介状を書きますのでその病院で充分完治できると思いますよ」

「それは……彼のケガはたいしたことではないということになるんですか?」

「そういうことになります。暴行も受けていない。医者がこう言ってはいけないんですが……深い傷が無い」

  
 西崎に相談しなければ……深い傷が無い……それは相田の罪はまた軽くなるという意味か?

(まだ足りないっていうのか、もっと傷つけば良かったというのか!?)

「さっきお聞きしたあなた方の関係については先方の病院には引き継ぎません。だから安心してください。あくまでも打撲に関してだけの引継ぎです」

「警察は……彼を追及し続けるんでしょうか?」

「私には分からないです。そうならないことを祈るだけです。医者の関与できることには限界があります」

 話が終わったのを感じて蓮は立ち上がった。頭を下げる。

「きちんと話してくださってありがとうございます。彼のことを見守っていきます」

「これからだと思いますよ、フラッシュバックのように出てくる記憶に苦しむのは。カウンセリングをお勧めします。あなたがこれで彼から遠ざかるのなら早い段階でそうしてください」

「それは無いです」

きっぱり言い切ったその言葉に、山根は初めて笑顔を浮かべた。

「私は、言ってみれば通りすがりの医師にしか過ぎません。出来るのは退院までの対応だけです。その後はあなた次第です。一つ間違えば取り返しのつかないことになるかもしれません。それを忘れないでください。私からの話は以上です」

「感謝します。先生が良くしてくださっていること、有難いです。退院までよろしくねがいいたします」

 手を差し出された。山根の目を真っ直ぐに見て、しっかりとその手を握り返した。

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